第三幕第二場(2)

文字数 638文字

百間、ふと、もぞもぞと自分の着物のあちこちを探る。
どうしたの?
いや、ちょっと。(なおも探したあげく、思いきって)君、すまないが、小銭、あるかい。
小銭?
(はずかしそうに)帰りの市電なんだが、細かいのが、ないみたいなんだ。
ああ、そんなことか。(ふらふらと立ちあがる)
大丈夫かい?
大丈夫、大丈夫。
龍之介、いったん引っ込み、再び登場。
片手に山盛りの硬貨を持っている。
(ふらふらと前後左右に揺れながら、硬貨を盛った手をさし出して)
ほら。君、取ってくれよ。僕は手がふさがっているから。
百間、茫然と見ている。
(初めて気づいたように)ああ、そうか。こっちの手が、あったか。
(笑う)ふふ。
(硬貨をつまもうとするが、指先が泳いでつまめない)
ふふふ、だめだ。やっぱり、君、取ってくれよ。
(硬貨をそっと一枚つまむ)
それだけでいいの?
うん。
もっと取れよ。
これでいいよ。ありがとう。どうしてこんなに山盛りになったの?
がま口からあけたらね、こんなになった。
(本気で感心する)すごいね。
(いっしょになって感心する)ああ、すごいね。
間。
君は、僕が結婚する日に、ちょうどやって来たことがあったね。
そうそう。ずいぶん待たされるなあと思っていたら、いきなり紋付、袴に白足袋で出てきて、「失敬、失敬、お待たせしちゃって。今日はこれから婚礼をするのでね」って。「僕の婚礼なんだ」って。めんくらったよ。
(ほほえむ)そうだったね。
あるかなきかの、鈴の音。
遠くから呼ぶかのごとく。
貴重な、最後の時間が、刻一刻と流れ去っていく。
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登場人物紹介

芥川龍之介(あくたがわ りゅうのすけ、1892-1927)


作家。若くしてデビューし、一躍文壇の寵児となる。

世間一般のイメージとは違い、じつはお茶目で甘えん坊。一方で気遣いの人でもある。

数年にわたって不眠に悩まされている。

芥川文(あくたがわ ふみ、1900-1968)


龍之介の妻。八歳のとき、叔父の級友である十六歳の龍之介と出会う。のちに龍之介から熱烈な求愛を受け、彼に嫁ぐ。
天才肌の夫、その養父母と伯母、三人の息子という一家を支える主婦だが、性格はおっとりして、いつまでも少女のようなところがある。
龍之介の不調に心を痛め、親友のます子に助力を求める。

平松ます子(ひらまつ ますこ、1899-1957)

文の幼なじみで親友。良家の生まれで才気煥発、明るい性格。だが、弟妹たちを親代わりとなって育てるなど無理を重ねたため、体を壊し、自身の結婚はあきらめている。
文の悩みに親身になって応え、龍之介の秘書的な仕事を献身的にこなす。

内田百間(うちだ ひゃっけん、1889-1971)


龍之介の作家仲間で親友。本名は栄造(えいぞう)。岡山県出身。
飄々とした語り口の幻想怪奇譚という無二の作風で、のちに一世を風靡し、太平洋戦争も高度成長も生き抜いて昭和に大往生をとげるが、この物語の時点ではまだブレイク前。数少ない理解者の一人が龍之介だった。

菊池寛(きくち かん、1888-1948)


龍之介の作家仲間で親友。本名は寛(ひろし)。香川県出身。
文藝春秋社を興し、のちに芥川賞と直木賞を立ち上げるなど、実業家としても活躍する。兄貴肌で面倒見がよく、感激屋。
友人代表として龍之介の弔辞を読む運命にあることを、この物語の時点ではまだ本人も周囲も知らない。

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