第5話

文字数 21,393文字

 第四部 『ビードロの街』
 これは西の大陸でキッシー国の滅亡前後に生きたナナという女性の人生を中心に自由と幸福について考える物語りです。


   ビードロの街

「すっごーい。見てよぉ。石の中に虹が見えるのぉ」
 ナナは社長から受け取ったギヤマン鉱石と呼ばれている石を太陽にかざしながら片目で覗き見る。
 その石は輝くダイヤモンドのように透明な光の中へと溶けていった。
「やるよ。そんな石、露天商で売っているようなガラクタだぜ」
「本当っ。社長にとってはガラクタでも、アタシにとっては宝物よぉ」
 ナナは子供のように目を輝かせながら笑顔を造った。
「ナナ。これ、この前のモデル代のギャラ」
 社長がナナに封筒を差し出した。
「ありがとー」
「また何かあったら宜しく。じゃあな」
 ナナが封筒を受け取ると、社長は手を振りながら通りを渡っていった。

 ナナがシティに出て来て十年になる。ナナの笑顔は輝いていた。
 シティにはガラス張りのタワーがそびえ建つ。砂利道がアスファルトで舗装されてレンガ造りの庁舎が建ち並んでいる。表通りに次々と商社の社屋が建設される。路地を入った裏通りには風俗店の灯が点る。
 砂埃(すなぼこり)が舞う幹線道路の片隅を昔ながらの行商が通り過ぎる。
「サーカーナァ―ヤァ、サーカナ」
 チリチリ頭に朝黒い肌の魚売りをジッと見詰め独り言を呟くナナ。
「あの人、南の島の人かしら」

  ☆

 ナナが物心ついた幼少の頃に西の大陸の各村では祭囃子が鳴り響いていた。
 ピィーヒィラァッヒィ。チィチィッチー。キッカッカァッ。
 鳴り物に合わせて華麗に舞う旅芸人達。
 目を輝かせて見詰めるナナ、ヤウダイ、ソブンの三人は幼馴染だ。
「すっごーい。綺麗っ。アタシも踊りたい。ねぇ、ヤウダイも踊ろっ」
「僕はイイよぉ。ソブンなら踊れるんじゃないか」
「俺もやめとくよ」
 幼い頃の三人は、いつも一緒だった。三人の親達も幼馴染で仲が良かった。

 ナナは七歳の時、幼馴染のヤウダイと森の中で、はぐれてしまい迷子になる。
 村中が大騒ぎになり、捜索は深夜まで続いた。
 百本の松明(たいまつ)の炎が森の中を(うごめ)く。沢の(ほとり)で眠っていたナナが発見されたのは夜半過ぎだった。
「ナナちゃん、良かったね。子供は村の宝だからねぇ」
「そうだぁ。村の子供は村人全員の命の種だからなぁ」
 村人達に安堵の声が広がる。
 ちょうど、その頃からナナとヤウダイは一緒に遊ぶ事がなくなった。
 ナナは八歳の時にゾフィーという許婚(いいなずけ)を紹介される。
 この村の子供は産まれた時から親達の決めた許婚がいる。
 ナナも許婚以外の男の子と遊ぶ事はなくなった。

「やーい、チリチリ、チリチリ頭のヤウダイ、イヤイヤダーイ」
 南の島の血を受け継ぐヤウダイは天然パーマに浅黒い肌をしている事で揶揄(からか)われる事があった。
 夕陽に染まる村の祭壇の前でヤウダイが佇んでいる。ナナと目が合うと我に返ったかのように笑顔を造り、ヤウダイが右手を差し出した。
「これっ、やるよ。森で見付けた石。太陽にかざすと虹が見えるんだぜ」
 ヤウダイの右手には光沢のある黒い甲羅で覆われたような平たい石が握られていた。
 ナナがその石を手に取り、夕陽にかざすと中心の部分は透けて見える。石の中で赤黒い血に染まったヤウダイが歪んで見えた。
「キャーッ」
 思わずナナが投げ捨てた石を拾い上げながらヤウダイはふてくされて言った。
「何だよぉ。要らないなら、もう見せてやらないからな」
「待ってぇ。ヤウダイっ」
 走り去るヤウダイの背中に向かって叫ぶナナ。
 それ以来、ナナとヤウダイが二人きりで会う事はなくなった。

  ☆

 ナナが十歳の時、村中に流行り病が蔓延する。十数名の村人が亡くなった。
 この村は百の家族で百の畑を守る事で成り立っている。
 働き手を失った家は困窮した。
 ナナの幼馴染のソブンは両親を亡くし、村から逃亡してしまった。空き家になった家と畑は他の家の次男と別の家の次女が夫婦になって新しい家族を作り守る事が認められている。
 この村は百の家族と百の畑が増える事も減る事もなく、数百年の間、村をかたちづくり続けている。
 ソブンが逃亡した翌日、村はずれでナナはヤウダイを見かける。
「ヤウダイっ」
 ナナの声で振り向いたヤウダイは哀しい眼をして、口元だけで笑うと森の奥へと走り去った。
 ヤウダイが村に戻る事は二度となかった。
 取り残されたナナは身動きが出来なかった。
 翌週、村に木枯らしが吹き抜ける。翌月には村が白い雪に覆われた。
 長い冬が訪れる。
 森の芽吹きが蘇り、村に生温かい南風が吹く頃、夜空に浮かぶ月が欠けていった。

 ナナは不安になり手のひらを見詰める。ナナは血まみれの卵を抱いていた。
「いやぁっ」
 夢だった。下着を取り換えるナナ。月蝕の月のように赤黒い色をした経血の塊が獣の臭いを放つ。
 硬い乳房が割れるように痛い。ナナは自分の身体つきが女性らしくなっていくのが怖かった。女という生々しい肉体に思考まで支配され、逆らえない世界に引き込まれてしまいそうだった。

 この村では初潮を迎えた娘は二十歳で結婚するまでの間、許婚以外の男と二人きりで会う事が許されない。
 ナナは畑仕事をする許婚のゾフィーに弁当を持って行くのが日課だった。
 畑にはゾフィーと兄のカルマと父親が働いていた。畑の脇にある納屋の軒先でゾフィーの母親とカルマの奥さんが昼食の用意をしていた。
「あらぁナナちゃん、いらっしゃい」
「こんにちは。御姉さん、こんにちは」
 ナナはゾフィーの母親に挨拶をし、カルマの妻に頭を下げて挨拶をする。カルマの妻はナナの事が見えないかのように無言のまま作業を続ける。ゾフィーの母親だけは満面の笑みで上機嫌だ。
「あぁ、御腹空いたぁ」
「やぁナナちゃん、御苦労さま」
 畑仕事を終えたゾフィーと父親が大きな声で会話しながら地べたに座り弁当を広げる。
 普段から目立つ事もなくおとなしい兄のカルマは黙ったまま軒先の椅子に腰をおろす。カルマの妻は無表情で給仕をする。
 無言の夫婦からはナナに対する冷たい壁が感じられた。

  ☆

「ナナ。ゾフィーに御弁当を持って行ってあげてね」
「ママ。今日は畑仕事はないんだってよ」
「ゾフィーは祭壇の所にいるそうよ。たまには二人で話でもしてきなさいよ」
 母親に促がされて祭壇の所にやって来たナナ。
 待ち合わせ場所に現れたのはゾフィーの兄のカルマだった。
「よぉっ、ナナ」
「えっ。あぁ御兄さん」
 普段とは別人のようなカルマの表情にナナは戸惑った。その日のカルマは自信ありげに威圧感のある声で饒舌に話しかけてきた。
「ゾフィーはいないよ」
「そうですか。じゃ帰ります」
「待てよっ」
 カルマがナナの前に立ち塞がる。カルマは厭らしい目つきでナナの身体つきを舐め廻すよう見た。
「どうしたんですか」
「いいよ。ゾフィーのいる所に案内してやるよ」
 何の疑いもなくカルマについていくナナ。
 森の奥深くにある空き地に裸の少年と抱き合うゾフィーがいた。
 降り注ぐ陽の光が新緑の若葉に反射する。楽園を描いた絵画のような長閑(のどか)な風景の中で戯れる裸体の男達。
 ナナにとっては世界の色が失われ、地獄の門が開かれた瞬間だった。
「イヤァッ」
 逃げるように走り去ろうとするナナの腕をカルマが掴む。
「待てったらっ」
 ナナの肩を抱き寄せ、顔を近づけるカルマ。
「ヤメテェ」
「ビックリしたかぁ。まぁ落ち着けって」
「ナナ」
 ゾフィーの声がした。振り向くとゾフィーが服を着ながらナナに優しく話し始めた。
「ナナ、驚かせちゃったね。でも、いつかは分かる事だし。大人になって結婚してから知るよりは今から本当の家族になった方が良いと思ってね」
「どういう事っ」
 不安そうにゾフィーへ問いかけるナナにカルマが答えた。
「分かるだろう。ゾフィーは女を愛せないんだよ」
「つまりアタシとは結婚できないって事なの」
「結婚はするよ。ボクらに自由はないからね」
 悪気もなく無邪気な笑顔でゾフィーが答えた。言葉を失い困惑するナナにカルマが話しかける。
「人間だからよ。結婚しても浮気だってあんじゃないの。実際は誰が誰の子供かなんて関係無いのさ。要するに畑を守る為に家を継続させる事だけが大切なんだよ。オレ達兄弟だって親父の本当の子供じゃないのさ。伯父さんの子供なんだよ」
「えぇっ。どういう事っ」
「俺達の親父も男色なのさ。つまり、伯父さんのところの子供は腹違いの兄弟なんだけど従兄弟って事になってんだよ。養子をもらうよりオレ達一族は本当の家族なんだよ」
 カルマの言葉に続くようにゾフィーが答える。
「そういう意味じゃ、産まれた時に子供の許婚を親が決める風習は合理的なのかもね。女性を愛せないボクに子供は作れないけど畑と家を継ぐ事は出来るからね」
「言っている意味が分からないわ」
 怯えるナナの耳元でカルマが答えた。
「つまり、オレ達も同じさ。ナナとゾフィーは結婚して、ナナは俺の子供を産むんだよ」
「イヤッ―。何ぃ言ってるのぉ。御兄さんには奥さんがいるでしょ」
 カルマを跳ね除けながらナナが泣き叫ぶ。カルマは落ち着き払って、呆れ顔で答える。
「女房だって何も言わないが親父とゾフィーが男色だって事くらい分かってるさ。納得してるよ。家族なんだから当たり前だろ」
 無垢な笑顔のままゾフィーが答える。
「この世界でボクらは、こうして生きるしかないんだよ。知らないふりをして生きていくのさ。兄さんの子供ならボクも家族として愛せるしね」
「ヤメテェー」
 ナナは走って逃げるしかなかった。
 それ以来、ナナがゾフィーの畑を訪れる事はなくなった。

「イヤァッー。絶対に嫌よっ」
「ナナ、ゾフィーに御弁当を持って行かないとダメよ」
「ママっ。もういいよ。二十歳になったら嫌でも嫁に行っちゃうんだから、今ぐらいナナの好きにさせてあげよう。なぁ」
 優しい父親の言葉はナナを暗くさせ、絶望の淵に追いやった。
 ナナに僅かな救いの光が射したのは十五歳の時だった。
 ナナが十五歳の年に法皇が崩御した。その年の秋にナナと同い年のダンクン法皇が即位する。
 ダンクン法皇は『教育が人を救う』と言って、村に学校を作り、子供達に本を与えた。
 翌年には商売の自由化と移動の自由が認められる。
 世界が急激に変わろうとしていた。

 それまで村の中にある百軒の家々は一家族当たりの財産が等しかった。畑の収穫だけが一軒当たりの全財産だったからだ。しかし、副業禁止の規制が撤廃され、貨幣の流通が盛んになると貧富の差が産まれた。
 ある者は衣服を作る。ある者はアクセサリーを作る。頻繁に駅馬車が往来するようになり、シティと村の間で経済活動が増える。
 体格や性別に関係なく、誰もがアイディア次第で貨幣を蓄財する事ができた。
 目に見える物が増え、生活が豊かになる事を幸福だと思う者が多かった。
 貴族達、各地の領主も競って蓄財に励む。ダムの建設で用水路を増やし、新しい農地を開拓する。鉄道や銀行を作り、流通を盛んにする。
 公共事業が増えた事で労働者が各地に移動するようになる。すると、畑を耕さななくなる者が現れた。新たな政策として、農村地における一家族につき一つの耕作地とする規制が撤廃される。
 ナナの村でも複数の畑を所有し、大地主と呼ばれる農民と畑を持たない小作人と呼ばれる村人が現れた。
 ナナの同世代の若者は次々とシティに移り住み、村の過疎化が進行していった。

 ナナは十九歳の時に父親を亡くす。大黒柱を失ったナナの家の畑は許婚のゾフィーが耕す事になった。
 そんな状態でもナナは家の中に引きこもり、ゾフィーに会おうとしなかった。
 ゾフィーとナナの結婚式が近づいた頃、母親がナナに告げた。
「ナナ。親というのはね、子供が幸せになる事が一番の幸福なんだよ。ナナ、シティに行きたいなら行っていいんだよ」
 それは年老いてゆく母親を一人で村に残す事になるのを知っているナナは困惑する。
「でも。ママは。ママはどうするの」
「私は大丈夫よ。畑をゾフィーに売って、内職をしながら生きていけるから。これからは個人が自由に幸せを掴む時代なんだってよ」
 (しわ)だらけで細い母親の腕を見ると哀しさが込みあげてくる。だけど、ナナはシティに行く以外の選択肢はなかった。
 少しでも生活費の足しになればと言って母親が持たせてくれた絹のハンカチを持ってナナは駅馬車に乗り込む。

 村以外の世界を知らないナナにとって急速に近代化していくシティは刺激的だった。
 ナナを乗せた駅馬車は真夜中にシティの中心地に到着する。

 真夜中のシティは村の夜祭りよりも煌びやかだった。ネオン街を車のヘッドライトが行き交う。
 スクランブル交差点を渡る長身の男の横顔を車のライトが照らす。長身の男は、しな垂れかかってくる女の肢体を抱きかかえてタクシーに放り込む。
「なぁにぃ。私一人で帰すつもり」
「あぁ、またな」
 恨めしそうな目で男を睨む女。タクシーが走り去った後、部下らしき男が長身の男に話しかける。
「社長、イイんですか。一人で帰して」
「あぁ。あの女もそろそろ潮時だな。借金も溜まってんだろう」
 部下の男が答える。
「はい。五百万ゲンは超えています」
「来週から風俗店のローテーションに入れとけ」
「はい」
 社長と呼ばれている男の指示をメモする部下の男。
 チャリーン。
 社長が裏路地に入っていく時に鍵らしきものを落とした。何気なく二人を眺めていたナナは鍵を拾い、路地に入ってゆく。
 路地に(たむろ)する男達が一斉にナナを見る。
 二十歳になったばかりのナナの胸元から(こぼ)れ落ちそうな乳房には、シルクみたいに光沢があり、発酵したミルクの匂いがする。
 裏路地に点るネオンの灯かりには発酵したミルクの香りは場違いだ。
 暗がりの奥で煙草の火が点滅し、黒い影が(うごめ)く。紫煙の香りが路地の臭いと溶けあい、ミルクの香りを覆い隠す。
「お嬢ちゃん、どうしたぁ。道にでも迷ったかぁ」
 暗闇から聞こえてくる声の主は長身で社長と呼ばれていた男だった。
「あの。これ、落としましたよ」
 ナナが鍵を差し出す。
「あぁ、そうかぁ。ありがとうよ。仕事に使う鍵だ。助かったよ」
「はいっ」
 鍵を手渡し、立ち去ろうとするナナ。社長がナナを呼び止めた。
「お嬢ちゃん、この辺に住んでんのかい」
「いえ。さっき駅馬車で村から出てきたばかりです」
「えっ。さっき。こっちに身寄りでも居るのかい」
 社長は笑顔で柔らかい声を出してナナに尋ねた。
「いいえ。これから仕事を探そうかと、」
 心配そうな声で社長がナナを気遣う。
「これからって言ったって、今夜はどうすんの」
 不安そうな表情で黙りこくるナナに社長が提案する。
「そうだ。鍵の御礼に御馳走するよ」
「えっ。でも、」
 困惑するナナの肩を叩きながら社長が言った。
「大丈夫。こう見えても僕はアパレル会社の経営をしているんだよ。変な事はしないから安心して。行こう」
 歩き出す社長。部下の男がナナに手で合図をする。
「どうぞ」
 ナナは社長の後をついていく。
 連れて来られたのは落ち着いた雰囲気の喫茶店だった。初めて嗅ぐコーヒーの香りに心地よくなるナナ。ナナは知らない大人の別世界に入り込んだ気がした。
「お嬢ちゃん、名前は」
「ナナです」
「ナナちゃんか。まぁ、こんな時間じゃ御馳走ってわけにはいかないけど、ここでも食べ物はあるから好きなもの頼んでイイよ」
「でも」
 終始、笑顔で話す社長だったが、戸惑っているナナに部下の男がメニューを見せて注文を促す。
「どうぞ遠慮なく」
 見た事もない名前が並ぶメニューを見て、適当に指をさすナナ。
 運ばれてきたのはスパゲッティだった。
「美味しぃ―。何ぃ、これっ」
 初めてのスパゲッティを口にして子供みたいに(はしゃ)ぐナナ。社長は笑顔で見守っている。
「はぁはっ。好きなだけ食べなよ。ところでナナちゃんは、どんな仕事を探しているの」
「うーん。住み込みで何かないかなぁって」
「大丈夫かい。本当に当てもなく来たんだね。良かったら、うちでアルバイトでもしてみるかい」
「えぇ、仕事、あるんですか」
 目を丸くしながら期待と不安な表情でナナが答える。
「うちも色々な仕事があるから。明日にでも仕事の話をしよう。このビルの上に空き部屋があるから取りあえず、今日はそこに泊まりな」
「えっ」
「大丈夫だよ。僕は家に帰るから。ナナ一人で自由に使っていいから」
 不安そうなナナに御構い無く、喫茶店の会計を済ませる社長。部下にナナを部屋まで案内するように指示した。
 ナナは言われるがままに部屋までついていく。
 
 ナナを部屋へ案内した部下が帰って来て社長に尋ねる。
「社長、あんな田舎もんの小娘に部屋まで使わせていいんですか」
 社長は煙草に火を点けながらニヤリと笑った。
「ありゃ、磨けば磨くほど上玉になるぜ。女ってのはな、自分を大事に扱ってくれる相手に自ら寄ってくるもんなんだよ。当分の間、御嬢様扱いして適当な仕事を与えながら借金漬けにしな。上手くすれれば十年は稼げるぞ」

  ☆

 ビルの最上階に案内されたナナは驚いた。息をのむ光景に言葉を忘れ、瞬きさえもできなかった。
 大きなガラス張りの窓の下にはシティの夜景が広がる。地上一面に散りばめられた星たちは緑、黄色、赤、紫と色とりどりに煌めいていた。
 眼下の摩天楼に心を奪われるナナ。
 しかし、頭上には星一つ瞬く事のない漆黒の闇夜が広がっているのをナナは気づいていない。

 翌日。
「本当に食事をするだけで御金が貰えるんですか」
 不思議そうに尋ねるナナに社長が答える。
「ああ、僕の会社の御得意様の接待なんだよ。接待っていっても食事するだけだから心配ないよ。ただし、服を買わないとね」
「服ぅ。アタシ、お金なんて持ってないですよ」
「大丈夫。月賦でイイよ」
「ゲップ。何ですか。それっ」
「毎月、一万ゲンだけ支払っていれば一生涯好きな物を買い続けられるのさ。永遠に楽しく暮らせる仕組みだよ」
「へぇー、本当ぉ。それも新時代の改革なのぉ」

 ナナは社長が経営するブランドの服やアクセサリーを借金で購入し、接待のアルバイトに向かった。
 太陽の光がシティ全体に降り注ぐ。
 待ち合わせのカフェにいたのは体重が百キログラムは超えていそうな脂肪だらけの男だった。
「ナナちゃんだね。こっちに座って」
 男に促がされて席に着いたナナはハキハキした声で聞いた。
「こんにちは。あのーアタシ、初めてで。どうすればいいのか知らなくて」
「そう。うん。とにかく好きなものを注文して」
「あたし、分からないから注文してください」

 男の注文で次々と運ばれてくるナナの知らない食べ物。テーブルいっぱいの御馳走を貪るように食べ続けるナナ。
 男はナナを舐め廻すように見ている。
 ナナのうなじは眩く光り、足首は細く、腕はしなやかだ。麗しい褐色の長い髪が風に棚引く。
 喉を詰まらせながら食べ続けるナナが脂汗だらけの男を見て微笑む。男は興奮して鼻を膨らませながらビールを飲んだ。
 昼の太陽の下で食べ続けるナナの胸元を玉のような汗が流れる。(つぼみ)のようなナナの胸が真っ白な粉雪みたいにふくよかになり華の香りを漂わせる。
 一時間の食事会が終わり、男は満足そうにナナに言った。
「ナナちゃん、ギャラは社長に渡してあるからね。また宜しくね」
「はぁ。はい」
 ナナはキョトンとして返事をするしかなかった。
 社長の所に戻ると現金の入った封筒を渡される。
「はい。今日のギャラだよ」
「えっ。はい。アタシ、食事しただけなんですけど、あれで良かったんですか」
「ああ、良いんだよ。他にも御客さんを紹介してあげるからね。しばらくは、あの部屋に住み続けてイイよ」
「はい。ありがとうございます」
 ナナのシティでの生活が始まった。

  ☆

 数年後。ナナは沢山の服やアクセサリーに囲まれた生活に疑問を持った。
 今は村にいた頃に考えもしなかった夢のような生活だ。だけど、このまま歳を重ねていって大丈夫のかしら。
 時折、自分と同じ年頃の女性が子供を抱いている姿を見て不安になるナナ。

 中央広場の鳩が一斉の飛び立ち、満開の桜吹雪が舞った。その時、ナナは堕ちて逝く自分の姿が目に浮かぶ。頭をよぎるのは一抹の不安だった。
「どうしたんだよ、ナナ」
 振り向きざまに社長がナナを見た。ナナは笑顔で首を振りながら答える。
「ううん。何でもない」
 社長の後を追い、夕暮れの表通りを歩くナナ。
 ネオンの灯かりが点り、馬車やタクシーが列を作る。紳士、淑女達は劇場に吸い込まれていく。
 大きな看板に描かれた男優を見てナナが言った。
「あの人、有名な俳優さんよねぇ」
「あぁ、うちのブランドの広告で使ってんだよ。紹介してやろうか」
「本当ぅ。嬉しいぃ」
 社長は手を合わせて子供のように喜ぶナナをジッと見ている。
「そういえばナナも、もう結婚して子供がいてもいい年頃だよな。好きな男とかいないのかよ」
「ヤメテェよぉ。出逢いなんかないしぃ」
 照れながら社長の腕を叩くナナ。社長は無言でナナを見ている。
 その時、白いワゴン車が停まり、運転手の男と三人の女が降りてきた。四人は細い裏路地に入っていく。ナナが路地を覗き見ると、奥に小さな淡い灯かりが見えた。
「あっちに何があるの」
「あぁ、あっちは風俗街だよ。あの女達は売春婦だ」
 社長が面倒くさそうに答える。
 ナナは華やかな舞台の裏手にある売春宿の灯かりをボンヤリと眺めていた。その時、ポツリ、ポツリと小雨が降りだす。
 ニャァー。
 路地のゴミ捨て場にいる野良猫がナナを見詰めながら鳴く。
 ニャァー。
 ナナはシティのもう一つの景色を傍観していた。

 翌日。社長が新しい仕事の話を持ってきた。
「仕事って何ですか」
「うん。実はヌードモデルなんだ」
「えぇ。そんなのぉ無理ですよぉ」
 ナナは冗談かと思い笑ってみせる。社長の真剣な表情を見て、ナナは無言になり固まった。
「ヌードモデルといってもクライアントは老人が一人だけ。三十分で済む仕事でギャラは、いつもの十倍なんだ。僕が世話になってる御隠居なんだよ。頼む。今のナナにしか出来ない仕事なんだよ」
 社長が手を合わせてナナに頼み事をするのは初めてだった。
 一時間ほど駄々をこねて、悩んだ末にナナはこの仕事を承諾した。

 高いハイヒールの靴音ともに現れたのは洗練された大人の女性だった。黒いワンピースでスタスタと真っ直ぐに歩くナナの姿は近代化していくシティそのものだ。
 遠い異国の人間のような白い肌には煌びやかな宝石が散りばめられ、真紅の口紅が艶やかに光っている。
「おおぉ。見違えたよナナ。申し分ない。これなら御隠居も満足するだろう」
「アタシ、何だか怖い」
「大丈夫。御隠居はナナに指一本触れないから。言われた通りにするだけで良いんだよ。ギャラはいつもの十倍だから」

 迎えに来た黒い車に乗るとナナは林の奥にある屋敷に連れて来られた。暗い部屋に案内されるナナ。
 三日月のような眼が二つ、暗闇に浮かび上がる。三日月の眼は老人のものだった。
 老人は静かに低くかすれた声で囁く。
「ゆっくりと一枚、一枚、服を脱ぎなさい」
 ナナは小鹿のように震えながらワンピースのファスナーを下ろす。白い肌を滑り落ちる黒いワンピース。
「下着もだ」
 老人の声が暗い部屋に響く。ナナは覚悟を決めて、ブラジャーを取る。ナナの釣り鐘型の白い乳房と透き通るピンク色の乳首が泥沼に咲く華の如く光明を放つ。絹のように滑らかな肌は光沢のある彫刻みたいに曲線を描く。
 老人は低い声で命令する。
「全部だ」
 パンティを脱ぎ捨て、一糸纏わぬ産まれたままの姿になったナナ。ナナの茂みから香ってくる発酵した甘酸っぱい匂いを老人は堪能している。
 闇夜に浮かぶ三日月がナナの裸体を舐め廻すようにうかがっている。その老人の視線はどんな男の手の感触よりもねっとりとしている。老人は何度か深呼吸をすると姿を消した。

 黒い送迎車に送り届けられて社長の所に帰って来たナナは心を失くしたかのように目の焦点が落ち着かなかった。社長はナナの肩を抱き、頭を撫でる。
「大丈夫。大した事じゃないから。何もされなかっただろう」
 ナナは震えながら答えた。
「うん。でも、もう嫌っ」
 社長は優しくナナの耳元で囁く。
「ああ。もういいよ。ナナは人生で最高の瞬間を御隠居に売っただけなんだ。これがビジネスだよ。少女と大人の女が混在する瞬間のナナを高値で買ってくれたんだよ。花は咲こうとする寸前が一番美しいんだ」
 頭を撫でられながらナナは社長の胸で泣いていた。社長は明るい口調で仕事の話をしだす。
「来週からは、うちのブランドのモデルをやってもらおう。もうスーパーマーケットのチラシや男の接待で飲み会に付き合う事はないよ。ギャラも今までの倍にするるからね」
「本当ぅ」
 甘えた声を出すナナ。
「ああ本当だ。但し、今のナナに足りないのは艶っぽさだ。もっと色気を出さないとな」
 ナナが頭を上げ涙目で訊ねた。
「どうすればいいの」
 社長は何も言わずに、いきなりナナにキスをする。驚いたナナの口の中へ強引に舌を入れて絡めてきた。反射的に社長を跳ね除けるナナ。社長は笑顔でナナの頬を撫でながら訊いた。
「嫌か」
 ナナは黙って社長を見詰める。社長はナナに優しく口づけをして胸を触る。ナナは抵抗する事なく身を委ねた。
 社長の生温かい舌を受け入れるナナ。社長の右手の指がナナの茂みの奥へと進入する。ネットリとした甘い蜜と熟したイチヂクの匂いがたちこめる。
 緊張したナナの身体が強張る。桃色に色づいていくナナの肌が薄っすらと汗ばむ。
「んぁあっ」
 ナナが声にならない吐息を漏らす。顔を歪め、肢体をくねらせる。社長はナナの波打つ鼓動を楽しんでいた。そして、ナナの奥深くに侵入していく。ナナの腹の奥で針が振動して蜜の波が流れる。こすれた体臭や愛液の薫りが匂いたつ。ナナは女の表情になっていく。

 翌朝。ベットの中から血の付いたナナのパンティと絹のハンカチが出てくる。
「あぁ、汚れちゃったね。新しいのを僕がプレゼントするよ」
 そう言って社長がパンティとハンカチをゴミ箱に捨てた。
「あっ」
 ナナはゴミ箱を見詰めながら言葉を飲み込んだ。
「どうしたの。新しいの買ってあげるよ」
 優しく微笑む社長の胸に抱きつくナナ。
 ナナがシティにやって来て四年の月日が経っていた。

 ナナの部屋に月に一回、社長が訪れて朝まで過ごす日々が続いた。
 ナナの部屋は一度も身に着けた事のない時計、アクセサリー、服、バックなどで溢れている。社長がウンザリした表情で注意する事もある。
「ナナ。オマエは本気を出して努力すれば一流モデルになる事だって夢じゃないんだぞ。最近じゃ、身体のラインだって崩れてきてるしよ。今、真剣に考えないと、やりたくない仕事を一生続けなくちゃならなくなるぞ」
「えー。何でぇ」
 キョトンとした表情のナナは未来への展望も現実をみる術もなかった。自分が借金をしているという自覚さえもない。社長は呆れ顔で苦笑いをしている。

  ☆

 ナナがシティで暮らすようになって十年近くの歳月が経っていた。
 ナナが呼び出されたカフェに着くと社長は商談中だった。
「おぉナナ。直ぐに終わるから待ってな」
 ナナは隣の席の椅子に腰掛ける。社長の席のテーブルには光沢のある黒い甲羅で覆われたような平たい石が並べられていた。アクセサリーに使う原石らしかった。
 ナナは商談の会話を何気なく聞きながらテーブルの上の石を眺めていた。
「こんなの屑石だろう」
「はい。卸値は勉強させて頂きます。通称ギヤマン鉱石と呼ばれているんですが加工すれば、それなりに見えますので使えると思うんです。サンプルで一つお持ち帰りして頂いて、是非ご検討を御願い致します」
「あぁ分かったよ」
 石を受け取った社長が席を立つ。
「終わったのぉ」
「あぁ。行こうか」
 社長とナナはカフェを出て表通りを歩き出した。
「ねぇ、さっきの石、綺麗ね」
「あんっ。そうかぁ」
「見てせよぉ」
 ナナが社長の腕に自分の腕を絡ませながらねだる。
「いいよ。ほらっ」
「すっごーい。見てよぉ。石の中に虹が見えるのぉ」
 ナナは社長から受け取ったギヤマン鉱石と呼ばれている石を太陽にかざしながら片目で覗き見る。
 その石は輝くダイヤモンドのように透明な光の中へと溶けていった。
「やるよ。そんな石、露天商で売っているようなガラクタだぜ」
「本当っ。社長にとってはガラクタでも、アタシにとっては宝物よぉ」
 ナナは子供のように目を輝かせながら笑顔を造った。
「ナナ。これ、この前のモデル代のギャラ」
 社長がナナに封筒を差し出した。
「ありがとー」
「また何かあったら宜しく。じゃあな」
 ナナが封筒を受け取ると、社長は手を振りながら通りを渡っていった。

 ナナがシティに出て来て十年になる。ナナの笑顔は輝いていた。
 シティにはガラス張りのタワーがそびえ建つ。砂利道がアスファルトで舗装されてレンガ造りの庁舎が建ち並んでいる。表通りに次々と商社の社屋が建設される。路地を入った裏通りには風俗店の灯が点る。
 砂埃(すなぼこり)が舞う幹線道路の片隅を昔ながらの行商が通り過ぎる。
「サーカーナァ―ヤァ、サーカナ」
 チリチリ頭に朝黒い肌の魚売りをジッと見詰め独り言を呟くナナ。
「あの人、南の島の人かしら」
 ナナはヤウダイの事を思い出していた。
『そういえば、噂だとヤウダイは商売で大成功したらしいけどシティにいるのかしら。会ってみたいわ』

「ナナっ」
「えぇ。ッアッ」
 笑顔で振り向いたナナの世界は凍りついた。無表情の異界の物の()(いや)らしく口元だけで微笑んだ。
 この世の春を謳歌していたナナは奈落の底へと堕ちて逝く。
 ナナの目の前に立っていたのは元婚約者の兄カルマだった。
「どうしてぇ」
 顔を歪め立ち尽くすナナ。
「何だよ。兄貴に、そんな挨拶はねぇだろう」
 ニヤつきながらカルマが言った。嫌悪感を込めてナナが言い返した。
「兄な訳がないでしょ。なんでこんな所にいるのっ」
「随分な御挨拶だな。慰安旅行でシティのホテルに泊まってんだよ。ナナぁ、すっかり大人になったな」
 カルマは陰湿な目つきでナナを品定めするように見た。ナナはカルマを無視して立ち去ろうとする。
「待てよぉ。だいたいよぉ、オマエのせいでオレ達一家は恥をかかされたんだぜ。タップリ償ってもらわないと割りが合わねぇからなっ」
「冗談じゃないっ。もうそんな時代じゃないんだからっ。いい加減にしてっ」
 振り向きざまに強い口調でナナが啖呵(たんか)を切る。カルマは低い声で凄んだ。
「オイッ。オマエの母親の面倒を誰がみてると思ってんだぁ」
「えぇっ。どういう事っ。畑は正規の値段で売ったはずよ」
「分かってねぇなぁ。畑を売った金なんて意味ねぇぐらいに物価が上がっていったろう。オマエの母親なんか物乞い同然で飢え死にするところをオレの家で下働きさせてやってんだよ。母親が生きていられるのはオレの御蔭なのを分かってんのかぁ」
「えっそんなぁ。何でぇ」
 血の気が引き硬直するナナの肩を抱きながらカルマが(ささや)く。
「色っぽくなったじゃないか。フゥッ。あぁ女の匂いだな。来いよぉ」
 カルマが強引にナナを抱き寄せる。
「ヤメテェ」
 手を振り払うナナの耳元でカルマが囁く。
「一回でチャラにしてやるよ。親孝行しな」
 ナナの腰に手を廻しながら歩き出すカルマ。ナナは顔を歪めながら思考が停止してゆく。流されるままに逆らえず、カルマの部屋まで来てしまった。
「イイ匂いだ」
 部屋に入るなりナナを抱きしめながら首元を舐めるカルマ。目をつぶっているナナをベットに押し倒すと服を乱暴に剥ぎ取る。
 ナナは考える事を止め、歯を食いしばり、カルマの言動に反応しないように殻を閉じた。

 肉欲を果たしたカルマが眠りにつく。ナナは静かに起き上がり、身体に沁みついた男の臭いをシャワーで洗い流す。
 ナナは床に落ちた服とギヤマン鉱石を握りしめると、自分への嫌悪感と悔し涙が溢れてきた。人としての尊厳を踏みにじられた事に気付き後悔が襲ってくる。
 早くママを呼び寄せないと。今までアタシは自分の事しか考えてこなかった。ゴメンねママ。
 自分への罰だと思い込むナナ。ナナは自分を傷つけないといけないと考えてしまう。
 ナナはロクなものも食べずに一週間以上、部屋に引きこもった。様子をみに来た社長はナナを見て思った。
『また一人の女がシティで死んだ』
 社長が部下に尋ねる。
「オイッ。ナナの借金は幾らになってる」
「五百万ゲンは超えています」
「ナナを風俗店のローテーションに入れとけ」
「はい。でも、こんな状態じゃ使い物になりませんよ」
「例の粉を用意して、二週間ぐらい遊ばせてやれ。死ぬ前に借金を返済してもらわないとな」
 異臭のたちこめる部屋に残され、表情を失ったナナの眼は闇よりも暗かった。

  ☆

 母親の胎内で羊水に(いだ)かれて眠るナナ。波の音が止み、幻影の声が聞こえてくる。『ナナ、帰っておいで』ママ。眠りながら涙を流すナナ。
「オイッ。起きろっ。早く来いッ」
 怒鳴り声と共に残酷な現実が始まる。吐き気で顔を歪めるナナを叩き起こす男。意識が朦朧(もうろう)とするナナは男に引きずられるようにして湿っぽい部屋に連れて来られた。
 南国の消毒液に似た薫りと朝靄(あさもや)のような煙の中で夢遊病患者みたいに横たわるナナ。
 入れ替わり立ち替わりナナの肉体を玩具のように弄ぶ男達の影。時折、男の影が廃油に似た体臭と精液の臭いをナナの肉体に残していく。
 ナナにとっての地獄は昼間に目覚めた時だった。世界を覆う暗雲の中で彷徨い、閉塞感と倦怠感で目を開ける事も息をする事も辛かった。
 夕暮れになると湿っぽい部屋の中で、紫色の煙の中を漂いながらナナの意識は遠い彼方に連れていかれる。
 五日目の事だ。女の言い争う声が聞こえてきた。
「オイッ。いい加減にしな。新人だからってやり過ぎだよ。薬の量も減らさなきゃ死ぬよ。その娘は今夜は休ませなっ」
 静寂の時間が訪れ、女がコップ一杯の水を差し出しながらナナに言った。
「飲みな。アンタ、何も食べてないだろう。肌もカサカサになっちゃってさ」
 ナナは辛うじて人間の意識を取り戻し、水を飲み干す。
 ゴクッ、ゴクッン。
 細胞の一つ一つに染み渡っていく水分がナナを目覚めさせる。
「あぁ、美味しい」
「あぁはっはっ。水の美味しさが分かるんならアンタ、まだ生きてる証拠だよ。アンタ、名前は」
 笑いながら話しかけてくる女の顔が見えた。ナナは久しぶりに生きた人間の顔を見た気がした。
「アタシぃ。アタシ、ナナ。ここは」
「ここは社長が経営する風俗店だよ。客の要望を何でも叶える所って訳ぇ。アンタ五日前に、ここに来たのも解ってないんだろう」
 女の言葉を繋ぎ合わせても現実が理解できない。ナナを吐き気が襲う。
「うっっ。気持ち悪い。薬、ちょうだいっ」
 顔を歪めるナナに冷めた口調で女が答えた。
「やめときな。正気を保ちたくて薬に頼っても本当の自分の意識を失くすだけだよ。人間なんてコップ一杯分の感情があれば生きていけるんだよ。現実を観な。私なんか、ここに来て十年さ。慣れればイイだけなんだよ」
 ナナは自分が風俗店で見知らぬ男の性処理をしている事を理解する。
 女は笑顔でナナに言葉をかける。
「暗闇ではね、自分で灯かりを点すしかないんだよ。アンタは一杯の水の美味しさを知っている。それだけでも人は生きていけるんだよ」
 ナナは誰も自分を愛してくれない世界で何を希望に生きたらいいのか分からなかった。
 グゥゥ―。
 ナナの御腹が鳴る。
「ふぅん。アンタ、やっぱり生きてるよ。御腹が空いたんだろう。今、お粥を作ってやるよ」
 女は嬉しそうにナナの世話をやく。
 翌週、ナナの所にやって来た客は前歯が抜け落ちた白髪頭のみすぼらしい老人だった。
「ワシは、もう役に立たないんだよ。鼓動は高鳴るのに勃起もしない。苦しいんだ。若い娘の裸を見たいだけなんだ」
 ナナは自分の意思で自ら服を脱ぎ、自分の言葉を口にして老人に手を差しのべる。
「御爺さん、触ってみて。イイのよ。触れるだけで良いんだから」
 ナナに導かれて老人の枯れ枝のような手が白い乳房に触れる。ナナは老人の頭を抱きかかえる。老人はナナの胸で安堵したように寝息をたてる。
 ナナの前で美しい容姿の紳士が獣の形相で(あえ)ぐ。また、醜く太った男が赤子のように澄んだ瞳で微笑む。
 やがて、ナナは目の前に現れる男達の言語を理解できなくなる。そして、この世界の人間の本質を知る。

 十日後。ナナは雨上がりの街を歩いていた。自分の足で表通りを歩くのは久しぶりだ。
 水溜まりに反射するシティの太陽。大きなサングラスをかけて颯爽(さっそう)と歩くナナ。
 角を曲がった裏道では泥濘(ぬかるみ)(ぬか)ずき物乞いをする元貴族がいる。
 陽の当たらない路地に、もう一つの真実が転がっている。
 泥だらけの赤いハイヒールだけがナナのプライドを保っていた。
 華やかな五番街の裏手が二番街だ。砂利道の裏通りに収容所はあった。
 魔法の粉の中毒患者にはガスを吸わせる。その収容所は他人には見えない空中の何かを追いかけながら大きな口で高笑いをする女達や廃人同然の男達で溢れている。
 噂は本当だった。痩せ細った色白の男は元許婚のゾフィーに間違いない。
 虚ろな目でナナを眺めるゾフィー。ナナは黙ってゾフィーを見下ろしている。収容所の職員がナナに尋ねた。
「アナタの知り合いですか」
 ナナは返答に迷いながら答えた。
「分かりません。あのぉ。少し、二人で話をさせて頂けませんか」
 職員は訳を理解したかのように頷きながら立ち去る。
 二人きりになるとナナがゾフィーに詰め寄った。
「ゾフィーっ。どうしてアンタがこんな所にいるのっ。ママはっ。アタシのママは今どうしてるのっ」
 ゾフィーはナナに気付き懐かしむように、か細い声で自分の身の上話をしだした。
「あぁ。ナナ。ナナだね。ゴメンよナナ。ナナには苦しい思いをさせたね」
「ゾフィー、村はどうなってるのっ」
「分からないよ。ボクはナナが村を出ていった翌年にシティに来たんだ。ボクもナナのように自由になりたかったんだよ。シティに来た頃は楽しかった。人に干渉されずに好きな人と一緒に居られた。シティでは配達の仕事や工場の仕事でボクの時間を商品にして賃金に変えたんだ。でも仕事が見つからなくなってね。ボクは自分から娼館に身売りしたんだ」
「えぇ。実家はどうなっているの。アタシのママの事、何か知らないっ」
「分からない。村からの手紙はないから。そういえば、一年前にシティでヤウダイを見かけたよ。ナナはヤウダイの幼馴染だよね。ヤウダイは大金持ちになったんだよね。ボクは、ここから出られないからヤウダイを訪ねるとイイよ」
 ゾフィーもアタシも変わらない。
 ナナは思った。
 シティに来れば違う景色が見えると思っていた。
 嫌悪感に満ちていたナナは、惨めな姿のゾフィーを憐れんだ。考えてみれば、ゾフィーも可哀想な人生を送ったのかも知れない。きっと、産まれた時から自分の存在や将来に悩み続けていたに違いない。
 ナナはゾフィーを自宅に連れて帰り面倒をみた。何故、そうしたのか明確な理由はない。何となく、そうする事がナナ自身にとっても良い事のような気がした。
 ナナは献身的にゾフィーを看病する。
 三日後。ゾフィーは自分で歩けるまでに回復した。

 ゾフィーが社長に会いに来たのはナナの為になればと思ったからだ。
 ゾフィーが社長に話を切り出す。
「社長、ナナがどれだけ働いても借金を全額返済するのは難しいですよね。ナナの幼馴染のヤウダイなら、きっと全額を補填(ほてん)してくれますよ」
「あぁ。あの砂糖と鉄で成功したヤウダイか。ナナの為なら身銭を切るって事かい」
 煙草の煙を吐きながら尋ねる社長にゾフィーは自信たっぷりで答える。
「ヤウダイは生真面目な男です。国の仕事もしているらしいですよ」
 社長は急に顔をしかめながら煙草の火を揉み消して言った。
「国ぃ。フゥッ。国が何かも知らずに愛国心を語る奴を僕は信用していないよ。国なんてものは偶然、その土地に集まった人間が存在すると思っている幻想なんだよ」
「どういう事ですか」
 言葉の意味を理解できないゾフィーに社長が持論を展開する。
「いいかい。世界に時間なんてものは存在しないんだよ。過去なんて無いのさ。あるのは今だけ。革命後に全ての価値観が変わってしまったんだよ。自分達が信じていたものが消えてなくなった。一握りの種よりも一枚の金貨に群がる民衆を見てみろ。時が経てば文化も変わっていく。百年後には全く異質の国家が成り立っているだう。その時、偶々(たまたま)この土地にいた人間達が国という概念を信じているか、信じていないかは僕の知ったこっちゃないよ」
 ゾフィーが首を傾げながら訊いた。
「社長はヤウダイには会いたくないんですか」
「いや。僕はヤウダイが持っている目に見える金には興味があるよ。会えるなら会うさ」
 社長は笑顔で答え、立ち去ろうとする。ゾフィーが社長を呼び止め、質問した。
「社長。一つ教えてください。社長は国の革命に反対なんですか」
 社長は冷めた口調で答える。
「自分が信じるものの為に命を懸ける行為を否定はしないよ。寧ろ美しいと感じる事もある。この世界に絶対的で不変のものなんて無いんだからね。だからこそ、必死にあがいている人間は嫌いじゃないよ。しかしなぁ。革命が何だったのか教えてやろう。僕は昔、農夫だった。革命以前には農民である事以外の自由はなかった。でも、一人の農民としての価値ある男だった。だが、革命後の農夫は農民としての価値が無くなり、作物の値段だけが価値になった。僕は畑を捨ててシティに出てきたが同じだった。僕としての人間の価値は何処にもなく、貨幣を幾ら稼いだかだけが僕の価値になった。僕は貨幣と交換できる物になったんだよ。つまり僕そのものが革命の正体さ」
「何だか虚しいですね」
 小声で呟くゾフィーに冗談を言うように社長が声をかけた。
「なんでも東の海の彼方には永遠に瑠璃色に煌めく伝説の島があるらしいよ。その島には時の流れがあり、数千年前の文化が生きていて、数千年後の人間と同じ感性を共有できるんだってよ。僕は信じちゃいないけど、興味があったら探してみるとイイよ。アッハッハ」
 部屋を出ていく社長。一人残されたゾフィーは東の青い空を眺めていた。

 二週間後。
 ナナは三十歳の誕生日をむかえた。この年、革命が起きて君主制国家は崩壊した。国中が騒めいていた。
 混乱するシティ。ナナは静かな喫茶店で時間を過ごす事が多くなった。喫茶店の奥の席でナナが見かけたのはヤウダイだった。ナナにとってヤウダイは十歳の頃の面影がそのままだった。ナナはヤウダイに声をかける。
「ヤウダイ。ヤウダイだよね」
「あぁ、ナナ。ナナだよね。ナナ。どうして。旦那は」
「あぁ。うん。十年前、結婚式の前日に村を出たの。アタシだけじゃないわよ。同世代の子の半分は村を出て都心にいるわ。アタシ、この喫茶店の上に住んでるの」
「こっちで働いているのか」
 思わずヤウダイと再会したナナは落ち着かず、自分の髪型を気にしながらうわの空で答える。
「そうね。たまに頼まれればね。先月は洋服メーカーの広告でポスターのモデルをしたのよ。そうだぁ。今から、その社長さんと御食事なんだけどヤウダイも来ない」
「あぁ。いきなり僕が押しかけたら迷惑だろうが」
「そんな事ないのよ。アタシも社長さんもヤウダイに会いたかったのよ。ヤウダイってチョットした有名人よ。砂糖と鉄で大金持ちになったんですって。ねぇ、社長に会ってよ」

 不夜城と呼ばれている都心の繁華街。夜でも昼間のように煌々とした灯かりが点る。地上の灯かりで月が霞み、星の見えない闇の夜空が広がる。
 原色のネオンに踊り狂う市民。
 長い髪が乱れ、見え隠れするナナの仮面。つきものが憑依したような形相になるナナ。
 ヤウダイに、しな垂れかかり甘い吐息を漏らす。
「ヤウダイ。好き」
 南国の消毒液に似た薫りの言の葉が虚しく消えてゆく。今、流行りの薬物に浸る女と男。まるで自由と平等をもたらす魔法の粉だと信じているようだ。
 社長がヤウダイに近寄ってくる。
「ヤウダイさん。僕は時代を創りたいんですよ。ファッションは自己の開放なんです。もし僕の業界に興味が有りましたら連絡下さい」
 ヤウダイは無言で踊り狂うナナを見ていた。
「ヤウダイさん。宜しかったら、ここに居る好みの女を連れだして行って下さい」
 上目遣いで陰湿な笑みを造る社長。
「イヤ。帰ります。ナナを宜しくお願いします」
 ヤウダイは不夜城を後にした。

 ヤウダイにとってナナは諦めなければならない愛しい人だった。ヤウダイが願うのはナナの幸せだ。でも、ヤウダイにはナナの生き方を否定する事は出来ない。どんな生き方をしていようと他人の幸せを批評はできない。
 ただ残念なのは、どんなに時代が変わっても経済的な社会構造は同じだ。今も昔も二種類の人間しかいない。革命前の貴族と領民の関係に似ている。それは金融の仕組みを利用して新たな支配者階級となった者と借金漬けになり人生の時間を切り売りしてながら支配される人間だ。
 ヤウダイは自由と平等の為だった革命に疑問を持った。

 夕方近くにナナは目覚める。夕べの断片的な記憶を辿ってみる。
 ヤウダイ、いつ帰ったんだろう。アタシ、また、ヤッちゃたんだ。
 (だる)い目覚めだった。
 魔法の粉の臭いが抜けていなかった。
 重い身体と吐き気に押し潰されて、新鮮なはずの外の空気でさえも息苦しい。

 夕べのヤウダイに五歳の頃の懐かしい面影を捜すナナ。
 本当はまた、子供の時のように遊びたい。ヤウダイにまた会いたい。
 そうだ。アタシが求めていた自由は、五歳の頃のように愛する人達の傍で暮らす事なんだ。

「ヴゥェッ。ぁあぁ」
 今まで感じた事のない激痛が背中から下腹部に走る。
 どうしたんだろう。何処かで転んだのかなぁ。
 熱いシャワーを浴びて全身を目覚めさせようとした。
「ぐはっ。あぁ」
 シャワー室で吐いてしまった。セメダインに似た嫌な臭いがシャワー室に充満する。

 ドオッドォッン。
「オイッ。ナナ。起きてるのかぁ」
 荒々しくドアを叩く音と迎えに来た男の怒鳴り声がした。
 また、一日が始まってしまう。
 迎えに来た男はズカズカとシャワー室にまで入って来た。
「オイッ。何やってんだ。早く支度しろっ」
「アタシっ。気持ち悪い」
 男はナナを見ようともせずに出勤をせかす。
「いいから早く服を着ろっ。店に着いたら薬をやるからよ。どうせ男を気分良くさせるだけの楽な仕事だろう。嫌なら寝そべってるだけでイイんだよ」
 ナナは家畜のように送迎車に押し込まれた。

 四週間後。その日、珍しく昼前に目覚めたナナは公園のベンチにいた。
「ナナ」
 突然の声に驚いて振り向くと軍服姿の男が立っている。見覚えのある顔がナナの記憶を呼び覚ます。
「あっあー、まさかぁ。ソブンっ」
「やっぱりナナだ。こっちに来てたのかぁ」
 感激して泣きながら興奮したナナは立ち上がってソブンに抱きついた。
「ソブンっ。なぁにぃ、その恰好はっ。カッコイイ。そうかぁ。やっぱり、あの革命の英雄ソブン中将って貴方だったのね。ソブン、凄いわぁ」
 ソブンとナナはベンチに座りながら話し始めた。
「俺は英雄なんかじゃないよ。何も出来なかった」
「でも革命の御蔭で皆が大金持ちになったって言ってるわ」
 嬉しそうにはしゃぐナナとは対照的に愁いの表情のソブンが答える。
「そんな事はない。大金を稼ぐ者や大地主になる者の(かげ)には搾取される者がいるんだよ。それに今は自由こそが絶対の正義という風潮だけど危険だね」
「どういう事なの」
「今週中には規制が撤廃されて農作物の輸入自由化が実現するだろう。そうなれば大地主といえどもダメージが大きい。我が国の農家は壊滅する。昔、土が死ねば国は滅びると教わったよ。畑を捨てた俺が言う台詞じゃないがね」
「ソブンは国の英雄じゃない」
 子供みたいにはしゃぐナナを諭すようにソブンが語る。
「この国は国のかたちが定まらないまま暴走しているんだ。個人の欲望が膨大なエネルギーになって爆発している。一人一人がどう生きるかを考えなきゃいけないんだ。良い国とは個人が幸せな国だ。個人の幸せは家族の幸せの中にある。自分に注がれる愛ではなく、他人へ注ぐ愛にこそ喜びがある事を個人個人が土台にしないと良い国は出来ない」
「何だか分からないけど立派になったのね。あのソブンがね。信じられないわ」
「我々は今、何が起きているのかも分からずに流されている。後の世に残す大切な事を一人一人が問い質すべきなんだ。そういえばナナの御両親もお亡くなりになったよね。墓参りにも行けなくてスマナイ」
 頭を下げるソブンに苦笑いしながらナナが答える。
「うん。パパは十一年前にね。ママを早く、こっちに呼び寄せたいんだけど」
 不思議そうな顔でソブンが言った。
「えぇ。先月、村の過疎化の調査の為に国民調査をして知ったんだけど、ナナの御母さんは六年前に過労で寝込んだまま亡くなったんじゃないのかい」
「んっえぇ」
 ナナの表情が歪み、目の色が失せてゆく。
「まさか、知らなかったのか。村から連絡はなかったのかい」
 言葉を失くしたナナは力なくソブンに倒れ掛かる。肩で荒い息をするナナを抱きかかえて気遣うソブン。
「大丈夫か、ナナ」
「あぁ、あぁ痛いっ」
 激しい腹痛がナナを襲い地べたに倒れ込んでしまう。
「大丈夫かぁ」
「大丈夫。大丈夫よ。家で少し休めば治るわ」
「分かった。家まで送るよ」

 ナナをベットに寝かせたソブンが訊ねる。
「本当に一人で大丈夫か。病院に連絡しなくていいのか」
「大丈夫よ。ねぇ、ソブン。ヤウダイとさぁ。三人で村に帰ろう」
「えっ。あぁ。いつかな」
 力なくソブンが呟く。
「ヤウダイに会いたいな。一ヵ月前にね。ヤウダイに会ったのよ。連絡先、聞きそびれちゃって」
 子供のような表情でヤウダイの話をするナナを見てソブンが答えた。
「分かった。ヤウダイを捜して、ここに来るように言ってやるよ。安心して眠りな」
「うん」
 幼子のようにスヤスヤと眠るナナ。

 ナナは夢を観たのだろうか。
 遠くで子供の頃に聞いた祭囃子が鳴っている。
 ピィーヒィラァッヒィ。チィチィッチー。キッカッカァッ。
 鳴り物に合わせて華麗に舞う旅芸人達。
「すっごーい。綺麗っ。アタシも踊りたい。ねぇ、ヤウダイも踊ろっ」
「ああ、踊ろう、踊ろう。ソブンも踊ろう」
「おう、踊ろうぜ」
 ナナ、ヤウダイ、ソブンの三人は楽しそうに、いつまでも踊り続ける。

  ☆

 ソブンは軍に帰ると大佐を呼び出した。
「大佐。個人的な事なんだが頼みがある」
「はい。お役に立てる事でしたらお任せ下さい」
 直立不動で敬礼をする大佐。
「君はヤウダイという男を知っているね。彼へ、この住所に住むナナという女性の所に行くように伝言して欲しい」
 そう言ってソブンはナナの住所を記したメモを大佐に手渡した。

 ヤウダイはナナが住む建物の最上階に着いた。部屋の扉を開けた途端に消毒液の湿った匂いがする。
 ドス黒く痩せたナナが床に倒れている。お腹を押さえながら呻き声を漏らし、身体をよじらせているナナ。
「大丈夫か、ナナ。どうした。怪我か」
 脂汗と鼻水だらけの顔を歪め、首を振るナナ。
 グゥオッッ。
 胃液を吐くナナ。過呼吸のように痙攣を起こす。ナナの尻のあたりがドス黒く滲み、赤黒い血が流れ出す。熱もあるようだ。
 急いで病院に運ぶ。流産だった。一センチメートルにも満たない小さな命が流れて逝った。
 ナナの熱は下がらない。ナナは目覚める事なく子供の後を追う。
 洗い流されたナナの顔は白く穏やかだ。

 ヤウダイはナナの遺骨を持って幼い頃に過ごした村にやって来た。かつての村は人影のない森になっている。家族で過ごした家は朽ち果て、祭りが行われていた祭壇も無くなっている。
 国境(くにざかい)に大きな湖がある。
 光の波が打ち寄せる岸辺に一羽の小鳥が舞い降りた。炎のように真っ赤な、その小鳥は首を伸ばし翼を広げた。
 ヤウダイの方を見たかと想うと、西の空へ飛び去った。真っ赤な鳥は太陽の光と溶け合い、大きく、逞しくなっていく。
 異邦人の伝承では魂を守護する迦楼羅という鳥がいるらしい。ナナの魂は迦楼羅に出逢えたのだろうか。
 やがて、大仏のように大きな満月が湖の(ほとり)から昇ってくる。 
 ナナは湖一面に輝く、月の明かりの階段を昇っていったのだうか。
 夜が明け朝日が昇り、湖一面の蓮の華が色づく。幾萬(いくまん)の華の薫りに包まれる。蓮の華の(うてな)に、ナナの御霊(みたま)が現れ、静かに消えて逝く。
 ナナは村に帰ってきた。
 ナナの魂は静かに故郷へ還って逝く。

  ☆

 遠くで子供の頃に聞いた祭囃子が鳴っている。
 ピィーヒィラァッヒィ。チィチィッチー。キッカッカァッ。
 鳴り物に合わせて華麗に舞う旅芸人達。
「すっごーい。綺麗っ。アタシも踊りたい。ねぇ、ヤウダイも踊ろっ」
「ああ、踊ろう、踊ろう。ソブンも踊ろう」
「おう、踊ろうぜ」
 ナナ、ヤウダイ、ソブンの三人は楽しそうに、いつまでも踊り続ける。

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  • 序章  胞衣の森

  • 第1話
  •  第一部 『空蝉の国《うつせみのくに》』

  • 第2話
  •  第二部 『迦楼羅の森《かるらのもり》』

  • 第3話
  •  第三部 『龍の柩』

  • 第4話
  •  第四部 『ビードロの街』

  • 第5話
  •  第五部 『国家の戒律』

  • 第6話
  •   最終章『迷宮の防人』

  • 第7話
  •  番外編 『崩れかけの塔の下で』

  • 第8話

登場人物紹介

登場人物はありません

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