第2話

文字数 15,000文字

 第一部 『空蝉の(うつせみのくに)
 これは草薙亮太が四十歳。草薙アカリが四十歳。山口豊章が六十九歳。八雲国彦が七十九歳の頃の話です。
 草薙亮太とアカリ夫妻を中心に展開する歴史サスペンスで国とは何か。国家とは何か。国民とか何かを考える物語です。


   空蝉の(うつせみのくに)

 ヴィーン、ヴィミィーン、ミィーッ、ミィーッ、ミィ―。
静まりかえった街に蝉の声だけが鳴り響く。やがて、蝉の声は重力に押し潰されて消えて逝く。焼けたアスファルトから立ち昇る熱気が(よど)む。
 買い物から帰って来た妻が冷蔵庫から取り出した麦茶を一気に飲み干すと滝のような汗が流れ出す。
「ふぅぁー。暑いっ。今年は特に暑いわね。ねぇ貴方ぁ、知ってるぅ。今年の秋祭り、今週にやるんだってぇ。普段より一ヶ月以上も早いのよ。まだ秋じゃいし。変よねぇ」
 息を吹き返したかのように喋り続ける妻。毎年、秋祭りの盆踊りを楽しみにしている。
「うん、そうだね。何でも、これから毎年、今の時期にやる事になったらしいよ。去年までは古代に使っていた月の暦に合わせていたのを、今年からは太陽の暦に合わせてやるらしいよ」
「何ぃよぉ、それっ。変でしょ。季節が合ってないじゃん。私、許せない。絶対に抗議してやるわ」
 形相を変えて怒りを(あら)わにする妻に僕は答えた。
「抗議しても無駄だと思うよ。国からの指示だからね」
「国ぃ。何それっ。それこそ変よ。政府が村の祭りに指図する筋合いなんてないはずだわ」
「西の大陸に合わせて国内の行事全てを運営するという法案が可決されたらしいよ。貿易や観光に便利なんだってさ。積極的にグローバル化する事で競争力をつけるんだって」
「挙国一致っていう訳ぇ。冗談じゃないっ。まるで戦争ね」
 納得のいかない妻は文句を言いながら二杯目の麦茶を一気に飲み干した。
 
 妻のアカリは四十歳になる専業主婦だ。高校時代の同級生である僕と結婚して、二十歳の時に長男の守を出産する。
 今年、二十歳になった守は僕と同じ商社に就職した。
 妻の趣味は歴史研究だ。主婦の遊びだと(あなど)ったら大間違いだ。歴史研究歴二十五年以上のベテランで『元祖・歴史好き女子』と呼ばれている。
 妻は発掘作業のボランティアにも参加し、歴史雑誌に投稿記事も記載されるほどで筋金入りの歴史マニアだ。
 しかも、アマチュアだけでなく、プロの歴史研究家からも一目置かれる存在なのだ。
 妻の旧姓は海部(あまべ)。海部家は『龍宮の森』という場所にあるこの国最古の神社で代々、神官を務める家柄なのだ。

『そもそも盆踊りとは、ただの鎮魂の為の踊りではありません。先祖の祖霊を自身の肉体に宿らせる蘇りの為の大切な儀式なのです。祭りを行う時期を現世の人間の都合で自由に出来るものではないと存じます。時の政府の意向に左右されるものではありません。それを許す事は人間の尊厳、文化の冒とく、ひいては国の崩壊につながります。是非、秋祭り開催時期の再考を御検討ください』
 妻が神社局に送った抗議文は黙殺された。既に可決された法案が簡単に覆らないのは分かり切った事だった。
 妻には僕の仕事の話は出来ないな。もっとも、ここ数年は極秘の工作まがいの仕事が多いので、出張先すら妻には言えないのが実情だ。

 神社局は『神宮の(もり)』と呼ばれる場所にある民間による法人団体の機関だ。しかし、この国に数十万社あると言われる神社を束ねる神社局は国民生活に多大な影響力がある。大きな神社の祭りには数百万人の人出がある。祭りの運営費は民間からの寄付で賄われる。ただし、大企業がスポンサーになるのは珍しい事ではない。
 今回の法案が可決される二年前に僕の勤めるソガ興業へ政府から神社局の説得工作を依頼された。ソガ興業の会長である八雲国彦は神社の行事にまで政治を絡める事に難色を示した。しかし、ソガ興業の親会社にあたるソガファンドの会長、大和貴志の指示で依頼を引き受ける事になった。
 神社局の説得を担当したのが僕だった。
 一ヶ月間毎日、神社局に通ったが話は進展しなかった。そんな時に僕の目の前に現れたのが山口豊章だった。山口は大和貴志の紹介で僕の仕事を手伝う事になった。だが、山口はソガファンドに所属している訳ではない。
 僕の仕事を手伝うといっても、常に影から指示するだけで山口豊章が表舞台に立つ事はない。
 まるで、彼の書いたシナリオのように事は進んでいく。
 流通、観光、交通など多業種の会社へ、秋に開催されるイベントの企画を提案する。あとは企業の方から神社に働きかけて、夏に開催される祭りには多額の寄付金が支払われる仕組みを作る。
 困難と思われた案件が簡単なパズルのように解決していく。
 山口豊章という男の存在は一切、記録には残っていない。神社局の説得工作は、社内で僕の功績として評価されている。
 山口豊章は物静かな男だ。言葉少なに仕事の指示をする以外は口を開かない。そんな彼が一度だけ僕に自身の身の上話をした事がある。
 それは神社局からの帰り道だった。海岸沿いに車を止め、夕陽で紅く煌めく海原を見詰めながら彼が語りだした。
「私は二十歳になるまで西の大陸で暮らしていたんです。母の墓は西の大陸にあるんですが、なかなか墓参りに行けなくてね。いつも陽が沈む海に向かって謝っているんですよ」
 返事のしようがない僕は彼の横顔を眺めていた。
 もしかしたら、山口豊章は僕が移民だという事を知っていたのだろうか。
 山口は痩せ型で長身の七十歳近い老人だ。僕が十歳代半ば頃に毎月、母さんに会いに来るコニキシという四十歳代くらいの男がいた。まさか、コニキシと山口が同一人物っ。いや、そんな筈がない。あの紳士的な山口豊章が母さんのいた店に出入りしていたとは思えない。

 僕が、この国に来て二十三年になる。僕は西の大陸で生まれ育った。父親は、この国の人間だと聞かされているが顔も知らない。幼い頃から祖父と母親と三人で暮らしていた。僕が七歳の時に祖父は亡くなる。
 十七歳の時に移民として、この国にやって来た僕は生まれ故郷の事や家族の事を一度も口にした事はない。
 僕は西の大陸から逃げるようにして母さんを残したまま、この国にやって来た。

 母さんが今も生きているとは思えない。中途半端な僕は母さんの安否確認をする事もなく、全てを無かった事にしようとしていた。

 その日は仕事を早く終えた。帰宅の挨拶も無しで、いきなり妻に頼まれる。
「ねぇ、明日は仕事、休みでしょう。龍宮の森まで付き合ってくれない」
「あぁ、実家に行くのかい。いいよ。海岸沿いを車で走れば四時間ちょっとかな。ドライブがてらに出かけよう」
「遠回りさせて悪いんだけどウドノに寄っていってほしいの」
「ウドノぉ。内陸かぁ。かなり遠回りだね。朝一番で出かければ大丈夫かな」
 その晩、興奮気味の妻は夜中まで調べものをしていた。

 ウドノに向かう車中で妻に尋ねた。
「ウドノに何の用さ」
「お祭りよ、お祭り。全くもう、最近の政府は何を考えてるのかしら。国中を滅茶苦茶にして。何がしたいのかしらねぇ」
 妻の話では祭囃子で奏でられる雅楽器にヨシの茎を使うらしい。古代からウドノという村の平原がヨシの名産地だった。その平原を横切るように道路拡張や新路線の鉄道誘致、エネルギー供給の為の電線配備が公共事業として計画されているらしい。
「貴方ぁ、分かるぅ。これは国家存亡の危機なのよ。お祭りが無くなったら国が無くなっちゃうんだから」
「えぇ、オーバーだなぁ。はぁはっ」
 僕は軽く笑ってみせたが、妻は真剣な顔で資料と(にら)めっこをしている。
 祭りという行事が国の存亡を左右するなんて僕には理解できない。
 僕が移民で、まだこの国の人間になれていないから分からないのだろうか。
 車は針葉樹の生い茂る山道を走り続けた。

 ウドノに着いた妻は十数人の人達と合流し、何やら資料のやり取りをしている。環境保護団体や文化交流推進委員会と名乗る連中など様々な団体と共同で署名活動をしているらしい。公共事業の凍結を求める嘆願書提出に奔走しているようだ。
「私は会合の時に御弁当を食べるから心配しなくていいわよ」
「あぁ。じゃぁ一時間後に迎えに来るよ」
 会合に参加する妻と別れ、僕は一人で昼食をとる為に食堂に向かった。
 国道沿いにある食堂の前に車を駐車する。
 店頭にあるショーケースの中で、数十年前に作られたであろう商品サンプルが色あせている。
「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」
 椅子に座っていた老婆が立ち上がって迎えてくれる。広い店内に客は誰も居なかった。店の壁に貼られている十年前の花火大会のポスターが、この村の現状を教えてくれる。
「ラーメンをください」
「ラーメン一丁」
 老婆のオーダーに応じるようにキッチンにいた老人が無言で立ち上がる。
 これだけ広い店だから、きっと昔は従業員もいて賑わっていたのだろう。地元の常連客と観光客が来店していたに違いない。村の過疎化と観光客の減少は一目瞭然だ。公共事業を誘致したら工事現場の人で、この店も繁盛するだろろうに。
「お待たせしました」
「ありがとう。そういえば、あのヨシの平原、開発するらしいですね」
 僕はラーメンを運んできた老婆に聞いてみた。
「あぁ、ヨシね。でも、ヨシが無くなっちゃうと、お祭りが出来ないんだって」
 老婆は淡々と、そして少し寂しそうに答える。
「やっぱり、お祭りがないと寂しいですか」
「そりゃ、お祭りが出来ないと新しい歳を迎えられないでしょ」
 子供のような笑顔で老婆が答えた。

 会合を終えた妻が車の中で僕に尋ねてきた。
「文化交流の一環としてね、西の大陸の観光客を秋祭りに誘致しようって計画があるんだけど、貴方どう思う」
「無理だね。止めといた方が良いと思うよ」
 即答した僕に不満そうな妻へ、西の大陸の現状を説明した。

 大昔、この星で地上の三分の一を統治する国が西の大陸に存在した。それがキッシー国だ。
 キッシー国最後の君主ダンクン法皇はソブン中将が率いる民衆の反乱によって命を落としたとされている。
 キッシー国は二十五の郡政府に分かれ、人民の人民による人民の為の国として共和国が誕生した。その時、君主のみならず、貴族階級の人達も惨殺された。
 共和国は自由と平等の名の下、世界規模のグローバル経済を突き進んだが新たな格差社会の悪化から経済破綻をきたし、内戦状態に陥る。
 そして、二十数年前にジョカ皇帝という独裁者の下、シンカ帝国という絶対君主制国家が誕生した。絶対的権力を中心とした経済力は拡大していく。
 シンカ帝国では革命以前の古いものは全て悪とされた。古い風俗、習慣、宗教など全てを新しく作り替えた。

「それがどうしたのよ。西の大陸の歴史と、この国の観光事業は関係ないでしょ」
 呆れ顔の妻が答えた。
「そう単純にはいかないんだ。シンカ帝国が最も懸念したのは自国の正当性なんだ。新政府によって作られた風習や歴史観、国体には何の根拠もない。新政府が一番警戒したのがキッシー国最後の君主ダンクン法皇の末裔という訳さ」
「えぇ、子孫がいるっていう事っ」
「あくまで一部の民衆の間で噂されている都市伝説さ」
「そんな都市伝説、この国の祭りとは無関係でしょう」
「そっくりなんだよ。祭囃子で使う雅楽器がね。西の大陸に現物は残っていないが処分を免れた古い文献に記されている神事に使う楽器と、この国の祭囃子で使う雅楽器がそっくりなのさ」
「そんな事を西の大陸の政府が気にするのぉ」
「過去を抹殺するように全て処分する程に神経質になっているんだ。今の政治体制を守る為なら人の命だって何とも思わないのさ」
「何よぉ、それっ。誰の為の国体なのよ。国の私物化じゃないの。勝手すぎるわよ」
 正義感の強い妻は口を尖らせて怒っている。
 妻にとって国とは何なのだろう。僕には国が何なのかさえ分からない。少なくとも国の為だからと、妻のように無心で懸命になる事など考えられない。
「西の大陸の古文書かぁ。見てみたいわねぇ」
 空想好きの子供のように目を輝かせて妻が呟いた。歴史好きの妻の好奇心を触発してしまったらしい。
 僕は返事をせず、無言で話を流した。
「あぁ、そうだぁ。貴方、大昔に西の大陸から伝わったと言われている鏡が神宮の杜にあるのは知ってるでしょう」
「えぇ。あぁ、そう」
「何よ、そんな事も知らないのぉ。実はね。伝説では、それと同じ鏡が龍宮の森にもあるとされているの。だけど、実物は未だに発見されていないのよ。大昔の西の大陸の真実が、この国に残っているのかも。調べる価値がありそうね」
「待てよっ。そう力まずに落ち着いて。世の中には真実を明らかにしない方がいい事もあるんだから」
 僕は張り切る妻をなだめるようにして制した。

 龍宮の森に着いたのは夜中だった。
 翌日、妻は午前中から神社にある古文書を片っ端から調べ始めた。
「何をやってんだよ。お父さんに用があって来たんじゃないのぉ」
「秋祭りの事を頼みに来たんだけどね。お父さん、朝から出かけてて、夜まで戻らないんだって。今日は宝探しするから手伝ってよ」
 子供のように楽しそうな妻だったが、僕はわざと水を差すような事を言った。
「歴史なんて掘り返して何になるのさ。意味ないだろう」
「この国ではね。歴史書の事を『かがみ』って言うのよ。自分自身を知る事になるのっ。うちの神社に『水鑑(みずかがみ)』っていわれている池があるでしょう。真実の自分が見えるなんだってよ」
「まさかぁ。迷信に決まってるだろう」
「本当よっ。覗いてみればぁ。嘘つきは顔が歪んで映るんだってさ」
 悪戯っ子のように微笑みとも苦笑いともつかない笑みを浮かべながら妻が答える。僕は気まずそうに苦笑するしか術がなかった。
 結局、妻の言いなりになって部屋中いっぱいに古文書を広げさせられた。
「ちゃんと年代順になってるぅ」
「あぁ。分かる限りにね。いったい何を調べてるのさ」
「大昔の外交政策よ。やっぱり、キッシー国との結びつきを証明する文献は無いわねぇ。この国は西の大陸のミマ国という小さな国との交流が盛んだったみたいね」
 僕は探偵気取りの妻に冷たく吐き捨てるように答えた。
「世界中の地図を捜したってミマ国なんて国が記載された歴史的事実は一度もないよ。西の大陸ではミマ地方という小さな地域に過ぎない場所さ。ミマ族という少数民族が住む寂れた所だよ。僕には、そのミマ族の血が流れているんだよ」
 今現在、ミマ族は西の大陸で謂れのない差別を受け、蔑視されている。そんな事実を知っているのか、知らないのか、僕の妻は無頓着だった。まるで、宝の地図を見付けたかのように目を輝かせている。
「そうよね。貴方、ミマ国の事、教えてよ。ねぇ」
「もう勘弁してくれっ。ミマの地をミマ国と認識しているのは、この国だけなんだ。西の大陸ではミマ国の存在を口にするだけで死刑になる事もあるんだよ」
「まさかぁっ」
 僕は無言のまま真顔で妻を睨んだ。
 平和な国で暮らす人間には、隣国の真実を実感するのは不可能なのだろう。

「おい、何の騒ぎだ。大掃除でも始めたのか」
 声の主は妻の父親だった。
「お父さん、お帰りなさい。今ね、ミマ国の事を話してたのよ。そしたら亮太さんがミマ国の事を口にするなって言うのよ」
 ふくれっ面の妻が義父に告げ口をする。人格者の義父は自分の娘をなだめた。
「あぁ。それは神宮の杜にある文献にミマ国建国の王はキッシー国のダンクン法皇だと記されているからだよ。西の大陸の政府は偽書だと抗議している。この国の政府も、その話題には触れないようにしているんだ」
「そんな事が許されるのぉ。政府の都合で歴史が改ざんされるなんてっ」
「一番大切なのは今、生きている人の命だろう」
 興奮気味の妻へ反論した僕に義父が割って入った。
「亮太君。亮太君の言う事はもっともだ。だけど、アカリの言う事も正しい。政治によってサイエンスを捻じ曲げるのは許される事ではない」
「しかし、お義父(とう)さん、歴史を伝える事が、そんなに大切なんですか」
「歴史というのは未来への道標(みちしるべ)でもある。これから生きる子供達の為に事実を知り、真実を考える事も大切なんだ」
 一瞬、全てを話したいと思った。しかし、僕には家族にも言えない秘密がある。それが家族を守る事になると信じている。
 僕の心配をよそに妻がとんでもない事を言いだした。
「その神宮の杜の文献って気になるわよね。ねぇ、お父さん、口利きしてよ。私、見てみたいわ。それから秋祭りの事も御願いね。うちの神社は例年通りにやるって回覧を廻しといたから」
 義父は強引な娘に閉口しながら頷くしかなかった。

 二日後に妻の元へ神宮の杜の文献の写し書きが届く。
『西の大陸を統治するキッシー国最後の君主ダンクン法皇はミマ国建国の際に助力した功績を称え、東の島に鳳凰の神器を贈った。鳳凰の血脈は護られた』

「鳳凰の神器というのは鏡の事かしらね。でも何で鳳凰なのかしら」
「キッシー国では新しい君主が絹の衣を身に着けて即位する時に、祝福された国に現れる鳳凰が舞い降りるといわれているんだよ」
 文献の一文を眺めながら首をかしげる妻に僕が答えた。
「じゃあ、神宮の杜にある鏡が西の大陸から贈られた鳳凰の神器と証明できれば、文献の歴史的価値も認められるって事ね」
「でも神宮の杜の鏡は絶対に公開される事がなく、誰一人見た者はいないんだろう」
「だから龍宮の森の鏡を捜すのよ」
 妻は嬉しそうに実家から持ち出した古文書を引っ張り出した。
「貴方。私ね、子供の時から気になっている事があるのよ。神社の沿革を記した、この部分。読んでみて」
 妻が資料を指さした。

『境内の鬼門にカミが降り立ち、人目に触れる事はなくなった』

「ねぇ、ちょっと意味深でしょ。鬼門の位置って、多分『水鑑』の事だと思うんだけど、『人目に触れる事がなくなった』って気にならない」
「あぁ、あの池ね」
 気のない返事をしてみせたが僕は思い出していた。
 あれは去年の冬。冬至の日の夕暮れだった。神社の北東の位置にある池へオレンジ色の陽の光が差し込む。太陽が沈もうとした瞬間に水面(みなも)が煌めき、無数の白い光の線が舞い踊るように放たれた。僕は、まるで池が自ら光輝いているような光景に目を奪われる。
 我に返ると幻想的な出来事が嘘のように静かな夜が訪れた。暗闇に佇む、いつもの池を覗き込むと水面(みなも)に浮かぶ月が揺れていた。
 あの池は、いつの頃からか水鑑の池と呼ばれ、信仰の対象になった神聖な場所だ。
 タブーは神聖視されるものだ。

「ねぇ、あの水鑑の池が鏡の隠し場所かも知れないわよね」
 悪戯っ子の眼で妻が微笑む。
「だけど、大切な神器を池に沈めるかなぁ。それに神聖な池を掘り返せるはずがないだろろう。もう諦めな」
 諦めるという思考回路が故障している妻に僕の声は聞こえなかった。池を捜索する為の口実を考えているようだ。
 僕は淡水魚の図鑑を引っ張り出した妻に尋ねてみた。
「何を見ているのさ。まさか、わざと外来種の魚を池に放って池をさらう口実を作るつもりじゃないよね」
 バタッ。図鑑を閉じた妻が気まずそうに苦笑いをして答える。
「まさかぁー。そんな悪党じゃないわよ」

 翌日。運命の神は妻に微笑んだ。ウドノの会合で知り合った環境保護団体の職員から知らせがはいる。全国の絶滅危惧種の生物を調査する為、ウドノや龍宮の森にある水鑑の池を調べたいというのだ。義父の承諾を得て、池の水を抜く事が決まった。
 全国の歴史マニアが色めきだったのは言うまでもない。妻の予想通り、永い眠りから目覚めた鏡が陽の目を見る事になった。
「あったぞー」「ゆっくり。ゆっくり慎重にな」「オッおっー」
 全国から集まった歴史マニア達の歓声があがる。まったく、絶滅危惧種の生態調査なんだか、発掘作業なんだか分からない状態だ。

 水面から上がった鏡に太陽の光が乱反射して龍宮の森の木々を照らす。
 空気に触れなかったからだろうか。長い歳月、池の底に放置されたとは思えなかった。鏡は殆ど損傷する事なく姿を現した。
「あったぞー。見ろっ。鳳凰と龍だ」
 鏡の裏に刻まれた紋様を見て、誰かが叫んだ。次の瞬間、学者や歴史マニア達が騒めく。
「イヤッ。あれは、」「鳳凰じゃないっ」「まさか偽物かっ」
「鳳凰というよりは迦楼羅ですな」
 著名な学者が断定的に結論付けた。落胆した観衆の中には、その場に座り込む者までいた。

 鑑定の結果、鏡はダンクン法皇の時代に西の大陸で作られた物だと判明した。
 しかし何故、鳳凰ではないのか。結局、鳳凰の神器とは何なのか。この国の文献は偽書なのか。なかには、この国の豪族が技術者に西の大陸の鏡の模造品を作らせたのだが、鳳凰と迦楼羅の絵柄を間違えたんだろうと言う人まで現れた。
 神宮の杜の関係者は沈黙を保った。

「それにしても何で迦楼羅なのかしらね」
 国中を巻き込んで歴史を引っ繰り返すかも知れない騒動を起こした張本人の妻はひょうひょうとして、まだ推理探偵を気取っている。
「迦楼羅は火を使うだろう。龍は水だろう。火と水でカミなんじゃないの」
「えー。そうなのぉ。本当ぉ。貴方、真面目に考えてよ。私ね、もう一つ気になる事があるのよ。神宮の杜の文献にある『鳳凰の血脈は護られた』ってさ。鳳凰とはダンクン法皇の事なんじゃない。鳳凰の神器。鳳凰の血脈。もしかしたら、ダンクン法皇の子孫が、この国に来たっていう事なんじゃないの」
 妻は、とうとうトンデモナイ事を言いだした。そんな事を公表すれば国際問題になりかねない。探偵ごっこの遊びでは済まない。
「それは公表しちゃダメだよ」
「でも、そうだとしたらダンクン法皇の末裔に会ってみたくなぁいぃ」
「ないねっ。ダメだよ。絶対に、そんな仮説を口外しちゃ駄目だからね」
 本当は逢ってみたかった。ミマの地で生まれ育った僕にとって、西の大陸を統治し、ミマ国建国を成し遂げたダンクン法皇へ密かな憧れがある。その子孫がいるなら会ってみたいというのが僕の本音だ。

 一週間後。突然、ソガ興業の八雲会長に呼び出された。
 会長室のソファに座った僕の前に雑誌の原稿らしきものが置かれた。雑誌の見出しを見て驚いた。
『鳳凰の血脈とは?!鳳凰の神器とはダンクン法皇の子孫!!ダンクン法皇の末裔がこの国にいる!?

「これは草薙さんの奥さんが歴史雑誌に投稿した記事だよ。なかなか良く書けているね。原稿は私が差し止めといたよ」
「スミマセン。とんでないデタラメを言い出しまして。厳しく言っときます」
 僕は八雲会長に頭を下げた。八雲会長は笑いながら突拍子もない事を言いだす。
「いやいや、奥さんはナカナカ文才があるね。それにあながち間違いでもないよ」
「えっ。どういう事です」
「いるよ。この国にダンクン法皇の末裔が」
 八雲会長は世紀の重大発言をこともなげに淡々と口にした。自分が何を言っているのか理解しているのだろうか。僕は返す言葉が見つからなかった。
「ただし、大昔ではなく、五十年程前にね」
「はぁ。どういう事ですか」
「大和家の前当主、大和武雄が西の大陸でダンクン法皇の末裔を見付けて連れてきたのさ」
「何ですって。まさかぁ。本当ですかぁ。何処に居るんです。その方はっ」
 興奮する僕に八雲会長は冗談でも言うように笑って答えた。
「君も知っている人だよ。山口豊章さ。彼は西の大陸で生まれ育ったんだ。本名はコニキシ。ただし、この事は内密にしておいてくれ」
「コニキシっ。あの山口さんがコニキシだというですかっ。しかもダンクン法皇の末裔だとぉ」
「そうか。やっぱり気付いていなかったか。コニキシは極貧生活をしていた君の母親に毎月、生活費を工面していたようだけどね。きっと君がアマベの子孫だと知っていたのだろう。コニキシ自身も幼少の頃はゴミ捨て場で育ったらしい。それより今は鳳凰の血脈が問題だ。雑誌の記事を差し止めても噂は広まる」
 頭が混乱していた。冷静になろうと努力した。
「スミマセン。何がなんだか。私はどうすればいいのか」
「草薙さんに噂を打ち消してもらいます。噂を打ち消すには真実を明らかにするのが一番早い。草薙さんはアマベ家に伝わる西の大陸の古文書を持っていますね」
「えっ」
 心臓が止まり、血が逆流しそうだった。この男は全てを知っている。
「その古文書を解読すれば奥さんも世間も納得するでしょう。コニキシの件だけは内密に進めてください」
「待ってください。あのぉ。その前にもう一度、山口さんに会わせてください」
「そうですね。いいでしょう。手配します」
 僕は何かに納得したかった。世界と僕の一致する答えがあるとは考えていない。だけど、腹に落ちるものがないと僕は動けなかった。

 西の海の彼方に晩夏の太陽が沈もうとしていた。
 山口豊章は海原でオレンジ色に煌めく太陽の道を眺めていた。
 山口は静かな語り部が物語りを紡ぐように口を開いた。
「草薙さん。貴方も私も西の大陸では隠れるように暮らしてきました。まぁ、今でも私は影みたいなものですがね」
「山口さん、貴方がダンクン法皇の末裔だと知れたら殺されますよ」
「私の事は心配要りませんよ。もう今さら王家の血統なんて意味はないです。西の大陸が政府として認めなければいいだけですから」
「貴方さえよければ、この島国で鳳凰を蘇らせましょう。正統な国を復活させるんです」
「それは幻想ですよ。草薙さんの想いは郷里への愛着が沸き上がったものでしょう。私をシンボルにして国という幻想を描いただけです」
 僕は目に見える偶像が欲しかっただけなのだろうか。
「西の大陸の鳳凰は死んだんですよ。歴史を断ち切り、文化を奪われた人々の心に残ったのは、争い、憎しみ合う未来しかない。過去を無視して正しい道に進む事は出来ません。国際問題になるとか気にする必要はないですよ。たかが国家同士の問題だ。草薙さん、貴方は自分の信じる事をすればいい。目の前の人を守ればいい。自分に何ができるか、これからの人の為に何が出来るかが大切なんです」
 何かの贖罪(しょくざい)を一人で抱え込んでいるような山口豊章の背中越しに真紅の太陽が沈んでゆく。

 翌日、僕は指示された通りに妻と義父に古文書を見せる事にした。
 妻を伴って龍宮の森の義父を訪ねる。僕は自分の秘密を打ち明ける前に長年の疑問を尋ねてみた。
「東の島は何故、西の大陸に支配されなかったんですか。遺跡調査によると西の大陸の品々を神器として扱っているらしいので、やはり東の島にも西の大陸の支配が及んでいたという事なんですかね」
「イヤ。東の島は大昔から各地方の豪族が連合を組み、多くの兵士と食糧があったから生き残れたのだよ」
 義父が発掘の資料を見せてくれながら答えた。資料には、当時の食糧事情や人口分布の科学的な数値が示されている。僕は新たに疑問を問いかける。
「だとしても西の大陸の軍事力には勝てるはずがないでしょう。ミマの地を東の島の武人が守ったというのは信憑性のある話なんですか」
「ミマの地は元々、鉄の生産地だった為に森林伐採が進み、人々は生きるのも大変な程の飢えに苦しんでいたんだ。そんな土地に西の大陸が興味を持つ事もなかった。しかも、東の武人には秘密兵器があったという伝説がある」
「何です。その伝説って」
 義父はヒトカベと呼ばれる語り部の口伝を口述した。
『アマベ家の先祖にあたるワニ氏とアナムチの先祖にあたるオオ氏は海や山や滝を拝み、月や太陽や岩に手を合わせていた。万物の精霊に感謝と畏怖の念を持っていた。この国をかたちづくるものの根底に祖霊崇拝が息づいている。
 ある時、アマベとアナムチは鉄を求めて西の大陸に渡った。アマベとアナムチはミマの地でダンクン法皇を西の大陸の軍隊から護った。
 その後、アナムチは西の大陸から鏡、(つるぎ)、武具などを東の島に持ち帰る。
 やがて、アナムチの血を受け継ぐモノノフの一族はニノミヤと名乗り、海や山や滝などに捧げていた鏡、(つるぎ)、武具などを神器として御神体のように拝みだした』
「信じられない。西の大陸の軍隊から東の島の兵士が法皇を守ったというですか。ところで、その秘密兵器というのは何なんですか」
 僕の疑問に答えるように義父は口伝の続きを語りだした。
『この島国にはモノノフの血脈が息づいている。武人の血を引く二之宮家には天磐船(あまのいわふね)と呼ばれる神宝(かんだから)がある。それは気の力を自在に操り、天と地の間を支配する』
「そんな魔術みたいな物っ。やっぱり、迷信なんじゃないですかぁ」
 興醒めしてしまった僕に義父は古い絵図を差し出しながら答えた。その絵図には空中に浮く船から石を投げる兵士が描かれている。
「そうね。これは後世に付け加えられた作り話かも知れないね。だけど、天磐船は今でいう熱気球だったのではないかという仮説もあるんだ」
「熱気球っ。二之宮家の神宝っていうのを見てみたいですね。そういえば、神宮の杜を管理している二之宮家の先祖はアナムチですよね。アナムチは軍人だったのか。アナムチはダンクン法皇に武力と食料を提供して鉄を得ていたのは確かなようですね」
「貴方も歴史が好きになったの」
 妻がニヤニヤしながら言った。
「イヤ、僕はね。僕の家に代々受け継がれている古文書があるんだけどね。僕の先祖は大昔に西の大陸にやって来たアマベの子孫なんだって」
「えぇっ。そうなのぉ。じゃあ、私達の先祖は同じって事っ。なんで今まで言わなかったのよ」
 見た事もない表情で目を丸くした妻が不審そうに尋ねる。
「僕の先祖はダンクン法皇の傍で東の島と西の大陸の古い信仰を伝えてきたんだ。西の大陸の政府に知れたら命を狙われたって不思議じゃない。家族を守る為に秘密にしてきたのさ」
 妻は僕の想いより古文書に興味が向いていた。
「その古文書っていうの早く見せてよ」
 僕が自分の命と半生をかけて守ってきた古文書をあっさりと妻と義父に見せる事になった。

「現代文字の他に西の大陸の古代文字と東の島の文字で記されていて一部分しか解読できないんだ」

『ヒジリノキミの命令でアナムチという武人がミマの地に鉄を求めてやって来た。
 アナムチはアマベという神官を同行させ、村を作った。こうしてミマの地にトヨの神の信仰が根を下ろした。
 ある時、大国であるキッシー国が滅亡し、最後の王ダンクンがミマの地に逃れてきた。
 アナムチの子孫はダンクンを守り、ミマ国の建国に力を貸す。
 やがて、アナムチの子孫はニノミヤと名乗り、ニライカナイに帰っていった。
 アマベの子孫はトヨの神の信仰をミマ国に広めた』

「ざっと言うと、こんな感じの事が書いてある。あとは読めないよ」
「ワシが訳してやろう」
 義父が古文書を手に取った。義父は古文書と辞書や資料を見比べながら現代文に直して書き写していく。

『西の大陸は製鉄の為に森林を失った。大地は乾き、水は濁り、度々、飢饉になり人々は苦しんだ。
 ダンクン法皇は緑豊かな大地に清流が潤うという東の島に想いを馳せ、永遠なる農作物の豊穣を祈願する。
 ダンクン法皇は東の島で(いにしえ)から信仰されているトヨの神の遣いである龍を法皇の紋章とした。
 ダンクン法皇は災いを焼き払う迦楼羅と龍の刻まれた鏡を東の島の武人アナムチと神官のアマベに贈った。
 ダンクン法皇は西の大陸には二度と鳳凰が舞い降りない事を悟り、東の島に鳳凰の神器を託した。
 ダンクン法皇は瑠璃色に煌めく東の島に幸あれと祈る。東の島は龍と迦楼羅に護られるだろう。
 アナムチは東の島に帰ると鳳凰の神器をヒジリノキミに渡した。
 ヒジリノキミは鳳凰を蘇らせる為に神器の竹竿を割った』

「チョット、ちょっと待ってよぉ。何よぉ、その竹竿って。訳し間違いでしょう」
「竹竿は竹竿だよ。そう書いてあるんだよ」
 娘の指摘に憤慨した義父が答える。
「じゃあ、鳳凰の神器が竹竿だって言うのぉ」
 新たな謎が沈鬱な空気を呼んだ。妻と義父がしかめっ面で黙りこくる。
「ところでヒジリノキミの子孫というのは、」
 僕の疑問に妻と義父が顔を見合わせて同時に即答した。
「大和家よ」「大和家だ」

 大和家は、この島国で強大な力を持つ一族だ。政界、財界を掌握し、この島国全体の真の指導者といっても過言ではない。
 都市伝説的に噂される話では、大和家は先祖が大昔に(おこ)した火を絶やす事なく守り続けている一族らしい。永遠の火を受け継ぐ事によって、先祖の魂を引き継ぐという思想が根底にあるようだ。また、大和家独自の儀式として、先代の当主が亡くなると、跡継ぎは先祖伝来の羽衣を身に纏う事によって、新当主の地位が確立されるといわれている。

「そうだぁ。解ったぞ。羽衣だ」
 突然、義父が叫んだ。
「何よ、お父さん」
「分かったぞ。絹だ。大昔、大和家は麻と絹で財を築いたんだ。西の大陸の法皇は絹の衣を身に着けていた。鳳凰の神器である竹竿の中にはカイコがいたんだ。大和家はカイコを手に入れたんだよ」
 雨雲が消えたかのように妻と義父の表情は晴れやかになっていく。
「鳳凰の血脈ってカイコの事かもね。でも、どうやって証明できるのかしら」
「そうだな。大和家由来の大昔の絹織物と西の大陸の絹製品を比較すれば分かるだろう。ワシが手配してやるよ」
 妻と義父の連係プレーで、この国と西の大陸の繋がりやミマ国の存在を証明できると思われた。
 しかし、西の大陸の政府は『東の島のカイコは大昔に我が国へ朝貢に来た証に下賜したものであろう』と公式発表した。相変わらず神宮の杜にある文献は偽書だという見解を崩していない。
 良識のある学者の間で、この島国と西の大陸は古代からの繋がりがあったという事実は一般常識になった。しかし、その(かげ)でダンクン法皇の子孫が現代にまで生き延びたという真実が闇に葬られる。

  ☆

 先々週は夏の太陽に焼かれていた腕が北から吹く風を受けて肌寒い。
「夏服も今週いっぱいかな」
 僕が呟くと妻は嬉しそうに答えた。
「そうねぇ、もう秋ねぇ。貴方ぁ。貴方も今年は踊りましょう。盆踊り。ねぇ。貴方と私の御先祖様を楽しませなきゃ」
「そうだな。うん」
 見上げると陽の傾きかけた青い空を秋の風が通り過ぎる。

 翌週。僕と妻は龍宮の森に向かった。
 夕刻に龍宮の森に着く。村中から雨上がりの土の薫りが立ち上がる。
 ピィーピィー、ヒィラァッヒィ、ピィー、ドンッ、ドンッ。
 鎮守の森から祭囃子が聞こえてきた。
 カナッ、カナッ、カナッ、カァナ、カァナ、カナ、カナ、カッ、カッ。
 ヒグラシの鳴き声が遠くの彼方から聞こえてくる。
 ジィッー、ジィッー、ジィッー。 チッーリィ、チッーリィ、チッーリィ。
 夕闇と共に聞こえてきたのは、亡くなって逝った御霊(みたま)が草影で奏でる鈴の音色だ。
 村の商店街に提灯(ちょうちん)の淡い灯かりが燈る。
 暗い村の中に浮かび上がる幻想的な異空間。秋祭りの屋台が並ぶ。暖色に彩られた縁日の参道。タコ焼きや焼きそばの煙。焼けたソースの匂い。甘い飴の香り。子供達の笑い声が溢れる。
 神社の鳥居越しに、雲の切れ間から満月が顔を出す。
 氏子総代の掛け声で盆踊りが始まった。
 ピィーヒィラァッヒィ。チィチィッチー。キッカッカァッ。
『さっさぁー。そぉらぁ』
 氏子達の音頭と太鼓や笛などの鳴り物が村に木霊(こだま)する。笠を深くかぶり、氏子達の顔は見えない。

「さぁ、貴方も踊りましょう」
「どうすればいいのさ」
「周りに合わせて好きに踊って」
 妻に促がされれて輪の中に躍り出る。見よう見真似で手足を動かしながらぎこちなく歩く。三分もすると汗びっしょりになり、酸欠に陥る。
 村人達は優雅でしなやかな身のこなしだ。それは、まるで陽炎のように透き通ってゆく。悠久の時間の中で女性(にょしょう)の集団が流れるように(くう)を切りながら練り歩く。村の男衆が女達の踊りに寄り添うように舞い、死に人を迎い入れる。
 これが何世代にもわたって受け継がれてきた祭りという行事なのか。きっと僕の先祖も、この空間で同じ祭りの節回しに酔いしれて踊ったのだろう。
 温もりと秋風がすれ違う。あっ。母さんの息遣いと体温を感じた。
 境内には現世(うつしよ)幽世(かくりよ)の旅人が行き交う。
 母さん、一緒に踊ろう。いつまでも一緒にいよう。
 いつしか僕の手足は僕のものではなくなり、黄泉平坂(よもつひらさか)の扉が開く。

「貴方ぁ、終わったわよ」
「えっ」
「行きましょう」
「あっ。あぁ」
 秋祭りの盆踊りは終わっていた。僕は我に返り、妻の後をついていく。
 神社の鳥居をくぐると、先程の境内の風景が蜃気楼のように遠ざかる。
 ジィッー、ジィッー、ジィッー。 チッーリィ、チッーリィ、チッーリィ。
 暗闇に覆われた村の軒先から鈴虫の声が微かに聞こえてきた。
 夜空から沢山の星が降ってくる。綺麗だ。
 森の中にいると大昔から僕は、この国の人間だったような気がしてくる。
「なぁ、来年は守も連れてこよう」
「そうね。でも、あの子も、もう大人だから。彼女もいるみたいだし。あの子、マンション買って彼女と暮らすらしいわよ」
「そうか。孫ができたら御爺ちゃんと御婆ちゃんになるのか」
「やめてよぉ。御婆ちゃんなんて呼ばせないからっ」
 スタスタと行く妻の後を僕はゆっくりと歩く。
 龍宮の森の精霊たちに迎い入れられた僕はやがて、この国の土に還って逝くだろう。そして、僕は僕らの子供達の(うてな)となる為に冥界の(おきな)となるのだ。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)
  • 序章  胞衣の森

  • 第1話
  •  第一部 『空蝉の国《うつせみのくに》』

  • 第2話
  •  第二部 『迦楼羅の森《かるらのもり》』

  • 第3話
  •  第三部 『龍の柩』

  • 第4話
  •  第四部 『ビードロの街』

  • 第5話
  •  第五部 『国家の戒律』

  • 第6話
  •   最終章『迷宮の防人』

  • 第7話
  •  番外編 『崩れかけの塔の下で』

  • 第8話

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み