第7話

文字数 29,880文字

  最終章『迷宮の防人』
 シンカ帝国皇帝となったジョカは何者なのか。
 これはジョカが十四歳から九十四歳で亡くなるまでの出来事です。
 国家は私達に何ができるのか。人が生きる意味とは何かを問う物語です。

   迷宮の防人

 私の知るジョカは孤独だった。
 十四歳の春。
 彼は学校で孤立していた。クラスメイトは目を背けて彼には近づかない。
 最後に彼と会話をしたクラスメイトは長い髪を三つ編みにしたメイだ。ソバカス顔のメイは同級生の女子の中では幼く見える。メイは軽度の知的障害があるらしく、話し方も幼児のような言葉遣いだ。
 ジョカには昼休みの女子達の会話が耳障りだった。
「メイちゃんの御弁当、可愛いっ。お姉さんに作ってもらったのぉ」
「メイちゃんはベットで縫いぐるみと一緒に寝てるんだもんねぇ。これっ、アタシの妹が使っていた人形だけどメイちゃんにあげるわよ」
 怒りや憎悪の感情を知らないメイが、彼女達の前で怯えながら傷だらけの笑顔を造っているように彼には見えた。
 メイは戸惑いの眼差しを宙に泳がせ、曖昧な返事をしながら御礼を言うしかない。
「あんがとー」
 女子達は、まるで自分が崇高な善人にでもなった気分で満足している。だが、街中の人がメイの姉と目を合わないようにしている光景がジョカにとっては印象的だった。

 帰り道が同じジョカとメイは度々、顔を合わせる事があった。
 早足の彼に追いつこうとしてチョコマカと小走りで付きまとってくるメイ。メイは学校では見せた事のない穏やかな笑顔で彼の顔を覗き込んでくる。
「ジョカは優しいねー。メイはジョカが好き。ジョカはメイの事、好きなのぉ」
「別に。好きでも嫌いでもないよ」
 彼は素っ気無い返答をした。
 メイは照れくさそうに、道端の風に揺れている木の枝を見ながら微笑んだ。
 半年前に、自分の(ほど)けた靴紐を踏んでしまい転んだメイにジョカは手を貸した。靴紐を彼が結んであげたのだ。それ以来、この帰り道でメイは彼に付きまとってくる。
 学校でのメイはチヤホヤされているというよりは蔑まれているのではないかと感じていた彼は、メイのペースで会話をする事ができなかった。
 今から思えば、彼は必要以上にメイとの距離を取る意味なんかなかったのだ。
 その当時、十四歳の彼は世界の真実が一つだと信じて疑わなかった。
 彼はメイを子供扱いする連中に嫌悪感を抱いていた。
 ジョカの考えはこうだ。メイだって十四歳の女だ。生きづらいと思う事もあるだろう。きっと性的な興味だってあるに違いない。周りの人達に一人前の女として扱われないメイは一生処女のままで子供扱いされると考えた。
 彼はそんなメイを憐れんだ。
 ある雨の日。
 傘を持っていないメイは泥だらけになりながら彼の後を追いかけてきた。彼は無言でメイに傘をかざした。
「わぁー。アイアイガサ―」
 メイが彼に抱きついてきた。彼の腕に当たるふくよかな乳房はメイが成熟した女の肉体である事を証明していた。
 汗ばんだ胸元を見ても彼はメイに性的魅力を感じる事はない。だが、メイが自分に好意を抱いているのなら、一人前の女として反応する事が正しいと彼は思った。
 彼は道端に立つ木にメイを押し付け、傘を投げ捨てた。彼はメイの体をきつく抱き寄せキスをした。
 メイは目を見開きながら呻き声を上げた。
「ウッー、ウッー」
 メイの体は硬直したまま動かなくなる。自我を失い、精神に異常をきたしたかのように見えるメイは明らかなに危険な状態だった。
 呻き声を上げながら目を見開いているメイを彼は静観していた。
「ちょっとぉ。何やってんのぉ」
 近くを通りかかった中年女性が駆け付けてきてメイを抱き寄せた。
 数分後には救急車が到着し、数十名の人だかりができた。
「どうしたのぉ」「なんでも女の子が悪戯されたらしいのよ」「可愛そうに」
 異物を排除しようとする冷たい視線がジョカに降り注ぐ。
「どういう事なのかね。君達はどういう関係なんだ」
 警察や学校の教師達に事情聴取をされたが、彼は何も喋らなかった。
 中年女性の証言で彼は発達障害の少女に性的虐待をした犯罪者という扱いをされた。学校内では弱い立場の者に性的ないじめをする卑劣な人間という烙印が彼に押された。
 それ以来、学校内で彼は口を開く事はなくなった。
 興味本位で噂話をしていた同級生達はジョカの姿を見かけると静まりかえる。学校行事の連絡さえジョカには届かない。
 彼は自宅でも心が休まる事はない。
 彼の父親は一晩中、彼を怒鳴り声でなじり続けた。
「テメェは女のくせに男みてぇな格好をしてみっともないっ。挙句の果てに障害者の女を相手に色気づきやがって(けが)らわしいんだよ」
 前世紀の封建的な思想回路を持つ彼の父親は、ジョカに女性器が備わっているという身体的特徴だけで、彼を女という規格の中に閉じ込めていた。
 百数十年前に王権国家が崩壊して民主的な国として発展してきた我が共和国では、個人の自由こそが何よりも尊重される。
 ジョカの父親以外で、ジョカの事を女性と決めつける人間は一人もいない。
 私もジョカを女性と認識した事は一度もない。
 凛々しい目鼻立ちの端正な顔を持つ彼は手足が長く美しい。彼が十歳から鍛え上げた筋肉質の肉体は細マッチョと呼ばれている。ひときわ目立つ大胸筋は山のように隆起していて、女性的な乳房は存在していない。彼の下半身に女性器はあるが十四歳になっても初潮はきていない。
 ジョカ自身は一度も自分が女性だと思った事はない。

 ジョカの父親は、ジョカの母親を憎むようにジョカの事を呪った。
「テメェは所詮、あの淫売女の娘なんだよぉ。だいたいテメェが俺の娘かどうかも分かりやしねぇっ。あの淫売はテメェを産んで直ぐに若い男と一緒に失踪しちまったんだからよぉ。オマエは間違って生まれてきたんだよ」
 汚い言葉に動じる事もなく、冷ややかな視線で父親を見下すジョカ。父親はジョカに向かって酒瓶を投げつけた。
「俺の事を見るんじゃねぇよ。気持ち悪いんだよっ。テメェが淫売女だという事を教えてやるよ」
『あの女みたいな目つきして見るんじゃねぇよ』小学生の頃、父親に殴られ続けた記憶がジョカの脳裏に蘇る。
 父親はジョカに掴みかかり、力ずくで服を引きちぎった。ジョカは慌てる様子もなく無言で身をかわし、父親を床に叩きつける。
「ウッーッ。グゥォァッ」
 ドゥッォッ。ドゥッォッ。
 ジョカは起き上がろうとする父親の後頭部を酒瓶で二度、殴打した。
 床に平伏(ひれふ)した父親が血に染まってゆく。
 ジョカは父親の生死を確かめる事もなく淡々と身支度をして、そのまま街を出た。
 ジョカの脳裏には、数日前に父親とメイの姉が連れ立って歩いていた姿がよぎる。
 ジョカは父親を憎んでいた。ジョカは母親を知らすに育った。幼い頃、ジョカは自分の母親のことを隣人のオバサンに訊いてみた。自分を捨てた母親の悪口を予想していたジョカにとって、隣人の答えは意外だった。オバサンは哀しい顔をして『アンタのお父さんは乱暴で強引な人だから』と呟いた。ジョカは鏡の中の自分が見つかってしまいそうで怖くなり、それ以上は問い質さなかった。
 それ以来数十年以上、ジョカが鏡を見る事はなかった。
 自分から逃避するように故郷を飛び出したジョカ。

  ☆

 ジョカには行ってみたい憧れの地があった。
 彼が暮らす共和国の国境(くにざかい)近くに湖がある。この湖の向こう岸には少数民族のミマの民が生活している。
 ジョカが暮らしていた民主的な共和国では個人の自由を尊重し、性別、思想、国籍、民族に関係なく人権が守られている。だが、潜在的に少数民族への蔑視を持つ者も少なくない。事実、金貸しや徴税の係などの人気のない職業に就く者は少数民族のバッカイ族の人間が多い。
 質素で貧しい者が多いミマ族の大半は自給自足に近い生活をしている。そんな寂れた田舎に彼がやって来たのは子供の頃に聞いた伝説を確かめる為だ。
 その昔、地球上で地上の大半を統治していたキッシー国という王国が存在した。百数十年前の革命で自由と平等の名の下にキッシー国は滅亡した。当時の貴族や王族は庶民の手によって処刑され、封建的な価値観を一掃すべく、(いにしえ)の宗教まで抹殺された。
 近年になり一部の歴史研究家の中には『キッシー国最後の君主ダンクン法皇こそが史上稀にみる名君だった』という学説を唱える者が現れた。
 歴史上ではダンクン法皇の血脈が途絶えた事になっている。ジョカが子供の頃に聞いた都市伝説によると、ダンクン法皇の子孫はミマ族の地で身を隠すように暮らしているという噂だった。
 そんな噂を『王家の血統』と聞くだけで過敏になり、ヒステリックに否定する者もいる。しかし、幼少の頃のジョカは壮大な歴史ロマンに目を輝かせ、地上の大半を統治したというダンクン法皇への憧れを抱いていた。

 ミマの地に着いた彼は落胆した。黄金郷を想像していた訳ではないが、人影のない殺風景な荒れ地を彼は虚しく眺める事しか出来なかった。
 彼の心の中で、枯れ草が乾いた砂埃に揺れていた。彼は英雄なんていないという事実を思い知った。
 ガサッガサッ。
 突然、草むらからフードを深く被った浮浪者風の男が現れた。フードの奥で輝く瞳に、ジョカは魂を奪われて身動きができなかった。
「やぁ、驚かせてすまなかったね」
 フードをとった素顔の青年は白い歯を見せて笑った。東から吹く微風(そよかぜ)が青年の黒髪をなびかせ、涼しげな眼もとはジョカを和ませた。
「君は、」
「僕はトヨミミ。アナタは旅の人ですか」
 返答に困ったジョカは曖昧な受け答えをした。
「あぁ。まぁ。今夜、泊まれる所はないか思案していたんです」
「この村にはホテルなんてないですよ。お困りなら、うちに泊まりますか。御馳走はありませんが」
「えぇ。でも」
 警戒心が全くない青年を逆に不審に思うジョカだが、青年の爽やかな笑顔がジョカの心の壁を溶かしていく。

 トヨミミの住まいは林に囲まれた小さな佇まいだった。
「この林は百数十年前に植林したものなんですよ。この林が村を風や水害から守ってくれるんです」
「百数十年前に植林した林なんですか」
『百数十年前といえば、革命でキッシー国が滅亡した頃ではないか』
 ジョカは心の中でダンクン法皇とミマの地の(えにし)を感じていた。
 トヨミミは囲炉裏に火を(おこ)し、木の実スープを作った。スープを三つの食器に取り分けた。トヨミミは、そのスープの一つを部屋の奥にある祭壇に捧げて(こうべ)を垂れた。
 ジョカの生まれ育った街では祭壇を祀る習慣がなかった。ジョカはトヨミミに訊ねた。
「その祭壇は何を祀っているのですか」
「何をって。んー。そうだなぁ。これは感謝を示す風習です」
 笑顔で答えたトヨミミは祭壇に手を合わせる。
 バチィッ。バチィッ。
 静かな室内で囲炉裏の火種がジョカに語りかけてきた。澄んだ空気に漂うスープの香りがジョカの胃を刺激する。
 グゥッゥーッ。
「あっ、スミマセン。お腹が空いちゃいましたね。さぁ、頂きましょう」
「はっはあぁ。すいません。ありがとうございます」
 ジョカの腹の虫の音で和やかになった二人の距離は縮まった。
 トヨミミの屈託のない笑顔と裏表のない会話が、ジョカにとって心地好い時間を過ごさせた。
 ジョカは自分の言葉に耳を傾けて受け止めてくれるトヨミミに対して心を開いていく。それは静かな湖の(ほとり)で傷ついた羽を休める鳥に似ていた。
 トヨミミは共感してくれるだけの存在ではなかった。ジョカが答えを求める事に対しては明確な道筋を示す。
 ジョカは慈悲深く聡明なトヨミミに魅了されていく。
 気を許したジョカは普段から疑問に思っていた事をトヨミミに問いかけてみた。
「世界市場は自由経済の原理を推し進めるだけで人々は幸せになれるのかなぁ」
「規制は必ずしも悪ではないです。人間の英知は信じるに値するものの筈です。但し、人間の幸せは目に見える物では計れません」
「人は何故、争うのですか」
「他者に変化を求めても成果は望めません。自分自身はいつでも変えられます。赦す行為こそが最大の力なのです」
「自由と公共の利益は成り立つのですか」
 ジョカの疑問に対してトヨミミは解り易く明確に答えた。
我欲(がよく)に溺れる自分勝手な行動と自由を混同してはいけません。自由と責任は一体なのです」
「自由な世界なんて実現するんですか」
「自分と反するものを許容すればよいのです」
「失礼な言い方かもしれませんが、祈るという行為に意味はあるのでしょうか」
 ジョカのやや攻撃的な口調を包むようにトヨミミは答えた。
「祈るという事が人の生きる力になるのです。全ての事象を受け止めるのです。最後に人は祈るという存在のなるのです」
「どういう事ですか」
「難しく考える事はありません。自分自身を見詰め、いききる事に集中するのです。自分への問いかけが魂に灯を点すのです」
 トヨミミの発する音色が心地好く、ジョカは誰にも開く事のなかった扉を開きかけた。
「人と人は分かりあえるのでしょうか」
 ジョカの問いに対して、トヨミミが問いかけを返してきた。
「アナタは自分の長所と短所を言葉にする事ができますか」
「えっ」
 ジョカが普段なら聞き流しそうな問いかけに、何故だろう。トヨミミの心地好い声と共に言霊(ことだま)がジョカの細胞に沁み込んでいく。
 即答できない彼は、逆にトヨミミに尋ねた。
「貴方には私の事が、どう見えますか」
「アナタは芯が強く、優しい心を持った人にみえます。でも、この問いかけは自分自身を見つめる作業なのです。自分に問い続ける事が大切なんです」
 トヨミミは穏やかな笑顔で語った。
 ジョカは自分が優しいとは思っていない。自分が他者に厳しい壁を造り、他人を赦す事ができない事を知っていた。

 夜が更けていき、囲炉裏の灯かりに照らされるトヨミミの瞳に、ジョカの魂が吸い込まれていく。
 きめが細かく透き通るようなトヨミミの肌に魅了されたジョカは脳裏に妄想が湧き起こる。
 一糸まとわぬトヨミミの肌に手を触れるジョカ。静脈を覆い隠す毛細血管がトヨミミの白い肌を桃色に染める。トヨミミの生温かい吐息を口に含んで飲み干すジョカ。
「どうしたの」
 トヨミミの小鳥のような声で我に返ったジョカは困惑した自分を誤魔化した。
「あぁ。うん。スープを飲んだら温まって。ボーっとしちゃったよ」
「疲れているんでしょぅ。もう休みましょう」
 そう言ってトヨミミは部屋の灯かりを落とした。
 暗転した舞台で今、トヨミミと二人だけの世界に生きている気分になるジョカ。
 灯かりは囲炉裏で(くす)ぶっている火種しかない。薄暗い部屋にトヨミミの寝息だけが聞こえる。

 ジョカは自分自身を見詰める事なく、暗闇でもがき苦しんでゆくしかなかった。

 翌日、トヨミミから彼は村祭りに誘われる。
「今夜、村の広場で御祭りがあるんだけど、参加してみないですか。急ぎの旅でないのなら村の人達に紹介するから、ゆっくりしていきなよ。僕の家なら、いつまで居てくれても良いんだから」
「村祭りですか。じゃ御言葉に甘えて御邪魔します」
 ジョカには急ぐ旅なんかない。元々、この村に来てみたかっただけなのだ。ジョカにとってミマ族の村祭りに参加できるのは願ってもない事だった。

 小さな村の小さな祭りだった。一滴(ひとしずく)の出来事に過ぎない筈だった。
 何かに導かれるように人々の運命が歴史の大河に流れてゆく。

 西の大地に太陽が沈もうとしている。
 ジョカにとっては聴き慣れない祭囃子が広場から流れてくる。
 ピィーピィー、ヒィラァッヒィ、ピィー、ドンッ、ドンッ。
 ピィーヒィラァッヒィ。チィチィッチー。キッカッカァッ。
 広場の東に大きな石の舞台がある。石舞台の上で白装束の女性が、見えない糸に絡まっているように舞っている。
 トヨミミに案内されてジョカは数人の村人達を紹介された。
「じゃ僕は向こうに居ますので楽しんでください」
 そう言ってトヨミミは広場の西にある豪華な椅子に腰掛けた。
 先ほどまで自分の事を見守ってくれていたトヨミミが東の石舞台だけ見詰めている事に、寂しさをジョカは感じていた。
 村人の一人がジョカに話しかけてきた。
「トヨミミ様は旅の人に優しい御方なのです。マレビトの客人と言って旅人を歓迎する風習が、この村にはあるんです」
「有難う御座います。あの豪華な椅子は玉座のように見えますが、トヨミミさんは、この村の(おさ)なんですか」
「トヨミミ様は祭祀王になられる御方です」
 村人は振り返って東の石舞台を見ながら答えた。ジョカは不思議そうに尋ねる。
「祭祀王になるとはどういう事ですか」
 村人の話を要約するとこうなる。
 東の海の彼方には瑠璃色に煌めく伝説の島がある。その島からやって来たアマベというマレビトの血を受け継ぐ女子と、選ばれし祭祀王の血を受け継ぐ男子は、夫婦(めおと)になる事が義務付けられている。そして、夫婦の間に祭祀王の魂を受け継ぐ男子が産まれた時に、夫は磐座(いわくら)に籠もり、祭祀王として世の中の平穏を祈り続けるのだという。
「磐座に籠るってどういう事ですか」
「政治や経済状況が目に入らないように俗世間から隔離されて、神官である妻以外の人間と接触する事がなくなるのです」
 質問に嬉しそうに答えた村人の神経がジョカには理解できなかった。あれだけ聡明な人材のトヨミミが社会から遮断されてしまうとは言語道断だ。そんな風習があるからミマ族は貧困から脱却できないのだ。そう考えていたジョカの怒りの感情を逆なでするように村人が言った。
「あの石舞台で舞っている女官がアマベの血を受け継ぐ神官です。この村ではイツキメの巫女と呼ばれる祭祀王の妻です。三ヶ月後にはトヨミミ様の御子(みこ)をお産みになる方です」
 ジョカは息を飲んだ。そして、トヨミミの子供を宿しているという女官を見詰めた。
 トヨミミという優秀な人材を生贄のように隔離する事は社会に対する罪だ。そう考えたジョカの歪んだ感情が女官に向かう。あの女は女という肉の塊を利用して社会に害を与える悪だとジョカは決めつけた。

 祭りが終わり、トヨミミが女官をジョカに紹介した。
「ジョカさん。僕の妻のカグヤノヌカです。妻は三ヶ月後の出産までは磐座にある産屋(うぶや)で過ごします。ジョカさんは気兼ねなく僕の家で御過ごし下さい」
 ジョカは自分の感情を隠してカグヤノヌカに笑顔で挨拶をした。
「奥さん。安心して元気なお子さんを産んでください。微力ながら私に出来る事があればジョカさんの力になりたいと思います」
 カグヤノヌカは夢遊病者のように無言で立ち去った。トヨミミが詫びるようにジョカに説明をした。
「すみません。祭りの後は一晩中、妻は妻でなくなるんです。精霊が妻に降臨している状態で人間の言葉を発する事ができません。あの舞は神楽というよりは神がかりの儀式なのです」
 トヨミミの言葉が耳に入らないジョカは、心に宿った不信感が憎悪の感情へと変化(へんげ)してゆく。

 祭りの後の三か月間はジョカの人生で至福の時間だった。
 親愛なるトヨミミと古くからの友人のように語らい、笑いあった。晴れた日には釣りや狩りに二人で出かけ、食事を供にする。雨の日には小さな部屋でゲームや読書に興じる。
 もはや、トヨミミは切り離す事の出来ない自分自身だという錯覚をジョカに抱かせた。
 しかし、その日がやって来る。
 カグヤノヌカは無事に元気な男子を出産した。
 祭祀王の魂を受け継ぐ御子が誕生し、村人達は祝福した。ただ一人、ジョカだけはトヨミミと別れなければならない事が納得できなかった。
 ジョカはトヨミミに自分の想いを熱弁する。
「貴方には、この世界を変える力があるんです。古い風習に縛られる事が正しいのですか。貴方にしか出来ない事を成し遂げる事こそが責務じゃないんですか」
 熱い想いを語るジョカとは対照的に、トヨミミは清流のせせらぎのような口調だった。
「ジョカさん、ありがとう。アナタのような崇高な志を持つ人がいる事は心強い希望の光です。どうぞ御自分の信じる道を進んでください」
「一緒にこの村を出ましょう。貴方と私の二人で世界の矛盾を正しましょう」
 すがるように懇願するジョカを諭すようにトヨミミは振る舞った。
「私は革命家ではありません。民族や国などの他者と自分達の文化を尊重し深める事こそが大切なのです。人には、それぞれの生きていく場所と役割があります。ジョカさんも魂の声に耳を傾ければ、自分の居場所が見つかるはずです。この三か月間の楽しい日々は忘れません。有難う御座います」
 ジョカにとってトヨミミの対応は取り付く島もない感じに思えた。

 トヨミミが磐座に籠るようになり、ジョカは喪失感に覆われていた。
 トヨミミの妻カグヤノヌカは三週間に一度、磐座から村にやって来て一週間ほど林の小屋で過ごす。
 自分の居場所を見失ったジョカが、トヨミミの妻と接触して悲劇を引き寄せる事は必然だった。
「祭祀王が世俗で過ごしていた折には御世話になりました。ジョカさん、何かご不自由な事は御座いませんか」
 一ヵ月前の村祭りの晩に見たシャーマンのような女とは別人の如く、朗らかな人柄のカグヤノヌカだった。
 祭祀王の妻は御子が十歳になるまでは村と磐座を行き来する。三週間は磐座で祭祀王と妻と御子と乳母の四人で過ごす。
 イツキメの巫女と呼ばれる妻と御子と乳母は村に一週間ほど滞在し、一ヶ月分の食料などを調達して磐座に戻る。
 ジョカはカグヤノヌカに尋ねた。
「この村には何故、このような非合理的な風習があるのですか」
「伝え聞くところによりますと、その昔、大国を統治していた祭祀王が世俗の政治に携わった事への戒めとして、祭祀王は祈る人である事を徹底する為に東の島の祭祀を取り入れたそうです」
「磐座でジョカさんは、どんな暮らしをしているんですか」
「申し訳ございません。磐座での出来事は他言無用の掟があり、申し上げる事ができません」
 深々と頭を下げるカグヤノヌカに不信感を抱くジョカは、この村の風習を憎んだ。そこには他者への尊敬の念を失った、自己完結だけの都合のよい理屈があった。
 ジョカは、この村の貧困を救うという偽の大義名分を自らに信じ込ませ、暴挙にでる。その矛先はカグヤノヌカに向けられた。
 その日の晩。カグヤノヌカの妹である乳母のロジンと御子のコニキシが寝静まった頃、カグヤノヌカの寝所にジョカが現れた。
 囲炉裏の炎に照らされたジョカは仁王立ちのまま無言でカグヤノヌカを見下ろしている。
「ジョカさん、どうなさったのですか」
 ジョカはカグヤノヌカを睨みながら無言で服を脱いだ。鍛え上げられた筋肉質のジョカの肉体は固い彫刻のように隆起している。
 カグヤノヌカはジョカの股間の女性器に目を見張る。
「どうしたぁ。私は女かっ。それとも男かっ。何を驚いている。私をどんな存在だと思っていたっ」
 恫喝するようにジョカはカグヤノヌカに迫った。
「ジョカさんは祭祀王の御友人と存じております」
 明らかに動揺した口調のカグヤノヌカにジョカが言い放った。
「トヨミミは私のこの体を好んでいた。オマエはトヨミミに何を与えたというのだ。トヨミミと私は、この村を出る」
「何を言っているのですっ」
 叫びながら立ち上がろうとするカグヤノヌカをジョカは押し倒して覆いかぶさった。
「オマエは義務的に子供をつくったのかっ。トヨミミはオマエの体で満足したのかっ。オマエはどうだったぁ。私がオマエを本当の女にしてやるよ」
 ジョカはカグヤノヌカの服を剥ぎ取り、左手で口を押さえつけた。ジョカの右手の指がカグヤノヌカの女性器の奥で(うごめ)く。
 激しく身をよじりながら抵抗するカグヤノヌカを力づくで押さえながら観察するジョカ。三十分後にカグヤノヌカは人格を失ったかのようにグッタリとした。
「フゥンっ。オマエのその姿を見たらトヨミミも幻滅するだろうよ。祭祀王といえどもコニキシの為なら磐座を出てくるのかな」
 ジョカはカグヤノヌカを蔑むように見下すと立ち上がる。
 荷物を持ちコニキシの寝所へ向かおうとするジョカに叫びながらカグヤノヌカが掴みかかった。
「待ってぇっ」
「ウルサイッ」
 カグヤノヌカを振り払い蹴とばしながら、ジョカは小屋を立ち去る。
 カグヤノヌカは囲炉裏に倒れ込む。囲炉裏の炎が家屋に燃え移り火柱が上がった。
 カグヤノヌカは急いでロジンと御子を起こす。
「火事よっ。急いで。ロジンっ。コニキシを連れて逃げてぇ。誰にも知られないように村を離れるのよ」
 事態を把握できないロジンは途方にくれた表情でカグヤノヌカに尋ねる。
「巫女は。一緒に逃げましょう」
「いいからっ。早くぅ。コニキシの事を御願いっ」
 鬼気迫る勢いでロジンとコニキシを小屋の外に逃がすカグヤノヌカ。
 ロジンはコニキシを抱きかかえながら暗がりを走り続ける。息を切らし、振り返ると小屋は炎と黒煙に包まれて崩れ出した。
 炎の揺らめきの中で一つの人影が浮かび上がる。
 目を凝らすロジンが見たのは赤鬼のような形相のジョカだった。
 恐怖と不安を覚えたロジンは身を隠すように、カグヤノヌカの指示に従い村を出る。

 火事は林全体に広がり、三日三晩燃え続けた。
 焼け跡からカグヤノヌカの焼死体が見つかる。村人達は林を守る為に最期の時まで消火活動に努めたカグヤノヌカを(たた)えた。
 ジョカだけは一層、カグヤノヌカを蔑んだ。
『あの女は私に犯されながら、女の快楽を知ったという事実を恥じて焼身自殺したのだ。自分の子供の命よりも己の価値観を優先する身勝手な女だったのだ』
 ジョカの邪推は闇の奥へと深まってゆく。
 村人達は偶々(たまたま)、小屋を留守にしていたというジョカの無事を喜んだ。一方、乳母のロジンと御子のコニキシの行方が解らず、様々な憶測が飛び交った。
「大火事の熱で骨まで灰になったに違いない」「ロジンは自分の子供を亡くしたばかりだ。御子を奪って逃げたのではないか」
 村は大騒ぎだった。しかし、トヨミミは磐座を出て村に顔を出す事はなかった。
 ジョカはトヨミミに幻滅した。
 ジョカの知る街の人間達は、手のひらを反すように簡単に態度を変える。トヨミミは自分の妻子の生死を確かめもせずに非科学的な迷信の為に磐座に籠り続けている。
 街の奴らもトヨミミも所詮は同じだ。自分で考える事の出来ない奴隷に過ぎないのだ。
 ジョカはミマ族の村を去った。

 その年の秋に暴風雨がミマの地を襲い、数千の家屋が倒壊し、数百人の村人が死傷した。
 大昔から自然災害の多い土地に根付いた民族性なのだろうか。被災者の収容地で村人達は押し黙っている。感情的に泣き叫ぶ者はいない。全てを受け止めているのだろうか。
 トヨミミは磐座に籠ったまま祈り続け、即身仏のように身体を(めっ)し、祈念を開花させた。そのままトヨミミは、この土地の土塊(つちくれ)となり、村人達の(うてな)となった。それ以降、ミマの地に祭祀王は存在していない。
 ロジンは乳飲み子のコニキシを我が子として育てながら、共和国の街外れにあるゴミ捨て場で身を隠すように暮らしていた。ロジンは慣れない土地の言葉に不自由しながら職を求めたが報われる事はなかった。
 ジョカは街で住み込みの仕事に就いた。朝夕の新聞配達をしながら、世界の不条理を心に募らせていくジョカ。
 この国は自由と平等を守ると言いながら、自己の利益だけを求めている連中の集まりだという事実をジョカは思い知る。
 辺境の地に資源開発として多額の資金援助をする国の政策が、新聞に記載されている。別の紙面の片隅には、その辺境の地で横行する人身売買に抗議するデモの記事が載っている。
 結局、非人道的な事をしていても、自分の利益の為ならビジネスとして資金を提供するのが人間の本質なのだとジョカは考えた。
 そこには崇高な理念もなく、誇れる矜持も存在しない。自分の娯楽の為に他人の血が流れている事さえ気づいていないのが、この国の連中なのだ。国民を無知にする事に懸命な指導者達。そんな奴らが国を動かしているのだから、国内でも平気で理不尽な事が起きる。
 ジョカが十歳代の頃には商店街は足の踏み場がないくらいに人で溢れ、活気に満ちていた。

「なんでぇ、御代わりは要らないのかい」
「はい。今日はこれで。御馳走さまでした」
「若いもんは遠慮すんなよ」
「有難う御座います」
 ジョカは定食の代金を支払い、頭を下げた。
 学生街にある定食屋。住み込みの職人を雇うぐらいに繁盛している。
 身寄りのないジョカにも気さくに声をかけてくれ、少ない代金で腹いっぱいに食べさせてくれる店主がいた。

「夕刊でーす」
「おうっ、御苦労さん。よく働くなぁ。アンタみてぇな若いもんがいりゃ、この国も安心だぁ」
 街の中にある小さな印刷工場だ。朝から真夜中まで縦横無尽に数十台のリフトが工場内を駆け回る。工場長も従業員達も額に汗をにじませて働いていた。
 かつて、この街にはそんな風景があった。
 やがて、街は姿を消す。
 ジョカが二十歳代になった頃から急激に外国製品が街に溢れ出した。缶詰、冷凍食品、安い衣類、プレハブのような住宅。みんな外国製だ。
 外国資本の大型店が街に進出すると、商店街の個人店は次々と廃業に追いやられた。
 乾いた風にのって、誰もいない商店街のコマーシャルソングがループして流れていた。
 慢性的な不況を脱却する為に規制緩和が叫ばれた結果の門戸開放が国の政策だった。だが、民間の新規事業は実る事がなかった。
 政府の目的と手段が入れ替わった。民間企業の活性化という目的で官営投資銀行という組織を設立するのが手段の筈だった。
 破滅の始まりとも知らずに、目的を失った組織は自分の組織を守る事が目的になった。
 そもそも、この組織はリスクを一切取らずに個人を見捨てる仕組みになっている。貸し付け営業の担当者には数字だけのノルマがある。投資する時、経営者の生命保険を担保に営業成績だけを上げる。
 民間企業への融資という見せかけの数字を誇張し、大衆迎合に走る政治家と無知の市民達。
 官僚の天下り先になっていた官営投資銀行は組織を守る為にルールを変えた。利益第一主義。利益の上がる外資系企業に投資しだしたのだ。
 取り繕うように市民を騙す奴ら。
「大丈夫です。利ザヤは最終的には政府の財源になるのです。インフラ整備を外資系企業が行っても利益は市民に還元されるから安心してください」
 役人や政治家の嘘は直ぐに露見する。一気に流出する資金。財政赤字は庶民が負担する。その一方、西の大陸の豪商や大手金融機関は外資系企業の株や為替の利ザヤで利益を上げる。
 従業員と家族を守る為に町工場の社長が議会前広場で焼身自殺をした。
 新聞記事にも載らない中小企業の社長が死んだ日の朝。雲の切れ間から差し込む太陽が雨上がりのアスファルトで煌めいている。
 あの社長は政府と無知な市民達に殺されたのだとジョカは思った。その頃、ジョカは軍隊に入隊した。それはジョカなりに国に何か貢献できないだうかという決断だった。
 上官の命令に命を懸けて従うのが常識とされている軍隊では女性に対する差別的な環境があった。
「ジョカさんは生理休暇の申請をした事がありますか。アタシ、生理痛が酷いんですけど、申請しずらくて」
 同僚の女性隊員が女の顔をしてジョカに相談してきた。ジョカは、その女性隊員のふくよかな胸を見ながら呟くように答えた。
「敵の銃弾は生理痛の女を避けてはくれない。子供を産み育てる行為も立派に国の為になる。アナタは除隊した方が良い」
 共感を求めていた女性隊員はジョカの発言に返答せず、軍を退役した。
 この時期からジョカは頻繁に『国の為』という言葉を発するようになる。

 相次ぐ自殺者と大きなデモが西の大陸で起きる。
 二十五の郡政府関係者が、かつてキッシー国の都があったギシ郡で会議を開く。ジョカが三十歳を超えた頃、二十五の郡政府が一つになる。百四十年ぶりに西の大陸に巨大国家が誕生した。
 国中が御祭り騒ぎのようだった。それは同時に、世界中の企業からみれば、巨大なマーケットが西の大陸に誕生した事になる。
 この国の指導者達の失敗は輸入規制が曖昧な事だった。西の大陸の統一国には、まだ世界のグローバル企業に対抗できるほどの産業が育っていなかった。
 近代化された東の大陸の企業は商品の売り込みの下準備として、西の大陸に自分達の文化を浸透させた。
 長閑(のど)な村に鳴り響く音。
 ヴゥワァッ。ヴゥワァッ。ヴゥワァッ。ズゥワァヴァバッ。ヴゥワッ、プゥァー。ドゥォッ。ドゥォッ。ドゥォッ。
 伝統的な民族衣装を普段着にしている農村で原色に彩られたカラフルな服を着こむ息子に向かい、(いぶか)し気な視線で母親が声をかけた。
「何だい。騒々しいねぇ。アンタぁ、そんな道化師みたいな恰好してぇ。みっともないよ」
「これがファッションなんだよ、母さん。街で洋服の輸入をしている叔父さんに送ってもらったんだ」
 街では外国の楽器を生演奏する店が次々に開店している。田舎の村人達に煌びやかな世界の幻想を抱かせていた。
 音楽、服装、食習慣。東の大陸の生活スタイルが文化や製品と共に西の大陸の人々に浸透していく。それは農村の過疎化を促進させる結果になった。若者は都心の工場で人生の時間を切り売りして賃金を得た。
 都心の生活を維持する手段は借金だ。若者達は自分で稼ぐ賃金以上の借金をして、生きていく事に不要不急な買い物をする。金融機関と商社がその利益を享受する。しかし、それは国内の資産が外国に流出する仕組みになっていた。外国企業は為替で儲けた。
 不況対策として統一政府は東の大陸の企業から銀を輸入した。銀を原資とする名目で洋銀紙幣を発行する。
 東の大陸の商人が西の大陸で自由に取引をする。街の両替商では東の大陸の商人が持ち込んだ悪質な銀と大量の洋銀紙幣が交換される。東の大陸の商人は洋銀紙幣と西の大陸で産出される綿、麦、金と交換して帰国していく。
 世界市場の事など理解していない西の大陸の役人は世界の銀相場を知る筈もない。
 西の大陸から湯水のように資産が流れ出る。外国人だけではない。西の大陸に拠点を置く国内の豪商や大銀行も自社の利益だけを追求した。
 一度、世界の歯車に組み込まれたシステムは容易に脱却する事は出来ない。
 外資系企業へのデモや不買運動は自分達を助けてはくれなかった。
 強欲な資産家達は立法府の国会議員三人以上に賄賂を渡せば、自分に有利な法律を作らせる事ができる。この国の人間達は表面的に自由と平等を口にしながら自分勝手な我欲に溺れる。
 人材派遣という名目で人身売買を合法化して、自国民をも(おとし)める行為が横行した。
 ジョカが五十九歳の年に事件は起きた。外国人投資家の家族が惨殺される。複数犯とみられる犯人は捕まらないままだ。外資系企業への爆破テロが相次ぐ。
 西の大陸に投資していた東の大陸の資金が引き上げられていく。貿易赤字で不況にあえぐ西の大陸は東の大陸の資金で市場が動いていた。経済活動が止まる。
 西の大陸の大勢の人間が移民として東の大陸へ渡る。これは西の大陸の資本家が政治家と結託して、人材派遣法の名の下で移民推進を推し進めた結果だ。その実情は自国民を奴隷という商品にして、他国へ売り渡す行為だとジョカは憤っていた。
 雑多な人種の移民で成り立っている東の大陸はグローバル経済を推し進めていた。東の大陸の経済基盤は自由貿易を根底にしたものだ。しかし、急激に増えた西の大陸の移民達には対応しきれず、元々、東の大陸にいた市民の失業者が増加する。
 東の大陸で激しさを増す移民排斥運動。大衆迎合にはしる当時の政治家は民族差別を合法化した排西移民法(はいにしいみんほう)を成立させた。
 西の大陸の人間を差別する法律は明らかに人種差別が根底にあった。彼らが考えた純粋な人種は白い肌の人間だけだ。褐色、黄色、混血などの人間達を断種といって生殖機能を断つのだ。有色人種の男達は強制収容所で死ぬまで働かされ、女達は強姦され、ゴミのように惨殺される。有色人種に対する残虐行為で肌の白い人間を裁く法律はない。
 排西移民法撤回までの一年間。この一時期、世界中の何処よりも排他的な差別に満ちた国家が東の大陸に存在した。
 排他的な世相の街に憎しみで満ちた表情の人々が行き交う。
 白い光でライトアップされ、大きく『人形』と書かれた商品棚に西の大陸の少女達が立たされている。
「なんだぁ、あれは」
 西の大陸の外交官が怒鳴りつけると、怪訝そうに商店の店主が答える。
「使い捨ての商品だよ。あぁ、アンタ、西の大陸の奴かぁ」
「ふざけるなぁ」
 西の大陸の外交官は国会議事堂の議員会館に駆け込んだ。
 西の大陸の外交官が叫ぶ。
「私は、この世界。そして、東の大陸の為に申し上げたいんです。産まれや育ちでなく、愛国心を持って貴国に忠告します」
 馬鹿にした目つきで東の大陸の議員が答える。
「西の大陸の人間が我が国で愛国心を口にするのか」
「愛国心とは相手国の利害と名誉に考慮する事が即ち、自国の利害と名誉になる事なのです」
 西の大陸の外交官は毅然とした態度で言い放った。そこに迷いはなく、確信に似た高貴な品格があった。
 しかし、両国の関係は悪化し続け、西の大陸の大使館が閉鎖になる。外交官も帰国せざる得ない。

 東の大陸の力による横暴は周辺の少数民族も苦しめる。
 西の大陸の近くにある南の島に必要のないインフラ整備をして借金漬けにする東の大陸の企業。
 水道インフラの工事をして工事費と水道の使用料金を南の島の住人から搾取する。
 西の大陸の政府は静観するだけだったが、『大西域共栄圏(だいせいいききょうえいけん)』と名乗る政治団体が南の島で武力テロに出る。
 東の島の会社役員を銃殺し、支社のビルに爆弾を投げ込む。
 西の大陸では大西域共栄圏が国民の支持を得る。この事件を契機に対外強硬論が一層高まり、東の大陸への排西移民法排撃運動が盛んになる。
 しかし、そんな中、西の大陸の政府は東の大陸への譲歩案を持ち掛け、会合が開かれる。
 両国間で新たに通商条約が結ばれる。限定的な貿易協定を維持するという内容で、両国の未来の為に苦肉の策を打ち出した政府案だった。
 この通商条約が結ばれた背景には、西の大陸の外交官が唱えた基本方針によるところが大きい。
『人間の英知は信じるに値するものの筈です。公益を追求し、利他的な思考を持てばビジネスで御互いを幸福にする事ができるのです』
 だが、西の大陸の国民は政府への不信感を増す。一度、産まれた憎しみの連鎖を断ち切るのは容易ではなかった。

 民主国家として新たに建国したはずの西の大陸の政府。そこで起きた変革。
 ジョカが五十九歳になった年に、一匹の蝶の羽ばたきが世界を一変させた。
 始まりは五十人程の市民デモだった。
 自由経済の下、広がっていく貧富の差。景気が低迷していく。市民の声に応えるかたちで、西の大陸の政府は紙幣を大量発行し、市民にばらまいた。しかし、それは物価高騰を招く。パン一切れも買えない事態を引き起こす。
 極寒の風が吹きすさぶ二月三日。家族の為にパンを支給するようにと五十人程の女性達がデモ行進をした。一週間後にデモ行進は一万人になった。
 その時、街の警備を命令されたジョカは上官に反論し、軍を除隊する。
 ジョカは若い頃に住んでいた新聞の集配所を訪ねる。当時の活気はなく静かだった。あの頃、ジョカを含めて住み込みの従業員十数名がいた寮は空き家となり朽ちている。
 薄暗い作業場で二十歳代半ばの女性が新聞に折り込みチラシを入れていた。
「社長はいらっしゃいますか」
 ジョカの声に反応した女性は虚ろな目を向けて答えた。
「社長ってぇ。お爺ちゃんの事かしら。五年前に死んじゃったわ」
 バタッ。
 その時、扉の開く音と男の怒鳴り声がした。
「テメェ誰だぁ。オマエが連れ込んだのかぁ」
 奥の部屋から現れた中年男が女性を叩き、ジョカに殴りかかってきた。ジョカは身をかわし、中年男を床に叩きつける。
「テメェ、ぶっ殺してやる」
 中年男が叫びながら、拾い上げた空き瓶でジョカに殴りかかってくる。ジョカは中年男の膝を蹴る。ジョカは崩れ落ちかけた中年男を殴り、顎を砕いた。
「イヤーッ。ヤメテェ」
 女性が泣き叫ぶ。
「知り合いか」
「アタシの旦那よっ」
 脳震盪(のうしんとう)を起こして床に平伏す男へ女性が駆け寄る。
「死にはしない。救急車を呼んだ方がいい」
 ジョカが立ち去ろうとすると、女性が呼び止めた。
「待ってぇ。アタシ、殺されちゃう」
 懇願するような眼差しの女性。女性の腕や脚には無数の痣があった。
「私にどうしろというんだ」
「分からない。連れてって」
「勝手にしろ」

 ジョカと女はホテルの一室にいた。
「あんな男と何で一緒にいるんだ」
 胸元を顕わにした女が答える。
「アタシが十九歳の時に、お爺ちゃんが死んじゃって。あんな男でも頼らないと、アタシ一人じゃ生きていけないのよ」
 ジョカにしがみつく女の腋の下から熟した檸檬の匂いが湧きたつ。だが、ジョカは女を抱いてやる事さえできなかった。女は殴られる事を知っていて中年男の元に帰っていった。
 ジョカは思った。
『この女の亭主のような男や、私の父親のような奴はいくらでもいる。見知らぬ男の前に柔肌をさらす不貞の女と、夫の暴力に苦しむ憐れな女は同じ人間だ。この世に真理なんてものはない。世界を焼き尽くしてしまえば、永遠の時間を手に入れる事ができるのだろうか』
 その日の晩、ジョカは夢を観た。
 道端に立つ木の下でメイが泣きながら佇んでいる。通学路に降る小雨が絹のカーテンのように幕を下ろす。
 翌日、目覚めたジョカは四十五年ぶりに生まれ故郷の街を訪れた。
 その日は朝から小雨の降る肌寒い日だった。故郷へと続く街路樹の葉は既に色あせている。
 十四歳の頃、雨の中を歩くメイの姉をジョカは見ていた。この街は、どんよりとした曇り空だった。煌びやかな乾いた街をメイの姉が歩くと必ず、通り雨が降る。雨が通り過ぎて太陽の光が射すと、何事も無かったかのように笑顔の人々が行き交う。
 太陽の下を笑顔で歩く奴らがジョカは嫌いだった。
 街は想像以上に寂れていた。賑わっていた商店街は軒並み潰れている。
 もはや、ジョカを知る者は誰もいない。
 ジョカは自分の生家があった場所に立ち寄る。朽ち果てた家屋に住人はいない。庭先の墓標にジョカの父親の名前が刻まれている。三十年前に父親が死んだ事をジョカは知った。
 誰にも気づかれずに佇む父親の墓と自分の存在が重なるジョカ。ジョカは過去を断ち切るように何度も墓石を蹴飛ばした。歳を重ねるごとに、父親に似てくる自分をジョカは認めたくなかった。
 その足でジョカはメイの消息を尋ねた。
 メイは産まれつき知的障害があり、他人とのコミュニケーションや学校教育の学習に不自由していた。メイは小学生の時に両親を事故で亡くした。五歳年上の姉が中学を卒業して直ぐに働きだし、メイの面倒をみていた。
 キャリアも学歴もない十歳代の少女が生きていくには風俗まがいの仕事しかなかった。
 四十五年前、厚化粧に香水の匂いを漂わせたメイの姉の姿がジョカの脳裏に蘇る。

  ☆

 四十八年前。繁華街の裏通りにある雑居ビル。二階の部屋にメイの姉と、社長と呼ばれている老人がいた。
「お姉さんは何歳だい」
「十六です」
「十六ぅ。フゥッ。近頃は風俗営業の取り締まりも厳しくてね。うちじゃ雇えないよ」
 子供扱いする社長に対してメイの姉は、身を挺する覚悟の眼差しで懇願する。
「御願いします。どんな事でもやります。役に立たないなら下働きでも構いません。お金が必要なんです」
「小遣い稼ぎじゃ食べられないだろう。お姉さんは特技とかないのかい」
「えぇ。得意というかぁ。アタシぃ、占いが好きでぇ。幾つかの占いなら出来ますけど」
 不安そうに答えるメイの姉に、社長が提案した。
「占いねぇ。いいだろう。お姉さんに部屋を一つ提供しよう。売り上げの折半でどうだ。なぁにぃ、評判の占い師になって稼ぐコツは教えてやるよ」
 社長の言うとおり一週間後には、評判の占い少女の部屋へ醜い男が列をなして並んだ。メイの姉は、女という肉体を我欲に満ちた男達に提供し続けた。
 メイが中学生になった頃に姉の商売は街中の人が周知していた。だが、本当の事を口にするのは街のタブーだった。中年男が足繁く通う珍しい占いの部屋という体裁を崩す人間はいない。

  ☆

 四十五年前、厚化粧に香水の匂いを漂わせたメイの姉の姿がジョカの脳裏に蘇る。
 メイは養護施設という名称のあばら屋に入居していた。
 メイは二十歳の時、外資系薬品会社に治験と言われた人体実験で全身麻痺状態になっていた。メイは目の動きと呻き声だけで意思表示をするのがやっとの状態だ。
 薬を投与した外資系薬品会社も西の大陸の政府もメイに対する生活費の援助はない。老婆のような容姿になってしまった六十歳代半ばの姉が、物乞いをしながらメイの生活費を工面していた。
 年老いたメイの姉から、あの頃の匂いはしない。
 デモ行進に見向きもせず、ゴミ箱を漁り残飯を口にする老婆。その横を通り過ぎるかつての醜い男達は孫のいる家へと帰っていく。
 メイの姉にとって政治や経済の事などどうでもいい。老婆はイデオロギーなんて言葉も知らない。老婆は過去も未来もない世界で生きていた。
 女という肉塊を失ったメイの姉を醜い男達が蝕む事はなくなった。生きる事に集中して必死になる老婆の姿は美しい。
「メイの同級生なんですか。よく御越しくださいました。この子に会いに来てくれる人なんていないんです。今日は機嫌が良いんですよ。メイは雨の音が好きでね。ゆっくりしていってください」
 異様な朱色の唇から発せられる声はかすれている。(しわ)と染みだらけの肌に似合わない赤い口紅だけがメイの姉だと気付かせてくれる。数十年前のドレスを身に纏ったメイの姉の(かげ)に、通り過ぎていった幾人もの男の体臭が染みついている。
 メイの姉は訪問者がジョカだとは気づかずに部屋を出ていく。ジョカがメイの顔を覗き込むと、メイは目を細めて微笑んだ。
 疑いもなく自分の命を姉に委ねているメイの為、何かをしてあげたいとジョカは思った。
 この時、ジョカは決意した。
『大衆が理性的に公共の利益を優先できないのなら、一人の超人的な偉人が民衆を導く以外に道はないではないか』

  ☆

 西の大陸の政府は、東の大陸にある企業から大量の金と銀と食糧を輸入した。政府の多額の借金は、そのまま、西の大陸の市民に押し付けられる。市民は東の大陸の企業の為だけに働き続けた。
 五月三日。海外の企業に対する抗議デモが膨れ上がっていく。数万人の群衆が暴徒となり、警官隊が催涙ガスを使用。事態は悪化した。政府は街を封鎖する。
 五月十一日。劇場を占拠していた群衆と警官隊が衝突。死傷者が多数出た。政府は軍を出動させ、街に非常事態宣言が発令された。
 五月十三日。西の大陸でストライキ運動がおこる。民間、公務員、大規模なストライキは、経済を停止させた。エネルギーの供給も止まり、市民の不満の矛先は交錯した。
 五月二十二日。政府の内閣が解散する。
 五月二十三日。警官隊もストライキに突入。無政府状態のようになり、治安が悪化していく。
 五月二十四日。国民議会を開催する事が決定。翌日から徐々に、ストライキが解除され、経済活動が再開する。
 六月二十三日。国民議会開催。
 七月十一日。デモで捕まった政治犯達が釈放される。
 元軍人のジョカはデモに参加した罪で逮捕されていた。出所すると政治結社を結成する。結社の名前は『征東総督翼賛会(せいとうそうとくよくさんかい)』。自らを征東総督と名乗り、国民議会の議員を取り込んでいく。

 刑務所内で大西域共栄圏(だいせいいききょうえいけん)』と名乗る政治団体の若者とジョカは知り合った。この団体は国の内外で過激なテロ活動を繰り返している組織だ。
 その若者が熱弁する。
「テロリストと言われる事が何だというのだ。どいつもこいつも皆、同じだ。同じ死ぬにしても安全な清流ばかりを飲んで綺麗事を口にしながら、世間に褒め称えられて死にたいのだ。誠に国民の為を思うのなら、己が悪名を買って泥水をすする覚悟を持って突き進むべきではないのかっ」
 ジョカは一つ一つの細胞が蘇ってくるのを感じていた。『自由と平等という名の張りぼて絶対君主を焼き尽くすのだ』そうジョカは誓った。
 ジョカは若者を取り込んでいく。
「テロ行為だけでは所詮、犯罪者扱いされてしまう。国の為を思うなら効果的に死んでくれ」
「どうすればいいのですか」
 命を失くしたがる若者達は指示される事を望む。ジョカは天命を下すようにシナリオを描く。
「民衆は強いリーダーを望んでいる。先ずは国のかたちを作るのだ」
「強いリーダーがいる国と言うと、大昔にあったキッシー国みたいな国ですか」
 若者の問いを強い口調で否定するジョカ。
「世界の大半を治めていたキッシー国などというのは幻想にすぎない。偉大な絶対君主が国民を導くような国にしなくてはならない。虚無な理想だけの大衆迎合に走らない国のかたちが必要なのだ」
 若者はジョカに疑問を投げかける。
「そもそも国とは何なのですか」
「自国民を守るのが国だ。私は新しい国をつくる」
 ジョカは計画を練った。国としての明確な指針は自国民を守る事にした。ジョカの掲げる憲法草案の第一条には『全国民は国の為に戦う兵士である』と記されている。
 ジョカの信奉者達は命を懸ける事で、実体の無い国を強く意識する。若者達の意識の中にある国を利用して具現化しようとする国民議会の議員達にジョカが近づく。
「一緒に立ち上がりましょう。新しい国をつくり、国民を救うのです。今こそ新政府樹立を宣言するべきです。私達、征東総督翼賛会は貴方たち革新派議員を指示します」
 八月二十六日。国民議会の議員を中心に新政府樹立の宣言がされる。新政府は海外企業の資産を凍結すると宣告。
 八月二十六日同日。旧政府の首脳陣は、自由、平等、財産権、生存権を約束すると宣言。

 白いジャケットの中年男性は満面の笑みで旧政府大統領の旗を振っている。民衆の声援に迎えられ、黒塗りの車が官邸前に着く。
 中年男性が『征東総督翼賛会バンザイ』と叫びながら黒塗りの車に火炎瓶のような爆弾を投げつける。
 ヴゥワッアーッ、グゥワーッ、ヴァリィヴァリィヴァリィヴァリィッッ。キィャァーッ。ウゥアーッ。
 車上で爆音が轟き、火花が走る。炎が舞い、破片が飛び散る。街が騒然とした。
 中年男性は右手に握りしめた短刀を左の首筋に押しあてて強く引いた。血しぶきが飛び官邸の白い壁に鮮やかな朱色の紋様を彩った。
 ピィーポォー、ピィーポォー。ウゥーッ。
 救急車や消防車のサイレンの音が響く。
 旧政府の大統領に怪我はなかったが護衛の人間と旧政府支持者の民衆数十名の死傷者がでた。
 死亡した犯人は新政府支持者達から称賛され、国葬扱いの葬儀が行われた。

 かつて、東の大陸で外交官をしていた男性が街頭で訴える。
「我が国を愛するが故に苦言を申し上げたい。今こそ、東の大陸に手を差しのべるべきです。愛国心とは相手国の利害と名誉に考慮する事が即ち、自国の利害と名誉になる事なのです」
 演説をする男性に黒い影が突進していく。
「天誅―ッ」
 叫び声と共に男性が倒れる。『キャーッ』騒然とする街。
 元外交官刺殺事件は小さく報道されるだけだった。
 征東総督翼賛会や新政府支持者などから刺殺事件の犯人に対する減刑を要請する訴えがでる。
 排西移民法排撃運動から始まった対外強硬論。そして、西の大陸で国家意識が高まる。
 見えない何ものかに導かれた民衆は熱狂する。それは熱病のように蔓延していく。
 御互いの政府は、御互いの要人や支持者を自由と平等の名の下に処刑していく。
 遂に新政府と旧政府が武力衝突した。
 事実上の内戦状態となった。
 旧政府は東の大陸の軍事顧問を招く。最新兵器で軍を編成した。
 新政府は国民軍を組織した。
 自由を守る為の市民による軍隊。国民軍の旗が掲げられた。赤字に黒い十字の旗が西の大地の風にはためく。
 ジョカ征東総督演説に民衆が酔いしれる。
「働く国民が幸せになれないのが間違っているんです。私は我が国の国民を絶対に飢えさせません」
 ジョカ征東総督の信奉者にとって彼は自分達を悪政から救う超人に感じた。
 民衆は彼の力強い言葉に陶酔する。
 自由の為に全ての市民が兵士になる。
 帰属する兵士たちは自分の信じる正義の為に殺しあう。

 東の大陸の武器は悪魔の散弾銃だ。
 旧政府軍の奴らは新政府を支持する市民の足を砕く。わざと殺さない。汚染された弾丸は体内で炸裂し足を粉々にする。体内に取り込まれた細菌は増殖して感染症が街中に蔓延する。負傷者や病人を支える家族が飢え死にしてゆく。
 憎しみをも殺戮していく地獄の果てには絶望しかない。ただ、すがるしかない。新政府を支持する民衆は祈るしか出来なかった。
 ジョカは根拠のない迷信にすがる民衆達に神を与えた。民衆達の意識の中で、神の名の下に死ぬ事が意味を持った。すると、国という曖昧なものに実態が生まれた。

 国民軍が壊滅の危機の時、ヒルメと呼ばれる老婆が神に祈り、神託を得る。
「シンノオオ神様は仰せだ。七人の英雄が我々を救う」
 預言者の言葉通りに英雄と称えられる軍人達がゲリラ戦を指揮した。
 国民軍はゲリラ作戦を駆使して、局地戦で勝利していく。それは玉砕という名の自爆攻撃。聖戦と信じ込む兵士は自らの正義の為に死ぬ。英雄達は神格化されていく。英雄は死ぬ事で崇められた。
 半年後、旧政府軍は壊滅した。東の大陸の資本は、西の大陸から駆逐された。
 西の大陸で生き残った一人の英雄ジョカが市民の圧倒的支持を得る。民衆は完全な指導者の正しい指導により豊かで幸せらなれると思い込んだ。
 新政府軍が勝利した時に、臨時国会が開催された。ジョカの提出した法案が可決される。それは国のかたちが変わった瞬間だった。
 今思えば、あの法案が一夜にして西の大陸の国体を変えたのだろう。
 ジョカが提出した法案はこうだ。
『十億人の全国民に毎月十万ゲンの金銭を支給する。
 支給金は現在、流通している銀行券ではなく、新政府発行券とする。
 新政府発行券の通貨単位はゲンとする。
 現在流通している銀行券と新政府発行券は交換を禁止する』
 新政府発行券は大量に発行され、二千兆ゲンの新紙幣が国中に流通する。その途端に今まで流通していた旧紙幣の銀行券は価値を失い紙屑になった。旧紙幣ではパンの一切れも買えない。
 強いリーダーを求めてジョカを支援していた資産家や国民議会の議員達は裏切られた。全ての金融資産を失ったのだ。
 その反面、ジョカは多くの貧困層達から絶大な支持を得る。全国民が平等の金融資産を手に入れたのだ。ジョカを皇帝にしようとする国民の声が高まる。皇帝と臣民が一体になる国のかたちを望んだのだろうか。

 やがてジョカは皇帝となり、絶対君主国としてシンカ帝国が西の大陸に誕生する。
 
 シンカ帝紀暦元年。
 ジョカ皇帝が即位。
 戴冠式でジョカは市民に宣言した。
「私がシンカ帝国の皇位に就き、臣民を導く事は天命である。シンノオオ神の下、シンカ帝国の臣民は誰一人として飢える事なく、平等の権利が約束される。それを阻むものとは戦わなくてはならない。シンノオオ神に殉じてシンカ帝国の為に戦うものは、現世に於いても魂の世界に於いても永遠に救われるだろう」
 ジョカ皇帝が住む宮殿の広場に赤地に黒い十字のシンカ帝国の国旗がはためく。手を合わせて国旗に祈りを捧げる臣民達。

 民主国家と言われていた、かつての共和国は大衆迎合に走り、何も決められず将来への展望も無かった。
 ジョカは新しい国の国名をシンカ帝国と定め、国旗を掲げ、国歌を作った。
 徴兵制が制定される。国民軍の設立は国民意識を高める。
 人々はプパガンダに酔いしれ、イデオロギーを信じる。街には国威発揚や思想を誘導するポスターが溢れ、帝国の臣民だという意識や高揚感に人々は満ちていた。
同調圧力とは思わずに自分から世界に飲み込まれてゆく臣民達。安全な家を捜して意識の同期化を自ら促進する。誰もがシンカ帝国の臣民であるという幻想の中にいた。いや、臣民という名の人々は自らがすすんでナショナリズムの啓蒙活動家となった。
 制御不能となった組織の中では目的の為なら、どんな手段も正当化されてしまう。
 事件は起きた。遠洋漁業をしていた南の島の漁師がシンカ帝国の海軍に拿捕(だほ)された。漁師の数人が死亡する。
 かつて、東の大陸の暴力と戦った国民軍の暴力が南の島に(やいば)を向けた。
 シンカ帝国は自国が受けた屈辱を周辺諸国に味合わせる。周辺諸国に無用のインフラ整備や製品を押し売りする。多額の借金を背負わせ植民地としていく。
 ジョカ皇帝にとって、自国民以外は人ではなくなった。
「他の民族とは違う。神に選ばれし人種として、我々は君臨し続けなくてはならないのだ」
 ジョカ皇帝のメッセージを受け入れた臣民には、先の内戦の記憶が色濃く残っている。
 かつて、共和国の旧政府高官は外国資本と手を組み、自分個人の利益の為に自国民を貶めた。旧政府軍の指揮官は『大木を育てるには雑草を根絶やしにしなければならない』と発言し、内戦の恐ろしさを現わしていた。
 生き残った人々には地獄のような凄惨な内戦のトラウマがある。しかし、ジョカ皇帝の下、シンカ帝国が建国されてからは臣民の幸福という明確な目標が具現化された。少なくともシンカ帝国の臣民で飢えている人間は一人もいない。
 シンカ帝国の臣民は、世界の不都合な事実に目をつぶる。そして、ジョカ皇帝は帝国の臣民に富を与え続ける。金、銀、食糧を得る為には手段を択ばない政策が推し進められる。
 
 宮殿内の奥深くにある部屋で、かつて神の神託を得たヒルメと呼ばれる老婆にジョカ皇帝が訊ねた。
「お姉さん、メイの具合は如何ですか」
「ありがとう、ジョカさん。メイはみるみるうちに元気になっています。片言なら喋れるようになたんですよ」
「再生医療という技術を導入したんです。今は若返りの研究もしています。そのうちに不老不死になる事も夢じゃないですよ。あなた達姉妹は幸せになるべき人なんです」
 ジョカ皇帝は自信に満ちた表情で答えた。
 その日の晩、シンカ帝国の国境近くの自治を任されているエンタツ太守がジョカ皇帝に面会した。
「陛下、実は小さな島国の者どもが、我が国の再生医療技術とレアメタルを所望しており、貿易を願い出ています」
 平伏して報告をするエンタツ太守に、無表情のジョカ皇帝が答えた。
「我が国に優位な貿易なら構わん。但し、再生医療技術の全てを渡してはならん。クローン人間の技術も一部だけ見せてやれ。エンタツ。そちは元々、旧政府の官僚だった人間だ。シンカ帝国に忠誠を誓った以上、決して私腹を肥やしてはならないぞ。そちの使命はシンカ帝国臣民の富を増やす事に努めよ。忘れるな」
「はっ。承知しております。ただ、レアメタルは放射能があり、採掘に危険が伴います。そこでミマ族を作業員にしたいと考えております」
「ミマ族っ」
 ジョカ皇帝がエンタツ太守を睨む。エンタツ太守は(こうべ)を垂れて報告する。
「はい。ミマ族は我が国が信仰するシンノオオ神への誓いを拒み、シンカ帝国とジョカ皇帝への忠誠を示さなかった者どもです」
「うむ。そうか。精神を支配するには、肉体を支配すればいい。主体性のない奴らは奴隷に成り下がる。その件は、そちに任せる」
 ジョカ皇帝は吐き捨てるように言い放つと席を立った。
 ジョカ皇帝はミマ族という懐かしい名前の響きを耳にした。しかし、彼にとってミマ族は既に闇の奥に葬った過去のものにすぎない。トヨミミの言の葉は彼に届いていない。
 クローン技術を応用して人体を再生すれば、メイも青空の下を走る事ができる筈だとジョカ皇帝は確信している。
 ジョカ皇帝の肝いりでクローン研究が加速する。しかし、この研究には数多くの命が生贄になっていた。
 クローン研究は全部が成功するわけではない。何体もの肉体が培養される。到底、人間の形と程遠い奇形が八割はある。研究室にはホルマリン漬けの肉の塊が幾つもある。

 エンタツ太守はバッカイ族にミマ族の人身を売り買いする特権を与えた。人買いとなったバッカイ族は服装も態度も変わった。ミマ族を見下し、シンカ帝国の手先のように振る舞い、金もうけだけが生きる目的となる。
「オイっ。水道代が支払えないなら身売りするしかないだろう。世間じゃ、俺達バッカイ族を奴隷商人だの人買いだのって言っているが奴隷っていったって衣食住は充分あるし、少なくとも今の暮らしよりはましだろう。言ってみりゃ、こっちは人助けしているみたいなもんだぜ」
 バッカイ族の商人が運転するトラックの荷台には、すし詰め状態のミマ族の村人。今やバッカイ族にとってミマ族の人間は商品でしかない。
 ミマ族の人間は奴隷として、危険なレアメタルの採掘作業や再生医療技術の道具として扱われる。やがて、人体実験によりミマ族のクローン人間が誕生し、奴隷としての商品化が加速する。
 坂の下の裏通りは奴隷の村だった。傷つき、捨てられ、飢え死にしていった子供や老人の遺体が転がっている。ウジ虫やハエがたかる屍から疫病が蔓延し村が死んで逝く。割れた窓ガラス。荒廃した村。
 見上げると、星の無い夜空に帝国の街灯かりが霞んでいる。悪臭と汚物にまみれ這いつくばるミマ族の村人達。

 宮殿の窓から帝都で煌めく夜景をジョカ皇帝は眺めている。その日の晩、街の灯かりが、次々と闇に飲み込まれるように消えていった。そして、宮殿内の照明も消えた。
「どうしたのだぁ。何があったっ」
 ジョカ皇帝が怒鳴る。五分後に軍の指揮官がジョカ皇帝のもとへ報告に現れる。
「陛下っ。エネルギー供給施設の復旧に向かった職員が襲われました。ミマ族の奴隷ども三千人が反乱を起こし、エネルギー施設、武器庫が襲撃されました。報告によりますと警察署が占拠されたそうです」
「何ぃっ。ミマ族だと。バカなっ。直ぐに戒厳令を発動しろっ」
 通りに現れた数千人のミマ族が粗末なボロ布を身にまとい、原始的な武器を握りしめている。ある者は脚を引きずり、ある者は片目をえぐられている。血みどろの手に角材や鉄パイプを握りしめた死の行軍が続く。その眼光に迷いはなく、岩のような魂が熔岩となって迫ってくる。虐げられた者たちが救世主に導かれるように起こした反乱だった。
 朝には、シンカ帝国国民軍十二万人が街を包囲する。反乱者、男、女、子供、老人に関係なく、ミマ族を殺戮していく。二千人のミマ族を道路沿いに(はりつけ)にして殺した。おぞましい道が四キロメートルにも及んだ。街を流れるブラックドラゴン川は一万人のミマ族の血で赤黒く染まった。
 国民軍はミマ族の村を襲う。村の隅々まで、悲鳴と呻き声と銃声が地響きのように鳴り止まなかった。ミマ族の八割の人間が殺される。
 奴隷という商品にしかみていなかったミマ族の反乱は、優生学を信奉するシンカ帝国国民軍にとって許しがたいものだった。
 ジョカ皇帝は指揮官に指示する。
「ミマ族を皆殺しにしてはならん。働き手がいなくなる」
「陛下。しかし、まだ反乱の首謀者が見つかっておりません」
「首謀者だと。そいつがミマ族を煽ったのか」
「はい。これが首謀者と思しき人物です」
 指揮官が反乱軍首謀者の似顔絵をジョカ皇帝に差し出す。その似顔絵は、数十年前に若き日のジョカが出逢ったミマ族の祭祀王トヨミミそのものだった。
「バカなっ。こんな男が存在するわけがないわっ」
 ジョカ皇帝は似顔絵を握りつぶす。
「はっ。しかしぃ。証言によりますとぉ」
 しどろもどろになる指揮官にジョカ皇帝が命令を下す。
「こんな男はミマ族の者どもが作りだした幻想だ。存在しない。今すぐに治安に努めよ。帝国を平時に戻すように尽力するのだ」
 その後、各地でデモや反乱が起きたが、シンカ帝国の圧倒的な力で鎮圧される。
 ジョカ皇帝が天から受けた神勅として急遽、全ての集会を禁止する通達が発表される。デモとは関係のないコンサートや結婚式、葬儀までも禁止になるという異常事態になった。公道に三人が集まれば逮捕される事態が続く。
 疑いの心が暗闇の鬼を呼び寄せる。シンカ帝国内では、自分と違う人間は拘束された。

  ☆

 ジョカ皇帝は既に六十四歳になっていたが肌艶は良く、(しわ)もない。それは再生技術の効力で三十歳代の肉体に蘇った姿だった。
 宮殿の執務室でジョカ皇帝はエンタツ太守から報告を受けていた。
「近頃、外国に逃亡するミマ族が増加しております。どうやら手引きしている者がいるようです」
「出入国の対策を怠るな。ミマ族は今や帝国の資源なのだからな」
 眉をしかめながらジョカ皇帝が指示する。エンタツ太守はジョカ皇帝に進言する。
「実は証拠はないのですが、小さな島国の商人がミマ族の亡命に手を貸しているのではないかと思うのです」
「何ぃ。商人がだと。よかろう。私が直接、尋問する。通商条約の見直しをすると言って呼び出すのだ」
「はっ。かしこまりました」

 翌日。ジョカ皇帝の前に現れた島国の商人は山口豊章と名乗る五十歳代くらいの男だった。
 ジョカ皇帝は言葉を失い山口豊章を見詰めた。スラリとした長身で白い肌に涼しげな眼もとの紳士は、数十年前のトヨミミに生き写しだった。
「まさかっ」
「お初にお目にかかります。光栄に存じます」
 呆然とするジョカ皇帝に平伏する山口豊章。ジョカ皇帝は気を取り直して問い質す。
「近頃、脱国者が続出しておる。噂によると私腹を増やす無許可の移民ブローカーがいるそうだが、そなたに心当たりはないか」
我欲(がよく)に溺れる自分勝手な行動は慎むべきだと肝に銘じております。わたくしは貴国との健全な貿易を望んでおります」
 毅然とした態度で返答する山口豊章には聡明な人格が備わっている。それはジョカ皇帝にとってトヨミミの亡霊をみるおもいだった。
「相分かった。ところで山口殿。そなたの産まれは西の大陸ではないのか」
 一瞬の沈黙から笑顔になった山口豊章が答える。
「わたくしめは東の島の人間で御座います」
「東の島っ。そうか。相分かった」
 あの一瞬の沈黙が答えを躊躇(ためら)った嘘なのかは、ジョカ皇帝に判断はできない。ただ、六十四年間の人生でジョカが心を動かした人物はトヨミミと山口豊章の二人だけだった。
 山口豊章が宮殿を去った後、ジョカ皇帝はエンタツ太守に指示する。
「あの者から目を離すな。密偵を付けて動向を注視しろ」
 数日後、宮殿の執務室へエンタツ太守が報告にやって来る。
「陛下、申し訳ございません。あの山口豊章なる商人の行方を見失いました。検問所にも出入国の記録はございません。東の島出身というのも偽りかも知れません。反乱分子の疑いがある為、全国に指名手配いたします」
「その必要はない」
 ジョカ皇帝はエンタツ太守の提案を一喝し、執務室を退出する。
 ジョカ皇帝は思った。
『トヨミミはミマの地の磐座で朽ち果てて死んだと伝え聞く。山口豊章と名乗る、あの男は恐らくコニキシに違いない。まさか生きていたとは思わなかった。しかも、トヨミミにも勝る風格を持って成長していた。そして、聖人君主を気取っていたトヨミミにはない、野心を秘めた力強い眼をコニキシはしている。コニキシが何を考えていたとしても私は正面から相対してやろう』
 その日の晩、酷い寝汗をかいて目覚めたジョカ皇帝の枕元で、トヨミミとカグヤノヌカの御霊(みたま)が揺らめきながら消えて逝く。
 それ以降、山口豊章という名をジョカ皇帝は耳にした事はない。

  ☆

 ジョカがシンカ帝国の皇帝に即位して二十六年の歳月が経った。
 ミマ族のクローンとして命を得た子供は一生、奴隷として生きるしかない。
 自分とそっくりの同じ遺伝子を持つ子供を母親があやしている。
「ねぇママぁ。ママはどうして夕ご飯を食べないのぉ」
「ママはね、夜中にお星さまを摘まみ食いしてるのよ。だから、ママの分も全部食べていいのよ」
「お星さまぁ、エヘッ。変なのぉ」
 親子は御互いの顔を見て微笑む。死刑台に並ぶ囚人達もユーモアを口にして笑う事があるのだ。

 シンカ帝国の富はクローン人間などの奴隷という労働力が源泉になっている。クローン技術は医療業界にも革命を起こした。
 シンカ帝国では数十年以上前から研究を続けている再生医療の技術が頂点に達する。遂に不老不死を手に入れたかのように若々しい臣民達が暮らしていた。

 シンカ帝紀暦二十六年。シンカ帝国の首都。
 シンカ帝国の臣民は自分の全ての臓器を培養して、機械の部品を変えるようにメンテナンスする事で永遠に生き続けようとした。
 老人や病人の居ない世界が実現していた。
 昼夜を問わず街中(まちなか)を我がもの顔で闊歩する男と女。以前より気力の蘇る、元老人のシンカ帝国臣民たち。派手な化粧と奇抜なファッションは若い血潮の特権だ。彼らの実年齢は誰も知らない。考えもしなかった色に髪の毛を染め、終わる事のないパーティーで騒いだ。スカイダイビング、トライアスロン、仮面舞踏会。

 ジョカ皇帝がメイの姉に尋ねた。
「お姉さん、実証実験にも成功し、私自身の体で安全も確かめました。クローン技術で身体の臓器を交換すれば、美しい肉体を蘇らせ、人生を取り戻す事ができるんですよ。お姉さんとメイも一気に二十歳の体に戻りましょう」
 メイの姉はジョカ皇帝の提案を拒んだ。
「もう一度、人生をやり直すなんて勘弁してください。アタシとメイは今のままで充分です。アタシもメイも生まれてきただけで幸せでしたよ」
 メイの姉は静かに首を振った。その光景を見ていると、全ての事象を受け入れて死んで逝ったトヨミミとメイの姉の姿がジョカ皇帝の脳裏で重なった。
「お姉さんとメイが辛い思いをしてきたのを私は知っています」
 ジョカ皇帝の言葉を噛みしめるようにメイの姉は黙って妹の手を握った。
 メイの姉は手が不自由な妹の食事を介助する。
「お姉さん、メイの介助なら介助師にやらせますよ」
 ジョカ皇帝がメイの姉を気遣う。
「大丈夫です。やりたいんです。メイも喜んでくれるし。楽しいのよ」
 姉妹は一緒に過ごし、御互いを思いやる事で生きていられた。
 世界の真実は一つではないのではないかと、ジョカは八十四歳になって初めて考えた。
『人は知らない世界を否定する。それは私自身も同じだった』
 ジョカは静かに深く呼吸をする。息をする事に集中し、生きる事とは何かを考える。
 
 シンカ帝紀暦三十六年。
 蘇った肉体の鼓動は暴走した。十年近く、シンカ帝国の臣民は狂喜乱舞し、消費活動も活性化した。
 やがて、物欲も無くなる。シンカ帝国の総生産、総消費は十年前の一割にも満たなくなる。
 最後に残るのは絶望。生きながら死んで逝く臣民。
 永遠という現実の時間が誕生した時、シンカ帝国の臣民から未来という希望が消えた。

 工場では遺伝子操作で作られる野菜や人工肉が次々と生産される。街に溢れる食糧。
 爆発的な人口増加が心配された。しかし、エデンの園の住人達は子供をつくらなかった。
 自ら性行為をしなくなったシンカ帝国臣民の生殖機能は退化し始めているという学者も現れる。
『不老不死の環境を手に入れた人間は僅か数年で遺伝子に影響が起き、卵子と精子が受精自体しなくなったのでは』そんな研究報告が発表される。 
 ニュースで、解説者が知ったように語る。
「元々、原始的な単細胞生物は分裂、増殖を繰り返していたでしょう。そのうち、生物は種の存続の為に有性生殖を選択したんですよ。子孫を残し進化する種の為に次世代の子孫の為、古い世代は死んでいく事を選んだんです。そういう遺伝子の生命プログラムが出来たんです。テクノロジーの発達が人類の環境を急激に変えたんですよ。ただ、こんなに早くに人間の遺伝子に影響があるとはねぇ」

 永遠の命を得る事は容易ではなかった。その場しのぎで傷ついた肉体のパーツを変えても、直ぐに細胞の寿命が尽きるのだ。
 クローン技術で自分の細胞を培養しても、寿命を延ばす事は出来ない。やがて、細胞の一つ一つが死んでゆく。
 科学技術庁長官がジョカ皇帝に提案をする。
「エウロパという国では遺伝子工学を取り入れて、永遠に生き続ける細胞を開発したそうです。細胞そのものを若返らせる事にも成功したようです。エウロパとの技術提携を提案いたします」
「エウロパは東の大陸と同盟関係にある。近づいてはならん。我が国独自で開発するのだ。研究費は惜しまん」
 ジョカ皇帝は他国との協力関係を断ち、自国開発にこだわった。

 その日は小雨の降る静かな晩だった。
 九十九歳のメイの姉と九十四歳のメイは同時に息を引き取った。ジョカは二人の遺体を一晩中眺めていた。姉妹は寄り添うように微笑んでいた。
 結局、ジョカは、自分が姉妹の為に生きていた事を知る。
 ジョカは家族が欲しかっただけなのかも知れない。姉妹と過ごした日々があるだけで、ジョカは生きていく事ができた。
 ジョカは生まれて初めて手を合わせ、亡くなった姉妹の為に祈った。
 姉妹の遺品の手鏡を覗き込むジョカ。鏡の中には父親そっくりのジョカの姿が映る。
 ジョカの父親は、自分の子供の事を理解しようとしなかった。それはジョカも同じだ。異質の他者は自分自身でもあった。
「血は争えないな。やっぱり、私はアイツの子供だ」
 そう呟くと、憎しみの対象だった父親の冥福を願ってジョカは祈る。ジョカの(まぶた)に父親の姿が浮かぶ。仕事から帰ってきた父親は幼いジョカに夕食のオカズを渡すと、自分はそのまま眠ってしまう。
 ジョカは生きていく意味を知った。
 ジョカは私の声に耳を傾け、やっと自分の居場所を知る事ができた。
 既に鳳凰の死んだ大地で、ジョカは瑠璃色に煌めく東の空を黙って見つめる。
 その年の冬。玉座に座るジョカ皇帝の体中の細胞が突然、壊れだした。ジョカ皇帝の肉体は一瞬で溶けるようにバラバラになる。

 私はジョカという人格から解放され自由になった。

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  • 序章  胞衣の森

  • 第1話
  •  第一部 『空蝉の国《うつせみのくに》』

  • 第2話
  •  第二部 『迦楼羅の森《かるらのもり》』

  • 第3話
  •  第三部 『龍の柩』

  • 第4話
  •  第四部 『ビードロの街』

  • 第5話
  •  第五部 『国家の戒律』

  • 第6話
  •   最終章『迷宮の防人』

  • 第7話
  •  番外編 『崩れかけの塔の下で』

  • 第8話

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