第1話

文字数 17,852文字

  『空蝉の国』


 序章 『胞衣の(えなのもり)
 これはミツハが二十歳。イチコが二十歳。草薙守が二十歳。山口豊章が六十九歳の頃の話です。
 ミツハとイチコを中心に展開する命とは何かを問う物語です。
 これから始まる本編が感じられるスピンオフ作品になっています。


  胞衣の(えなのもり)

古い鉄橋。街灯が流れてゆく。県境に流れる川を渡る。
 俺は納品の為に車を走らせていた。幹線道路を曲がると急に暗くなる。寂れた商店街の一角に数件の飲み屋がある。
 顔を白く塗り、毒々しい口紅を光らせ、胸元の大きく開いた服を着てイチコは立っていた。まるで、売春宿のような佇まい。俺は車を止めて窓を開けた。
「よぅ。どうだいっ。景気は」
「うるさいねぇ。良い訳が無いだろう」
「イチコ、お前いつまで、こんな仕事してんだよ」
「関係ないだろうっ」
「良い男でも見つけて結婚しろよ」
「バーカッ。もし、二十五歳過ぎても独身だったらミツハがもらってくれよ」
「はっはっはっ。そうだな」
「ミツハ、こんな時間に、また納品かよ」
「あぁ。夜中の方が多くてね」
「今日は、どんなだったの」
「母子ともに健康だってさぁ。でもよぉ、十九歳で二度目の出産だって。シングル・マザー。多分、風俗で働くんだろうな」
 イチコは苦い虫でも噛み潰したような表情でソッポを向いた。大抵、嫌な顔をするのに必ず、納品の事を聞いてくるイチコ。
 俺だって、納品の出どころなんて聞きたくもない。だが、小さな街の小さな産婦人科。知りたくなくても分かってしまう。しかも守秘義務を守らない、お喋りな女医が聞きたくも無い事まで教えてくれる。出産、流産、堕胎。その度に呼び出される。

 俺は女医に頼まれて、イチコの父親の仕事を引き継ぐ事になった。
 一般的な医療廃棄物の他に、産後や手術の後の産汚物も運ぶ。女医は産汚物という言い方を気にいっていない。元々は産後の胎盤や卵膜などを信仰の対象として、産まれた土地に埋めたりしたらしい。動物も人間も産後の体力回復の為に胎盤を食べるとも聞いた。今は、この地方の条例で産汚物として処理される。

 女医の婆さんは俺が産まれた時から婆さんだった。昔ながらの長い白衣を着てニコニコしている。小太りの小さな婆さん。もう何十年も、この街を出ていないと思う。田舎のオバサン。そんな感じの婆さんだ。
 髙橋産婦人科。産婦人科といっても、古い診療所みたいに設備は少ない。昔の御産婆さんの延長みたいなものだ。近頃じゃ、女医の婆さんはビタミン剤やプラセンタで稼いでいる。俺が処理場に運ぶ胎盤はプラセンタとなって世の中に還元される。それを求めて毎日、着飾った女達が美容目的で高橋産婦人科に通う。

「イチコもプラセンタとか打つんだろう」
「そんなもん、やる訳ないだろ」
 イチコは口を閉ざし店に入っていった。俺は窓を閉めて車を走らせる。

 俺の名前は小倉ミツハ。二十歳。あの女は小野田イチコ。俺の幼馴染。イチコは小学生の時に、この街に引っ越してきた。イチコは、この国の国籍だが隣国出身の外国籍の父親に育てられた。母親はイチコが五歳の時に、三人の娘を残して亡くなったと聞く。イチコは中学を卒業して直ぐに水商売で働きだし、家族の面倒をみている。
 イチコの自慢は双子の妹タキだった。顔はソックリだが性格は正反対。清楚なタイプのタキに比べて、ガサツで喧嘩っ早いイチコ。双子で、こんなにも違う性格になるのかと不思議なくらいだ。
 タキは十六歳からモデルの仕事をしていた。十八歳の頃には、ネットやテレビにも数多く出演し、芸能事務所との契約を交わした。主演映画が決まりそうな直前に、タキの妊娠が発覚した。タキは子供の父親の名前を明かさず、色々な憶測や誹謗中傷が飛び交った。所属事務所とも揉めた。

  ☆

 二年前。雑居ビルの二階。黒い革張りのソファに座っている十八歳のイチコ。イチコを取り囲むように、四人の男達。
「お姉さんの気持ちは分かりますよ。もちろん、タキさんの身体と御腹の子供が一番なんでしょうがね。うちの事務所もタキさんに色々と投資をしてるんですよ。このままじゃ、大赤字でね。タレント側に賠償金請求も考えなきゃいけないんですよ」
 茶色のサングラスをかけた銀髪の男が低い声でイチコに迫る。
「タキが悪いんですか。何が悪いんですか」
 ひるまないイチコが睨み返し、啖呵(たんか)を切る。
 銀髪の男はソファに深くもたれかかり、苦笑いしながら返す。
「いゃー。これからって時にね。ピルとか飲んでなかったのかね。避妊薬を渡していた筈なんだがねぇ。大抵、事務所っていうのはタレントに保険金は掛けているんたけど、まさか妊娠するとはね。そうだ。お姉さん、どうです。うちで稼いでみませんか。うちも色々な仕事があってね。そうすれば、御互い助かるんですがね」
 イチコは無言で事務所を飛び出す。

 それから、一ヶ月も経たない時の事だ。タキは妊娠五ヶ月目になった時、交通事故に遭った。直ぐに報道や芸能記者が集まる。警察は事故、自殺、事件で捜査をした。
 緊急搬送された病院でタキは亡くなり、子供も亡くなったと聞く。その翌日、イチコの父親が蒸発した。
 中学生だった末の妹ココロは児童養護施設に送られた。
 イチコは今年、二十歳になった時に高校生になるココロを引き取り、保護者として育てている。

  ☆

 ドゥッザァッ。
 森の奥で産み落とされた仔鹿を青い月の光が照らす。
 生々しい匂いの湯気が立ち昇る。
 仔鹿に、まとわりつく膜を舐める母鹿。
 地上に堕ちる肉片。
 先程まで、自分の胎内にあった胎盤を貪り喰らう母鹿。
 霧が森の中に引いていき、朝露が光りだす。
 何事も無かったかのように、夜が明けていく。
 やがて、森から澄んだ清流が流れ出す。
 笑顔のタキが俺を見ている。

 何度も同じ夢を観て目覚める。
 命は誰のもの。タキの命は誰のもの。タキの子供の命は、、、。

タキの妊娠が発覚した時に俺の知らない世界がある事を知った。
 タキが死んだ年。一年近く俺は引きこもった。
 陽が昇り、夕暮れを待つ毎日。
 十八歳の夏が来る前に俺の時間が止まった。
 夢から覚めるとカーテン越しの朝の光が差し込む。
 起き上がる事が出来ない。
 小鳥たちの鳴き声が止む。窓から力強い太陽の光が射しこむ時刻。通学路に近所の子供達の声が響く。足早に駈けて行く通勤の人達の足音。住宅街に一瞬の静寂が訪れる。遠くから聴こえる工事現場の音。幹線道路を遠ざかっていく車の音。やがて、窓から差し込む影法師の角度が変わっていく。郵便ポストに配達物が届く。どこかの家から懐かしいメロディーのオルゴールが聞こえる。午後の陽射し。近所の子供達の声。隣の家の炊事の音。隣りの家の掃除機の音が止み、街の空気が動き出す。
 俺の部屋の光が陰りだす。一日は何も起こらずに終わってゆく。
 一年という時間がアッという間に過ぎていた。家から一歩も出ない生活。明日の予定もない死んだ日々。
 三週間ぶりに生きた人間と会話をしたのは幼馴染のイチコだった。
「よぉっ、ミツハ。生きてるかぁ」
「何だよ」
「ミツハ、どうせゴロゴロしてるんだろ。荷造り手伝ってよ」
 イチコが小さなアパートに引っ越す手伝い。タキの荷物の処分を俺にやらせたいらしい。渋々、重い腰を上げる。
 十二年ぶりに訪れたイチコの家の中は時間が止まっているようだ。
 イチコとタキの部屋のフスマを開ける事が出来ない。
 過去の扉を造作もなく開くイチコ。
 ザァザァ―ッ。
「あっ、」
 部屋の中で生き生きとした生命力の溢れるタキが笑っている。
「どうしたの」
「あぁ、いやぁ」
 タキの笑顔は化粧鏡に映ったイチコの姿だった。
 双子とはいえ、幼馴染のイチコとタキを見間違えた事はなかったのに。
「ミツハ、この部屋の入るの何年ぶりだっけ。小一(しょういち)以来じゃない」
「あぁ、そうだな」
 七歳の俺の記憶にはイチコとタキの眩しい笑顔が刻まれている。
 イチコとタキの部屋は子供の時とは違う、女の薫りがした。今でも生きたタキの生活感が漂う。
「アタシ、タキの服は着ないしね。処分しなきゃいけないんだけどさ。ミツハにあげようか」
「バカッな事、言ってんなよ」
 悪戯っぽく笑うイチコ。七歳の時に交わしたママゴトみたいな約束を冗談ばなしにして和ませてくれる。
「そういえばさあ。大人になったら嫁にもらってくれるんじゃなかったの」
「えぇ。そんなこと言ったかぁ。俺と一緒になりたいのかよ」
「はぁはぁ、ばかぁ。冗談だよぉ」
 大声で笑うイチコの横顔を俺はジッと見詰めた。突然、真顔になったイチコが低い声で独り言のようにささやく。
「ミツハ。タキは死んだんだよ」
「何だよ、いきなり」
「ミツハはタキの事が好きだったんだろ」
「バカッ。何、言ってんだよ」
 イチコは、まるで自分に言っているかのように窓ガラスに向かって語りかけた。
 俺は黙々と荷造りをした。見覚えのあるタキの服や小物。捨てるのが忍びない。だけど本当に辛いのはイチコのはず。俺は事務的に処分するしかなかった。

  ☆
 
 海面に映る月明かりが黄泉平坂の扉を開いたようだ。
 タキは子供のように波間で戯れている。
「ねぇ、ミツハも来なよ。冷たくて気持ちいいよ」
 振り向きざまにみせるタキの笑顔に長い髪がかかる。
 俺は打ち寄せる波に脚をつけた。夏の夜の海には粘着性があり、体温を感じた。
 もしかしたら、それはタキの温もりを感じていたのかも知れない。

 目覚めるとタキのいない世界だった。今日は何をして過ごせばいいのだろう。

 一か月後。イチコの父親の仕事を引き継いだ。

  ☆

 季節はタキを置いて過ぎていく。
 俺とイチコは二十歳になった。

 月曜日の午後、イチコから電話があった。
「ミツハ。ちょっと、街まで、付き合ってくれない。ココロがタキの所属していた事務所に居るの」
「えっ。どういう事だよ」
「行けば分かるから。とにかく、駅まで来て」
 俺は一張羅のスーツを着込んで駅に向かった。

 駅へと続く坂道。
 俺と同い年ぐらいの男が高級そうなスポーツカーで追い越していく。俺は不自由な左脚を引きずり坂道を上る。
 産まれて直ぐに血友病を患い、膝の関節内出血を繰り返し起こした俺は、幼い頃に左脚が動かなくなった。

 久しぶりに見るイチコのスッピン顔。ラフなティーシャツにジーンズ姿だ。
「おいっ。いくら何でもラフすぎるだろう」
「いいんだよっ。事務所って言ったて、そんな気取った所じゃないんだよっ」
 イチコは仏頂面で駅の構内に入っていく。

 高台にある駅のホームから見下ろすと、俺達の産まれ育った街がある。
 この網の目のような路地の中で俺達は生きている。

 遠くに見える県境の川にオレンジ色の太陽が沈んでゆく。

 電車の中で、二歳くらいの男の子が言葉にならない奇声を上げている。多分、発達障害の子供。俺と目が合い驚いた表情の後、照れくさそうな笑顔をみせた。タキの子が生きていたら丁度、この男の子くらいの歳なのだろうか。
 イチコは子供を見詰め、何も言わずに目を閉じた。

 窓の景色は、俺達の景色より早く流れてゆく。

 スクランブル交差点の信号。黒塗りの車が勢いよく止まる。車の前を胸を張り真っ直ぐに先を見据えて、さっそうと歩く女性。その姿は自信に満ち溢れている。昼と夜の顔を使う彼女達の黒い影が夕闇に堕ちて逝く。
 歓楽街を抜け、大きなクラブの前。
 ドゥォッ。ドゥォッ。ドゥォッ。
 バスドラムの音が胎内で響く鼓動のように木霊(こだま)している。クラブの中で踊り狂う男と女達。
 ラブホテル街を抜け、ガード下の飲み屋。暗く湿った路地に呼び込みの声が飛び交う。
 薄い布切れ一枚を着た、十六歳のココロが立っていた。

 路地には、あどけなさの残る小さな百合の花の蕾が五月の風に揺れている。

 俺はスーツの上着をココロに着せ、タクシーを止めた。
 タクシーの中でうつむいたままのココロ。
 信号待ちのタクシーの外。道路では酔いつぶれた外国人女性の白い太ももが眩しく光り、甘い薫りを放っている。中年の男性が女性を抱きかかえる。道路工事の男達が手を止めて、苦笑いに似た嘲笑で見る。

 イチコの話では問題の事務所は、華やかな表の芸能活動の裏でアダルトビデオや風俗店の関連会社を経営しているらしい。四歳年下のココロは幼く見えるが顔立ちは姉達にそっくりだ。つまり、アイドルとして死んだタキの再来として、いくらでも大人たちの商品になる。
 タキの妹のココロが狙われた。
 言葉巧みに近づき、タキに借金があると脅し、闇の世界へ引きずり込もうとする。多分、薬を打たれているかもしれない。目が虚ろでグッタリとしたココロ。隙をついては少女達を食い物にする闇の住人達。

 イチコの家の前でタクシーを止める。
「ミツハ。ありがとう」
 一言も口をきかないココロを連れて、家に入るイチコ。
 すっかり夜になった東の空で月経の時に流れる経血の色をした赤黒い月が欠けてゆく。
 ヴッ、グィァッ、グゥ、アガァー、アー、ウッー。ギィャアッ。
 胎内に残された肉塊(にくかい)(うめ)き声に引きずり込まれる。底の無い世界へと堕ちて逝く。
 ヴィギャアー。バサッ。ヴァタァ。バッ、タッタッタッタッ。
 街路樹の植え込みから盛りの付いた猫たちが駆けて行った。
 その時、俺の電話のベルが鳴る。女医の婆さんから仕事の電話だった。

 高橋産婦人科の前で女医の婆さんが立っている。
 いつになく、浮かない顔の女医。
「可哀想に。二度目の流産。卵巣の腫瘍が大きくなっているから、もう、自分の子供は無理だね。あんたの御母さんの時みたいだよ」
 女医が納品物を手渡しながら呟く。
「えっ。母さん、何の病気だったの」
「別に」
 女医は表情を変え、そっけなく返事をした。口を閉ざす女医。
 何となく気になった。

 一か月後。半年に一度、女医から頼まれる書類の整理の時に、その事を思い出した。俺は母さんのカルテを探してみた。
 何が書いてあるのか、詳しい事は分からないが、母さんは俺の産まれる二年前に手術をしたのが分かった。そして、母さんの血液型はB型らしい。三年前に亡くなった親父の血液型もB型。高校に行っていない俺でも分かった。
 あの女医の婆さんは、決して口の軽い医者ではない。
 俺は二十年以上、守られてきた秘密を白状させた。

  ☆

 女医は俺をジッと見詰めて言った。
「ミツハ。あんた、父さん、母さんを悲しませたいのかい」
「そんな事じゃないだろう。俺が何者なのかを知りたいんだよっ」
「ミツハはミツハだろう。父さんと母さんの子供だろうが」
「違法行為なんだろう。俺は生きてていいのかよ」
「当たり前だろう。ミツハは希望なんだよ」
 女医が俺を睨む。俺の思考は停止しそうだった。何も考えたくなかった。女医が静かに語りだした。

 二十二年前、母さんは流産した。そして、卵巣の摘出手術を受けた。
 女医は母さんの事を子供の頃から可愛がっていた。その母さんに懇願されるが、子供を授かる事は不可能だった。
 ただし、他人の受精卵を母さんの子宮に着床させる事は出来る。合法だったが莫大な費用が掛かる。
 女医は違法行為に手を染めた。不妊治療の為に、ある夫婦が三つの受精卵を造った。そのうちの二つは着床前スクリーニングによって選ばれた、優秀な染色体を持つ受精卵。その夫婦は無事に、一人の子供を出産する。もう一つの受精卵は冷凍保存された。
 そして、最後の一つ。廃棄されるべき受精卵が俺だった。
 俺は、毎日のように通っている処理場で焼却されるはずの受精卵だったのだ。

 急に、この世界が蜃気楼のように霞んで逝く。
 俺の呼吸も鼓動も、全てが偽物に感じる。俺の命は誰のもの。

 全てを自白した女医は悪びれる事なく、ふてぶてしい(つら)で俺を睨みつけている。
 しかも、ボッーとしている俺を殴りやがった。
 ヴァッシィッ。
「ミツハっ。あんたは父さんと母さんの子。大切な子供だろう。そうだろう」
 
 こんなインチキ女医に殴られる筋合いはない。
 だが、その時、優しい母さんの顔が浮かんだ。母さんの手料理。親父と母さんと三人で行った遊園地。幾つもの思い出がよぎる。
 幼い頃、母さんは俺の動かない左脚を、いつもマッサージしてくれた。
 感じるはずのない左脚に残る、母さんの手の温もり。

 三年前、親父は癌になった。

  ☆

 三年前。酷く強い風が吹いていた。
 小雨の降る中、病院に向かう。病院の駐車場で母さんに会う。
 医者の話では癌細胞が大きくなり過ぎて、手遅れだという。

「ミツハ。ミツハ」
 今にも消えてしまいそうな声で、俺を呼ぶ親父。やせ細った親父の腕。
「母さんを頼む」
 そう言って、俺の手を握った親父。

  ☆

 親父や母さんには、憎しみよりも愛おしという感情がある。だが明日から、どんな顔をして母さんに接すればいいのだろう。

 明け方近くに帰宅した。母さんはラジオをつけっぱなしで寝ている。俺がラジオのスイッチを切る。
「ミツハ。お帰り。ご飯は食べたの」
「あぁ。ゴメン。起こしちゃった。メシは食べたから、大丈夫だよ」
「うん」
 母さんは、また静かに寝息をたてた。
「オヤスミ」
 そう言って俺は布団に潜り込んだ。

 翌日、何事も無かったかのように日常がやって来る。
 女医の婆さんも、平然と俺に仕事の連絡をしてくる。
 俺は何が本当なのか、考えられない。
 ただ、目の前の生活が過ぎてゆく。
 俺は出口の無い非常階段を登り続けるしかなかった。

 押し入れの中で埃をかぶったアルバム。
 若い親父と母さんの姿。
 赤ん坊の俺を抱いて、大きな口をあけて笑っている。

  ☆

「よう、ミツハ。このサイト知っているか」
 仕事仲間が教えてくれたのはアダルトビデオのサイトだった。一般の市場には出回らない品物。
 地下市場に出回っている強姦物のビデオだ。作品の中ではヤクザ風の男達が怒鳴り声を浴びせる。薬物を打たれているのか、グッタリとした女優が数十人の男達に輪姦される。罵声が飛び交い殴られる女性。これほど過激な作品は通常、潰し女優と呼ばれる女性が出演させられる。多額の借金を抱えた女性を言葉巧みに誘うらしい。いい加減な打ち合わせで、撮影に入ると遣りたい放題の男達。もはや、アダルトビデオの撮影ではなく、犯罪現場の公開ビデオでしかない。
 あるビデオ制作会社が二年前に週刊誌の話題となった。モデルの卵を集めて、レッスン料や登録料と称して借金を負わせる手口の会社だ。
 タキのモデル友達だと言う少女が、この企画会社のビデオに出演して殺されたらしいと世間を騒がせた。
お蔵入りしたはずの殺人ビデオを観た奴がいるという噂が流れた。俺はビデオと噂の出処(でどころ)を探った。殺人ビデオにタキが出ているという噂を耳にしたからだ。必ず闇に葬られたタキの死の真相を突き止めてやる。
インターネットの掲示板に不審な書き込みを見つける。
『違法アダルトビデオ闇の入り口』『サイト内、鍵穴のアイコンがヤバイ』
 俺は中学時代の知人でインターネットのサイトに詳しい守を訪ねた。
「ミツハ、あんなサイト観んのかよ」
「そうじゃないけどさぁ。どうなんだよ、それで」
「絶対、やめとけよ。闇サイトは本当にヤバイって」
「どうヤバいんだよ。どうすればいいの」
「鍵穴のアイコンをクリックしてアプリをダウンロードすれば闇サイトに行けるけど、ウイルスだらけで、こっちの情報も全部、盗まれるぞ。それに闇サイトは本物の犯罪サイトだからヤバイって」
 守の話では闇サイトというのは薬物、マネーロンダリング、殺人まで、ありとあらゆる違法行為の依頼や取引を掲示するサイトらしい。国内外の本物の犯罪組織も絡むダークサイト。
 俺は守に教えてもらったとおりにアクセスしてみた。
 フリーワイファイの使えるイートインのコンビニエンスストアーに入店。防犯カメラに素顔が映らないように帽子とサングラスを身につける。コンビニの代金は現金で支払った。イートインのスペースで中古のパソコンを開く。このパソコンも今日の午前中に店頭で現金購入した物だ。俺の情報は一切残さない。
 問題のサイトを開き、鍵穴のアイコンをクリックする。アプリをダウンロードして闇サイトにアクセスしてみた。
 暗闇の谷底に堕ちて逝くようだった。
 露骨でストレートな表現もあれば、カムフラージュした隠語もある。
 見るに堪えない世界。幼児虐待のビデオ。人身売買。臓器売買から殺人依頼まであった。
 社会の闇。人間の醜悪が(うごめ)いている。吐き気をもよおす画面。俺の指先が委縮して震える。
 あった。『現役モデル虐待実録』。噂に聞いたタイトルだ。掲示板を読み進める。俺の呼吸が止まった。
 試写会と称するビデオ鑑賞会に参加した奴のコメント。『あのタキに激似。多分、本物』
 事情通と称する奴のコメント。『大プロジェクトに投資する際、所属事務所が失敗した時の保険にアダルトビデオを撮影しとくんだぜ』
『タキの妊娠の真実!!』『タキって殺されたんじゃねーの』
 もしタキが殺人ビデオの現場に遭遇して強姦されていたとしたら。
 一線を越えた秘密に耐えられなくなったタキは口封じの為に殺されたのだろうか。
 結局、その日は試写会に参加するまでの段取りは取り付けられなかった。
 俺はコンビニを出ると回り道をして帰宅した。
 イチコには相談できない。
 俺はタキが所属していた事務所を探る事にした。
 
 事務所の前まで来てはみたものの、なす術がない。俺は通りの向こうから事務所を眺めていた。
 見覚えのある男が事務所から出てくる。
 んっ。誰だっけ。そうだっ。中学校の二年先輩だった岡田さんだ。何でだろう。とにかく俺は声をかけた。
「岡田さんっ」
 怪訝そうに振り向く先輩。
「あんっ。何だぁ」
 俺の事が分からないようだ。
「俺です。ミツハです」
「あぁ、ミツハ、何だ」
 昔の表情に戻った先輩を見て少し安堵する。俺は助け舟にすがる思いで聞いた。
「先輩、今、何してるんですか。ここで仕事ですか」
「取材だよ。あっ、今よ、ここに居んだよ」
 先輩が差し出した名刺は下世話なゴシップ記事などを載せる週刊雑誌編集社のものだった。
「先輩、この事務所の事、調べてるんですか」
「あんっ。何だぁオマエ。だいたいオマエ、何やってんだよ。こんな所で」
「ここ、タキがいた事務所ですよね」
 言い終えるか言い終えないかのうちに先輩の顔色が変わる。
「オィッ、オマエッ。ちょっと、こっち来い」
 俺の腕をつかみ、速足で歩きだす先輩。
 居酒屋に連れて来られた。俺に近づき、小声で話す先輩。
「そういえばオマエ、タキの幼馴染だったよな。オマエ、あんな所で何やってたんだ」
「タキの事が知りたくて」
「シィッ」
 顔をしかめ、小声で話すように指示する先輩。
「先輩、何か知ってんですか。取材ってタキの事ですか」
「馬鹿かぁ、オマエ。この世界の事、分かんねぇだろう。芸能事務所と編集社なんてものはズブズブなんだよ。スクープ記事なんてねぇんだよ。そんな事したら御互いに潰れちまうんだよ。いいかぁ、あの事務所でタキの話は御法度。タブーだ。絶対に触れちゃいけない話なんだよ。素人のオマエも近づくな。洒落じゃなくて命に係わるぞ」
 やっぱりタキは殺されたんだ。タキの事を思うと急に先輩も敵に感じた。だけど、糸口は、ここにしかない。
「あの事務所に何があんですか」
 煙草をふかしながら先輩が答える。
「だいたいよ、芸能事務所なんてもんは元々、興業の元締めだからな。あそこも五十年以上前から格闘技と芸能をてかげていてテキヤ連中も仕切ってんだよ」
「ヤクザって事ですか」
「ヤクザと親交のある興行師ってとこだな。今じゃ立派な株式会社さ。でも中身は簡単には変わんねぇよ。ヤクザとも縁は切れねぇし、政治家も関わってるしな。マネーロンダリングや利権商売から足、洗えねぇんだろう。オマエは二度と近づかねぇ方が良いぞ」
 先輩は俺を睨みながら居酒屋の支払いを済ませると出ていった。
 俺は帰り道で焦燥感に駆られていた。

 地元の駅前で守に声をかけられる。
「オイッ。見つけたぞ」
「えぇ、何を」
「タキだよ。タキのビデオっ。急げっ。例の闇サイトの掲示板で、この暗証番号を打ち込むと覗けるぞ。二時間後には削除されるから早くっ」
 守に九桁のアルファベットと数字が書かれたメモを渡される。俺は急いで準備をした。前回とは別のコンビニで例の闇サイトにアクセスする。
 それは三分程のサンプル画像を複製した物で画質の悪い映像だった。
 歳をとった役人風の外国人が抵抗する少女の首を絞めて強姦している。
 俺は怒りで血が逆流し、心臓の鼓動が激しくなり苦しかった。息が止まるくらいドッキリしたが、何か違和感がある。
 表情、仕草、髪の毛、少女はタキにそっくりだが、別人のような気もする。むしろ、髪の毛はイチコに、声はココロに似ている気がした。
 気分が悪かった。イチコにも会いたくなかった。俺は回り道をして家に帰った。
 ヴィッーミィーン、ミィーン、ミィーン。
 騒々しい蝉たちがビル街に木霊(こだま)し、遠ざかってゆく。
 青い空から落ちてくる雨粒は二年前の光を放ち、街の色が変わる。
 太陽が傾きかけた頃にヒグラシの声が響く。
 カナッ、カナッ、カナッ、カァナ、カァナ、カナ、カナ、カッ、カッ、、、。
 通り雨で先週までの空気が消え、夕暮れ時に吹く風が秋の薫りを運んで来る。
 ジィッー、ジィッー、ジィッー。 チッーリィ、チッーリィ、チッーリィ。
 草影でタキの御霊(みたま)が奏でる鈴の音色は夏の終わりのメロディーのようだ。
 商店街に提灯(ちょうちん)の淡い灯かりが燈る。日の暮れた路地には、一人で毬つきをして遊ぶ女の子がいる。
 夜の街に浮かび上がる電灯は、誰も居ない路面電車の停留所だ。
 幹線道路沿いの坂を上り切った所に(やしろ)がある。いつから其処(そこ)にあったのだろう。その(やしろ)は、まるで黄泉平坂の扉が開くように佇んでいた。
 俺は十八歳の春に踏み出す事の出来なかったページをめくる。

「お帰り、ミツハ。守君の御父さんがいらっしゃってるわよ」
「えっ」
 帰宅すると母さんと守の父親が居間で御茶を飲んでいた。中学時代に守の家に行った時に何度か父親には会った事があるけど、何でだろう。守の父親が俺の家に来る理由がない。
「こんばんわ、ミツハ君、大人になったね」
「あっ、はい」
 三つ揃えのスーツをカッコ良く着こなす守の父親は有名商社のエリート社員だ。今年、守も父親と同じ商社に入社した。そんな一流商社の社員さんが、うちみたいな家に何の用だろう。
「ミツハ君、今日、守と会ってたでしょう」
「あっ、はい。さっき、駅前で」
「何か、守から預かったかな」
 えっ。どういう事だ。まさか、あの暗証番号の事か。アクセスするだけで違法行為なのかな。俺は咄嗟(とっさ)に嘘をついた。
「いいえ。別に何も」
「そう。それならイイんだけど」
 表情一つ変えない守の父親は全てを知っているようだった。嘘だと分かっていて俺の心の中を観ているようだ。
「ミツハ、大丈夫ぅ。何か返し忘れてんじゃないの。お仕事に使う物らしいのよ」
 心配そうな母さん。俺は無意識にノートパソコンの入っているショルダーバッグを押さえた。
「じゃ、私は失礼いたします。突然、お邪魔して大変、申し訳ございませんでした」
「いーえ。お構いもせずに申し訳ありません。大丈夫ですか」
「大丈夫です。御心配なく。お母様は、どうぞ。そのままで。私はここで失礼いたします」
 母さんとの社交辞令的な挨拶があり、守の父親が帰り際に俺の耳元で(ささや)いた。
「そのパソコンは直ぐに捨てなさい」
 一瞬の事で何が起きたか理解できない。次の瞬間、母さんと笑顔で挨拶する守の父親。そのまま、俺の顔も見ずに帰っていった。
 普段の口調に戻った母さんが不思議そうに言った。
「何だろうね。急に。よっぽど大切な物かね。ミツハ、何か知らないの」
「知らないよ。俺、ちょっとコンビニに行ってくるよ」
 少し怖かった。何が起きているのか不安だった。とにかく、リスクを回避しなくてはと頭をフル回転させた。
 俺はパソコンのハードディスクを破壊して公園のゴミ箱に捨てた。その足で隣町のマンションのゴミ捨て場に破壊したパソコン本体を捨てる。
 次の日から守と連絡が取れなくなった。長期出張に出たらしいが、家族も連絡が取れないという。
 その日の夕方。高橋産婦人科の前に女医が立っていた。
 バタッ。
 ドアの閉まる音がして、黒塗りの車が走り去る。
 女医の婆さんが手招きをして俺を呼ぶ。
「ミツハっ」
「何だよ。また、納品か」
「違うよ。今日は休診よ。アンタに御客さんだよ。奥の部屋。早く、行きな」
「えっ。誰だよ」
「いいから行きなっ」
 この状況で良い事がある訳ないのは知っている。嫌な予感がした。だが、何かが起きていて、俺の知らない事を見る事が出来る気がした。

 七十歳ぐらいだろうか。その老人は感情のない置物のように鎮座していた。シワだらけの顔で目だけが若々しく鋭い。つっ立っている俺に言った。
「小倉ミツハさんですね。お座りください」
「あなた誰ですか」
 少し不機嫌に言ってみせた。老人は礼儀正しく名乗った。
「これは失礼しました。私は山口豊章といいます。色々と聞きたいでしょうが、先ずは私から質問させてください。パソコンは処分しましたか」
 やっぱり、その事か。
「はい。捨てました」
 山口老人は淡々と俺を諭すように答えた。
「そうですね。でも、あの捨て方ではいけません。あれは私の方で焼却しときました。小倉さんは二度と、あのビデオを探らないようにしてください」
「どういう事です。あのビデオに映っているのは誰なんです。まさか、アンタがタキを殺したのかっ」
 勢い余って怒鳴り声になる俺。山口老人は動揺せず、静かに語りだす。
「小倉さんは小野田タキさんの幼馴染でしたね。小野田さんは御腹の子供の父親に殺されました。あのビデオは関係ありません」
「えぇーっ。父親って。アンタ、知ってんのかっ」
「子供の父親は流行曲の有名な作曲家ですよ。その方も半年後に亡くなられました」
「あのビデオは何なんだぁ。アンタ、何で。何を知ってるんだ」
「あのビデオは関係ないんです。あのビデオは十五年前に私が隠し撮りした物です。写っている老人は隣国の役人。もう死んでいます。その当時は政治的に価値があったんです。ある時、ミスをして、あのビデオが流失してしまった。それが今になって芸能人の小野田タキさんに似ているという理由で評判になってしまったんです。インターネットの記録と人の記憶を抹消するのは難しい」
 頭が混乱しそうだった。あのビデオの女性は誰なんだ。十五年前。まさかっ。この老人は全てを知っている筈だ。
「十五年前って言ったよな。まさか、あのビデオの女性はタキとイチコの母親かよっ」
 驚きもせず、表情一つも変えずに淡々と答える老人。
「その推理は正確ではありません」
 正解じゃなくて、正確では無いってどういう事だ。
「何だよ、その言い方はっ。クイズじゃねぇんだよぉ。政治だのなんだの知るかよ。知ってる事、全部、話せよっ」
「いずれ分かる事ですからね。小倉さんは知っておいた方が良いでしょう」
 山口豊章と名乗る老人の話はサスペンス劇場の設定より奇想天外だった。これが現実なら世の中の真実は何処にあるのだろう。
 今から四半世紀ほど前にグローバルな自由経済が招いた戦乱が世界中に広がる。危機感を持った、この国の指導者達は国力増強の為に新規産業に力を入れ始める。最大のプロジェクトが核融合エネルギーの実用化だった。研究の結果、海の向こうの資源、レアメタルが核融合に最適な物質だと判明した。隣国からレアメタルの輸入を開始する。だが、レアメタルの発掘には大きなリスクがあった。
 レアメタル自体が放出する放射能が大き過ぎるというのだ。そんな時、スキャンダルが発覚する。隣国は近隣の村の少数民族を奴隷として発掘現場で働かせていたのだ。山口老人の話には一部の指導者しか知らないという続きがあった。四半世紀前に隣国で始まった再生医療の研究技術を使い、少数民族達のクローン人間を作り続けているというのだ。採掘現場の奴隷達はクローンだという。この国の指導者達は、それを知ったうえでレアメタルの輸入を続けている。しかも、そのクローン研究を我が国でも推し進めているというのだ。
 しかもクローン人間には人権がない。物としてしか扱われないという。
「何の話だか分かんねぇけど、あのビデオとタキと何の関係があるんだよ」
「あのビデオの女性は隣国で造られたクローン人間です。そして、タキさんも同じタイプのクローンです」
 一瞬、戸惑ったが余りにも馬鹿げた話だ。
「バカなぁ。タキには、ちゃんと戸籍だってあるんだし。何、言ってんだよ」
「イチコさん、タキさん、ココロさんの戸籍は私が用意しました」
 俺は山口老人の言葉を途中で遮った。
「ちょっと待ってくれ。イチコ達姉妹が。三人が同じクローンだっていうのかぁ。何で、どういう事だ」
 山口老人の話で俺は否応なしに国とは何か、命とは何かを考えさせられた。
 俺が産まれる四年前。海の向こうでは戦争をしていた。
 隣国の内戦が終結したというニュースが報じられ、新政府軍の勝利宣言で御祭り騒ぎになり新国家が誕生したという。
 だけど、周辺の少数民族も戦争の被害を受けて、土地を追われた避難民が大勢いたらしい。
 その頃、連日のようにテレビでは海を渡って漂着する避難民達のニュース映像が流れていたという。
 この国にも大勢の避難民がやって来た。イチコの父親も、その一人だ。
 その頃、山口老人は避難民の支援をしていたという。山口老人はクローン人間だと知っていてイチコ達家族に戸籍を与える約束をした。
 だが、悲惨な事故が起きる。避難民の居留地近くにあった核融合研究所の施設で放射能漏れ事故が発生する。多くの避難民が亡くなった。
 イチコ達一家も被爆する。三人の娘を同時に亡くした父親を見かねた山口老人の口添えで、国の研究機関が娘達の細胞を培養してクローンを復活させたという。
「だが、被爆した細胞の遺伝子エラーが激しくてね。イチコさんは二十歳代半ばまで生きられないでしょうね。遺伝子操作をしたココロさんは、もう少し生きれるかもしれませんが」
 勝手すぎる現実を受け入れる事は出来なかった。
「何をバカな事言ってんだ。人の命をオモチャみたいに。ふざけるなぁ。そんな話の証拠が何処にあんだよ」
「イチコさん、タキさん、ココロさんは研究施設で産まれたんです。胎盤も臍の(へそのお)もありません。彼女達にはヘソがないんですよ」
「あっ。えぇっ」
「タキさんの子供の父親もクローンだという事に気付いたんです」
 淡々と語る目の前の老人の醸し出す空気。確証は何一つないが、タキを殺した男を葬ったのは山口老人だと確信できた。しかし、それは正義感とか復讐ではなく、国の秘密を守る為だ。
 そうだぁ。父親は。イチコ達の父親も殺されたのか。
「父親は。イチコやタキの父親は、どうなったんだぁ」
「彼は娘達に幸せになって欲しいと言ってました。生きた人間の遺伝子を変えられないかと、自ら人体実験に志願したんです。成果はありませんでしたが。彼女達にとって彼は本当の父親です」
「そんな事が許可されんのかよ。だいたい何で俺に、そんな話するんだ。俺も殺すのかよ」
「貴方を私が殺す訳ないでしょう。貴方を誕生させたのは私です。女医の高橋さんとは旧知の仲でね。貴方が受精卵の時に、ここに運んだのは私です。貴方はイチコさんやタキさんと距離が近い。高橋先生に相談して全部、話す事にしたんです。貴方なら目の前の人の為に正しい行動が出来るでしょう」

 正しい行動って何だ。全ての現実を受け止められない。しかし、現実はリアルだった。目の前にある事が現実だ。
 思考力を失くした俺は茫然としながら家路につく。
 視覚を機械に任せた人間達が見知らぬ何ものかと会話をしながら足早に行き交う交差点。大通りを行き交う無人の路線バス。
 白い雲が流れてゆく。やがて桃色に輝く空が青紫に染まる。
 太陽が沈むと静まりかえる街。一キロメートル先の地面に落ちた針の音が、月の明かりに揺れた。
 静寂の闇を優雅に泳ぐ水鳥。橋を渡る俺の目の前を横切り、川を下っていくのは一羽の海猫だ。川面(かわも)には月明かりが反射する。
 一瞬、生温かい風が通り過ぎる。
 水面(みなも)で揺れる窓に灯かりが燈った。地上に建つ家の窓は暗く閉ざされている。水鏡の窓だけが静かに開いく。
 タキだ。
 俺の肉体が溶けて川に流れだす。俺は川底の館に居た。死に人との会話が許される幽玄の世界。
 タキが俺に語りかけてくる。タキのさえずりは現世(うつしよ)の地上で聴く声と同じだった。
「ミツハ」
 表情が変わる女。んっ。タキじゃない。
「ミツハっ。バーカぁ」
「えっ。」
 幽世(かくりよ)の扉が閉ざされ意識が戻る。
 ズゥヴワーッ、シャァーッ。
 大通りを走る車の音。
 チッーリィ、チッーリィ、チッーリィ。
 街路樹の草陰から虫たちが振る鈴の()が微かに聴こえた。
 俺は幹線道路沿いの坂を上り切った所にある(やしろ)の前で佇んでいた。
 タキじゃなかった。イチコの幻影。何でだろう。
 次の日、イチコに会う。イチコに会いたかった。ヘソの無い被爆したクローン。あと何年、生きられるか分からない命。そんなの関係ない。イチコは目の前で今、生きている現実の人間でしかない。

 俺達の通っていた小学校で待ち合わせる事になった。学校の玄関にある大きな鏡を眺めながらイチコを待った。
 卒業以来、初めて訪れた小学校。同窓会の案内は何回ももらったが一度も参加した事はない。
 俺にとって小学校生活は地獄だった。

  ☆

 小学校時代。足は不自由だったが反射神経の良い俺はインターネットゲームで負け知らずだった。それまでの俺はヒーローだった。
 小学六年の冬。チーム戦による全国大会に出場する事になる。予選突破確実の局面でクラスメートの文孝が凡ミスをした。結局、そのミスが原因で予選を敗退した。
 俺は文孝をなじった。一週間経っても俺は汚い言葉で文孝をなじった。その翌日、文孝が踏切で電車に、はねられて死んだ。警察は事故で処理したが学校中の人間は俺を遠ざけた。先生連中も俺に話しかける事は少ない。
 俺自身も自分を呪った。
 冬が終わろうとした頃、文孝の遺影を囲んで卒業式で唄う歌の練習が始まった。俺が教室に行くと皆は口を閉ざし解散する。
 俺は卒業式に出ない方がいいと思った。このまま、俺が死んでも誰も気づかないだろう。学校の玄関で大きな鏡に映る自分を眺めながら考えていた。
 後ろからタキがやって来る。鏡に映った哀しそうな眼のタキは俺を見て立ち止まる。文孝の事件以来、タキと目が合う事も少なくなった気がしていた。
 鏡の中のタキは俺と目を合わせ、茶目っ気たっぷりに笑った。そして、まるで小さな子供のようにピノキオダンスをしながらお道化てみせた。思わず微笑む俺に満面の笑みをみせるタキ。
 俺は人気者のタキまでがイジメられないように一言も言葉を交わさずに、その場を立ち去った。

  ☆

 あれから八年が過ぎた。タキはいない。
 待ち合わせをしていたイチコがやって来る。
「よう、ミツハ。待ったぁ。こんな所でゴメンな。時間なくてさ。ここでココロとボランティアしてて。今から町内のゴミ拾いなんだよ」
 丁度、ココロもやって来た。
「お待たせ―」
 すっかり元気になったココロが満面の笑みでイチコに手を振ると、俺に小さく御辞儀をした。
「ところでミツハ、用って何だよ」
「あっ、いゃぁ別に」
 そうだった。急に顔が見たかったなんて言えない。困った。
 困惑する俺の様子を気遣ったのか、心配そうな声でイチコが言った。
「大丈夫か。何かあったのか」
「あっ、いゃ。何でもない。用事、何だっけ。忘れちまったな」
 俺は照れ隠しで後ろを向き、大きな鏡を見ながら自分の髪形をチェックする素振りをした。
 鏡の中で真顔のイチコがお道化た笑顔になり、ピノキオダンスを始めた。
「あっ、それっ。タキが子供の時にやってたダンスっ」
 振り向きざまに俺が言うと、イチコは驚いた表情で固まった。すかさず、ココロが笑いながら答える。
「はっはぁはぁ。ピノキオダンスはイチコ姉ちゃんの専売特許よ。私やタキ姉ちゃんが落ち込んでいる時に踊ってくれるの。タキ姉ちゃんは優しそうでクールだから、こんなダンスはムリムリ」
 キョトンとする俺に、何かを思い出したかのような表情でイチコが言った。
「はぁーん。オマエ、アタシとタキを見間違えただろう。フンっ」
 イチコは俺の尻を廻し蹴りして、そのまま行ってしまった。
 えっ。小学校の時のピノキオダンス。イチコだったのか。
 俺は鏡の中のイチコとタキを見間違えたのか。

 あの頃、周りの人間は俺から遠ざかっていった。イチコだけは普段と変わらずに接していた。小さい頃からの憎まれ口を何の気遣いもなく俺に言っていた。

  ☆

 卒業式の日。俺は布団から出られなかった。登校時間にズカズカと俺の部屋までイチコがやって来た。
「オイッ。ミツハっ。卒業式、行かねぇのかよ」
「うるせぇなぁ。関係ねぇだろっ」
 俺の布団を剥ぎ取りイチコが怒鳴った。
「バッカァか。何、ウジウジしてんだよ。オマエ、卒業できねぇと中学も行けねぇぞ」
「馬鹿ぁ。卒業式なんか出なくても卒業は出来んだよ。イチコはさっさと学校、行けよっ」
「えー。ふんっ。卒業式、出なくても卒業できんならアタシもヤーメタァ」
 イチコが俺の布団に潜り込んできた。
「オイオィ、何だよぉ。馬鹿かぁ、お前。早く学校、行けよっ」
 俺は布団から飛び起きて言った。イチコは俺の顔を見て笑うと、窓の外の空を眺めながら『仰げば尊し』を歌いだした。
 俺は部屋の隅でイチコの歌声をいつまでも聞いていた。

「仰げば、とうとし、わが師の恩。おしえの庭にも、はやいくとせ。思えばいととし、このとしつき。今こそ別れめ、いざさらば」

 その日は二人で卒業式をさぼり、一日中、漫画を読んでゴロゴロしていた。中学が始まるまでの二週間、毎日のように俺の部屋に来て漫画を読んだり、口喧嘩をしていたイチコ。

  ☆

 アイツは、あの頃から何も変わっていなかった。八年が経った今もイチコはイチコだ。
 三日後。店の前で客待ちをするイチコに俺は声をかけた。
「なぁ。二十五歳まで待たなくてもイイぞ」
 怪訝そうにイチコが顔をしかめて答える。
「あんっ。何の事だよ」
「結婚してやってもイイって事だよ」
「バッカァか。何、言ってんだオマエっ。頭、おかしいんじゃねぇか。オイッ。プロポーズってのは、もっと上品にやるもんだよ」
 鼻で笑うイチコ。
「そうだな。じゃ今度はタキシードでも着て口説きに来るよ」
 俺は手を振って退散しながら考えていた。
 うーん。タキシードに花束にレストランかな。だけど、イチコの好きな食べ物なんてラーメンぐらいしか思い浮かばないな。そうだ。タキの墓参りの帰りに(めし)にでも誘おう。

 一週間後。タキの墓標が夕陽で真っ赤に染まる。
 イチコが呟く。
「よく、あの丘に行って三人で遊んだな」
 あの日、三人で見た夕陽。イチコとタキ。俺達は、あの一瞬、確かに生きていた。

 墓参りの帰り道。オレンヂ色に輝いていた街は舞台の幕が下りるように一瞬で暗くなった。照明の消えた夜空。墨汁のように紫がかった天空の闇。幹線道路をテールランプが駆けていく先には高層ビル群の街灯かり。
 東の空で真珠みたいに滑らかな光沢の光を放つ満月が浮かんでいる。イチコの二の腕の肌が青みがかった光の中で透き通っていく。
 イチコと一緒に居たい。何を話しかければ良いのだろう。
 俺はイチコの手を握るタイミングを見計らった。隣を歩くイチコの手は無防備だ。力んだ俺の手は硬直して動かない。俺は立ち止まり声をかけた。
「なぁ。イチコ」
「何だよ」
 イチコが言い終える前に手を取り振り向かせる。驚いたイチコの顔を右手で支え、口づけをする。すかさずビンタをくらった。
 ヴァッシィッ。
「バカかぁ。ヘタクソ。今度はもっと上手にしろよな」
 スタスタと歩いて行くイチコ。
 今度はって事はチャンスがあるって事だよな。
 俺もイチコの後ろを歩きながら答えた。
「あぁ。今度は覚悟しとけよ」
イチコはスキップをした後、ピノキオダンスをしてスタスタと歩き出した。
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  • 序章  胞衣の森

  • 第1話
  •  第一部 『空蝉の国《うつせみのくに》』

  • 第2話
  •  第二部 『迦楼羅の森《かるらのもり》』

  • 第3話
  •  第三部 『龍の柩』

  • 第4話
  •  第四部 『ビードロの街』

  • 第5話
  •  第五部 『国家の戒律』

  • 第6話
  •   最終章『迷宮の防人』

  • 第7話
  •  番外編 『崩れかけの塔の下で』

  • 第8話

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