第8話

文字数 21,094文字

 番外編 『崩れかけの塔の下で』
 これは西の大陸で繁栄を誇ったキッシー国のソブン中将が七十歳から八十歳になった頃の話です。
 西の大陸ではキッシー国滅亡後の共和国で流行り病が蔓延しました。
 政治と流行り病が交錯するなか、自由と民主主義を問う物語がソブンの息子と娘と孫を中心に展開していきます。
 ソブンの養子になった子供達を中心にした本編終了後のスピンオフ話です。



   崩れかけの塔の下で

 僕は公園で全力疾走する同級生達を眺めていた。
 君達は同じクラスの僕の事を名前も知らないだろう。
 そして、君達は今、自分が生きている事さえも知らない。

 僕は今、自分が生きている事を感じている。息を肺まで吸い込み、楽に吐く事ができる。十歳の僕は、まだ生きているはずだ。
 物心ついた時から喘息の発作を何度も起こし、死にそうになった。
 学校行事のマラソン大会は毎年、欠席だ。十メートルの距離だって全力疾走はした事がない。
 僕の得意なのはトランプ。トランプ遊びで負けた事がない。ただ、トランプの遊び相手はサヤだけだった。サヤも喘息で激しい運動が出来ない。サヤは今年の春に御父さんが亡くなってからは口数が減り、下を向いて歩くようになった。

 二週間前。呼吸困難で倒れたサヤは、この公園から救急車で運ばれた。
 その日、僕は嫌がるサヤを公園に連れだした。公園のベンチでトランプゲームをしていた僕とサヤの周りに五人の暴走族がバイクで乗り付けた。彼らは僕達の事が見えないかのようにベンチや地べたに座り込むと一斉に煙草を吸いだした。
 咳き込む僕とサヤは、しゃがみ込んでしまった。そんな僕達をあざけ笑う暴走族の奴ら。
「どうしたぁ、坊主ぅ。むせたかぁ。弱っちぃなぁ」
 サヤは立ち上がる事も出来なくなってしまう。止まらない咳で苦しむサヤを見ていた人が、救急車を呼んでくれて一命をとりとめた。
 その後すぐに、公共の場所での喫煙を禁止する法律ができた。

 あの女が話しかけてきたのは、退院したサヤと公園のベンチにいた時だ。近所の子供達は『パンパンババァ』と呼んでいる。もう四十歳は超えているらしい。
 崩れた化粧が昼の太陽に似合わなかった。汚い肌が見えそうな薄手のワンピースが風に揺れている。夕べの酒と安物の化粧品の臭いが気分を悪くする。この公園で唯一、異質のもの。
 その年増の売春婦が僕達に話しかけてきた。
「お嬢ちゃん、ソンブゥさんの娘サンだろぅ」
「お父さんは死にました」
 下を向いたまま苦しそうな表情をするサヤ。
「オバサン、サヤの御父さんの事、知っているんですか」
「オバサンはないだろうっ。可愛げがないね。ソンブゥさんは男前でねぇ、スマートだったよ。みんなに優しくてねぇ」
 年増の売春婦は細長い煙草に火を点けた。公園で幼い子供を遊ばせている母親達が怪訝そうに年増の売春婦を睨む。
 僕とサヤはベンチを立った。
「待ってよぉ。そう邪険にしなくてもイイだろぅ」
「僕達、喘息なんです。煙草の煙で死ぬ事もあるから」
 年増の売春婦は火が点いたばかりの煙草を地面に落としてサンダルで踏んだ。
「アンタ、ヤグダイの息子だろ。父親似だね。性格も似てるよ」
 僕は振り返って年増の売春婦を睨む。
「あなた、誰ですかっ。父さんの知り合いなんですかぁ」
 年増の売春婦は不機嫌な顔で吐き捨てるように言った。
「フンッ。スパイの知り合いなんていないよぉ」
「ぇえっ」
 何を言っているんだ。この女は。
 ヴァリィッ、ヴァリィッ、ヴゥァッー。
 その時、爆音が鳴り響き、暴走族の奴らが公園に入って来た。バイクを無造作に停め、年増の売春婦の方を見ると御辞儀をした。年増の売春婦は、ふくれっ面でソッポを向いた。
「坊や、悪かったね。何でもないから。じゃあね」
 年増の売春婦は手を振りながら気怠(けだる)そうに公園から出ていった。
 その夜、父さんに『サヤと公園にいる時、年増の売春婦に話しかけられた』と言ったけど『ふーん』と言っただけで何も答えてくれなかった。

 夏の終わり頃だった。サヤとサヤのママ。僕と父さんの四人で屋形船に行く事になった。
 サヤの御父さんと僕の父さんは小さい時から一緒に育ったらしい。僕の母さんは僕を産んで直ぐに亡くなったと聞かされた。僕達家族は親戚づきあいというより家族のように過ごした。サヤのママは僕の母親代わりでもある。
 父さんに頼んでサヤとサヤのママを海上花火のイベントに誘った。元気のないサヤを喜ばせたかったんだ。船で三十分かけて湾を出て外海に行く。外海の花火イベントまでの時間、サヤとトランプをして遊んだ。
 僕がサヤを喜ばそうと思って始めた事なのに。何で。何で、あんな事をしてしまったのだろう。

「えぇー。またぁ。おっかしいなぁ」
 その日、僕は一度も負けた事のないトランプゲームでサヤに負け続けた。
 僕はズルい事をした。僕は一枚のふりをして二枚のカードを取る。一枚目のスペードのエースと二枚目のハートのエースを同時に引く。余分なスペードのエースを自分のポケットに隠した。
「ヤッタァー。勝ったぁー」
 その瞬間、後悔した。恥ずかしく想った。もし、二枚目のハートのエースをサヤが取っていたら僕は負けていた。
 パァーン。パリッ、パリッ、パリッ、、、、。ヴヲァーン。バタッ、バタッ、バタッ。
 僕の嘘を打ち消すような轟音(ごうおん)と共に海上花火が始まった。紅色(くれないいろ)に染まる世界。火花が落ちてくる。
 パァチィ、パァチィ、パァチィ。
「うぁー。始まったぁ」
 数か月ぶりにサヤの表情が輝いた。
 サヤの顔を見ながら、僕はポケットの中にあるスペードのエースを握りしめた。
 その晩、家に帰った僕は、しわくちゃに握りつぶされたスペードのエースをトランプの束に戻す事も、捨てる事も出来ずに書斎の古い本に挟んで仕舞い込んだ。
 それ以来、サヤと遊ぶことも少なくなっていく。僕の喘息症状は少しずつ回復していった。サヤは相変わらず、重い喘息の症状に苦しんでいた。

  ☆

 ヴゥ゛ッオァ。ジャァー、シャァー、シァユァワー、ヴゥワァ。
『ハァイッ、エッビィヴァディ』
 ジャァー、シャァー、シァユァワー、ヴゥワァ。
『えぇ。それでは、次の、』
 ジャァー、シャァー、シァユァワー、ヴゥワァ。
『お待っとうさんでーす。今日も一日、お疲れ様』
 はいった。僕の冷たい部屋と世界が繋がった。
『まず最初のメッセージはラジオネーム、スターダストさん。私にとって大切な人は何といっても、いつも私を支えてくれる息子。息子の成長が私の何よりの心の支えです。って、イイですね。いつまでも御家族と仲良くね。それでは次のメッセージ、』
 十五歳になった僕の楽しみは、古道具屋で見つけたラジオだった。毎晩、暗い部屋でダイヤルを合わせる。
 スターダストさん、いつも息子の話ばっかり書き込んでるよな。母親って、どんな感じなんだろう。母親を知らない僕は電波の向こうに想像力を膨らます。
 あっ、いけねぇ。もう、こんな時間だ。
 中学を卒業した僕は定食屋でアルバイトをしながら生活をしていた。大抵は夜の繁華街でスナックやキャバレーに出前するのが主な仕事だ。
 色とりどりのネオン街に流れる狂騒のメロディー。声を失くした女達や男達が能面の笑顔を造り、踊り狂っている。
 華やかな表通りを右に曲がった薄暗い路地。従業員通用口を開くと、あの女がいた。
「あっ。あぁ、御待たせしました」
「あらぁ、ヤグダイの息子さんじゃない。アルバイトっ。御苦労さま」
「はい。天津丼、御待たせしました」
 その時、ボーイらしき男が部屋に入ってきて、あの女に声をかけた。
「ナオさん、御願いしまーす」
「今、行くよ。坊やっ、これっ。御釣りは要らないわよ。そうだ。一曲、舞台袖で聴いていけば。アタシの十八番、聴いていってよ」
 ナオは僕の右腕を掴むと強引に舞台袖に立たせ、自分は舞台に出ていってしまった。
 パァチィ。パァチィ。
 疎らなヤル気のない拍手と、(いや)らしい中年男達の笑い声に混じってピアノの音色が奏でられる。
『And now the purple dusk of twilight time Steals across the meadows of my heart』
 ナオの歌声。五十歳過ぎとは思えない高音で澄んだ声。僕のイメージが少し変わると同時に、何故だろう。初めて聴く曲の筈なのに懐かしく感じる。
 歌が終わると僕はナオに頭を下げて従業員通用口へ引き返した。裏路地でタバコを吸っているボーイに尋ねてみた。
「あのー。あのナオさんが唄っている曲って何ですか」
「あんっ。あぁ、ナオさんの十八番(おはこ)ね。スターダストだよ」

 その日からナオは毎晩のように出前を頼んできた。食事じゃなく、お茶だけ運ばせる時もある。まるで、僕にチップを渡すのが目的かのように。
 ある日、とんでもない事件が起きた。
 父さんが傷害事件に巻き込まれた。ナオがいる店で父さんが怪我をした。割れたグラスのカケラで手を切ったらしい。僕は連絡を受けて病院に向かった。
「あぁ、大丈夫だよ。縫う程でもないから。すぐ治るさ」
 平然と笑顔で答える父さん。
 後で警察の人から、ナオが傷害の犯人として取り調べを受けたらしいと聞かされた。
 ナオは直ぐに釈放された。お店の人の証言では父さんとナオが口論になり、たまたま割れたグラスで手を切っただけで事件性は無いと判断されたらしい。
 でも何で、父さんとナオが。不思議なのは父さんが何で、あんな店に居たのかだ。父さんは以前、官庁勤めをしていた堅物。お酒も煙草もしなければ、趣味らしい遊びもしない。男手一つで僕を育ててくれた。
 父さんは何も言ってくれれない。
 父さんは何を考えているのだろう。どんな人生をおくってきたのだろう。家族なのに実は父さんの事を何も知らない。
 僕は父さんの書斎で考えていた。目に入ったのは五年前に僕がスペードのエースを隠した古い本。忘れようとしていた過去が目を覚ます。
 僕は古文書のような古い本を手に取り、ページをめくる。五年前に仕舞い込んだ僕の罪を手に取る。
 その時、本から一葉の古い写真が床に落ちた。
「んっ。あぁっ」
 写真には僕の御爺ちゃんのソブン爺ジィと三人の子供が写っていた。十歳くらいの僕の父さんとサヤの御父さん。そして、十歳くらいの女の子。もしかしたら、この女の子はナオじゃないかと思った。
 まさかっ。何故。僕は写真を古い本に挟み、本棚に戻した。夕方に帰宅した父さんに写真の事を尋ねる事は出来なかった。

 翌週、僕は南の村に住むソブン爺ジイを訪ねた。
 孤児院にいた僕の父さんとサヤの御父さんは五歳の時にソブン爺ジィの養子になって兄弟として育った。僕が十歳になるまでは毎年、僕と父さん、サヤと御両親の五人でソブン爺ジィの家に泊まりに行った。
 五年ぶりのソブン爺ジィ。七十五歳にしては元気だ。
「よく来たね。坊ぅ、元気そうだな。何歳になった」
「十五歳。しばらく来れなかったから。爺ジイも元気そうだね。サヤは今年も来たのぉ」
「うーん。四年前に来たっきりだよ。連絡は来たよ」
「元気にしてるかなぁ」
「何だぁ。会ってないのか。サヤの喘息は前より酷くなったみたいだね。この村に住んでもイイって言ったんだがね。ソンブゥが亡くなってからは遠慮してるんだろう」
 目を細め、優しい表情で答える爺ジイ。僕は思い切って聞いてみた。
「ねぇ。爺ジイはナオって女の人、知ってるぅ」
「んっ。会ったのか。ナオに」
「知ってるんだぁ。ナオって何者なの」
「そうかぁ。うん。ヤグダイに口止めされてるからな。帰って父さんに聞きなさい」
「僕、写真、見たんだぁ。子供の頃の父さんとサヤの御父さんとナオ。それに爺ジイが写ってた」
「そうか。じゃぁ、なおさら正直に言って、父さんに聞きなさい。一つだけ教えてやろう。ナオはヤグダイやソンブゥと一緒に兄弟としてワシが育てた。ワシは今でもナオを可愛い娘だと思っているよ」
「やっぱり。そんな気がしてたんだぁ」
「あとは帰ってヤグダイに聞きない。オマエも、もう大人だ。全部、話してくれるよ」
 そう言って爺ジイはシワだらけのゴッツイ手で僕の肩を二度叩いた。

 父さんと真剣に話をするのが少し怖かった。不安な帰り道が長く感じた。
 夕食の後、書斎にいる父さんに声をかけた。
「父さん。今日、爺ジイの所に行ってきた。ねぇ、ナオの事、教えてよ」
 父さんは振り返ると見た事の無いよな怖い目つきをした。
「急に何で、そんな事を言うだ」
「あの本の中の写真を見たんだ」
 父さんは哀しそうな目で僕に謝った。
「そうかぁ。すまなかった。いつ話そうかと思っていたんだが、オマエを悲しませたくなかったんだ」
「どういう事っ」
「ソブンの御爺さんからは聞いてないのか」
「父さんに聞きなさいって」
 迷った様子の父さんが重い口を開くように、ゆっくりと語った。
「ソンブゥと私とナオは孤児でね、五歳の時にソブンの御父さんに引き取られて、兄弟のように育ったんだ。社会人になってからは年に一度会う程度だったんだよ。三十歳を過ぎた時、私がナオに結婚を申し込んだ」
「えっぇ。何ぃ言ってんだよぉ」
 予想していなかった。予想を超えていた。僕の思考は停止しそうだった。
「ナオはオマエの母さんだ。オマエを悲しませたくなかったんだ」
「嘘だぁ。どういう事っ。なぁに言ってんだよ」
 あの頃。あの子供の頃、根拠のない偏見で年増の売春婦と言って蔑んでいたナオが僕の母さんのはずがない。父さんは真面目な口調で真剣に話を続けた。
「私とナオは子供の頃から、よく喧嘩をしてね。中学の時、生徒会長をしていた私に殴りかかってきた事もあったんだよ。制服廃止を約束しろとか言ってね。全く、無茶苦茶だよ。ふぅんっ」
 懐かしそうに少し笑顔になった父さんが腹立たしかった。僕は怒鳴り声で聞き返した。
「そんな事、どうでもイイんだよ。どういう事なんだよぉ」
「うん。もう十年以上も前なんだけどなぁ。政治運動に傾倒していたナオが逮捕されたんだ。騒乱罪の首謀者として懲役七年の実刑。私はナオと離婚して、オマエには母親は死んだと言って育てた。ナオも承知したよ」
「政治運動っ。何なんだよ、それっ」
 父さんの話では、その当時、戒厳令法や市民登録制法。それから特別高等警察の設置とかに反対していたナオが抗議デモやチラシ配りをしていたそうだ。普段から過激な言動が多いナオは、事も有ろうか官庁に忍び込んで書類を盗もうとした事件があったらしい。その時も禁固刑の有罪判決を受けたという事だ。
 父さんが官庁を退官したのは、この時期らしい。そして、僕が二歳の時に、官庁に火炎瓶が投げ込まれた。その一時間後には官庁で爆破事件が起きた。火炎瓶事件の実行犯として元暴走族が捕まった。火焔瓶の作り方を犯人に指導したのがナオだった。ナオは火炎瓶事件や爆破事件に関しては無関係だと供述したらしいけど、判決はナオが首謀者として有罪になった。控訴はしなかったらしい。
 結局、戒厳令法や市民登録制法は、その時には廃案になったが、特別高等警察は設置される事になったらしい。
 話を終えた父さんが沈んだ表情で哀しそうな眼をした時に、僕はナオの事ではなく、サヤの御父さんの事を思い出していた。
 サヤの御父さん。つまり、僕の父さんやナオと兄弟として育ったソンブゥおじさんは、僕が十歳の時に拘置所の中で亡くなった。確か、官庁に忍び込んだとか聞いた事がある。
 何だか胸騒ぎがした。ナオの事もそうだけど、サヤの御父さんと僕の父さんの間に何かがあったような気がしてならない。五年前にナオが言った言葉が頭をよぎる。
『フンッ。スパイの知り合いなんていないよぉ』
 僕は翌日、図書館に行って五年前の新聞記事を捜した。

 官庁の機密文書が盗まれたという事件が発生。手がかりはない。二週間後の記事によると、飲酒運転の容疑で逮捕されたソンブゥおじさんが機密文書盗難事件の犯人として再逮捕されたらしい。
 一か月後に、この事件を特集した記事によると飲酒運転の証拠は出なかった。評論家は『飲酒運転は明らかな、でっちあげによる別件逮捕で、機密文書盗難事件が本命だった。違法捜査の可能性がある』とコメントしている。また、ソンブゥおじさんに容疑がかかったのは通報があったからではないかとも書かれていた。機密文書は発見されなかった。
 ソンブゥおじさんは、起訴される前に拘置所の中で血を吐いて亡くなっているのを発見される。結核だった。病気の治療を受けさせなかたのか。違法な取り調べがあったのではないか。機密文書とは何か。色々なゴシップが取り沙汰されたらしい。
 ふと、通報者が僕の父さんなのではないかと感じた。父さんには五年前の事件の事を聞けなかった。ナオなら何かを知っているかもしれない。だけど、あの女の顔は見たくもなかった。
 僕はソブン爺ジィを再び訪ねた。
「そうかぁ。話してもらったか。ナオはなぁ。ああ見えて優しい()なんだよ。曲がった事が嫌いで、我が強すぎるがなぁ」
「あの人の事は、どうでもイイよ。僕は母親だなんて認めていないし。今日は爺ジイにソンブゥおじさんの事を聞きたくて。五年前の事件って何なの。何が起きたの」
「ワシにも分からないよ。ただ、分かるのはソンブゥにとって一番大切なのは家族だ。ソンブゥは何年もナオの裁判のやり直しを訴えていたからなぁ。ナオの無実を信じていたんだ」
「どういう事さぁ。あの女は過激派なんでしょう」
「あの()は自分の欲の為だけで犯罪を犯す娘じゃないよ。ワシの推測だが、ソンブゥは陰謀だと考えたんじゃないか」
「陰謀っ。誰のぉ。何の為にぃ」
「分からんよ。陰謀説なんてものは、ただの推測だからな。だけど、それで本当に家族が殺されるような事があったらワシも絶対に許さない。ソンブゥも同じ事を考えた筈だよ」
 爺ジイは、それ以上は何も話そうとしなかった。
 数日後、古本屋で見つけた安物のゴシップ雑誌に気になる記事があった。『都市伝説特集』その中の一つに『女過激派事件の真相・政府に葬られた闇の真実』というのがある。仮名で書かれた記事の内容はこうだ。
 十三年前。当時、エリート官僚だった男が政界に進出する。圧倒的多数で当選した元エリート官僚は、支持率を武器に強引な法案を提出した。それが『戒厳令法』『市民登録制法』『特別高等警察の設置』だった。専門家委員会などが設置され、法案の審議をした結果『人に保証されるべき自由と民主主義を犯す事になる』という報告書が出された。しかし、その報告書が消えてなくなったというのだ。そんな時に、あの『官庁火炎瓶事件』と『官庁爆破事件』が起きた。法案に賛成派の人間達が、それを利用したのではないか。或いは事件は始めから法案賛成派の自作自演で犯人は仕立てられた犠牲者ではないか。
 出来過ぎた陰謀説だ。でも、現実には事件の後、市民の圧倒的支持を得て特別高等警察を設置する法案は通過した。反対派だったナオが利用されたとしたら。
 僕は今まで疑問にも思った事のない『自由と民主主義』て何なのだろうと考えを巡らせた。そういえば父さんが言っていたな。ナオは中学生の時に制服廃止を訴えていたとか。僕はそんな事、考えた事もない。
「ふんっ。やっぱり、あの女は頭がおかしいんだぁ。公園で煙草ばっかり吸っていたし、怪しい店にも出入りしてるし。くそぉ」
 僕は自分の現実を振り切るように、ナオという存在を打ち消した。

 久しぶりにサヤの家を訪ねる。
 外出する事の少なくなったサヤは青白く透き通るような肌で痩せていた。それでも、雰囲気や身体つきが女性っぽくなっていた。
「やぁ。サヤ、久しぶり。どう、調子は」
「うん。相変わらず」
 何年ぶりかに入ったサヤの部屋は子供の時とは違う女の薫りがした。僕は、わざと少し大きめの声で窓を開けながら言った。
「たまには外に出ないと身体に悪いよ」
「うん、そうね」
 ゴゥォホッ。小さく咳込むサヤ。
「あっ。ゴメン」
 僕が窓を閉めた時、サヤの御母さんがジュースとパンケーキを持ってきた。
「まぁ、久しぶりね。もう働いているんだって。偉いわねぇ」
「いえ。アルバイトですから。そういえば、明日って。あのー、ソンブゥおじさんの命日ですよね。僕一緒に墓参りに行っていいですか」
「えっ。そう。構わないけど。どうしたの。急に。何かあったの」
 心配そうなサヤの御母さん。サヤは(くちびる)を嚙みしめている。
「あのぉぅ。僕っ。ソンブゥおじさんは無実だって聞きました」
 びっくりした表情のサヤの御母さん。サヤは顔をしかめて泣きそうになってしまった。
「ありがとう。私も彼を信じてるわ。あの時ね、大変だったの。家中を調べられて。天井裏まで調べられたのよ」
「おばさん。ソンブゥおじさんは結核だったんですか」
 耐えかねて表情が崩れるサヤの御母さん。
「そんな事、一度も聞いた事なんわ。拘置所で急に結核で亡くなるなんて。そんな事、あるはずないわよ」
 サヤの御母さんは嚙みしめるような強い口調で答えた。
「ごめんなさい。僕、何も知らなくて。明日、お昼に来ます」
 僕は席を立った。
 五年もの間、おばさんとサヤは苦しんでいた。僕は何も知らなかった。
 もしかしたらソンブゥおじさんは殺されたのかも知れないと感じてしまった。もし本当にソンブゥおじさんが殺されたとしたら機密文書が原因なのだろうか。機密文書って何なんだろう。
 父さんなら知っているかもしれない。

 静かだった。サヤは大きな目でジッと御墓を見詰めている。サヤの御母さんは、いつまでも手を合わせて祈っている。僕の父さんは口を一文字に閉じ、哀しい目をして御墓を見ていた。
 僕はソンブゥおじさんに聞きたい事が沢山ある。心の中で、いくら語りかけても御墓は何も答えてくれない。ソンブゥおじさんの墓標は真っ青な空の下で静かに佇んでいる。
 墓地の丘から見える街には次々と高い塔が建ち並んでいく。

 父さんと二人きりになった帰り道。今しか聞けないと思った。でも、何て切り出せばいいのだろう。沈黙を破って口を開いたのは父さんだった。
「母さんの事だがなぁ」
 僕は反射的に父さんを睨んだ。慌てた様子で父さんが言い直した。
「あぁ。ナオだよ。ナオの事なんだがな。爆破事件は無実だと思っているんだ。父さんはね」
「そんな事、どうでもイイよ。ただ、ソンブゥおじさんも、そう思っていたみたいだね。父さんは。父さんは、あの女が無実だと思っていて何か行動を起こしたのっ」
 僕が強い口調で、こんな事を言うとは思っていなかったのか、驚いた顔をする父さん。深刻な表情になり答えた。
「うん。ただなぁ。ナオがチンピラ達に火炎瓶の作り方を教えたのは事実なんだ。あんな奴らに危険な知識を与えること自体が問題なんだ。法律の問題じゃない。社会が乱れたら不幸な人が増えてしまうんだ」
 ちょっと、ビックリした。僕の知らない父さんがいた。少し怖かった。
 父さんが言った意味の全部を理解できなかった。でも、何かが違う気がした。僕は思い切って訊いてみた。
「ねぇ。機密文書って何ぃ。父さんは何か知っているのぉ。あの女が父さんの事をスパイだって言ってたよ」
 酷い事を言ってしまった。だけど、父さんは顔色一つ変えずに、(むし)ろ澄んだ表情で呟いた。
「スパイかぁ。ナオがそんな事を。爆破事件のでっち上げを隠ぺいする機密文書なんて、もう無かったんだよ。ソンブゥは勇み足を踏んで穴に落ちたんだ。ただ、政府の機密文書っていうのは存在するのが当たり前なんだ。高い塔を建てる為には地下深くに強大な土台を造らなくてはいけないんだ。誰にも知られない強大な土台が高い塔を守るんだ」
 まるで、自分に言い聞かせているような父さんの口ぶり。父さんは僕の知らない世界の人だった。
 それ以来、ナオの事もソンブゥおじさんの事も話題にする事はなかった。五年の月日が経つ。

 そして、僕らはあの日をむかえる。

 遠い場所の他人事だと思っていた。各地からの警告はあった。しかし、未知の流行り病が発生したとの報告を本気で聞く者はいなかった。
 この時、この街の誰もが二週間後に起こる事態を想像できなかった。
 あの時点で、情報を把握できるリーダーが市民の非難を恐れる事なく、決断する事ができていれば失われずにすんだ命があったのかも知れない。

 悪魔の足音は静かに近づいてくる。
 海岸沿いの町に出張していた職員が帰宅後に流行り病に感染し発症した。三日後、その家族と職場の人間が流行り病に感染する。
 世界中で非常事態宣言や都市封鎖が発令され、この街への警告は届いていた筈だった。
 翌日、数か所で感染経路不明の流行り病らしき報告があった。僕が体調を崩し始めたのも、この日だ。
 しかし、この期に及んでも非常事態宣言が発令される事はなかった。
 半年後にギシ郡の首都で大規模な球技の国際大会が開催される予定がある。経済界も後押しする大会の成功こそが政治的使命だと考える大統領と市長がいた。
 しかし、各国とスポンサーの要請により、国際大会の中止が決まると、真っ先に手のひらを返したのは市長だった。
 市長は強い口調で大統領に非常事態宣言の発令を迫る。
 非常事態宣言を発令できるのは大統領権限だ。発令後は、各自治体に於いて市長が先頭に立ち、流行り病の終息にあたるという手順だ。
 だが、大統領には、もう一つ非常事態宣言の発令を渋る理由があった。経済優先主義を掲げる大統領。その支持団体の業界が営業自粛に難色を示したのだ。
 まだ、山の物とも川の物とも解からない未知の(やまい)には人々の危機感が薄かった。
 各国や他の地域に遅れる事一週間。市民に事の重大さが浸透しだした頃、世論に押されるという形で非常事態宣言を発令する。

 こんな事態でさえ、政治は流行り病を利用した。
 現在の市長は今を去る事、四年前に大統領選に出馬していた。
 流行り病が市民の不安を煽る今、世間は強いリーダーを求める風潮になっていた。
 市民は自分で考えるより、指示してくれる人が欲しかった。
 市民の感覚より遅れて出された非常事態宣言に大統領への不満は募る。強いリーダーをアピールした市長の支持率は上がった。
 そんな時、国中で有名な俳優が流行り病で亡くなった。市民達は今、起きている事実に初めて気づいた。
 この機に乗じて政権への不満を煽る運動家が暗躍した。官庁街で陽が沈むと一斉に鍋をたたいて鳴らし、政府批判の運動が起こる。

「この病の根本的な解決策はあるんですか」
 記者の質問に対し、大衆の機嫌をとる政治家達と違い、衛生管理局の職員は市民の命を守る為に優しい嘘で言葉を濁した。
「発生源の特定を急いでいます。それさえ判明すれば対処できます」

 その四日前、この街がまだ平穏だった頃、僕は流行り病に罹患して病室に隔離されていた。
 思えば朝食が味気なかった。何を食べているのかさえ分からない。風邪にしては鼻詰まりも無く、気にしていなかった。その時は、それが流行り病の前兆だなんて考えもしない。
 朝、八時に仕事の現場に着いた。昼頃に寒気がしたので、用心して直ぐに帰宅する。
「すいません。今日、早退していいですか」
「どうしたぁ」
「ちょっと、何か怠いっていうか。風邪みたいで」
「何だぁょ。人、たんねぇのによぉ」
「今、変な病気、流行ってるみたいだし、うつしちゃうと悪いですから」

 帰宅中、僕は酔っ払っているみたいにふらついた足取りだった。
 帰宅して直ぐに部屋を暖め、布団で横になっても寒気が止まらない。
 午後になると熱が上がっていくのが実感で分かった。怠さと身体の痛みが増す。夕方には四十度近くの高熱になり、意識障害も起きる。天上が廻る。身体の痛みと共に空間が歪んでゆく。
 この時点で流行り病に罹患した事は間違いないと自己判断をした。病院に連絡する。
「御来院頂いても、うちでは流行り病の検査も治療もできません。衛生管理局に連絡してみてください」
 あっさりとした対応で言われた。衛生管理局に電話すると、指定の病院を事務的に紹介される。
 この時期には、まだ、流行り病への対応策を誰も持ち合わせていなかったのだろう。
 衛生管理局から紹介されて行った病院の待合室で二時間も待たされる。待合室で弁当を食べている人間までいた。何もかもが平和な日常の悪循環だった。
 悪寒と頭痛で座っている事も出来ない。辛そうにする僕を見て、受付の人が声をかけた。
「まだ時間かかりますが、どうしますか」
 この時にはまだ、衛生管理局の指導要綱が完成していなかった。医療関係者も、受付の係の人も流行り病に対処できないでいた。
 僕は帰るしかなかった。帰宅すると、そのまま寝床につく。世界がグルグル廻る中、寝ているのかさえ分からずに朝をむかえた。
 朝、衛生管理局に連絡し、症状を全て言った。三十分後に返信があった。
「二時間後に市立病院に行って下さい。あと、流行り病と断定されたら隔離されますので必要な物を持って徒歩で病院に行ってください」
 個人の都合を考えていない役人の保身的発言だろろうか。衛生管理局も病院も対応の仕方が整備出来ていないようだ。やっと辿り着いた病院で絶望的な事を言われる。
「検査をしても流行り病とは断定はできないし、治療法もないんです。寝ているしかないんです。万が一、流行り病でないと解ったら、検査するだけで高額な検査費は貴方の負担になりますよ。宜しいですか」
 法整備もまだ、整っていないのか。とにかく、病院に頼るしかない。
「検査だけでもしてください」
 検査できたのは昼近かった。夕方に入院が決まる。衛生管理局の計らいで指定疾病患者に認定されて入院費は免除された。
「入院費の心配は要らないんですね」
「はい。大丈夫ですよ。高額所得者ではないですよね」
「えっ。高額所得者って」
「あっ、大丈夫です。一応、手続きが有りますので御聞きしただけです」
 事務的な病院の対応。今想うと、本当の恐怖を知らない平和な時間だった。
 夕食の後、衛生管理局の職員から事情聴取をされた。この一週間に何処で誰と会って、何処に行ったか。
「シックスブックシティのキャバレーとかに行かれてないですかね」
「行ってません」

 後日に聞いた話では、僕の仕事関係者も二週間、隔離されたらしい。丁度、この時期に医療現場から、この流行り病の脅威と恐ろしさが蔓延しだし、急速に対処療法や制度が動き出したらしい。
 入院生活は寝ているしかなかった。今までの風邪など比べものにならないくらいキツイ。発熱後、四十度から熱は下がらず、咳も出てきて、頭痛もした。
安静にするしかないんだが、病院にいるというだけで安心感がある。
 隣の病室の人はヘビースモーカーだったそうだが、病状が激変して呼吸困難に陥り、入院して三日目に亡くなった。向かいの病室にいた喘息患者の人も亡くなったと聞く。子供の頃に苦しんだ喘息の記憶が蘇り、僕も死ぬかもしれないと思った。
 僕の病状が悪化する。真空状態で、もがくようだ。口を開けても空気を吸い込めない。集中治療室で酸素吸入される。三週間後に熱が下がり始めた。咳もずっと出てるわけではないが、温度差や湿度の違いで咳込む事がある。空咳が、しばらく止まらない。夕方になると怠くなる。

 当初、僕の住む街と海岸沿いの町では空気感が全く違ったようだ。
 三週間前まで、僕の住む街では買い物客や公園で寛ぐ人で溢れていた。同じ頃、海岸沿いの町では道路が封鎖され、外出禁止令が発令された。
 一ヶ月前に海岸沿いの町では、次々に高熱に倒れる人が病院に担ぎ込まれていた。その病院関係者や短時間だけ出入りをした運送業者にまで感染が広がり、四日後目からは毎日、千人ずつの人が亡くなっていったと聞く。
 海岸沿いの町は封鎖され、人類共通の見えない敵との戦争状態に陥った。二週間後には僕の住む街も緊急事態宣言が発令される事になった。
 熱が下がった後にニュースで知ったのは僕の知らない世界の訪れだった。
 あっという間に西の大陸中、いや、世界中に蔓延する流行り病。北の山の村では臨時遺体安置所が設営されたスケートリンクに死体の山が連なった。遺体は葬儀をする事も許されずに火葬される。
 市民の不安は煽られ続けた。公園でサッカーをしていた子供達が怒鳴られて、警察に通報された。感染が疑われた家族は人間扱いされなくなっていく。
 何も知らされていなかった南の村では、最初の患者が報告された三時間後に突然、村が封鎖された。人の移動は一切許されず、学校も商店も閉ざされる。許可なく出歩く者は逮捕される事態に陥った。
 奇妙なのは各自治体の管理が衛生管理局の職員ではなく、特別高等警察の管理下になった事だ。

 太陽の光が降り注ぐ日曜日の午後。公園の花は咲き乱れ、静かな微風が吹く。海岸沿い町では潮風に乗って波の音が微かに聴こえる。山岳の村に広がる青空を白い雲が、ゆっくりと流れる。そんな日常の穏やかな日に、人間達だけ経済活動が止まった。
 急ぎ過ぎた封鎖で物流まで止めたのが仇となった。明日になったら小麦一袋も手に入らないのではという恐怖が人々を襲う。
 週末にギシ郡の首都シックスブックシティの商店でトイレットペーパーの奪い合いによる死傷者がでた。
 東の大陸では銃の売れゆきが伸び始めた。各家で子供達と食事をするリビングに銃が置かれる。

 我々は分断の本当の恐ろしさを知らない。人々から笑顔は消え、疑心と憎悪が侵食していく。やがて、恐怖と絶望が訪れ、或る者は暴挙に走り、或る者は虚無の襲われる。
『人と人との接触を避けるように』と繰り返すしかなかった。
 疑心暗鬼になった人々はすれ違いざまに近づく人に対して舌打ちをする者が増えた。この時期に軽い頭痛を訴えたり、咳をすると白い目で睨まれる事が多くなった。

 明らかに微熱があり、咳の症状もあった女性が観光地を歩き回り、友人達とのホームパーティーにまで参加した。その三日後に女性の友人達は勿論、観光地の飲食店従業員が次々に流行り病の発症者となった。その女性は誹謗中傷の的となり、全く根拠のないプライベート情報までもが拡散した。
 営業を続ける飲食店や遊戯場では一般市民が脅しの張り紙を貼り、大声で怒鳴りつけたり、脅迫をして経営者や従業員を非難する。石を投げつけられる暴力も横行した。差別をする者よりも、差別をされる者の方が避けられた。
 飲食店を脅迫したとして、捕まった犯人は被害者と同業者の顔見知りだった。
 普段は子供達で賑やかな公園の砂場からカッターの刃が大量に見つかった。
 分断は人間の心を(むしば)んでゆく。
『疑わしきは罰せよ』をスローガンのように掲げ、自警団が街を監視する。自分達の正義を大義名分にし、他人の人権や尊厳を踏みにじっていく市民達。その根底にある見えない恐怖を直視せず、目に見える異質のものへの攻撃を繰り返す。
 いつの時代も戦争は暴走する正義の名の(もと)に始まる。今また、自分達の正義を信じて、他者の命を奪っていく事に気付きもしない市民達。

 新聞の紙面で大学教授のコメントが記載された。
『私達の敵は未知の(やまい)ではない。差別と分断と利己主義。そして、無知な妄想だ。人間は社会的な生き物なのです。他者の為に生きよ。共存するのだ。協力し合う事は競争する事より美しい。共に生きよう。相手を信じるのだ』
 同じ紙面に医療関係者から悲鳴にも似たコメントが記される。
『人類共通の相手と付き合うには人種も関係ない。宗教も関係ない。国籍も関係ない。貧富の差も関係なく、心を一つにして対応してください。隣人の協力なしには何も成し遂げられないのです』

 市民登録制を推し進めていた大統領は流行り病を利用した。
 市民登録番号に申請をして経済活動や行動報告をする市民にのみ医療支援、介護支援、財政支援を行う法案が提出された。
 弁護士が新聞の紙面で訴える。
『私は司法の世界の者ですが、司法、学術、芸術、そして医術に於いても政治とは一線を画すものでなくてはならないはずです。市民は政治の道具となる肉の塊ではない。意志を持った人間なんだ』

 衛生管理局の局長が泣きながら訴える。
『感染した人には何の罪もない。不当な差別などがあってはならない。人権への配慮を失くした時、我々は人間ではなくなる』

 そして、緊急事態宣言の延期が決定する。主要な鉄道の駅や感染道路など県境での検査が実地される。事実上の首都封鎖が実行された。日用品や食料は配給制になる。
 配給の取り合いになり、怒号が飛び交う。愛すべき隣人は存在しない。自分だけを守る為に血眼になる人間達。
 地獄のような光景を()の当たりにして、作り物の惨劇ではない現実に押しつぶされていく。
 見えない恐怖が社会を壊してゆく。僕達は何と戦っているのだろう。

 何処に外出するのにも当局に届け出なくてはならない。届け出を拒んだものは隣人から非難される。人々は言いたい事を口に出来ない世界で生きるしかない。
 言葉を失ってゆく子供達は従順な国民となる。

 大学の壁新聞に匿名の書き込みが張り出された。 
『私達は優しく生きる技術を身につけるべきだ。人らしくとは利己主義ではなく利他主義に徹する事だ。共存する為には共感力が必要だ。他者の個性を認めるのだ。個人を見るべきである。決して全体主義に走る事ではない』

 医療現場では見えない病から身を守る防護服すらなくなっていた。ゴミ袋で身を包み、看護するスタッフ達。
 ついに市内の病院が外来診療や入院患者の受け入れを停止し、一部の職員を自宅待機としていた。そして、感染者の中には複数の警察官が確認される。首都の機能が止まろうとしていた。

 この日、信じられない事件が起きた。流行り病に感染した夫を妻が殺害した。妻の逮捕後に保護された子供は流行り病に感染していた。
 ギシ郡の市長も冷静さの限界を超えた。
『人が死んでいるんだぁ。人に触れるなぁ』

 議会で非常事態法が成立し、大統領権限で無期限に非常事態宣言を継続できることになった。その権限の範囲は幅広く、人の移動、商売は勿論、報道規制にまで及ぶ。緊急を有する場合は議会を通さずに大統領権限で法案を可決できるようになった。
 野党や報道機関からは『人に保証されるべき自由と民主主義を犯す事になる』との批判を浴びたが、大統領は『その話は流行り病が終息してからにしよう』と言って取り合わなかった。絶大な権限を持った大統領が誕生する。
 街から一切の人影が消えた。
 一週間後。大統領は戒厳令法案を可決する。この街は、大統領権限で危機的状況の時には戒厳令を発令する事ができるようになる。戒厳令下では、現行の法律でも戒厳令下に相反すると判断した場合、軍の指示を優先する事になる。また、戒厳令下では司法、立法、行政も軍の指示に従う事になる。
 市民は強い権限を持つ大統領を超人として歓迎した。

 僕が二ヶ月ぶりに帰宅すると自宅の壁に『バイ菌』と書かれた落書きを父さんが消していた。
「お帰り。迎えに行けなくて、すまないな」
 微笑みながら落書きを消す父さんが言った。僕は目を伏せ、家に入る。父さんに辛い思いをさせたと想うと哀しい。

 ギシ郡の海岸沿いの町にある微生物研究所で流行り病のワクチン接種が始まる。通常では考えられない早さの開発に、国内外から称賛される。この町の出身者である大統領の発言力が高まる。
 通常国会の議案で大統領が法曹界の人事を握る法案が可決された。これで恒久的に司法や行政の人事権が一人の大統領に掌握される事になる。
 半年後、悪夢のような病が終息していく。しかし、世界中の会社で相次ぐ従業員の解雇は増え続ける。次々と倒産してゆく会社。
 大衆迎合主義の政治家が聞こえの良い支援策を掲げる。
 渋っていた大統領も大規模な支援策を打ち出す。ただし、治安維持の為という理由で非常事態宣言は継続したままだ。社会は解放される事なく、重い鎖に繋がれたままだった。

 大企業が拠点を置くギシ郡の海岸沿いの町は財政が豊かだ。
 流行り病の発生源とも考えられていたギシ郡の海岸沿いの町では多くの犠牲者を出しながらも公表される死者数は早い段階から減少していた。経済活動も早期に再開している。
 周辺諸国は流行り病の終息後も深刻な財政危機に陥る。多額の赤字国債で市民に財政支援をする各国。ギシ郡が、その赤字国債を買い取った。周辺諸国はギシ郡への借金漬けになり、各国の政策にまで口を出されるようになった。
 やがて、ギシ郡政府に対して各国の不満が集中する。国の公式発表として陰謀説まで言い出す。
『そもそも、あの流行り病は作為的に仕組まれた戦争行為だ』
 或る政策研究会では『一部の国は正確な情報分析を行わずに、政治的に優位な結論を導く為の情報を取捨選択している』と批判した。

 翌年、海の向こうの国で財政破綻が起きた。貿易赤字が急激に増え、産業の全てが低迷した。倒産、失業者が相次ぐ。その破綻した国では物価が高騰し、失業者が溢れ、インフラ整備が出来ずにスラム化した街角で若い娘達が外国人相手に性を売る姿が報道される。
 このギシ郡に外国人の出稼ぎ労働者が溢れ出す。治安が悪化し、外国人排斥を訴える市民のデモが起きた。

 ギシ郡の街で高齢の女性が殺される。強盗殺人の容疑で捕まったのは外国籍の男だった。海の向こうの国から出稼ぎに来た三十歳の男が警察署から裁判所に移送される時に事件が起きた。
 その日の午後。海の向こうの国で、また、あの恐ろしい流行り病が発症したというニュースが流れた。パニックになる人々。情報が錯乱し、裁判所の周りに興奮した群衆が押し寄せる。護送警官が群衆によって襲われる。容疑者の外国籍の男はリンチに遭い惨殺された。
 ギシ郡の各地で街の封鎖を訴える市民が溢れる。
 翌日、この街に戒厳令が発令された。
海の向こうの国で流行り病が発症したというのはデマだと判明した。しかし、戒厳令は敷かれたままだった。

 皆が去年の悪夢に怯えていた。
 流行り病の恐怖ではなく、隣りに居る人間が恐ろしかった。昨日の隣人は監視者となり、処刑人のように振る舞う。さっき、挨拶を交わした友人が本当に笑っていない事を知ってしまった。
 強いリーダーという超人しか、自分を守ってくれない事実が身に沁みて分かっていた。自分達がどう生きるかは考えない。指示が欲しかった。
 そんな頃にアイツを見かけた。あの女。ナオが公園でタバコを吸っていた。直ぐに通報され、警察官がやって来た。
「うっるせぇーなぁ。誰もいねぇんだからイイだろうがぁ」
「規則違反です。公共の場所での喫煙は禁止されています」
「お前らぁ、そのうちに家でも吸うな。塩は摂るなとかよぉ、言いがかりつける気だろう。あんっ」
 警官相手に、くだを巻く五十五歳の女。最悪だ。あんな女と僕は断じて関係ない。
 僕は、その場を急ぎ足で去った。
 帰宅すると居間で父さんとサヤの御母さんが話し込んでいた。
「こんにちは」
「お邪魔しています」
 サヤの御母さんが軽く会釈をする。父さんは僕に見向きもせずに黙り込んでいた。
「どうしたの。何かあったぁ」
 二人は黙ったままだ。
「そういえばさぁ。来週、サヤの誕生日だよね。二十一歳。今年は、ちゃんと誕生日会やろうかぁ。去年は大変だったし」
 サヤの御母さんは、すまなそうに微笑んだ。父さんが重い口を開く。
「実はな。サヤちゃん、週末に施設に入るらしいんだ」
「えっ。どういう事っ。そんなに体調、悪いの」
「いや。そうじゃないんだ」
 顔を歪める父さんがポツリと呟く。
「私は間違ったのかも知れない」

 何があったのだろう。

 サヤの御母さんの話では『優生国民制度』の施行により、成人した男女で労働できない者は全員、収容施設で生活する事になったそうだ。富国政策の一環として、労働人口の減少を解消する為、インフラ整備や労働環境の改善化を推進するという。
 昨年、多くの介護離職があった。これからは働ける者は、めいっぱい働かされ、働けない者は施設に集められて最小人数の最小資源で生活させられる。
 気づいたら僕らは、職業の自由も、住む場所の自由も、生き方の自由もない世界にいた。


 翌日、父さんが手紙を残して消えた。父さんの手紙には受け入れがたい事実が記されていた。許しがたい事実。だが、今の僕は父さんの無事を願うしか出来なかった。父さんの手紙を読み返す。

『私は間違った。官庁に勤めていた時の私の上司は、今の大統領だ。求心力があり、明確な使命感を持つ彼は、私の尊敬する存在だった。
 彼が退官し政界に行った後も、私はサポートを続けた。世の中は腐っている。道徳心を失い、決められた規則を守る事も出来ない輩が街に溢れ、国力は落ちる一方だった。
 私は子供達の将来に自慢できる美しい国を残したかった。その為には統率力を持つ強いリーダーが必要だという認識を彼と共有した。当時、特別高等警察の設置を提言し、市民登録制の法案を作成したのは私だ。
 あの日、私のディスクに押しかけて来たナオが作成中の法案を盗み見ようとして騒動になった。その事件後、退官した私は政策研究会を立ち上げ、彼のサポートを続けた。しかし、法案の通過は絶望的だった。
 私と彼には確信があった。強いリーダーがいない国は大衆という暴君によって滅びる。私は泥水を飲む覚悟で自作自演の爆破事件を仕組んだ。狙い通りに特別高等警察は設置される事になった。
 しかし、まさか爆破事件と同じ日に火炎瓶事件が起きるとは。しかも、犯人グループとナオに繋がりがあった。火炎瓶事件とナオは関わりないという確信はあった。
 だが、ナオの全てが許せなかった。普段から他者への配慮もなく自分の快楽を優先する態度。無鉄砲な無法者。事実、チンピラ達に危険な知識を与える行為自体が、私にとっては国家反逆罪に等しかった。検察がナオを検挙した時に、私は他人事として彼女を見捨てた。
 十年前、ソンブゥに『役人は自分の保身の為に機密文書は隠し持っているのが当然だ』と言った事がある。まさか、官庁に忍び込むなんて考えもしなかった。爆破事件の機密文書なんて、ある筈が無い。本当の首謀者は私なのだから。
 しかし、ソンブゥは別の機密文書を持ち帰って来てしまった。その機密文書が公表されれば、今の大統領の政治生命は断たれる。私は機密文書をソンブゥから預かり、交渉役になった。機密文書を処分し、事件は有耶無耶(うやむや)になる筈だった。結果はソンブゥが逮捕され、亡くなってしまった。
 道徳心も秩序も欠落していたのは私自身だった。個人の尊厳を認め、共存する事しか生きる術がないと知った。間違いを私の手で正さなくてはならない。
 ナオには済まなかったと伝えて欲しい。ソブン御爺さんとサヤちゃん達を宜しく頼む。強く生きてください。本当に済まない事をした』

 きっと、元官僚の父さんは機密文書の複写を隠し持っているのだろう。

 一か月後。分かったのは父さんが海岸沿いの町に向かったという事だ。
 どうやら機密文書の内容を裏付ける証人探しに出たらしい。絶対的権力者となった大統領を失脚させる為には、高い信憑性が必要だと考えたのだろう。
 父さんは微生物研究所という所の研究員や職員を訪ねた。しかし、証言はおろか面会する事も出来なかったらしい。所在不明の職員も数名いたそうだ。
 その後、父さんは商店街で聞き込みをした。父さんが聞きたい事の核心に迫ろうとすると、海岸沿いの町の住人達は一様に口を閉ざした。
 父さんが交通事故に遭ったのは、この頃だ。
 警察の記録によると、車道に突然飛び出した父さんがバイクに跳ねられた。幸い命に別状はなく、全治二週間の打撲と診断された。ところが、父さんは救急搬送された病院の入院を拒否したという。
 そして、父さんは海岸沿いの町から姿を消す。
 次に父さんの目撃記録が残るのはギシ郡の首都にある感染症医療センターだった。交通事故に遭った翌日、父さんは自ら感染症医療センターを訪れ、検査と隔離を申し出たという。
 後で分かった話では、父さんは微生物研究所に忍び込んだ。その時、感染症に感染した疑いがあると思ったらしい。父さんは非常に感染力の強い感染症に罹患していた。翌日には奇病を発症し、一週間後に亡くなる。
 感染症医療センターで奇病患者が亡くなったニュースは全国に報道された。その日の夕方。大統領は戒厳令下に於ける外出禁止を強化するように伝達する。
 その翌日。匿名の告発状が全国に出回る。報道機関は当初、戒厳令下の報道規制で躊躇していた。しかし、街中に拡散したチラシと壁新聞を後追いするかたちで告発状が報道される。
 告発状には問題の機密文書が記載されていた。
 国会議事堂を百万人の市民が取り囲み、大統領の辞任を訴える。市民と対峙する軍隊。軍の司令官が合図をするとバリケードが撤去された。国会議事堂に雪崩れ込む市民達。
 一か月後。検察庁は大統領を特別背任容疑で取り調べた。

 機密文書は『微生物研究所事故報告書』というものだったらしい。
 事の発端は十一年前に起きた奇病だ。海岸沿いの町にある微生物研究所に勤務する女性研究員が原因不明の病気に罹患して意識不明になった。
 しかし、新聞の記事にもならなかった重大な事実が『微生物研究所事故報告書』には記されていた。
 女性研究員が奇病を発症した十日後に近くの商店街で働く男性が似た症状の奇病患者として市立病院に入院した。原因不明の奇病は感染症の疑いがあり、直ちに患者は隔離されたという。患者との生活圏における接触者の調査も行われる。
 その男性患者の息子が微生物研究所の職員で、意識不明の女性研究員の恋人だという。男性職員は奇病を発症する事なく生活を続けていたが、父親が入院した翌日に隔離された。
 その翌日、四十名近くの奇病患者が発生する。その六割近くは商店街関係者。四割近くは微生物研究所の職員だった。海岸沿いの町の市長は事の重大さを認識していたにもかかわらず公表を避けた。
 市長は街一帯を封鎖して、一か月後には平常に戻ったという。微生物研究所に勤務していた奇病患者全員が病状は回復した。しかし、商店街関係者の奇病患者は二割以上の死亡が確認された。
『微生物研究所事故報告書』には、『徐々に毒性を増していく、この病気は重大な人為的事故によって発生し、感染拡大した可能性がある』と記されていた。
 当時の市長は自分が肝いりで推し進めていた政策の微生物研究所で起きた事故を隠ぺいしたかったのだろう。その後、市長は財界や官僚にも頼りにされる存在として政界の重要人物になる。そう、現在の大統領だ。
 今回の流行り病と関係があるのかは分からない。しかし、十一年前に、この報告書が公表されていれば世界は今と違う景色だったはずだ。


 僕は父さんとソンブゥおじさんの御墓参りに来た。
 墓地の小高い丘から僕達の住む街が見える。
 高い塔の建ち並ぶ街が夕陽で真紅に染まる。
 やがて、薄暮の空から冥界へと光が落ちてゆく。
 僕達の住む崩れかけの塔の下に漆黒の闇が広がる。

 翌朝、公園のベンチにナオが座っていた。僕は少し離れてベンチの端に座りナオに話しかけた。
「ねぇ、あの告発状ってさぁ。ナオさんが拡散したのぉ」
 ナオは澄ました顔でソッポを向き空を眺めた。
「さぁ。何の事だか」
「今日は煙草、やらないんですかぁ」
 ナオは苦笑いするように微笑みながら答えた。
「もう、やめたよ。自由に煙草をふかす場所も少なくなったからね」
「いいですよ。うちに来て吸えば」
「えぇ」
 ナオはベンチにしな垂れかかっていた体を起こし、驚い表情で僕を見詰めた。
「あんたぁ、喘息なんだろう」
「窓を開けて、風通し良くして吸ってくださいネ。僕は外に逃げていますから」
 僕が冗談ぽく笑って言ってみせると、ナオは大笑いしながら嬉しそうに答える。
「はぁはっ。ふぅんっ。別に煙草なんて、どうでもイイよ。そうだぁ。今度、焼きそばでも作ってやろうかぁ」
 僕は首を振って立ち上がりながら答えた。
「遠慮しときますよ。そうだぁ。ソブン爺ジィが会いたがってましたよ。ソブン爺ジィの所でなら御馳走になってもいいですよ」
 ナオは照れくさそうに苦笑いをしながら二度、頷いた。   (了)
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  • 序章  胞衣の森

  • 第1話
  •  第一部 『空蝉の国《うつせみのくに》』

  • 第2話
  •  第二部 『迦楼羅の森《かるらのもり》』

  • 第3話
  •  第三部 『龍の柩』

  • 第4話
  •  第四部 『ビードロの街』

  • 第5話
  •  第五部 『国家の戒律』

  • 第6話
  •   最終章『迷宮の防人』

  • 第7話
  •  番外編 『崩れかけの塔の下で』

  • 第8話

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