第15話

文字数 2,422文字


 気付くと、ケントの眼鏡が飛んでいた。
 アスファルトに落ちて高く澄んだ音をたてたのが、どこか滑稽だと小雪は思う。

 小雪の右の手のひらに、ジンとした痛みがはしった。それでやっと、ケントを叩いたのだと気づいた。

 桃はこらえきれなくなったようで、声をあげて泣き出した。小雪は思わず桃を抱きしめようとした。けれど桃は小雪の腕から逃げようと後ずさっていく。
 小雪が手を伸ばしても、桃はいやいやと首を振る。

「桃、どうして?」

「小雪じゃダメなの。ケントくんじゃなきゃダメなの」

 その言葉は小雪を叩きのめした。
 自分が砕けて消えてしまったのではないかと思う。きっとなにかの聞き間違いだ、桃は今でも小雪を求めているのだ。そう思って桃を抱きしめようと思う。

 なのに、腕には力が入らなくて、肩からだらりとぶら下がるだけだ。桃にむかう視線も、だんだんと下を向いていく。これ以上、なにを言っても、桃は離れていくだけなのではないかと恐ろしくなって、小雪は目をぎゅっとつぶった。

 ケントは落ちた眼鏡を拾って握りしめている。
 桃はケントの横顔を見つめている。ケントの視線が桃に向かうことはない。桃はそれでも、ケントから視線をそらさなかった。
 ケントが何気ないことのように言う。

「須藤さん、君にキスさせてくれないか」

 桃が息を吸ったヒュっという短い音がした。

「そうしたら俺は今まで通り、相沢さんと付き合い続けるよ」

「いやだ、ケントくん! 私はいや! 小雪とキスなんかしないで!」

 桃がぼろぼろと涙をこぼす。小雪は桃の泣き顔から目が離せなくなった。美しかった。小雪が今まで見たどんな姿よりも美しかった。
桃はいつのまにか、小雪の知らない大人の女性になっていた。

 桃をこんなに美しくしたのはケントだ。小雪が側にいたら、桃はこんなに美しく成長しただろうか? こんなに憂いを含んだ涙を流しただろうか?

 嫉妬した。見惚れた。惹きつけられた。この世のすべてを引き換えにしても桃を手に入れたいと思った。桃をこんな風に変えてしまったケントが憎かった。桃のすべてを変えてしまったケントが妬ましかった。

けれどそんな憎しみなど、今はどうでもよかった。桃が、すぐそこで泣いている。
桃を泣き止ませることが出来るなら、たとえ桃が望まないと言っても、桃に憎まれることになっても、なんだってする。なんだって惜しくない。

 小雪は眼鏡をはずすと、ケントに近づき、その唇に食いついた。歯を立てて強く噛む。ケントは上ずった小さな叫びをあげて、小雪を突き飛ばした。
小雪は地面に転がる。ケントの唇に血がにじんだ。

「キスしたわ。これでいいわね」

 小雪を突き飛ばしてしまって呆然としているケントに、小雪は冷たく言い切った。顔を背けて、もうこれ以上、なにも話すことはないと態度で示した。

 立ち上がって制服についた塵を手で払う。
 顔をあげると桃が目を見開いて小雪を見ていた。がくがくと震えている。

「どうして、小雪……、いやだって言ったのに。ケントくんとキスしたら、いやだって言ったのに、なんで聞いてくれないの」

「桃、大丈夫よ。桜井くんだって本当は桃のこと好きなのよ。意地悪を言ってみただけだわ」

「うそ。そんなこと、うそ。知ってるもの。私、ケントくんがずっと小雪のことを見ていたの、知ってるもの」

 ケントは気まずそうに目をそらした。

「私、ずっと見てたの。小雪のことずっと見てたのよ。私から小雪を奪っていく人なんてゆるせないから、ずっと見てた。だから知ってる。ケントくんは、ずっと小雪だけを見ていたの」

 桃が涙をぬぐって、小雪に近づいた。くいっと顎を上げる。そうしてじっと、目をつぶって待っている。
 小雪は逃げ出そうとした。けれど、なぜか根が生えたように足が動かなかった。
 だめなのに。もう桃とキスしないって決めたのに。なのに、なんで動けないの。
 
 桃の肩を押そうと手をあげて、左手で眼鏡を握りしめていることに気付いた。ああ、眼鏡を外してしまったのだ。もう二度と桃の前では外さないと決めていたのに。

 左手が桃の背中に周る。右手が桃の頬を撫でる。懐かしい感覚だった。もう何年も、何十年も忘れていたように感じた。
 桃の唇に唇を合わせて目をつぶる。
桃が小雪の唇に舌を這わせて、ケントの血を舐めとった。
小雪は、くらくらするほどの甘い衝撃を感じた。今までのキスとは全然違った。桃の舌が二度、三度と小雪の唇から血をすべてきれいに舐めとった。
桃が小雪とキスをしてきた今までの痕跡も、きれいに消しさってしまうほど、激しいキスだった。

桃が唇を離した。なぜか桃は泣きながら笑っていた。

「ケントくんと、間接キス」

 えへへ、とかわいらしく、声をあげて笑う。その笑顔は今の桃には似合わない、子どもっぽい笑い方だった。小雪はその笑顔をよく知っていた。ずっとその笑顔を守るためにと、桃に触れることを我慢してきた。それなのに、桃は変わってしまった。

「じゃあ、さよなら、ケントくん」

 桃は屈託なく笑ってケントに手を振る。

「さよなら、小雪」

 桃の笑顔は今まで見た、どの笑みよりも、美しかった。
 見惚れて、なにも言葉を返せずにいる間に、桃は走って角を曲がって行った。小雪はいつまでも、そこに立ち尽くした。
 世界がゆがむ。なんでだろう。ああ、そうだ、眼鏡を外したからだ。
 握りしめていた眼鏡をそっと耳にかける。なんだか力が入らなくて顔をあげることが出来ない。地面がぼんやりと遠くにあるように見える。
 あれ、変だな。まだ、ゆがんで見える。急に視力が落ちたのかな。
 空中に、急に水たまりが出来たように見えた。地面と小雪の間に泉のように美しい水がある。

 ああ、私、泣いてるんだ。

 小雪の涙が透明なガラスに溜まって、世界は水の底に沈んだかのように静かに静かに、たゆたった。

 いつの間にか、小雪は一人になっていた。この世界に生まれてきたばかりの赤ん坊のように、たった一人になっていた。
 
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