第9話
文字数 1,645文字
「ケントくん」
いつものように、小雪とケントが並んで校門を出ると、後ろから声をかけられた。振り返らなくても小雪にはわかる。桃だ。桃がとびきりの笑顔で立っていて、小雪の背中を見ている。小雪は振り返ることが出来ず、ぴたりと立ち止まって動かなくなった。桃の笑顔を見てしまったら、我慢しているすべてのものが無駄になってしまう。
ケントは驚いて振り返って、桃を見つめた。桃はかわいらしく笑う。まるで小雪に向かって笑いかけるときのように。
心を全部、明け渡した時のように、赤ん坊のように。明るい笑顔で。
「二人きりで一緒に帰らない? ケントくん」
ケントの顔が見る間に真っ赤に染まった。桃は笑顔を崩さずにケントの腕に手をかけた。
「ケントくんって呼んでもいいよね」
確信をもって桃が口にした言葉に、ケントは考えるひまもなくうなずいた。
「行こ」
桃に腕を引かれてケントはふわふわと浮いているような、夢見るような足取りで歩きだす。桃は小雪の横を通り過ぎ、ほんの一瞬、顔を横に向けた。ケントが気付かないほど、少しだけ。
けれど、小雪には、はっきりと分かった。それは、桃からの合図だ。今戻ってきたらゆるしてあげる。今ならまた元のように桃のそばにいさせてあげる。桃の一番にしてあげる。
そう桃は小雪に告げたのだ。
だが、桃はそれ以上とどまることなく、ケントを連れて歩いていく。
駆け出したかった。小雪は今にも動きそうになる足を必死にこらえた。出来ることなら駆けて行って、ケントから桃の手を振りほどき、奪い返したい。桃を抱きしめたい。桃にキスしたい。人目なんかどうだっていい。桃がゆるしてくれるなら、なんだってする。
それなのに、小雪は動けない。震える手で眼鏡を押し上げる。ガラス越しに見る桃の背中はどこかいびつに歪んでいる。透明なガラス。世界をくっきり見せてしまうはずなのに、なぜだか、どんどん世界がおぼろになっていく。
大きく息を吐いて自分を落ち着かせる。膝が小刻みに震えている。力を抜いたら倒れてしまいそうだ。両手をぐっと握りしめて耐える。
ほんの少し、冷静さを取り戻して眼鏡を押し上げる。見える世界がどれだけ醜く変色しても、もう二度と、この眼鏡を外してはならない。桃と小雪を隔てる透明な硝子。それがなくなってしまったら、小雪の世界は粉々に砕けてしまう。桃の世界を傷つけてしまう。
たとえ、ゆがみきって、形あるものが何もかも見えなくなっても、ガラスがすすけて世界の色がわからなくなっても、外してはならない。
桃が去って行った先を見ているうちに、世界はどんどん色を失っていく。夜が忍び寄ってくるときのような、不安な濃いグレーに染まっていった。
桃はケントにべったりと、くっついて回るようになった。ほんの短い休み時間にもケントのクラスに出向いて笑顔を見せた。
ケントが小雪から桃に心変わりしたのだと噂が立った。小雪は心の中でその噂を笑う。ケントの心は最初からちっとも変わったりしていないのに。桃だって変わってはいない。桃が求めているのはケントを小雪から引き離すこと。小雪を独り占めしようとしたケントがゆるせなかったのだ。
それにくらべて、小雪の心はずいぶんと変わってしまった。黒々と、うねり、とぐろを巻く憎悪が育っていく。桃の側にいられるケントに嫉妬する気持ちを止めることが出来ない。
帰り道、桃を送っていくケントの背中を睨みつける自分を止められない。見つからないように後をつけていくことを止められない。
あの路地にやって来る。まっすぐ行けば小雪の家。右に曲がると桃の家。二人はそこで立ち止まり、いつまでも語り合う。ケントはそこから引き返して来る。桃は一人で角を曲がって行く。
桃は家の前まではケントを近づけない。それだけ、まだケントとの距離が近づいていないのだ。小雪とは違う。小雪はどこまでも桃に近づくことが出来る。それをゆるされた、たった一人の人間なんだ。
ケントに対する、その優越感だけで小雪は自分を保っていた。