第5話
文字数 2,590文字
「なあ、相沢桃ってレズなのか?」
渡り廊下を歩いていた小雪の行くてをふさいで、隣のクラスの渡辺タケルが、緊張した様子で尋ねた。小雪は立ち止まってタケルを見つめた。
運動が得意でクラスの中でも人気があり、友達も多い。明るくて優しいという話を聞く。ちょうどいい人材だ。
待っていた時が来た、と思った。
「桃は、レズじゃないわ」
「あのさ、じゃあ……」
タケルは言葉に詰まり、一度、天井を向いて呼吸を整えた。制服のポケットから白い封筒を取り出すと「頼む」と言って小雪に差し出す。
「相沢桃に渡してくれないか」
封筒にはなんの飾り気もなく、ただ真っ白で、表に「相沢桃様」とへたくそな字で書いてある。受け取った薄っぺらいその封筒は、小雪の手にずしりと重かった。紙の重さではない。小雪の心の重さだった。
桃を渡したくない。今すぐこの薄っぺらな封筒を突き返したい。その思いの重さだった。
けれど、小雪はぐっと唇を噛んで大きく息を吸った。
「渡しておくわ」
タケルと目を合わせないようにしながら、小雪は教室へ向かって歩いて行く。すれ違う時、小雪より背が低いタケルの頬が真っ赤に染まっているのが見えた。
目の前でこの封筒を破ってやりたかった。でも、もう、遅い。受け取ってしまった、小雪は振り返らなかった。
もう、小雪は決めてしまったのだ。桃を手放すことを。
翌朝、家から出てきた桃は、小雪を見て目を丸くした。
「わあ、小雪が眼鏡だあ!」
駆け寄って来て、ぎゅっと抱き着く。
「視力、そんなに悪くないよね?」
小雪を見あげて、眼鏡に触れようと手を伸ばす。小雪は桃の腕の中から抜け出して、眼鏡をくいっと押し上げた。
「どうしたの、小雪?」
きょとんとした桃から小雪は目をそらす。とても、目を見て言えるとは思えなかったから。
「ここで別れましょう。今日から、ひとりで学校に行って」
昨日から決めていたセリフを口にすると、すぐにでも自分が言ったことをなかったことにしたいという思いが湧いてきた。その思いが言葉になりそうなのを、ぐっとこらえて下を向く。
「え、なんで? 一緒に行こうよ」
突然のことに、桃は目を丸くして小雪の腕に手を伸ばす。小雪はすっと一歩下がった。
「小雪?」
とまどった桃は、宙に浮いたままの腕を胸に抱いて不安げに小雪を見上げた。
「これ、預かったから」
鞄から白い封筒を取り出して、桃に差し出す。桃は封筒をじっと見るだけで受け取らない。小雪は黙って桃の手に封筒を押し付けた。
封筒の表をじっと見つめていた桃が無表情につぶやく。
「……桃の名前が書いてあるよ」
「あなた宛てだもの」
桃はまた目を見開く。小雪に『あなた』だなんて呼ばれたことはなかった。いつだって桃が望むように、『桃』と優しく呼んでくれていた。
「桃、中身を読んで」
小雪の声が冷たい。桃はなにが起きているのかわからずに、言われるとおりに封筒を開けた。便箋を取り出して一目見て、すぐに封筒に戻した。
「桃のことが好きだって書いてあるよ」
「そうでしょうね」
小雪は桃から顔をそむけた。真っ白な顔に表情はない。桃は普段聞いたこともないような低い声でうったえる。
「意味わかんないよ」
「わかるでしょう」
「わかんないよ! 小雪はいいの? 桃が誰かと付き合ってもいいの?」
「そんなの……」
黙ってしまった小雪を、桃は期待に満ちた目で見つめる。手紙をなかったことにしてくれることを信じている。けれど、小雪は桃を裏切らなければならない。
桃の顔を見ないままで答えた。
「そんなの、あなたの勝手にすればいいわ。私には関係ないことだもの」
桃は封筒を投げ捨てて小雪にしがみつく。顔を上げてキスをねだる。けれど小雪は桃の腕から逃げていく。
「小雪……!」
桃が泣きそうな顔で小雪に呼びかける、手を伸ばす。小雪はそのたびに後ろへ下がる。小雪の背中が塀にあたり、それ以上動けなくなって、桃はやっと追いついて小雪の手を握った。小雪は強く握られた手を見下ろしながら、強い口調で言いきる。
「だめよ、桃。眼鏡がぶつかるからキスはできないわ」
「なに言ってるの、眼鏡なんか外せばいいじゃない」
桃は懸命に爪先立ちで、小雪にキスをねだりつづけた。けれど身長の違いはどうにもならない。桃の身長では小雪に届かない。桃は小雪の胸に顔をうずめた。
小雪は艶やかなその唇に触れたくて、桃の頬に触れたくて、口を開きかけた。
けれど目をつぶって深く息を吐くと、眼鏡をきちんとかけなおして横を向いてみせた。
「もう、キスはおしまいにしましょう。私たち、子どもじゃないんだから」
「小雪、なに言ってるの?」
小雪は桃を視界に入れないようにするために、意味もなく空を見上げた。梅雨入りしたばかりの空はどんよりと曇っていて、生ぬるい風が吹いている。
桃が小雪の腕にすがりつく。やわらかな桃の胸が小雪の体に押し付けられる。
その手は私のものなのに、その体は私だけのものであって欲しいと、ずっと私だけを見ていてほしいと、そう思っていたのに。
それはかなえてはいけないのだと、小雪はもう決めたのだ。
「女同士でキスするのって恥ずかしいでしょ。あなたもそろそろ人目を気にした方がいいわ」
「なに言ってるか、わかんないよ、小雪」
桃の目に涙がたまっていく。
「桃はぜんぜん恥ずかしくなんかないよ。誰に見られても恥ずかしくなんかないよ」
桃が小雪の腕をぐいぐいと引っ張る。桃の目を見ないようにするのは悲しかった。今すぐ抱きしめたかった。けれど小雪は唇を噛んで耐えた。
「大人になりなさい、桃」
腕を振りほどいた小雪を、桃は涙を浮かべた目で睨んだ。
「いじわる言う小雪なんか嫌い」
「そう。それじゃあ、渡辺くんが喜ぶと思うわ」
「渡辺? 誰それ」
小雪は封筒を拾って塵を払うと、もう一度、桃に差し出した。
「渡辺タケルくん。隣のクラスよ、知らない?」
桃はじっと小雪を睨む。
「小雪は何で知ってるの。他のクラスの男のことなんか」
「興味あるもの。男子に」
桃はきっと怒るだろうと思っていた。小雪は叩かれる覚悟もしていた。だが、桃は泣きそうな顔になって、封筒を握りしめると「もういい」と言って駆け出した。
思わず、手を伸ばした。桃の腕をつかみたかった。引き留めて抱きしめたい。誰にも渡したくない。
けれど、小雪はぐっと唇を噛んで、桃の後ろ姿が角を曲がるまで見つめ続けた。