玉尾芳郎氏

文字数 2,104文字

8.玉尾芳郎氏

 年が明けてからというもの、僕は何もかもうっちゃってまず原稿に没頭した。締め切りに間に合ったときは心底ほっとしたが、月末には京子の四十九日の法要が控えていた。けれど僕は、一度の休載は経たが、やはり当初の予定どおり三月で連載を完結させたかったので、今度は法要の準備に追われながらもそのぶん筆を進める絶対の必要を自らに課していた。水野君の励ましや読者からの応援葉書が僕にそれを約束させた。僕は、法要のための用意と学校の仕事、そして先を急ぎたい執筆それらの三重奏を並々ならぬ苦心によってどうにか奏でていたが、その忙しさによってむしろ救われている部分もあった。京子を自身の親友との旅先に永遠にうしなったかなしみ――それは一般の夫にはない感覚かもしれない――そのなんとも言えぬ喪失感を、僕は多忙に任せて薄れさせていくつもりでいた。はかなく散った日陰の野花――真実、京子はそうだった。可憐ながらも愛欲の熱情を秘めた、僕などには到底御すことのできない……彼女はそんな妻だった。娘のそういう一面を、きっと辰五郎氏は知らなかったろう。
 法要を無事に終えると、また一段と寒さが増した。K温泉ではとうに積雪をみているという……東京でも時折、舞うものがあったが、それは例年のとおり水気を多く含んだ重たいもので、路に落ちればすぐと灰色に変わってしまった。
 法要を機に五城と会った。社のほうの対応も落ち着き、降格減給のたぐいはまぬかれ、なんとか後ろ指もさされず以前のとおり忙しく過ごせているという。だが当分は温泉に足を近づけたくないと言っていた。湯ノ花に関する商談のいっさいも同僚に譲り、今はまったく別の事業を手伝っているという。僕もそれがいいとすすめた。
 僕も五城も、京子の話はあえて避けた。互いの目顔から、僕らはどちらもそれを感じ取っていた。何も言わないでいい……起きたことは二度とかえらぬ。五城が元気にやっているという事実で、僕には十分だった。

 僕はというと、身体は丈夫なのだが、二月になったあたりから一時期良くなっていた不眠の症状がまたも枕辺に忍び寄ってきていた。夜半にまんじりともせず天井を見つめているのは耐えがたく、起き直って机上に向かう夜が増え始めていた。おそらく自分でも気づかぬうちに心労をためこんでいるんだろうと思う。その原因の一として今住んでいるこの家がある。京子の法要がすんでみると、僕は彼女と暮らしたこの家に、彼女がいなくなってからもなおこうしてひとり起居を続けていることに頭をかかえたいほどの虚無を覚えるようになった。京子と交わした優しい思い出がふいによみがえると、ほろ苦い感傷が胸を突き上げ悩ましくってならない。ただでさえ原稿に追われているときだから引っ越しなどしている余裕は今はない。だがそれでもなるべく早いうちにここを引き払って出ていきたいという願いは持っていた。眠れないあいだ、原稿に飽いて日記も書いて、することがなくなると、僕は東京市の地図と路線図とを見比べながら、転居先の候補を考えるようになった。
 そんな折、二月の原稿を渡しに行った際、水野君と雑誌社を出て近くの喫茶店で久しぶりで腰を据えて話をした。連載の詰めと完結後の新作、互いの近況などさまざま語らったあと、他の作家先生方の話も出て僕は玉尾氏のことをそこで思い出した。不眠症の薬の件である。効き目のある薬をもらえるのであればぜひもらいたい。今こそとばかり僕はそう思ったが、しかしその話はまだ玉尾氏のなかに健在だろうか。最初に水野君から氏のその申し出を聞かされて以来、かれこれ四ヵ月近く経ってしまっている。
 僕が水野君にそう言って話すと、氏であれば必ず覚えておられる、だいじょうぶでしょうと彼が胸を張って請け合うので、何はともあれと一筆したためてみることにした。氏へ手紙を送るのははじめてだった。
 投函した翌日、返事が届いた。そんなにすぐ返信してくださるとは思っていなかったのでおどろいたが、中身を読んでみると、お手紙拝見、水野君よりかねて良薬の件相承知、ついては今月末に牛込の拙宅の書斎にてお目にかかりたいがよろしいかということで、無論快諾と感謝の旨、重々申し添えて新たに書き送った。
 首尾よく約束を取りつけて安心していたが、その約束の日が近づくと緊張も覚えた。あの玉尾芳郎氏である。まだ四十にも手が届かぬうちから元検事の現在は弁護士、研究熱心であらゆる芸事に通じ、かつ貴族院議員としてあらゆる分野に顔を広くされ、法律家や小説家のみならず政治家としての手腕も大いに期待されている、ものすごい方である。僕のような文壇の末席をうろちょろしている男が個人的に招かれ会見するなど、そうある機会ではない。子爵という肩書きにもふさわしい、上流の暮らしをされている氏の瘦せた鷹揚の立ち姿を思うと、それはこのごろの不眠に勢い張りつめた僕の深夜の脳髄、その中心に、たちまちにしてふわりと浮かんでくる。
 二月の終わり、迎えたその日は平日だった。僕は学校からの足をそのままに、少々くたびれ気味の背広に恐縮しながら、氏の待っておられる邸宅へと向かった。
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