追憶の春

文字数 5,274文字

10.追憶の春

 その夜は帰宅したのち、玉尾氏との会見についてさまざま日記にしるした。それから氏の書かれた小説を手もとにあるだけいくつか引っ張ってきて、あらためて読んだ。氏の話を聞いたあとだからか初見のときより興味深く、また氏のナイフのごときするどい視点に再度おどろかされながら読んだ。「立証できない殺人」――「法の限界」――「ときに法律でさえ嘘をつく」――深淵なテーマに、読み終えて息をついた。
 京子の死に関して氏の提示された可能性は、僕は真っ向から否定しているが、日記にしるすうち何かしら不安に胸がざわめいたのは致し方ない事実だった。氏の口上にかかると、さもほんとうらしく聞こえるのである。
 だがやはり僕は否定する。たとえ氏が何をおっしゃろうとも、どうしても五城が京子を間接的に殺してしまうなど信じられない。というより、あり得ぬ。いくら考えてみたところで、五城に京子を故意に手にかける理由は絶対にないのだから。可能性は単に可能性であって、それは仮説の域を出ていない。氏の言うとおり、氏はすべての事情を知っているでも明確な根拠を持っているのでもないから、ただ五城の才覚を、犯罪の領域において過大評価しているにすぎないのだろう。僕の必死の反論にもかかわらず、氏はご自身の御説についてはまだまだ言い足りぬようだったことが、しかし気がかりではある。きっと僕に対する親切な配慮から、あそこで取りやめにしてくださったのだろう。人をのむようなあのほほえみがまぶたの裏を泳ぐ。氏はまさにエリートなのだと思い知らされた。印象深い、敬愛すべき、そして恐るべき方だった。……
 ところで、そんなことをつらつら考えるうち、一時は興奮にうずいていた僕の頭を、氏から頂いた催眠剤は手際よく鎮めてくれた。のみすぎないよう注意したが、それでもすばらしい効き目だった。その晩僕はしばらくぶりでよく眠った。翌朝目覚めたときの思考と肉体の爽快は――忘れがたいものだった。氏には近々、また手紙を送ろうと思っている。

 玉尾氏の催眠剤のおかげで睡眠の具合がだいぶ改善し、三月に入ると、僕はいよいよ連載の最終回として、休載した月を含めたふた月ぶんの原稿の完成に心血をそそいだ。またそれと並行して、新たな住まいを物色することも忘れなかった。貸家でもよかったが、なるべく今の家を彷彿とさせない場所でなければ意味がないし、もう手狭でいいので、主には独身者用のアパートから探していた。引っ越す希望を持っていることは自分の実家にも辰五郎氏のほうにも伝えてある。そして承知を得ている。辰五郎氏は援助と世話を申し出てくださったが丁重にことわった。しばらく身内とは距離を置きたかった。そっとしておいて欲しかった。後妻の話などは、だからもし出たとしても、僕は当面耳を貸さぬつもりでいる。
 新居探しには、不動産をめぐるいとまがほとんどない代わり、同僚知人、友人に良い物件を知らないか尋ね、また五城も積極的に手伝ってくれた。東京区内でないと便が悪いのでなるべくそのあたりを考慮したが、思ったほど難儀せずに見つかる気配だったので安心した。ちょうど新年度で、区切りも良いし、できれば四月のうちに越したいところではあった。
 雑誌の三月号は増刊号だった。普段より多くの枚数で同じ締め切りを作家に守らせなくてはならぬ関係上、水野君も他の編集員も忙しそうだった。だが僕はようやく、三月半ば、予定の締め切りを遅れず原稿を仕上げることに成功した。四月へ持ち越さず、当初の計画どおり完結までこぎつけたのだった。出来不出来はとにかく、ペンを置いた瞬間はさすがに感無量だった……はじめての連載であったし、その最初の連続掲載の年が人生でも数少ない試練に襲われた時期と重なったことが、僕を必要以上に極まった思いにさせた。水野君は完結を厚くねぎらってくれた。誌上に掲載されたのち、ほかも呼んで内輪の記念祝賀会をひらくつもりでいるとまで言ってくれたが、僕のほうが照れてしまうのでそれについては承諾を迷っている。だが彼は大いに乗り気らしいから、ひとまずそんな大層なことにはしないでくれと頼みこんでおいた。気持ちだけで十分であるから。……
 そして完結とほぼ同時に、新居が決まった。改装したての、和洋折衷とでも呼べそうな木造アパートの三階の角が運よく空いたのを通勤途中であった五城が発見し、管理人に話をつけ電話で知らせてくれたのだった。改装したばかりとあって小綺麗だし、立地、賃料、間取りともに僕には申しぶんなかった。仕事後に内見をして、その場で気に入って入居を決めてしまった。管理人いわく、鍵は渡すからいつでも越してきてかまわないという。
 「そうですか。それじゃ、来週にも……」
 僕ははやる気持ちで言いかけたが、思い直してやめにした。現在の家――自分の持ち物はよしとして、京子の遺品――その整理と始末をつけなくてはならず、それは決して気楽に取り組める仕事ではないと悟ったからだった。辰五郎氏に頼んでしまおうか――とも思った。だがそれも、考えてやめた。京子の実家に頼むのは引き取りだけにし、できるかぎりの片づけは自分でやることにした。転居は学校の新学期の始まりに合わせ、四月の初旬にすると決めた。

 時節は開花を告げようとしていた。春である。雪はいつの間にとけたのだろう? ひと足早くに咲いた梅が、変わらぬ艶姿を今年も静かに見せていた。
 春期休暇に入った三月下旬、つかの間自由な余暇の取れるようになった僕は、引っ越しの準備のため、京子の遺品の整理に取りかかった。晴れたうららかな昼過ぎ、さみしい自宅にひとり腰を下ろしていた。
 楽しい作業ではなかった。……僕の手は幾度もためらい、止まった。亡き妻の遺品を片づける夫が人の目にどう映るか、僕は自分で見ずとも分かる。京子と暮らした約二年の思い出が、彼女の使ったものに触れると今さら濁流のように僕の胸に流れこんだ。大事にしまわれていたものより、以前は気にも留めなかったささいな品ほどその勢いは強かった。けれど僕がもっとも激しい感情にうたれたのは、葛籠(つづら)の一番下で丁寧に包まれ眠っていた美しい振袖――はじめて彼女が僕と引き合わされたあの日に彼女が着ていた――それを見たときだった。葛籠のふたを閉じ、深呼吸をしなくてはならなかった。ういういしい娘だった彼女とあのとき交わした会話が、忘れていたような微細な点まで恐ろしく鮮明に思い出されて震えあがった。これを肩にかけ、袖に腕をとおした人間はもういない……そのとき僕に向いていたあの淡い心は、彼女と一緒に永久に消えてしまった。
 僕はひたいの汗をぬぐった。休憩をはさみつつ、数時間かかってそのつらい仕事をした。やむを得ず手文庫もあけた。彼女の貴重品を入れた箪笥の引き出しもあけた。五城からの秘密のたよりがもし隠されていたらどうしようと情けなく怯えていたが、それらしき文は見当たらなかった。
 ひととおり片づいたあと、最後に非常なひと仕事が待っていた。僕はその仕事を一番しまいまで取っておいたのだった。僕はそれまでなるべく見まいとしていた目を、未開封の包みへとやっと向けた。K温泉管轄の郡警察から昨年の暮れに送られてきた、それは京子が死んだ日の彼女の所持品一式を詰めた荷物だった。
 外は早夕暮れどきで、薄寒い風があけた窓から吹きこんでいた。僕は窓を閉め、息をつき、包みを前に逡巡した。こればかりはこのまま辰五郎氏のもとへ送り返そうかと思った。だがそれができない理由がある。もし五城に関する個人的なものが入っていたら、五城と京子の事情を辰五郎氏は知らないため、氏に無用の疑問をいだかせることになる。五城に尋ねて確認してもいいが、僕はそれをしたくない。
 僕は包みの封を切った。緊張せずともよいのに指先がおぼつかなかった。中身をひらくと、僕の想像していた品々がこぼれ出た。あの日京子が身に着けたのだろう着物やショール、化粧品や髪留め、一泊のことでそれほど量はない。どれも僕の目に新しいものではない――ただひとつを除いて。
 僕はそれを包みから出した。これは辰五郎氏のもとに届かないほうがいいと思った。包みをもとどおり戻すと、取り出したものをしばらく見つめていた。破棄するか、残すか……悩むうちに目を閉じていた。振袖を着た京子の姿が、閉じた目の奥にだんだんと浮かんできた……。
 翌日、僕はK温泉へと向かう列車に揺られていた。

 京子を偲ぶというと、大げさかもしれない。けれど自分がかの地へ行くことが、ほんとうの区切りになるような気がした。それがほんとうの意味で京子との別れになると思った。僕はその別れを、彼女と暮らしたあの家を出ていく前にすませたい……そう思って、だれにも言わず予定も立てず、早朝、上野のプラットフォームから列車に飛び乗った。
 温泉街には昼過ぎに到着した。僕は帽子を目深にかぶり直し、まだどこか冬の名残をとどめている河原沿いを歩き、その薄青のような薄緑のような美しい川面を見た。湯畑から立ちのぼる煙を眺め、あたり一帯にただよう硫黄の匂いを嗅いだ。胸が締めつけられた。快晴のK温泉は盛況で、立ち並んだ土産物屋の軒先には多くの観光客が集まって名物の茹で卵を食べたり、菓子を食べたりしていた。僕は香を売っている店を探し、難なく見つけた。京子と五城について警察に証言した店主とおぼしき男が、奥に座って何か読んでいるのも見えた。が、入ってはゆけなかった……「ときわや」の荘厳重厚な門構えを前にしても、そうだった。宿の者に身分を明かして話を聞くなど、到底できぬことだった。だが案内所の男に話しかけられて知ったが、京子が死んだあの特別室は、事件があって以降ひと月ほど使われていなかったものの、今では以前のとおり利用できるらしい。そして大概予約で埋まるらしい。僕はその男に宿の紹介を頼んだ。だが「ときわや」だけはよしてくれと言い添えるのも忘れなかった。
 「おや、なぜですか。あすこは一等人気ですよ」
 男は、僕が京子の事件を知っていて「ときわや」を避けたとみたのだろう。わざとからかうようにそう言った。
 「ですが、あまり長湯しちゃあいけません。めぐり湯は昔っから御法度です。源泉に顔を近づけるのもいけません。どうも、お願いしますよ」
 「分かっているよ」
 「『ときわや』でも注意書きをするようにしましたから、よっぽどだいじょうぶでしょう。二度とあんな事故は、僕らだってごめんです。悪いうわさがついて客足が遠のいちゃたまったもんじゃない。いや、びっくりしましたからね、あの事故には。そうめったに起きないんですよ、ガス中毒なんてね。湯ノ花を採るとき、あんまり夢中になるもんでいきなり倒れちまった奴が昔いたのは、知ってますがね」
 「うん」
 「別嬪の奥方だったそうで。大変残念でしたよ、あなた。まさかあんなことに……」
 男はまだもっと話したそうだったが、僕は身ぶりで制した。夜はどうするか、若い()いのがそろっているが、とも尋ねられたが――僕が男ひとりだから――だれも要らないと一蹴し、宿だけ決めて早々に退散した。
 僕はただ、五城に連れられ京子がたどったであろう路を、通りを、歩いてみたいだけだった。この世で京子が最後に見たであろう景色のいくつかを、春の兆しを得たこの地に僕も見てみたいだけだった。そうして京子との記憶に思いをはせることができれば、それで良かったのである。
 夜、灯籠のあかりに照らされた湯畑のそばに立つと、白煙に眼鏡が曇った。共同浴場で入浴している男たちのにぎやかなかけ声を耳に宿へ戻ると、階段の前でちょうど数人の芸妓が入ってくるのとかち合った。そのひとりと目が合った。まだ十六、七の優しい細面がどことなく京子と似ていた。その芸妓ははっとした僕へちょっとほほえむと、いそいそと鏡で自分を確認して、「(ねえ)さん……」と先行くふたりを呼びながら廊下の角を曲がった。そのとき、たぶん僕のようすに目ざとく気づいたのだろう、僕の履き物をそろえた女将が「お呼びしてみましょうか」と笑った。
 「おあとでよろしければ。新しい()ですよ」
 僕は慌ててかぶりを振った。
 部屋の窓から星がよく見えた。どこかから聞こえる三味線の音色、もうもうと絶え間なく立ちのぼる白煙の雲、かすかに届く硫黄の匂いに湯上がりのほてった身をさらしながら、僕は静かに日記をつけた。あの芸妓が「姐さん」と呼んだとき、「鼎さん」と僕を呼んだ京子の声が懐かしかった。もしあのうら若い美しい芸妓が、優しい口もとで、何も知らずに僕のそばへ来て僕の名を呼んだら、もしかして僕は泣いたかもしれない。……と、正直に書いた。
 午後十時を過ぎたとき、僕は京子のために瞑目した。風が肌をなでていった。
 その風が別れだった。
 翌朝、僕は東京へと帰路に就いた。ようやくひとつピリオドを打てたような気持ちで、次々と流れていく山麓の景色を、飽かずいつまでも見つめていた。
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