五城時次

文字数 5,069文字

2. 五城時次

 「どうしたんだい、ひとりか?」
 尋ねた五城は仕事用の背広を着こみ、革靴を雨に濡らし、光沢のある髪毛をいつものとおりきっちり分けていた。老舗の和菓子屋の包みを手に提げていた。僕はうなずいて言った。
 「きみこそ、どうしたんだ。きょうは仕事は休みだろう」
 「取引先の重役のところへあいさつに行った帰りだよ。今度の商談のことでね」
 彼は手の包みを目で示した。
 「これの原料が商品さ。上質なレッド・ビーンズだよ」
 「あずきをどこへ売るんだ」
 「どこへなりとも。売れるところへ、さ。当然、餡を好くのは我が国だけじゃないからね――そういえば乗ってきた電車にきみのところの女学生さんが大勢いたよ。きょうは学校だったのかい」
 「いや、休みだよ。大方、来月の合唱コンクールのための自主練習だろう。どのクラスも一等狙いだから」
 「きみは付き合ってやらないのか」
 「まさか。僕は歌えないよ。知ってるだろう」
 「だれかに会ってきたのか?」
 「いや、何もしてない。だれとも会ってない。ただ散歩してたんだ」
 「わざわざこんな雨を選んで歩くことはないだろう」
 停車場への行き交いで周囲はごった返していた。次の発車を告げる車掌の呼びかけとけたたましいベルの音、無数の人声が入り乱れ、むせ返るような彼らの体臭が雨の匂いに混じって鼻をうっていた。
 ちょっと話さないかと五城は僕を誘った。
 「じつはウイスキーでも引っかけるつもりで降りたんだ。付き合わないか。いいだろう?」
 顔を見るのは僕はひと月ぶりだった。それはある人にとってはたったひと月でも、僕らにとっては長い期間に相当した。だがこのごろのような僕では彼と酒を飲む気分にはとてもなれない。それどころか、彼と会うことさえ今は避けていたいほどだった。
 僕はことわろうとしたができなかった。とっさにはうまい理由が浮かばなかった。ためらったあと、「それじゃ」と言って仕様なく肩を並べた。歩きながら、彼はちらと僕を見て尋ねる。
 「ひょっとして行き詰まったのか?」
 締め切りの迫っている僕の原稿の進み具合を気にしているのだった。僕はそれには答えずあいまいにかぶりを振り、足もとへ目を落とした。

 五城時次と僕は大学の同級だった。そしてその学生生活をとおして互いにもっとも語り、議論し、笑い合った無二の親友同士だった。
 いったい五城と僕とでは、その生まれや育ってきた環境、またそれぞれの性格や性質において多くの点で食いちがっていたのに、どうして僕は五城とよく一緒に過ごした。彼との思い出は数多くある。
 五城という男は元来、何をするにも効率が良かった。得手不得手にかかわらず、要領をつかむことに長けていた。在学中、共に苦手としていた器械体操では、体力自慢の同輩から笑われるのは大抵僕であって五城ではなかったし、定期試験では彼は総合上位成績者の枠を一度もはずれなかった。
 また五城には人望もあった。思想的に強いものがあるではなく、熱弁をふるわず、自らはたらきかける積極性があるでもなしに、目立たずともただ静かに日々を送るだけで彼は周囲の人間を惹きつけていた。それにはいろいろの理由があると思う。僕自身、親友としてそばで交際してきたから彼の魅力はよく分かる。彼は理知と才気にあふれた、落ち着いた物腰のほがらかな青年だった。売り出し中の映画俳優のようなやや彫りの深い、肌の白い、どこか少し女にもしてみたくなるような面立ちと思慮深い微笑が、その内側の魅力をさらに高め引き出していたことはまちがいない。
 学生でいるあいだ、僕は五城にいくつか借りを作った。僕とちがい、五城には毎月の豊富な仕送りがあった。彼の父は日本における心理学研究の先駆者のひとりで、五城博士といえば学界では権威ある存在だった。
 その博士が息子のため惜しみなく与えてやっていた学資の一部を、五城はあるとき、はじめて行った遊郭でのひと晩に使った。それには僕も同行した。他の多くの学生同様、その場所に対する興味を当時どちらもかかえていて、五城はそのことを「実施実験」と称して金のない僕のぶんも肩代わりしてくれた。
 あるときは、これも当時多くの学生のあいだではやっていた欧州の哲学本に僕がいっとき熱を上げたとき、五城は高価なそれらを早速と買いそろえ、ふたりで回し読み、分かりもしない内容を夜ふけて熱く論じた。
 あるときは西洋料理屋へ行った。劇場へ行った。学内の有志による秘密映画の上映会へ行った。それはふたりとも途中で気分を悪くして出てしまった。
 規則や思想に縛られた時に窮屈な学生生活で、そのささやかな息継ぎのために必要な支払いの大半はいつも五城だった。面目上僕が遠慮をしても、きょうこそはと思って自らのふところの無理を押して払おうとしても、彼は「出世払いでいいさ」と言うだけだった。その言葉さえもまるで冗談であるかのように執着しなかった。英仏の小説や詩や演劇など、どちらかといえば僕の好みだったにもかかわらず、彼は冴えないロマンチストでしかなかった僕の趣味に黙って合わしてくれていたのじゃないかと、今にして考える。……
 約十年このかた、五城はそんな男だった。我が友ながら、あまりに出来た人間だと言うほかない。卒業までに五城が僕へ貸した正確な金額を、彼はもはや記憶にとどめてさえいないのではあるまいか。出世の途はとうに僕などのがしたが、五城は学生時代の僕の借りについていまだに何も言わない。その気配もない。
 「先月の掲載ぶんを読んだよ」
 杯をかたむけ、五城は言った。
 「問題はないようじゃないか。面白いよ。続きが気になるね」
 停車場からほど近い一軒の店に腰を落ち着けてから、五城は僕の締め切り前の原稿のことをふたたび話題にのぼらせた。彼は僕がひとり雨のなかをさまよっていたのを、僕の筆の進みに関係があるととらえたようで、その心配をしてくれているのが口の端から伝わってきた。
 僕は琥珀色に揺らぐウイスキーをあおった。五城は重ねて、
 「このごろすっかり売れっ子じゃないか。たった一年かそこらで、きみは世の少年たちの心を手中に収めてしまったわけだね。立派な日曜作家だ。きみの描く冒険譚やスパイものは、確かにいい」
 「よしてくれよ。僕なんてのは……今だけだよ。どうせ一時のことさ。人の心は移り気だ」
 「いつも言うようだが、教師のかたわら書くのじゃ大変だろう。今月は間に合いそうなのか」
 「まあ……平気さ。じつは今月は書き終えてる」
 「そうか。それならよかった。しかしきみの話を聞いていると、大概期日にギリギリじゃないか。連載ってのは、そんなもんか。まるで綱渡りだね、まったく」
 「ああ……まったく。……」
 空いた椅子にのった和菓子の包みが目についた。五城は貿易会社に勤め、将来を期待され有望視されていた。僕も彼の前途に障壁はないと思う。彼はやがては重役を務めるうつわだろう。彼の手腕にかかればなんでも有益な商品になるだろう。それがたとえなんのこともない大豆だろうと、小豆だろうと……。
 僕はふいに、たぶん小豆からたどり着いたのだろう、かつて僕が経験した一大恋愛を久しぶりで思い出した。それは初恋であり、またはじめての失恋でもあった。五城はその時分の僕の煩悶をおそらくはだれよりよく知っている。僕はとある汁粉屋の娘に恋をしたのだった。お(こま)という当時十六だった、プロをのぞいて僕が知った最初の女だった。美しい目をした娘だった。僕が大学を出たら夫婦となって一緒に暮らそうとかたく約束していた。
 けれどその約束は間もなく反故になった。そのあきらかな理由を僕は知らないままでいる。定期試験のために僕はお駒に会えずにいた。重要な試験だったので机を離れられず、さらには連日の徹夜がいけなかったか試験直後の夜からたちの悪い風邪をひいて、二週間ほど床に入ったきりだった。完治してようやく会えると思った矢先、僕は汁粉屋のおかみから、お駒が郷里へ帰ったと聞かされた。彼女は僕にひと言もなく僕から去ってしまった。それからなんの音信もなかった。数ヵ月のち、彼女が郷里の田舎の然るべき人物のもとへ嫁入りしたことをおかみの口から知った。
 唐突なことに僕は悲嘆にくれた。すぐには受け入れられずその悲嘆はしばらく続いた。お駒は僕に愛想をつかしたのだろうか? 僕と恋愛していたころから里に縁談があったのだろうか? それならそうと話してくれたらよかったものを。
 実際、お駒が僕に別れのあいさつも手紙もなく姿を消してしまったことは、その後の僕に深い傷を残した。努力の甲斐あってそのときの定期試験の結果は上々だったが、僕ははじめて味わった失恋のかなしみのあまり、立身出世への情熱的野心というのをそれなりうしなった。五城はもちろん、ほかの同級の友人らの励ましを受けそれでもどうにか勉強のほうは続けられたが、実家の商売は長兄が継ぐし、かといって別段のつてもないまま、卒業と同時になんとなく女学校の教師になった。ちょうど英語科にひとり欠員がいたのだった。周りが給金の良い会社の社員や、官吏や弁護士など、意気揚々と社会への一歩を踏み出すなか、教師になると決まった僕は多少なりとも彼らのあわれみの対象となっていただろう。その女学校が都下有数の名門であったことがせめてものなぐさみだったろうか。五城はしきりと「もったいないようだよ」と残念がった。教師という職がもったいないのではなく、その職業では僕の能力を十分に生かせないと言うのだったが、そんなことはない。五城は僕を買いかぶっている。
 お駒との恋が破れて以来、あの汁粉屋には行かなくなった。それから数年のうちにおかみは身体が利かなくなり商売をたたんでしまった。僕を捨てたお駒はあれからどうなっているだろう。あのころ僕がどれほど彼女のために苦しみ打ちひしがれていたか彼女は知らないだろう。だが彼女を恨むつもりは昔も今もない。きっと何か事情があったのだろう……。

 酒場を出ると雨足はよわまっていた。通りに灯がともり、濡れた路が夜の水面のように光っていた。そこを縦横無尽に人々が踏んでいく。
 酔い覚ましに少し歩こうということになった。大通りを横丁へ逸れ、新たな路地を停車場の方角へとゆっくり迂回していく。
 その間、僕は五城の横を歩き、彼の話に言葉少なに相づちを打っていた。だが電車の停留場が遠目に見えたとき、ふと気がついて歩みを止めた。
 「五城。きみは電車で帰るんだろうね」
 尋ねて時計を見た。ここから電車で自分の家へ向かうと、乗り継ぎが二度もある。帰りは遅くならないと京子には言ってあったが、この時間ではそれも守れていない。であれば、乗り継ぎにかかる待ち時間はもはや問題ではない。運賃を考えればどのみち電車のほうが安上がりだろう。自動車は一度使うとそればかりになってしまう。僕は思い直してかぶりを振ると、
 「やっぱり僕も電車にしよう」
 と言って歩きだしたが、少し行ったところで五城が往来へ向け手を挙げた。そして通りがかった流しの自動車を呼び止めた。僕がおどろいていると、五城は取り出した一円札を僕に握らせようとする。
 僕はそれを押し返そうとしながら、
 「きみ、いいよ。電車にすると言ったじゃないか。辞退するよ」
 五城は扉をあけた円タクの運転手へ僕の住所を告げると、僕を振り返り、
 「いいから、取っておいてくれ。僕が付き合わしたのだから」
 と紙幣をつかませる。
 「京子さんが心配するだろう。早く帰ってやれ」
 五城の口から京子と聞いた瞬間、僕の身はかすかに震えた。動揺した。やめてくれと言いたかった。
 僕は彼によって強引に車内に押しこめられた。
 「旦那、参りますよ」
 運転席から声がかかる。
 「待ってくれ」
 五城は運転手を制すると、扉の外から僕へ言った。
 「尋ね忘れていたよ。京子さんは元気かい?」
 数秒間、僕は何も言えなかった。苦労して、からからになったのどをひくつかせて答えた。
 「ああ。――元気さ」
 「何よりだ」
 五城はほほえんだ。
 「奥さんによろしく。また近々。今月ぶんも楽しみに拝読させてもらうよ。それじゃ――」
 扉が閉まった。すぐさま自動車が発進した。
 「旦那、飛ばしますか」
 「いや、いい。よしてくれ。ゆっくりやってくれ……」
 僕はぐったりと座席にもたれ、頭上の幌が奏でる雨音をむなしく聞いていた。それと混じって五城の言葉が、脳裏に反響していた。
 京子さん……京子さん……。
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