惑いの夜長

文字数 4,828文字

3.惑いの夜長

 立てた雨戸の隙間からあかりが漏れていた。京子は玄関の戸をあけた僕をすぐさま出迎え、僕の帽子に付いた水滴をはらって取り上げた。
 「遅かったわ、鼎さん。心配しました」
 「ごめんよ」
 「お食事は?」
 「まだ」
 「あら、よかった。すぐお支度します。何をしてらしたの? こんなに長いあいだ、お散歩していらしたの?」
 僕はあいまいな返答をした。着替えてから僕が食事をするあいだ京子はかいがいしく給仕をした。京子は掃除洗濯から炊事、裁縫のいっさいまでなんでもひとりでそつなくこなした。
 他愛ない世間話をしながら僕は京子をそれとなく見つめた。子を産んだことのない肢体はなめらかに畳を滑り、人妻としての気品と素養を十分に備えながらも、世情から離れたあどけないういういしさが折にふれて垣間見える。
 京子はつつましくそばにひかえ、僕へ笑いかけていた。僕が何も言わないので困ったように首をかしげた。
 「鼎さん、どうなさったの。そんな怖いお顔して……」
 京子は僕に文句を言わない。僕の食事の時間が乱れても、帰宅がいつになろうと不平ひとつこぼさない。声を荒げることも眉根を寄せることもなく、いつもよく尽くして、うちでの僕の執筆の邪魔にならぬようにとささいなことにまで気をかけてくれる。口下手な僕に代わって近所付き合いにもこころよく応じ、義理をわきまえ、良識ある振る舞いを忘れないので京子に対する周囲の評判はすこぶるいい。当然だろう。
 僕には申しぶんのない妻だった。時に僕などには十分すぎる妻だった。僕は夫として男として京子に感謝しているし、しなくてはならないと思う。僕は京子を愛している。だがそれだからこそ悩んでいる。
 「京子。じつはね」
 僕は京子を見つめたまま、努めてさりげなく口にした。
 「さっき散歩の途中で五城に会ったんだ」
 「あら……五城さんに?」
 その瞬間、京子のおもてにかすかな緊張が走った。京子はさっと目を伏せ、空いた小鉢を盆へ片づけ始めた。そのあいだ僕も京子も黙っていたが、その沈黙を強いて破るように盆を持った京子は腰を上げざま尋ねた。
 「お約束でしたの?」
 僕はなんでもないふうに箸を動かしながら、
 「ちがうよ。偶然会ったんだ。商談の帰りだったらしくてね。しばらく会ってなかったろう? それで、一杯やろうってことになった」
 「まあ、そうでしたか」
 「うん」
 「五城さん、お変わりありませんでした?」
 「うん。相変わらずだったよ」
 「そう」
 「きみによろしくと言っていた」
 「そうですか。あの……どんなお話なさったの?」
 「大した話じゃあないよ。僕の小説とか、彼の仕事の話とか、そんなことだよ」
 「そう」
 「気になるかい?」
 「いえ、あの……それじゃ変わらずお元気で。私もしばらくお目にかかっていませんから……」
 言葉を切って京子は立ち上がり、盆を持って出ていった。僕はその後ろ姿を流し目に見送り、箸を止めると、胸のうちに大きく嘆息した。
 やはりそうなのかという思いがまた胸中に薄膜となって広がる。きょうまでにすでに幾層にも重ねられた、その疑念はこのごろさらに厚く強固なものになっている。
 書斎代わりにしている自室へ戻りひとりになると、僕はあす学校が引けたら雑誌社へ渡す予定で重ねてある原稿を書き物机の上に眺めた。そばに書きかけの用紙が散らばり、広げたノートブックにのたくるメモのなかに鉛筆が何本か転がり、参考用の書籍が山を作っている。この机の周囲は常にこの状態でひどいありさまだが、京子は僕への心づかいから、僕の仕事にかかわるこれらには手を触れないようにしていた。
 まさか自分が作家の真似事をするようになるとは、じつのところ思ってもいなかった。だが一年ほど前、当時発刊したてだったとある探偵小説雑誌の編集員となった知人に頼まれ、提示された謝礼金に乗せられなにげなく書いた小編がたまたま少々の当たりを得たために、以来それが契機となって同僚知人におだてられるまま執筆を始めてしまった。だが掲載先が探偵小説雑誌とはいえ、その看板にふさわしい本格的な探偵小説のたぐいとなると僕は書けない。作家一本で食べていく気はまったくなく、またそれができるとも思っていないので、本業はあくまでも教師ということでとおしている。
 机上のランプを点けると、にぶい飴色の光が暗がりにぼうと浮かんで、原稿を照らした。僕は来月ぶんの締め切りを考えた。連載の今後の展開を考えた、熱心な少年読者からの意外な好評と催促を得ていた……日数を逆算し、今夜は何枚をすませばよいか考えた……湯へ行くのは明朝に回すことにし、先にあすの授業の用意をすべきか考えた……。
 「鼎さん?」
 障子の外から京子が呼ぶ。そっと引きあけた隙間から半身をのぞかせ、何か必要なものはないかと僕へ尋ねる。何もないと言うとほのかに笑ってうなずき、僕と目を合わして去っていく。そのときの彼女の目に、さっきのような緊張はもう見られない。
 けれど僕には分かっていた。はじめて気づいたのはいつだったろう。
 京子は……妻は、五城のことになると目の奥を変える。
 ああ、そうだ。僕はあるとき気づいてしまった。京子の五城を見る目。京子の五城と言葉を交わす際の目……それが同じなのだった。それは僕の教えるクラスの早熟の女学生たち、早くもかなわぬ恋をし熱情に身をやつしている彼女たちの、あのうるむような目の奥にひそむ光……京子の五城へ対する瞳が、それとあたかも瓜二つの輝きを放っていると僕は気づいたのだった。
 そうだ、まるで同じだ。京子はそれに気づいているのだろうか? 自分の双眸が、五城が絡むとなると緊張し、動揺しそして僕の視線を避けるように耀き始めること……その耀きは時に女学生たちのそれより強く、妖しいものであること……僕の妻としての京子が、彼女が人妻であるという事実が僕にそう見せているのかもしれない。
 僕はペンを握った。

 結婚後一年は何もなかった。あるいは少なくとも僕の感知する範囲においては何事もなかった。僕と京子の祝言には無論五城は列席し、僕の結婚をあたたかくことほいでくれた。白無垢の京子はほんとうに美しかった。師走の寒空だったにもかかわらずその寒さを僕は覚えていないから、それほど幸福だったのだろう。
 大学を卒業し互いに忙しくなっても、僕と五城の親交はかたく続いていた。月に幾度かは必ず会って飲んだ。語った。どちらかの紹介をきっかけに共通の友人知人ができると、何かの折に連れ立って待合へ行くこともあった。京子を迎えてからはさすがに芸者相手に浮かれるような機会は減ったが、僕は以前のとおりに五城と交流していた。五城は建ったばかりのモダンな鉄筋アパートの角部屋にひとりで住んでいたが、僕がそこへ行くことも、また僕がうちへ彼を招くこともたびたびあった。
 五城が京子と顔を合わすようになったのは、だから自然の成りゆきだった。僕はそれをなんとも思っていなかった。つまり、京子と五城のあいだにもし何か――などという心配は、結婚当初の僕は持っていなかった。僕はいたって穏やかな気持ちであのころ京子のいる場で五城と談笑できたし、当時は五城に対する京子のようすにもなんら僕の不審をあおるところはなかった。

 僕は握ったペンを走らせる。きょうの出来事をつづった中身のない日記をつけるそのあいだ、僕の手は止まっては動き、また止まっては動き出す。頭ではまったくほかのことを考えている……。
 はじめのうちは、そうだった。僕は何も疑っちゃいなかった。

 けれども――この半年ほどだ。いつしか、気がついてみると良からぬ疑念が僕をさいなむようになっていた。それははじめはささいな疑念にすぎなかった。自分の勘ちがいだと思った。けれどそれは月日とともに成長し、ここ数ヵ月で急速に僕を悩ますようになった。僕はその煩悶を忘れたいがために、今夜もまた書かずともよい日記を書きなぐり、教員としての職務と、日曜作家としての執筆に夜を徹して没頭しようとしている。
 僕と京子に子はない。五城はきょうまで独身でいる。結婚の話はまだ彼の口から一度も出ない。縁談があるといううわさも聞かない。
 それらの事実だけで、僕のこの疑惑は十分に裏打ちされている気が今はする。そして事実と状況を考えるほど、それは僕にはいたって自然なことのようにも思える。むしろ結婚当時なぜ僕はその種の心配をすぐしなかったか、僕自身のその愚鈍さのほうにかえっておかしさを覚える。

 ……ペンは止まっていた。書き終えた日記の上で僕は呻吟した。
 ひと月ぶりで会った五城が「京子さん」と発した声がよみがえる……僕はこの疑念を五城へ漏らしたことは冗談にもない。もし僕がそれをひと言でもほのめかし、そしてそれを聞いた五城が瞬間ほんの少しでも顔色を変えそれは真実だと僕へ告げたら僕はもう立っていられない。その場をとりつくろう自信がない。

 天は五城へ多くの魅力をさずけた。五城がいかに人を惹きつける男であるか、僕はよく分かっている。また僕は五城との年来の友情を大切に思っている。あれほど優秀な出来た男である彼の親友が自分であることをありがたく栄誉に思っている。換言すれば、僕は五城と不仲になりたくない。彼との仲を自ら引き裂くことはしたくない。彼には多くの借りと恩がある。
 けれど、ああ。
 もし京子が五城を恋していたら。そして五城もまた京子へ想いを寄せていたら。僕はあろうことか親友に対する妻の不貞をそばで黙認することになる。五城は僕の妻の間男となってしまう。
 だが、そうだとしてもどうすればよかったか。たとえ僕が当初から京子と五城の関係の発展を懸念していたとしても、僕は五城との交流を絶つことはできなかったろう。京子が五城と知り合うのは、僕と五城がこれまでどおりの付き合いを続けていくうえで避けては通れない当然の帰結だった。

 そして京子はどうだろう? ……僕はペンを置いた手でひたいを押さえた。
 五城に会ったと話したとき、僕からのがれるように目を伏せた先刻の京子を思った。
 このごろ五城の名が出るたび、瞳の奥にあふれんばかりの動揺と輝きを宿す京子を思った……。

 僕は京子を愛している。世間に新婚と呼べる期間は過ぎたかもしれないが、僕には京子は今でも清楚で可憐な美しい新妻である。僕は京子の存在に感謝している。
 しかしながら僕と京子は互いに好き合って恋愛したのち、許されて結婚したのではない。僕らの結婚は僕の父と、京子の父である辰五郎氏の友情と義理とによって成立した親同士の取り決めだったと言っていい。京子が僕を恋して一緒になったのであっても、それは僕という男が将来の夫となる相手かもしれないという前提を経てのあとづけの恋であって、たとえば僕とあのお駒とのあいだにあったような純粋の恋愛ではなかった。
 にもかかわらず、京子は妻としての役目を何ひとつおろそかにせず立派に果たしている。京子の年でも日々を幾人もの男と街で遊び暮らす女は少なくない。また男もそれを良とする昨今の世であるのに、京子は辰五郎氏と僕の父の期待に応え、僕の期待にも応え、常に通常一般の、いやそれ以上に良き妻でいようとしている。その彼女の努力が分からぬほど僕は愚ではない。京子は僕が彼女への疑念をいだいてからも、それを知ってか知らずかとにかく僕には尽くしてくれている。近所の目に対し僕を立て、自分は下がって品よくほほえんでくれている。そんな京子を僕はどう糾弾しよう? 五城のような好青年を相応の思慮もなくあっさり京子へ紹介し、夫でありながら何の心配もせずにこにこしていた僕のほうにこそこの責任の一端はあるのではないか……?

 雨音に我に返った。少し強まったようだった。
 僕は日記を閉じると授業用のノートを広げた。ペンを取り上げ熱心に動かし始めた、まるで逃げるように……。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み