花冷え
文字数 2,926文字
11.花冷え
四月に入り、連載の完結を祝う葉書が我が少年読者たちから届けられるようになると、僕はあらためてよろこばしい気持ちになると同時に身の引き締まる思いにもなった。水野君からは、早くも次回作についての打ち合わせがしたいと連絡が来ており、どうやら日曜作家としての首はまだつながっているとみえた。
玉尾氏からも手紙が来た。五城は最終回を読んですぐ電話をくれた。近々祝杯を上げようという話が出てすぐ、僕はついに準備をととのえ、学校の開始とともに新たな住まいへと引っ越した。
新居となったアパートは電車通りに面していて、停車場が窓から臨めた。これまでとはがらりとおもむきの異なった場所に少々の不安はあったが、屹立するビルディングやデパートが日常目にする風景の一部となるのも、街の進化を観察するようで案外悪くないと思えた。
引っ越した週の土曜日、五城が新居へ来ることになった。彼の会社が近いので、午前中に仕事をしたのち、訪問するという。僕のほうは学校が休みだが、いかんせん越してすぐなのでろくに荷物が片づいていなかった。なので週末はひとまず人並みの生活が送れる程度にまで、身の回りを作っておくつもりでいた。
「片づいていないから、もてなしはできないよ」
一応電話で五城にそう言うと、
「かまわないよ。むしろ手伝う気で行くんだ」
と返ってきたので、その言葉に甘えることにした。
四月にしては妙に寒い週だった。桜も咲き悩んでいるらしく、数日のあいだ冷気にさらされまだ満開にならない。上野も日比谷も赤坂も、どこも見ごろはもう少しあとになりそうだった。
土曜日の昼過ぎ、五城が来た。ボール箱に詰めた荷物をひっくり返していると部屋のチャイムが鳴ったので「勝手に入ってくれ」と声を上げた。
「やあ、どうも」
五城は帽子を取りながら入ってくると、室内を見回して言った。
「いい部屋だね」
「ありがとう。だが見てのとおり、このありさまなんだ。きょうであらかた片づけちまいたいんだが」
「ふたりでやれば、そう長くかからないだろう。まあ座れよ。まず乾杯しよう」
五城は持参した洋酒のボトルを掲げた。僕の探し出してきたコップにそそぎ、ひとつを僕に手渡した。
「連載の完結祝い、それから引っ越し記念と称して――」
彼はグラスを向けた。
「乾杯。おめでとう、弓削。次回作にも期待しているよ」
「乾杯。ありがとう」
僕らはコップを合わせた。濃い葡萄酒が臓腑にしみわたった。さらには心地の良い涼風が窓から入ってくる。しばし雑談に興じてから片づけを再開したが、十分ほど経ったときふたたびチャイムが鳴った。出てみると、管理人で、備え付けのガスヒーターの使い方だの賃料の支払い方だの、電気の引きこみがどうだの、なんだかんだ説明がしたいので一寸時間をくれないかという。
「すまない」
僕は五城を振り返って言った。
「ついでに郵便局にも行きたいんだ。手紙を出したくて――三十分ほど酒でも飲んで待っていてくれないか? 片づけはほうっておいていい」
五城は手を上げて応じた。僕は書いておいた机上の手紙の束を――この春卒業していった生徒たちへの返信を――つかむと、部屋に五城を残し管理人と階下へ下りた。長ったらしい説明と世間話に十五分ほど付き合い、やっと解放されると最寄りの郵便局へ急いだ。窓口が混んでいたので少々待たされたのち、ようやくすませて時計を見ると三十分はとっくに過ぎている。五城に申し訳ないと思いながらアパートへ駆け戻った。
出入り口の扉をあけると、五城は奥の窓辺に立って外を見ていた。僕が入ると、こっちへ視線を投げた。
「きみが走ってくるのが見えたよ」
「待たせてすまない」
「いや、いいんだ。ちょうどよかった」
「窓口が混んでいてね。土曜で閉まるのが早いから……」
「手紙は出せたのかい」
「ああ」
「だれに宛てた束だったか、訊いてもいいかな」
「全部、卒業生宛てだよ。もう教え子と言えるかな。謝礼をいろいろもらってね」
「そうか。さすがだね、きみは」
「何がだい?」
「いや。なんでもないよ。……」
僕はそのとき、鼻腔を刺激するほのかな甘い香りに気づいた。部屋の中央にある円卓から、ふたつ置かれたコップのそばでかすかに立ち揺らいでいる灰煙が見えた。僕はあっと声を上げた。
「五城? きみは……」
思わず彼の顔色をうかがった。彼がどういう気でこれを焚いているのか、はかりかねた。どうしたことだろう?
それは京子の遺品だった。五城が彼女に買った、彼女の遺品のあの香だった。警察から届いた包みのなかから僕はそれだけ取り出して、これは辰五郎氏には送れないと迷ったあげく、結局捨てずに手もとに残したのだった……その香の入った紫色の箱を、五城は雑多に散らかった荷物のどこかから見つけたらしい。
甘い香りはとてもほのかだった。理由はすぐ分かった。五城が立っている窓辺のガラス戸があいている。
僕はふとのどの渇きを覚え、コップを取ると中身の葡萄酒を飲み干した。口内がうるおったのを確かめた。
「すまない。弓削」
窓辺に立つ五城が言った。
「きみが手紙の束を持っていったとき、同じ机にきみの日記が置いてあるのを見たんだ」
彼は目顔でそちらを示した。僕は彼の視線を追った。閉じてそこにある僕の日記帳――。
「どうしても誘惑に勝てなくてね。つい読んでしまった。申し訳ない」
「読んだ? 読んだというのは。……いつの」
「それが、ざっと昨年の夏ごろから、きみが玉尾芳郎弁護士と面会するあたりまでなんだ」
「なんだって? それじゃきみは」
「特に玉尾氏との面会で、きみが氏に聞かされた内容についてだがね。非常に興味深く読んだよ。きみにはやはり文才があると思うね。まるで僕までその場にいて、氏から話をされているような気持ちになれた。絶えず、緊張していたよ。玉尾氏がきみと同じ雑誌で書いていることは知っていたが、きみが睡眠剤のために彼と面会することまで僕は計算に入れていなかったんだ。なるほどと思ったよ。きみが心労から不眠になり、それを担当編集に相談し、その編集員が偶然玉尾氏へそれを話すと、不眠のプロである氏がきみと接触する――。そうした偶然の連鎖も計算上、十分あり得て然るべきだった。見落としたのは僕のエラーだ。僕はそれを認めよう」
五城はほほえむと、背広のふところから一通の封書を取り出した。分厚い封書に見えた。彼は戸惑う僕へそれを差し向けて言った。
「京子さんが亡くなってすぐ、きみ宛てにしたためておいたものだ。悪いけれど片づけは少々あと回しにして、読んでもらいたい」
「今、ここでか」
「ああ。どれだけ時間がかかってもかまわない。僕のことは気にしないでくれ。ここで待っているから」
「しかし……」
「頼むよ」
僕は封書を受け取った。五城は窓辺へ戻ると外の景色へ目を移した。それからエーアシップに火をつけ、ゆっくりと煙を吐いた。あとはこちらを見なかった。
僕は封を切った。ひどく胸さわぎがしていた。何が書かれてあるのか――分からないなりに怖かった。
生唾を飲みこみ、僕は見慣れた五城の端正な文字を読み始めた。
四月に入り、連載の完結を祝う葉書が我が少年読者たちから届けられるようになると、僕はあらためてよろこばしい気持ちになると同時に身の引き締まる思いにもなった。水野君からは、早くも次回作についての打ち合わせがしたいと連絡が来ており、どうやら日曜作家としての首はまだつながっているとみえた。
玉尾氏からも手紙が来た。五城は最終回を読んですぐ電話をくれた。近々祝杯を上げようという話が出てすぐ、僕はついに準備をととのえ、学校の開始とともに新たな住まいへと引っ越した。
新居となったアパートは電車通りに面していて、停車場が窓から臨めた。これまでとはがらりとおもむきの異なった場所に少々の不安はあったが、屹立するビルディングやデパートが日常目にする風景の一部となるのも、街の進化を観察するようで案外悪くないと思えた。
引っ越した週の土曜日、五城が新居へ来ることになった。彼の会社が近いので、午前中に仕事をしたのち、訪問するという。僕のほうは学校が休みだが、いかんせん越してすぐなのでろくに荷物が片づいていなかった。なので週末はひとまず人並みの生活が送れる程度にまで、身の回りを作っておくつもりでいた。
「片づいていないから、もてなしはできないよ」
一応電話で五城にそう言うと、
「かまわないよ。むしろ手伝う気で行くんだ」
と返ってきたので、その言葉に甘えることにした。
四月にしては妙に寒い週だった。桜も咲き悩んでいるらしく、数日のあいだ冷気にさらされまだ満開にならない。上野も日比谷も赤坂も、どこも見ごろはもう少しあとになりそうだった。
土曜日の昼過ぎ、五城が来た。ボール箱に詰めた荷物をひっくり返していると部屋のチャイムが鳴ったので「勝手に入ってくれ」と声を上げた。
「やあ、どうも」
五城は帽子を取りながら入ってくると、室内を見回して言った。
「いい部屋だね」
「ありがとう。だが見てのとおり、このありさまなんだ。きょうであらかた片づけちまいたいんだが」
「ふたりでやれば、そう長くかからないだろう。まあ座れよ。まず乾杯しよう」
五城は持参した洋酒のボトルを掲げた。僕の探し出してきたコップにそそぎ、ひとつを僕に手渡した。
「連載の完結祝い、それから引っ越し記念と称して――」
彼はグラスを向けた。
「乾杯。おめでとう、弓削。次回作にも期待しているよ」
「乾杯。ありがとう」
僕らはコップを合わせた。濃い葡萄酒が臓腑にしみわたった。さらには心地の良い涼風が窓から入ってくる。しばし雑談に興じてから片づけを再開したが、十分ほど経ったときふたたびチャイムが鳴った。出てみると、管理人で、備え付けのガスヒーターの使い方だの賃料の支払い方だの、電気の引きこみがどうだの、なんだかんだ説明がしたいので一寸時間をくれないかという。
「すまない」
僕は五城を振り返って言った。
「ついでに郵便局にも行きたいんだ。手紙を出したくて――三十分ほど酒でも飲んで待っていてくれないか? 片づけはほうっておいていい」
五城は手を上げて応じた。僕は書いておいた机上の手紙の束を――この春卒業していった生徒たちへの返信を――つかむと、部屋に五城を残し管理人と階下へ下りた。長ったらしい説明と世間話に十五分ほど付き合い、やっと解放されると最寄りの郵便局へ急いだ。窓口が混んでいたので少々待たされたのち、ようやくすませて時計を見ると三十分はとっくに過ぎている。五城に申し訳ないと思いながらアパートへ駆け戻った。
出入り口の扉をあけると、五城は奥の窓辺に立って外を見ていた。僕が入ると、こっちへ視線を投げた。
「きみが走ってくるのが見えたよ」
「待たせてすまない」
「いや、いいんだ。ちょうどよかった」
「窓口が混んでいてね。土曜で閉まるのが早いから……」
「手紙は出せたのかい」
「ああ」
「だれに宛てた束だったか、訊いてもいいかな」
「全部、卒業生宛てだよ。もう教え子と言えるかな。謝礼をいろいろもらってね」
「そうか。さすがだね、きみは」
「何がだい?」
「いや。なんでもないよ。……」
僕はそのとき、鼻腔を刺激するほのかな甘い香りに気づいた。部屋の中央にある円卓から、ふたつ置かれたコップのそばでかすかに立ち揺らいでいる灰煙が見えた。僕はあっと声を上げた。
「五城? きみは……」
思わず彼の顔色をうかがった。彼がどういう気でこれを焚いているのか、はかりかねた。どうしたことだろう?
それは京子の遺品だった。五城が彼女に買った、彼女の遺品のあの香だった。警察から届いた包みのなかから僕はそれだけ取り出して、これは辰五郎氏には送れないと迷ったあげく、結局捨てずに手もとに残したのだった……その香の入った紫色の箱を、五城は雑多に散らかった荷物のどこかから見つけたらしい。
甘い香りはとてもほのかだった。理由はすぐ分かった。五城が立っている窓辺のガラス戸があいている。
僕はふとのどの渇きを覚え、コップを取ると中身の葡萄酒を飲み干した。口内がうるおったのを確かめた。
「すまない。弓削」
窓辺に立つ五城が言った。
「きみが手紙の束を持っていったとき、同じ机にきみの日記が置いてあるのを見たんだ」
彼は目顔でそちらを示した。僕は彼の視線を追った。閉じてそこにある僕の日記帳――。
「どうしても誘惑に勝てなくてね。つい読んでしまった。申し訳ない」
「読んだ? 読んだというのは。……いつの」
「それが、ざっと昨年の夏ごろから、きみが玉尾芳郎弁護士と面会するあたりまでなんだ」
「なんだって? それじゃきみは」
「特に玉尾氏との面会で、きみが氏に聞かされた内容についてだがね。非常に興味深く読んだよ。きみにはやはり文才があると思うね。まるで僕までその場にいて、氏から話をされているような気持ちになれた。絶えず、緊張していたよ。玉尾氏がきみと同じ雑誌で書いていることは知っていたが、きみが睡眠剤のために彼と面会することまで僕は計算に入れていなかったんだ。なるほどと思ったよ。きみが心労から不眠になり、それを担当編集に相談し、その編集員が偶然玉尾氏へそれを話すと、不眠のプロである氏がきみと接触する――。そうした偶然の連鎖も計算上、十分あり得て然るべきだった。見落としたのは僕のエラーだ。僕はそれを認めよう」
五城はほほえむと、背広のふところから一通の封書を取り出した。分厚い封書に見えた。彼は戸惑う僕へそれを差し向けて言った。
「京子さんが亡くなってすぐ、きみ宛てにしたためておいたものだ。悪いけれど片づけは少々あと回しにして、読んでもらいたい」
「今、ここでか」
「ああ。どれだけ時間がかかってもかまわない。僕のことは気にしないでくれ。ここで待っているから」
「しかし……」
「頼むよ」
僕は封書を受け取った。五城は窓辺へ戻ると外の景色へ目を移した。それからエーアシップに火をつけ、ゆっくりと煙を吐いた。あとはこちらを見なかった。
僕は封を切った。ひどく胸さわぎがしていた。何が書かれてあるのか――分からないなりに怖かった。
生唾を飲みこみ、僕は見慣れた五城の端正な文字を読み始めた。