五城時次の告白書(全文)下

文字数 20,181文字

 さて。
 ようやく、京子さんの件へと筆を進めることができそうだ。だが、僕がなぜ彼女を殺したか、その理由についてはこれまで書いた内容からすでにあらかたきみにも理解できているように思うのだが、どうだろう。
 弓削、きみは彼女との結婚を、仕事に忙しくしていた僕を気遣い、事前の連絡もほとんどないままに決めてしまったね。彼女の父親がきみへと舞いこませた正式の縁談だったと聞いては、しかし僕にも何も言えなかった。お駒のときとは訳がちがうだろう。
 二年前の今ごろ、晴れた寒い日にきみと京子さんは結婚した。式に列席した僕は、如才なくきみたちふたりの門出を祝福した。けれどあの日の僕に吹き荒れていた、猛り狂う嵐の音をきみは聞いてはいなかったろう。
 僕はきみと並ぶ白無垢の京子さんを列席者の群から見つめ、このまま彼女がこの空に消えてなくなってはくれぬものかと思った。文字どおりの意味だ。消えてなくなってほしい――僕に芽生えた、彼女へ対する最初の悪意だった。いや、この期におよんでにごしても仕様がない。書いてしまおう。そのとき僕のいだいた悪意は殺意とほぼ変わらぬそれだった。ただ別れさすだけでは安心できぬ。それだけでは僕を苦しめるこの嵐は生涯、おさまらぬ。
 あの白無垢が憎かったのだ。良ければあの場で引き裂いてやりたいほどだった。確か僕は「大変美しい」と言って褒めたがね。あれを着て当然のようにきみの隣を占めていた彼女の姿が、何をおいても許しがたかった。僕が押し隠してきた女へ対する年来の嫌悪は、あの瞬間おそらくピークへ達したのだろう。僕はきみが京子さんと結婚したその日に、彼女を殺したいと思ったのだ。
 僕はその夜、きみたちの祝宴を辞したその足で居酒屋へ行くと、まったく人生ではじめて酒に酔いつぶれる経験をした。ちなみにだがね。あんな醜態をさらすのは一度で十分だ。良かれと思ってあえてつぶれるまで飲んでみたのだが、ようはそれほどショックだったのだ。きみたちが初夜を楽しんでいるころだったかもしれないあいだに、ちょうど僕は、きみが彼女に産ませる子供など絶対に見られるものかと考えていたのだ。僕はとても見られまい。よもやそれが女児だった場合、ますます絶望する。僕はその子と会うたび、引き裂かれそうな思いで「かわいいね」と言わなければならない。抱き上げたり、なでたりしなくてはならない。想像するだに戦慄だ。恐怖だ。そんな残酷極まりない仕打ちは、僕の精神の到底耐えうるところではないのだ。
 すまない、弓削。僕はその恐るべき戦慄をのがれるため、そして京子さんにきみとのしとねから退場してもらうため、その夜が明けるころには、彼女を永久に葬る策をもう真剣に練り始めていたのだ。

 ……とはいえ、世に聞く並の殺人をするつもりはみじんもなかった。僕は、ああいう幼稚な殺人は、心身ともに切羽詰まって何もかもどうでもよくなった人間の、恥も恐れも名誉も振り捨てた一種の自滅行為だと思う。捕縛されるのを分かっていて殺しているとしか思われないからだ。犯行を隠す算段が感じられぬ。だが僕はあいにくと逮捕されたくはない。
 ……というのは、もちろん捕まることそのものへの多大な抵抗はあるが、僕の場合それだけではない。僕の消したい対象は女だが、もし何も考えずに殺して捕まった場合、その罪状はまず女殺しになるだろう。だが僕は、極言すると、捕まって死刑になるより、自分の罪状が女殺しになるほうを恐れる。それこそは、僕のもっとも避けるべき屈辱だ。死んでなお残る恥辱だ。女殺しを認めて懲役刑になるのと、死刑にはなるが女殺しの(とが)ではなくなるのと、どちらか二択だったら僕は迷わず後者を選ぶよ。だが殺したい相手が女である以上、捕まってはなかなかそうもいかぬ。だが、ならば捕まらなければ良い。言い換えれば、捕まるに値する行為を自分がやらなければ良い。法にふれる行為を自分がしなければ良いのだ。さらに言えば、自分の手をよごすことなく、殺したい相手のほうに勝手に死んでもらえば良い。そうすれば、僕は法律上、殺人者にならずしてターゲットを殺せる――こんな表現を使って申し訳ない。話を簡単にするため、やむを得ずそうした。辛抱してくれ。

 ……きみ。罪に問われぬ殺人など、いくらも例があるだろう。戦時下の兵士が個人的な仇を撃ち殺しても、それが敵国の兵士であれば殺人罪にならない。殺したいとかねてのろっていた相手が偶然震災で圧死しても、その圧死に自分がかかわっていなければ殺人罪にならない。前者は国家がその殺害を奨励しているのだし、後者は単に不慮の事故死だろう。
 そういうことだ。僕は殺人と言われずにすむ殺人をやろうと思ったわけだよ。殺人と立証できる証拠を最初から作らなければ良いのだ。あるものは探せばどこかにあるが、ないものはどう探したってない。
 僕はさまざま考え合わせたすえ、おおむねふたつのことを決めた。ひとつは、殺すに当たって一度で確実な成功を狙わぬことだ。必ずこの日に撃ち殺すと決め、十割の成功率を狙うと、もし失敗したときあとがない。それじゃ馬鹿だろう。そうならぬよう、常に六、七割の成功率を狙ってターゲットへ照準を合わせておく。その状態で撃つ機会をうかがう。撃てるときが来れば撃つ。撃てぬようなら撃たずにおく。ただし撃てる場合にも六、七割の成功率を狙っているから、あとの約四割は撃ち損じる。だがそれで良い。重要なのは、一発で殺そうとするより、何度でも撃ち直せる状況を作っておくことだ。すなわち、もし撃ち損じて失敗しても、こちらに殺意があったことをターゲットに悟られなければ、またすぐ次の弾をこめて新たな機会を待てるだろう。トライアル・アンド・エラーの精神だ。ビジネスの基本だろう。六、七割の成功を狙って撃ち続けることで、撃ち損じの余地を作り、仮に撃ち損じても自らを苦境に追いこまぬよう絶えず弾道に注意を配っておくのだ。これなら、同じ賭けでも安全な賭けだろう。長い目で見たとき、勝率の高くなるゲーム運びができるだろう。じつに堅実なストラテジイだ。

 ふたつ目はきみに関することだ。僕がこの殺人をやる根幹の意義にもかかわってくる。
 僕はこの殺人をやるに当たって、その前後の一定期間、きみにある程度の精神上の打撃を継続的に与えておかねばならぬ。そしてその打撃の原因は、ぜひとも京子さんに関係した私的な事柄にせねばならぬ。
 これを決めたとき、僕はこうした観点できみを傷つけることを非常に心苦しく思った。ただでさえ僕にはお駒の件に関する前科がある。あれと似たような恋の傷を、ふたたびきみに付けなくちゃならない。
 だがこれはどうしても必要なことだった。きみには京子さんとの夫婦関係において何かしら深刻な煩悶をかかえてもらわなくちゃならない。なぜかは、きみにも分かるだろう。僕がこの殺人を終えたあとのことを考えてくれ。たとえ僕が首尾よく殺せても、もしきみが早々に後妻をもらう気になったら、僕のやったことはまるきり意味がなくなってしまうじゃないか。きみは僕の書くことをここまで読んできて、ひょっとすると僕を冷酷非情の無血漢か何かのように思っているかもしれないけれども、先に言っておくが僕は決して殺人狂ではない。血もあれば涙もある。できれば人殺しなどやりたくはないのだ。絶対の必要に迫られたので、致し方なしに、もっとも被害の少ない手段を選んで人並みの情をたずさえて殺すのだ。したがって、僕はそう何度も繰り返して殺人を行うことは最大限避けたいと思っている。だが、そこでもしきみが、僕が殺したあと間もなく後添いを得て、それに死なれても次、また次、さらに次と新たな妻を得続けたら、僕はそのたびやりたくもない女殺しを重ねなくちゃならない。それは困る。きみだって困るだろう? 僕は殺人をできるかぎり一度ですましたい。そのためには、京子さんの死によって、きみに女との結婚を今後の人生において極力避ける心理状態になってもらいたいのだ。僕は、きみをそういう心理へ持っていくような殺し方で、きみの初妻を殺さなくてはならないわけだよ。だから、心苦しくはあったけれどもきみには傷ついていてもらわなくちゃならなかった。僕が最終的に京子さんを殺してみせることで、妻などもう要らぬ、夫婦生活などもう要らぬときみを永く思わせておくためだ。

 以上、簡単に説明するとこのふたつの観点を、僕は殺すに当たって必ず守らなくてはならぬ最重要事項と定めた。そして僕はこのふたつの観点を十分吟味したうえで、ターゲットへ向け、それらを問題なくクリアーしている照準の合わせ方を決めた。すなわち――京子さんの心をきみから僕へと向けさせることが、それだった。
 弓削。僕はうぬぼれるわけじゃないが、自分の容貌は人よりすぐれているとこれまで幾度も言われてきた。このことについて、きみも同意してくれるだろうね。きみも、僕の外見を美貌と表現し、大いに褒めてくれた男のひとりだ。僕は、きみにそう褒められてますますの自信を得たわけだ。僕のこの外貌は、日ごろ数々の手管をあやつる熟練のプロには大して通用しないかもしれぬ。けれど、これがついこのあいだまで処女だったいたいけな新妻となれば、話は多少ちがうだろう。
 また、僕は女の心理なぞ深く知ったところでなんになると普段は割合淡白に思っているほうだが、幸いにも、その方面の知識にはすでに十分なたくわえがあった。心理学の専門的な読み物については幼少のころから身近に触れさせられてきたので、否が応にも知らざるを得なかったのだ。まさかこうしたかたちで役に立つとは思わなかったがね。
 さらに、僕はやはりうぬぼれるわけじゃないが、僕はきみの信頼を、京子さんも含め、日々きみと接する他の人間よりいくぶんかは多く勝ち得ていると自負している。きみがそうではないと否定するなら僕の思いすごしだが、少なくとも僕のほうではそう自負していた。だから、きみが僕と京子さんのあいだを疑うようになっても、きみは僕との交際を断つ気にはならない自信が僕にはあった。あるいは、たとえきみにその気が起こっても、僕がやめてくれと必死に懇願すれば、きみは僕との長年の友情に照らして、またきみ自身の性質から推しても、きみはきっとことわるまいという自信があった。
 こうした点から、僕は京子さんの心をきみから引き離すことはかなりの高確率で実現可能だと結論するに至った。そしてこの照準の合わせ方は、じっくり時間をかける覚悟だったとはいえ、なるべく早いうちにターゲットを仕留めたかった僕にとって非常に有益だった。なぜ早いうちが良いかというのは、ほかでもない。京子さんに身重にならないでほしかったからだ。分かるだろう。ひとりもふたりも殺せば同じだと言われてしまえばそれまでだが、それじゃあんまりこちらの心象が悪い。僕としては殺すターゲットは「単身」であってほしかったのだ。だがまさかきみに、仕留めるまでは禁欲か、だめならどうか避妊を頼むとは言えまい。彼女の想いが僕へ移れば、夫婦の密事もおのずと減るかもしれないという期待くらいは持っていたが、きみたちの夜について僕はそう詳しく知らないし、強いて尋ねるのも変だろうし、こればかりは運を天に任すしかなかった。そして結果としてそれは僕に味方した。なぜだか、僕に訊かれても困るよ。一方が不能であったか、あるいは女の身ごもる確率は避妊せずともそれほど高くないらしいが、僕を胎児殺しにするのはさすがの神も忍びなかったのかもしれぬ。まあ、そのあたりの見解は、彼女の肉体を自由にしていたきみの一考にゆだねるとしよう。
 話を戻そう。
 僕が京子さんの心を僕に向けることで得られる利益は、その照準の合わせ方をすると、僕は自然なかたちでターゲットとの距離を縮め、それへ向け弾を発射する機会を増やせる。また約四割の確率で撃ち損じたとき、ターゲットから僕の殺意を疑われにくい。その心が、信用が、好意が僕にあるからだ。
 さらにもうひとつ大きな利益として、弓削、きみへ与えたい精神的ダメージとその将来的な効果が、このやり方をすると、僕の望む方向へ倍加する可能性が高いということだ。きみには、どこのだれとも知れぬ男を間男と疑うより、きみの長年の友である僕が自分の妻の間男と疑うほうがつらいはずだ。ましてその妻の心が自分を離れ、僕のほうへ移っていると疑う羽目になっては、きみの痛苦はさらに深刻の度合いを強くするだろう。うまくすれば、今後、きみが女と付き合うたび、僕という男に生前の妻を奪われた記憶がきみの脳裏をよぎり、そのことはきみに女との積極的な交際を無意識に控えさせるきっかけになるかもしれないだろう。そうなればしめたもの、と僕は大真面目に考えたわけだ。悪かったが、決してきみを憎んでのことではない。あらためてここで書かしてくれ。

 ともあれ、照準の合わせ方は決まった。僕は京子さんの気を引きつつ、彼女をとおしてきみの心理に僕の思うような影響を与えながら、弾丸を発射する機会をうかがうことにし、以降それを常に念頭に据えて行動した。
 効果が目に見えてあらわれだしたのは、きみたちが夫婦となって一年ほどが過ぎたころだったと思う。僕は京子さんの言動が、努力の結果、次第に僕のほうへとかたむいているのを実感するようになった。彼女のほうから、僕へ対する興味を暗に示すようになってきたのだ。おそらく彼女は、自分にそそがれる僕のまなざしに何かを感じ取っていたと思う。きみがそばにいないとき、折にふれ顔を赤らめたり、僕から視線をそらしたり、かと思えばまた僕のほうをそっとうかがっていたりする、といったことが増えてきた。きみも覚えているだろうが、きみたちが結婚してすぐの一年、僕らは京子さんも含めた三人で外出し、歓談する機会を多く得たろう。あれは大概、きみではなく僕のほうから言い出していたことに、きみは気づいていたろうか。
 京子さんから電話がかかってきて、ふたりで会えないかと最初に言われたとき、僕はほとんど彼女へ対する自身のアプローチは成功していると確信したよ。僕と彼女はきみに隠れて何度か会い、僕は仕事を早引けして、午後の時間を共に過ごした。密会というほどのことはない。殺人にならぬ殺人をするという僕の目的上、ふたりきりになってひと目をうしなうことはあの場合、いかなる状況においてもできるだけ避けたかったのだ。いくら良い機会があっても目撃者がなくては、いざというとき僕の無実を証言できる便利な人間がいなくなる。
 僕と彼女は街を歩いたり、食事をしたり買い物をしたり、およそ男女がふたりでいる際にはだれでも思いつくような当たりさわりないことをし、そのあいだ僕は彼女を楽しませるべく息を殺して労を割き、自分の気は彼女へあるのだと終始彼女へほのめかすのを忘れなかった。ただし、同時にいつでも銃弾を放つ用意はしていた。機会があれば撃ってみるつもりだった。実際、停車場のプラットフォームや、川沿いや橋の上や劇場のそばなどでこころみに幾度か撃ってみたが、期待に値する成果は得られなかった。僕がどんな手を使って撃ったか、詳細はきみを不快にさせるだけだから書かずにおく。すべて撃ち損じに終わった悪法であるし、僕も自身の陰険をわざわざきみにひけらかしたくはない。
 京子さんは、しかし僕のこうした腹の内にはまったく気づかずいたようで、僕に会うたび、その気持ちを順調に僕へと動かしてくれるようだった。彼女のまだ娘のような純粋な一面は、僕への好意を非常に分かりやすく表現していたので、僕は、これならきみが彼女の移り気に勘づくのも時間の問題だろうと踏んだ。まして、僕などよりよほど女へ対する感性のするどいきみのことだ。自分の妻の変化に気づかぬはずがない。そして僕としては、きみがそれに気づくのは早ければ早いほど良い。きみが早く僕と彼女の関係を疑い、早く悩み始めてくれるほど僕の銃口は狙いを定めやすくなる。
 そして弓削。事実きみはそれに勘づき、その苦しみをひとりでかかえ悩んでくれたね。僕はずっときみを見てきて、今年のつゆの時点でもうきみが京子さんの変化と僕への疑念に苦しんでいることを察していた。当時、きみは僕への接し方にずいぶん苦慮してくれていたろう。僕が何も知らずにいる態度を取るせいで、きみは僕への配慮から、京子さんのことを訊きたくとも訊けず困っていたろう。僕はきみのその苦しみを分かっていながら、戸惑うきみを横目に知らぬふりをしていたのだ。さらには、そんなきみを観察してはきみの苦しみの程度が重くなったり軽くなったりしすぎぬよう計量し、自分の言うべき言葉や取るべき態度をその都度決めていたのだ。と、いうのも、僕には確かにきみに精神上の打撃を与え続ける必要があったが、あまりそれが重すぎたために万一きみが自殺でもしようものなら、僕はいくら後悔してもしきれぬ。そうなったあかつきには、僕も死ななくてはならぬ。
 ああ弓削、きみをああして痛めつけなくてはならなかったのは、僕にもほんとうにつらかった。僕自身、多少なりとも精力を削られたくらいだ。やむを得なかったとはいえ、僕は、僕のせいでひとりけなげに苦しんでいるきみへと何度この手を出しかけたか知れぬ。そうしてきみをこの手に抱き、「悪かった。ちがうのだ。これには深い訳があるのだ」と、きみのあのほほえみへと何度ぶちまけてやりたかったか知れぬ。きみは、あのような苦悩に際していてなお、僕がきみへ宛てたあの謝罪の手紙に対して非常にジェントルかつ潔い対応を取ってくれた。きみは無論、京子さんとのことに関する僕のあの弁解説明を一から十まで真実とは思わなかったろう。にもかかわらず、きみは僕と京子さんのあいだに起こったことはこれ以上無理に追究せぬと断言し、僕への友情と誠意を示してくれたのだ。僕は心から感動したのだよ。あの際、僕はあらためてきみへの情緒を濃くしたものだ。

 きみがおそらく予想したとおり、確かにあの手紙に書かれていたことは必ずしも真実ではなかった。全然虚偽というわけではないのだが、あえて挙げると、たとえばあの海浜教室の件だろう。あの一泊のあいだ、僕と京子さんは一度立ち話をしたときみに書いたと思うが、じつは話はそれのみではなかった。僕は彼女とのその立ち話の際、この教室を終えたあくる日に共に会う約束をしたのだ。きみが林間学校の引率から戻ってくるのは夕方以降と知っていたので、僕らはその日一日を銀座で過ごした。夕方になって彼女を家まで送り、きみはまだ帰らぬから少し上がっていかないかと誘われたが、それは辞退した。なぜかは察してくれたまえ――僕が積極的に欲していたのは安心して弾を撃つ機会だけだ。あの際、彼女の誘いをことわったことが、結果的に彼女の気をさらにあおる僕の技巧になったとしても、それはあとづけに得られた副産物にすぎない。
 弓削。きみは秋めく日比谷公園で、僕が京子さんをどう思っているか僕へ尋ねたね。僕はあのとき、彼女のことを日陰の野に咲く可憐な花だとか、良識をそなえた優しい美人だとかいう表現で描写したと記憶しているが、あの回答に嘘を含ませたつもりはない。先に述べておく。しかし、僕はここに一度だけ、その可憐な美しい野花へ対する雑言をあえてしるそうと思う。きみにどう受け取られようとも、かまわない。
 弓削、京子さんは確かに可憐で美しく、優しい女性だ。きみが惹かれたのもうなずける。
 しかしね。僕のような男の誘惑に心をなびかせるようでは、彼女は所詮そこまでの女だったということだよ。そして、所詮そこまでの女にきみを愛する資格はない。なぜなら、もしも僕が彼女の立場にいたならば、僕はどのような人間に誘惑されようともそんなものには見向きもしなかったからだ。まして、それが自分を撃ち殺そうと常にもくろみを立てている相手からの誘惑であれば、なおさらだ。京子さんは僕という目先の物珍しさに心を奪われ、せっかくきみという紳士に愛される権利を自分が有していたにもかかわらず、そのことを忘れ、愚かにも自ら望んで殺されにやってきたのだよ。
 海浜教室の件に続き、ついでにもうひとつ書いておきたいことがある。
 言うまでもなく、きみの家の奥座敷で、僕と京子さんの痴態をきみが目の当たりにしたときのことだ。日比谷公園できみと話した、そのひと月後の出来事だったと思う。そのひと月のあいだにも、僕は彼女からきみの目を盗んだ熱い電話や手紙を幾度かもらっていたわけだが、ここにあらためて言及したいのは、きみへの封書で僕がこんこんと謝罪を述べていた、あの件だ。
 あれについて、若干の訂正がしたい。
 僕はあのとき、京子さんと差し向かいになっているうち、つい彼女の魅力に理性を飛ばして彼女へ襲いかかったかのようにきみへの手紙には書いた。だが実際はそうではない。では僕ではなく、京子さんのほうが僕へ挑みかかったのかというと、それもちがう。
 弓削。あれはね、じつを言うと、僕はきみが予定よりだいぶ早く家に帰ったらしいことをあのとき、玄関口から聞こえたかすかな物音で悟ったのだ。それで、ならばと思ってあえて京子さんへ迫ってみせたのだ。
 手短に順を追って書こう。
 あの日、きみのことを相談したいと京子さんから電話を受け、僕はきみの家の座敷へと招かれた。きみは仕事でだいぶ遅くなるという。僕は彼女と向き合い、彼女のうったえにもっともらしく相づちを打って聞いていたが、そのうち彼女が僕への想いを打ちあけ、取り乱すにつれ、どうも僕が何かせねばかえって彼女を疑わすような感じになってきた。僕はそれまで、どうしてもの必要に迫られぬかぎり、彼女の身には極力触れぬようにしていたが、今度ばかりはあそこで彼女を避けるのはどう見積もっても不自然だった。
 そこで僕は彼女へ控えめなアンブラッセをしつつ、それを受ける彼女が赤くなっておとなしくしているあいだ、果たしてこの状況で自分が撃つことは可能か、可能である場合どのような弾道を描き出すべきかなどさまざま考えを重ね、検討を重ねていた。そのときだ。玄関のほうでわずかな音が聞こえた気がした。あとから思うに、あれはきみが玄関の戸を引いた音だったのだろう。その物音を立てた人間がもしきみ以外の者であったら、何かひと声かけるだろうが、それがないということは、京子さんから聞いていた話に比べるとだいぶ早いが、これはきみが帰宅したのだと思った。だが京子さんは僕から身を離さず、気のついたようすがない。
 そこで僕は、玄関の物音がやんだあの一瞬にさまざま考えをまとめた結果、ここにおいては僕と京子さんに対するきみの疑念を今一歩、進めておくのを吉とみた。そしてきみが足音を忍ばせこちらへ近づいていることを確信すると、僕は京子さんへささやいたのだ。
 「では僕は覚悟をしますから、あなたも覚悟をしてください。僕はあなたを、ずっとこうしたかった」
 と言って、彼女の胸部へと手を置いたわけだよ。彼女は恥じらいながらもすんなり僕にしがみついたので、僕は行為を進めつつ、あとはきみがふすまをあけてくれるのを待つだけだった。今から振り返ると何もあそこまでの嬌態を演じずとも良かったように思うが、あのときはなるべくきみにおどろきを与えることに専念していたのだ。実際、きみは真っ青になって僕と彼女を見つめてくれたろう。僕だって、自分のあのさまをきみに見られてうれしくはなかったから、いざ見られてみて多少の動揺は禁じ得なかったがね。
 しかし、ああした場面をきみに目撃されたという僕の犠牲は、あとから絶好の機会へと変貌を遂げて僕へ報いた。あのとっさの判断は結果として功を奏したのだ――と、表現するのは少々気が咎めるけれども、しかし事実はそのように転じたと僕は思っている。理由はあきらかだ。
 僕のK温泉での商談に京子さんをついてゆかせることを、きみ自身が決意してくれたからだよ。
 弓削。僕にとって千載一遇のチャンスを、きみは僕に与えてくれたのだ。

 K温泉へ一泊の商談に自分が向かうことは、十月の頭にはすでに社内会議で決定していたわけだが、それは別に僕がすすんで名乗り出たのではない。上役から任命があって偶然決まった出張だった。だが僕はその月のあいだ、京子さんから電話が来た際それを彼女へ話してみた。そしてきみが推測したとおり、彼女がその商談旅行に同行する計画を提案すると彼女は大いに乗り気になった。僕としてはそれが実現せずとも特に問題なかったのだが、撃てる機会は多いほどいいので、そのための種まきのつもりで当初そんな話を持ち出したのだ。
 だが、きみに僕らのあの痴態を目撃されて状況が変わった。あれを見せられたことできみの疑惑は確信に変わり、きみは僕と京子さんを、ほとんど相思相愛に近い仲と認識するようになった。
 弓削。きみは、僕と一緒にK温泉へ行ってくれないかと手紙に書いた僕の頼みをことわったろう。そして自分の代わりに京子さんが行くのだと僕へ言ったろう。あれは、あの座敷での目撃によって、きみが僕と京子さんの秘密の関係をはっきりと悟り、彼女の心が今や完全に僕のもとにあるときみが信じるようになったからだ。そして、そう信じるようになったきみはどのような行動を取るだろう? 僕は長くきみを知っているからこそ、それが分かった。
 すなわち――僕はきみへの謝罪の手紙に、きみをK温泉へと誘う文句を書きながら、ある程度に期待していたのだ。きみが僕の誘いを自らの意思でことわり、自分ではなく京子さんをひと晩、僕の手にゆだねてくれるのではないかと期待したのだ。きみの生来の性格上、僕は、きみならきっとそうするだろうと思った。そしてそれが起こった場合、彼女を撃ち殺したい僕にとって最大の利益は何になると思うかい。
 モーティブだ。殺人には必ずなくてはならぬとされる動機だよ。
 もちろん僕にもそれはある。先に散々述べた深刻の理由から、僕には京子さんを殺したい動機がある。
 しかし、だ。ここで仮に、僕と京子さんのK温泉行きについて、きみが彼女をそこへ連れていくよう僕へ頼むとする。すると、それは僕が望んで勝手に京子さんをそこへ連れ去った場合と比べ、僕が京子さんを殺す動機の有無は第三者からみて非常に分かりづらくなると思わないか。僕は京子さんの夫であるきみに直接頼まれたという絶対強力な正当の理由を得て、彼女をそこへ連れてゆける。自分の妻を殺すかもしれない動機を持った男とのふたりきりの外泊を、夫自らわざわざその男へ頼み、また妻にも許可を与えてその男へついてゆかせるというのは、第三者の思考からするとちょっとすぐには浮かばない状況だろう?
 そして、弓削。きみは、第三者にとって理解しがたいその状況をさらに強固なものにし、夫という立場から僕をかばってくれた。京子さんが亡くなった際、現場へ駆けつけた警察が僕と京子さんの関係に不審をいだき、相応の嫌疑を僕へ向けたとき、きみは彼らからの問い合わせに対し自信を持ってこう回答してくれたではないか。『京子は自分の正式の妻である。また五城は自分の格別の信用をおいている親友である。五城は、自分の公認および要請によって、このたび妻をK温泉へ連れていったのである』。僕はきみがそんなふうに僕を防御してくれたことに胸をおどらしてね。文面を覚えてしまったから確かだと思うよ。僕にかかっていた微量の嫌疑は、きみのあの回答のおかげで完全に晴らされたといっても過言ではないのだ。
 弓削、きみは先月僕と会い、きみはK温泉には行かぬと僕へ宣言した際、自分が僕へ言ったことを覚えているかい。
 「京子を頼むよ」と、きみは僕へ言ったのだ。きみは自らの意思で京子さんを僕に託したのだ。
 打ちあけるならば、あのとき僕は身内が震えるのを感じたよ。きみがくれたこの好機を、僕は最大限活用せねばならぬ。僕は殺人にならぬ殺人をするべく、僕自身に課した制限のため、確実な成功は狙えぬ。しかし、その成功の確率を最大に高め、約四割の失敗にこのチャンスがかたむかぬよう最大限度の努力をせねばならぬ――僕はあらためてそう思ったわけだ。
 こうして、僕はK温泉の前におとずれた九州はB温泉で、あの特異な泉質について十分の事前調査をしながら、その日に向けてじりじりと照準を絞っていたのだよ。

 京子さんの遺体が発見された、その前後の状況については説明の必要はないだろう。きみはそのほとんどを把握しているだろうからね。そしてきみの把握しているそれらの情報に、僕の知るかぎりあやまりはない。
 加えて、きみはあの日の出来事をこのようなかたちで思い出すことには、抵抗があるかもしれぬ。しかしながらこれが僕の告白文である以上、まさか事件当日のことを語らぬわけにもゆかぬだろう。だからここでは、ターゲットを約七割の成功率で正確に撃ち抜き、かつ自らが法律上の殺人者とならぬよう、あの際の僕が具体的に取った言動をなるべく簡潔に挙げるにとどめる。そのほうがきみにも読みいいだろうと判断する。

 まず、僕は行きの列車で、かの地ではお互いあまり目立たず過ごそうという話を京子さんと交わした。これは僕らの不倫の関係性の面からいって、ひと目を忍ぶというのはごく自然な取り決めだろうから、彼女も素直に納得して承知した。だが僕にとっては別の意味があって、これは京子さんが「ときわや」をはじめ、現地にいる人間と余計な会話をせずにすますための防衛策だった。硫化水素という、特定の化合物に関する知識の持ち合わせが彼女にないことは容易に推し量れていたので、彼女が土地の人間から、その化合物の危険性について要らぬ情報を吹きこまれて警戒してしまわぬよう、先に手を打っておきたかったのだ。なお、列車内で彼女とそうした取り決めを交わすにあたり、周りの乗客の耳をはばかって、僕らが声をひそめていたことは言うまでもない。
 次に、「ときわや」に到着して特別室へ案内された際のことだが、僕は室内の豪華さにおどろいてみせ、肩をすくめ、これではあまり豪華だから、ほかの一般の部屋に替えてもらってもかまわないと申し出た。無論、客からそう言われて先方がほんとうに部屋を取り替えるわけはない。管理組合が「ときわや」と話をつけて用意してあった特別室のようすは、その豪勢さや湯殿が付いていることも含め、僕はあらかじめ聞かされて了解していたが、あそこで宿の人間に対し一度恐縮してみせ、「ほかの部屋でも問題なかった」という顔を彼らに印象づけておくことが重要だった。そうすることで、「じつは湯殿があるのでぜひとも特別室が好都合だった」という僕の真意に、彼らがあとになってから気がつく可能性を排除しておきたかったのだ。人間の記憶というのはお粗末なもので、その時々に受けたごくささいな印象でがらりと内容が変わる。ならば、あとあと起こしたい出来事から逆算したとき、自分にとって不利へと回るような印象は、早い段階で関係者の思考から摘み取っておくべきだろう。

 それから商談までの余暇を、僕と京子さんはまず周辺の散策についやした。それできみは、K温泉に日夜立ちこめているあの独特の硫黄臭を知っているだろう。僕はひととおり土産物屋を物色し、香や線香を売る一軒を見つけたあと――これは事前に調べて存在を把握していたので、簡単に見つかった――ひと気のない河原沿いへいったん京子さんを誘って歩きながら、その硫黄臭について彼女に言及した。僕は彼女に言ったのだ。
 「この硫黄の匂いが、どうもね。人をロマンティックな気分から遠のかしてしまう」
 そして彼女に、自分はその硫黄臭が苦手であると嘘をついた。まああのなんとも鼻を刺す妙な匂いが得意であると豪語する人間もそういないだろうし、その意味ではまるきり嘘にもならぬかもしれぬが、便宜上ここでは虚言とする。そしてその話をしたあと、僕らは土産物屋が並ぶ通りへと戻り、僕が目をつけていた、例の香を買った店に入ったのだ。
 きみは、店内であの香を欲しがったのは京子さんだと思っているだろう。それはほんとうだ。彼女はあの香を欲しがった。しかし――分かるだろう――彼女がそれをねだったのは、先ほどの僕の虚言を聞いていたからだ。硫黄臭がいやだという、僕のついておいたあの嘘が、あとで京子さんに香を欲しがらせた最大の要因となったのだ。
 実際、僕がその嘘をついたとき、すでに彼女は自分から提案していた。彼女は僕へこのように言ったのだよ。自分もあの硫黄の匂いは好きではない。しかし自分たちの泊まる特別室には湯殿があり、室内にはその匂いが常にただよい流れている。ならばほかの匂いでその臭気を消してしまえば良いのだ、と。僕は彼女の提案に、なるほどと笑って賛成した。そういえばさっき香を売っている店を見たと言い添え、あるいは僕が煙草でも吸っていようか、などと冗談もまじえて彼女をその店へ行く気にさせた。彼女から提案がなければ、僕が似たようなことを口にするつもりだった。なんにせよ、そんな前置きがあったうえで僕と京子さんはあの店を選んで入ったのだ。しかし僕らのその会話を聞いていた人物がほかにいないので、店の主人の証言のみが残り、僕が彼女を扇動していたことは明るみにならなかったのだよ。
 香を買う際、僕ではなく京子さんがそれを欲しがっていたという印象を第三者に与え、そのように証言できる人間を得ておくことがどれほど重要であったかは、あとの状況から考えても明白だ。僕には絶対不可欠なことだった。これがもし、僕が彼女に香をすすめていたという主旨の証言をされた場合、印象が逆転する。ある程度頭のある人間なら、彼女に香を焚かせるために僕が購買をすすめたかもしれないという可能性に気づき、そしてそう気づかれると非常に危険だ。彼女へ対する僕の殺意が、一歩まちがえば露見する恐れが出てくる。
 だから僕は店に入ると、そこの主人に僕と京子さんの会話の断片を、僕が聞かせたい部分のみ、うまく聞かせるよう配慮しながら行動した。過度に目立つとかえって効果が薄れ、余計な疑いを招くことになるのであくまで自然に振る舞えば良かった。結果、店主の男は僕の望むとおりの証言をしてくれたよ。

 それから「ときわや」へ戻り、大概の客がそうするように僕らも大浴場へ行った。この段階で湯に入っておくことは当初から僕の予定していた行動であり、僕は自分の手ぬぐいをここで一度使っておく必要があった。というのは、のちに自分が不在のあいだ、もし京子さんが換気口を閉じることを思いついたとして、その際、僕の未使用の手ぬぐいをそこに詰めこまれないようにするためだ。一度使用されて濡れていれば、そしてその濡れた手ぬぐいが僕の使っている衣桁にかかっている僕のものであったなら、彼女は少なくとも僕の使用したものは避けて自分の手ぬぐいを詰めるか、あるいは新しい予備の一枚を宿に頼むだろう。あるいは、仮に彼女が僕の未使用の手ぬぐいをまず換気口へ詰め、詰めたあとで替えの一枚を頼むつもりになったとしても、そうされるより、僕にはやはり最初からそこへ詰めるために新しいものを頼んでくれたほうが良かった。なぜなら、僕の手ぬぐいをはじめに詰められた場合、替えのものを京子さんがいつ宿へ頼むか分からない。そしてもしそれを所望する前に彼女に中毒死を遂げられてしまうと、どうなる。現場の換気口に、僕のものとおぼしき手ぬぐいが詰まっているという状況のみが残るだろう。そして現場にその状況を残すことを僕は回避したかったのだ。人の心理がささいなことにどれほど左右されるか、先ほど述べたろう。たとえ京子さんの死亡時刻に僕が現場にいなくとも、彼女を死に至らしめた根本要因である換気口に僕のものと思われる手ぬぐいが詰まっていたら、その状況を目にした者はだれであれ、多少は僕へ対する心象を変えたくなるだろう。ましてそのだれかが警察であればなおさらだ。そこへ、僕のものではなく京子さんの使ったとみられる手ぬぐいか、あるいは彼女が持ってこさせた替えの手ぬぐいが換気口に入っていたという事実を残すだけでも、僕への嫌疑は多分に薄くなると思わないか。僕が何かしたのではなく、京子さん自身が換気口へ手ぬぐいを詰めたという結論に思考を至らせることが、それだけでもずいぶん容易になるだろう? 僕はその後押しをしたいわけだよ。
 僕は大浴場から部屋へ戻ったとき、自分があとで着る男物の浴衣のかかった衣桁に自分の使った手ぬぐいをかけながら、念のため京子さんへひと言、言ったのだ。
 「またあとで使うよ」
 このひと言の価値は大きかった。また、京子さんが良識を備えた女性で、めったには我をとおさぬ優しい性質をしているからこそ、このひと言を聞いた彼女が、あとで僕の手ぬぐいを無断に手に取るなどはよほどないだろうと僕は実際、ほぼ確信していた。
 またさらに、僕は彼女にこうも言った。
 「全部すんだら、ここの風呂にも入っておこうかな。せっかくのはからいだから。……」
 そして部屋の湯殿へと目を向けたわけだよ。僕は彼女を振り返って、このとき、笑いかけた。
 きみ、誤解しないでくれたまえ。僕は「あなたも一緒に入ろう」などと、そんな破廉恥千万な台詞は言わなかった。言いたくもないことだ。しかし僕が暗にそうほのめかしたことは彼女にも伝わったとみえ、浴衣を着た彼女はただちに赤くなってうつむいた。大浴場で彼女が使った手ぬぐいは、彼女の脱いだ着物をかけた衣桁に同じくかかっていた。つまり、いずれの手ぬぐいが僕と彼女の使用したものであるか、あとにだれが見ても一目瞭然に察せられる状態になっていた。
 そして、のちにふたりで内湯を使おうと彼女へほのめかしておくことの価値もまた、非常に大きかった。この僕のほのめかしによって、彼女は僕の手ぬぐいにも彼女自身の手ぬぐいにも、僕が部屋に戻るまではますます触れずにおこうとするだろう。またさらに重要な効果として、僕があとで内湯を使う気でいると彼女に知らせるのは、僕が不在のあいだ彼女に部屋で香を焚かせるいっそうの理由にもなる。彼女は、部屋で入浴するならなおのこと、あの僕の苦手な硫黄臭を僕が部屋に戻る前に香で消しておこうとするだろう。しかもその香は、きみも知ってのとおり淫猥ないわれのある香だ。僕とのはじめての夜に、彼女がついそれを焚いてみたくなってもふしぎはないじゃないか。僕は、彼女が僕に心をあずけ、僕の快適のために努力を重ねる可憐な日陰の花と知っていたから、ためらわずにそう予想することができたわけだ。

 弓削。それで僕は、京子さんに、部屋で香を焚くようすすめることはできたとしても、換気口をふさぐよう彼女にすすめることは絶対にできなかった。前者には彼女を死に至らしめる危険がなく、後者にはその危険があるからだ。換言すれば、彼女は香を焚くだけなら死なずにすむが、換気口を閉じるという行為がそこに加わると致死の可能性にさらされる。そこで僕が、「香を焚くなら換気口をふさぐべきだ」と何食わぬ顔で彼女へ言ったとする。この場合、僕に言われたその言葉を彼女が死ぬまで他言せず黙っていれば、僕は安全でいられる。しかし、もし彼女が生きているうちにだれかにそれを話してしまうと、あとで彼女が死んだとき、僕は非常な危機に立たされることになる。硫化水素の危険性を知っているはずの僕がなぜそんなことを彼女へすすめたのか、という問題が出てくるからだ。無論、僕のその提案は、僕の彼女へ対する殺意を示した直接の証拠にはならない。万一そんな状況になったら、硫化水素の危険性を自分は認識していなかった、という供述で僕は頑張ることもできるだろう。また、その供述をくつがえす確実な反証を警察は得られまいという自信もじつのところ僕にはある。
 しかしね。僕は取らずにすむリスクは取らない主義だ。K温泉の前にすでにB温泉にも滞在し、湯ノ花に関する商談までしてきている男が、硫化水素の危険性をまったく認知せずにいるというのは少々無理があるだろう。ならば、京子さんが僕に聞かされたことを、生きているあいだほかの人間にしゃべらずにいる保証がない以上、僕は不要のリスクを負うつもりはなかったのだ。僕は京子さんに、換気口をふさぐことを思いつかせる手助けはするが、実際にそのアイデアを思いつき、またそれを実行に移すのは僕ではなく京子さん自身でなければならぬのだ。そしてこの点こそが、殺人になる殺人と、殺人にならぬ殺人との大きな相違だ。僕は、「換気口を閉じてしまえ」と彼女に伝え、命中の確率を約十割にまで引き上げたいのをこらえなくてはならない。殺人にならぬ殺人を成功させるには、殺したい相手への殺意を他人に悟らせてはならない。だから、約七割の命中率に賭けた言動をいついかなるときにも保っておく必要があるのだ。狙いすぎると足もとをすくわれる、ということだ。

 そういうわけで、大浴場から戻った僕は京子さんを部屋に残し、いったん宿を出て商談へ向かった。この場面で僕のしておくべきことはふたつで、ひとつは夕食後に管理組合の男たちと居酒屋で飲み直すという約束を、自然の流れに合わして彼らと取りつけることだった。まあ、この接待の件については僕が当地へおもむくと社内で決まったころから彼らとのあいだに出ていた話でもあったし、商談に際しては取引先とそうした席をもうけることは暗黙の了解でもあるわけなので、この約束に関しては僕は最初から心配していなかった。ふたつ目は、僕の夕食後、湯畑の居酒屋へ向かうにあたり、「ときわや」まで迎えの者を寄越してくれるよう、組合側へ仕向けておくことだった。道案内と称して彼らは進んでそれを申し出てくれたので楽だったが、彼らがそれを言わずとも僕が頼むつもりだった。これはいわゆるアリバイ作りの一環だ。まるできみの読む小説だろう。夕食後、管理組合からの電話に呼び出されて「ときわや」を出、湯畑の指定の店に着くまでさほど時間は要さないはずだが、できればその短いあいだも空白にはせず、僕の行動を証言できる人物を作っておいたほうがいいと思ったのだ。
 さて、商談も無事にすめば、あとは部屋で京子さんと夕食を取って、その後ふたたび湯畑へと出かけていくだけだ。もう少し辛抱してくれ。
 夕食の際には、僕は京子さんにもそれとなく酒をすすめた。無理強いはしていない。給仕をした女中が、まだ覚えていたら答えられるだろう。だが彼女は僕のすすめにこころよく応じ、付き合ってくれた。彼女にアルコールを摂取しておいて欲しかった理由は書かずともいいだろうが、一応残しておく。硫化水素中毒を仮に起こした場合、アルコールが身体に入っていると、その症状が重篤になりやすいからだ。
 午後八時過ぎ、夕食を終えてほどなく管理組合から「ときわや」に電話がかかった。僕を呼ぶ電話だ。僕は夕食の給仕をした女中へあとを頼んだ。膳の片づけや夜具の準備のことだよ。その女中には僕が宿を出ていってからもある程度の時間、引き続き部屋にとどまっていてもらうほうが、その間、部屋に異常がなかったことをあとで証明できるので都合がいい。女中はもちろん仕事だから、当然のように「はい」とうなずいた。どのみちその女中でなくとも、だれかしらが代わりにやってきただろうがね。
 部屋を出る前、僕は京子さんに「二時間ほどで戻ると思う」と告げた。すなわち、僕は自分が宿を出てからこの部屋へ戻るまでの約二時間のあいだに、彼女に中毒死を遂げていてもらいたかったわけだ。僕が部屋に帰ってきたあとでは、彼女は死ねない。換気口を閉じるなどという危険極まりない行為を僕が許すはずがないからだ。僕は約二時間で戻ると彼女に伝えることで、彼女に香を焚くタイミングの指標を提示したのだよ。僕は約二時間で帰ってくるから、そのあいだに、彼女は室内を香で満たしたければぜひそうしてくれたらいい。そしてさらに、その香りをより充満させるため、換気口を閉じようと思い立ってくれたなら、ぜひそうしてくれ。僕はその行為を止めることはできない。その場にいないのだから。
 弓削。何度も繰り返していうように、これは賭けだ。しかし危険な賭けではない。約七割の確率で成功し、あとの約三割ないしは四割で失敗するよう僕自身が計算して仕組んだ、これは安全な賭けだ。
 僕は、京子さんが僕の不在のあいだ必ず香を焚くかどうか分からぬ。同様に、彼女がその際、換気口をふさぐことを思い立ち、それを実行するかどうか分からぬ。またさらに、それらを彼女が抜かりなく実行できたとして、必ず彼女が中毒症状を引き起こし、それによって絶命するかどうか分からぬ。しかし、僕はそれらがすべて現実になるためのお膳立ては可能な限りやった。京子さんを死の淵へと導くため、最大限やれることはした。彼女を狙う僕の照準は最大限、引き絞られている。これ以上、僕にできることはない。換言すると、これ以上を僕がしてしまうと、僕は法律上の殺人罪に問われる危険に自らをさらす結果になる。それじゃ本末転倒だろう。
 僕の放った弾丸が、京子さんに命中するプロバビリティーは約七割だ――僕は彼女へ「行ってくるよ」と部屋で別れを告げたとき、覚悟を決めたのだよ。成功すれば、この賭けは僕の勝ちだ。けれどもし、僕が出ているあいだ何も連絡がなく彼女が生きて僕を迎えたら、僕は失敗を受け容れよう。僕はそしらぬ笑顔で彼女に接し、観念してその夜は彼女の肉体を愛し、彼女をよろこばせ、また次の機をうかがおう。
 僕はそう腹を決め、静かに京子さんを見つめると、彼女を残して部屋を去ったのだ。

 結果がどうなったかは、僕もきみもよく知るところだよ。
 京子さんは「不慮の過失による」中毒死を遂げた。この「不慮」という一語のため、僕がいかに熟考したか、その労苦を思うと少々肩すかしだったよ。あまりに期待どおりことが運んだので、一報を受けてから夜が明けるころまではさすがに興奮を抑えられずに緊張していた。きみは、朝になって僕と長距離電話がつながったときの、僕のあの狼狽っぷりを覚えているだろう。あれはまんざら演技というわけでもなかったのだ。
 あの晩、僕の取った行動は、どれを挙げてもそれ単体で考えたとき、法に抵触するものはひとつもない。ただそこに殺意が含まれていたかどうかの問題であって、それは確かに存在したが、僕のその殺意に気づき、証明しようとした人間が警察も含めて皆無だったので、僕は大した嫌疑をかぶることなく、これを書いているわけだ。
 僕は賭けに勝ったのだよ。少なくともこれをしたためている現段階では、僕は自分の勝利を思い、ささやかな達成感にひたっている。それくらい許されたっていいじゃないか。
 しかし、ここにひとつ大前提として、弓削、きみがこれを読んでいるという事実がある。きみに僕のかかり合いを正しく疑われてしまったということは、僕の勝利は完全なものではない。僕は、何か読みまちがいか見落としをしたのだろうね? 今はまだ気づいていないが、きっとどこかにエラーがあったのだろう。
 だがそれも仕方ない。僕は殺人狂でもなければ、全能の神でもないのでね。エラーくらいするさ。

 それで、弓削。
 K温泉へ行く前、きみから京子さんを託されたとき、僕はきみにこんなことを話したね。
 僕は、京子さんにかかわる問題によって、僕ときみとの友愛が破壊されるくらいなら、僕は死んだほうがましだときみに伝えた。そして、その言葉は僕にとって真実だ。まぎれもない本心であり、願いだ。
 弓削。僕はね。きみが僕との友愛に終止符を打つことを望むなら、すなわち僕は、この命や名聞なぞどうでもいいのだ。いつでも投げだしていいと思っている。その場合、人妻殺しの間男と世に言われようが甘んじて容れようと思っている。そして、僕はそのことできみを責めたりしない。はじめのはじめから、僕はその覚悟でもって京子さんを死なせ、また同様の覚悟でこれを書いている。
 それで、これを読むきみの手には、僕があえて残した唯一の証拠がある。すなわち、この告白書そのものだ。きみはこの告白書を、僕の京子さんへ対する殺意を示した直接の証拠として利用できると思う。事件はすでに片づいてしまっているが、担当した郡警察の捜査課へきみがこれを提出すれば、事件は見直され、殺人事件として新たに立件される可能性は十分ある。そして、彼らへ対しこの告白書の内容を僕が事実と認めれば、告白書は証拠として受理され、やがて僕は検事の手によって殺人罪で起訴され公判へ移されるだろう。そうなれば、僕は法廷で未練がましく無実を主張する気はないし、このうえ減刑されても意味がないので、ほどなく僕の有罪は確定し、僕は殺人犯人として然るべき方法で処断されるだろう。
 弓削。
 きみは京子さんの運命を僕に託したろう。だから、今度は僕が、僕自身の運命をきみに託すよ。
 この告白書をどうするかは、完全にきみの自由だ。きみはこれを警察へ持っていってもいいし、あるいは新聞社へ持ちこんでもいい。あるいは、きみは僕の手を直接引いて、僕を手近な警察署へ拘引し、彼らの前にこの告白書を証拠として叩きつけてくれたっていいのだ。
 僕は、きみの手によって僕の殺意をあばかれるのであれば、そしてそれをきみ自身が決断するのであれば、
告白書の内容を事実と認めることをいとわない。むしろ、よろこんで認めよう。僕はただ頭を下げ、何も言わず、きみの希望に従おう。
 弓削。きみの望みを僕に示してくれ。きみが決めてくれ。
 きみにはそれを決定する権利がある――。
 僕の告白は以上だ。


五城時次
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