五城時次の告白書(全文)上

文字数 7,030文字

12.五城時次の告白書(全文)

 弓削。
 きみがこれを読んでいるということは、きみは京子さんの死について正しい疑念をいだいたのだね。僕は、僕のやったことに対しきみが正しい疑念を得たと知ったときにかぎり、きみにこの封書を読んでもらうと決めている。京子さんが帰らぬ人となった今、僕はそう決心したうえでこれを書き始めている。
 僕の意味する正しい疑念がどういうことか、これを読むきみはもう理解しているだろう。あるいは完璧に理解しておらずとも、きみはすでにその正しい疑念の一片を得てしまっている。僕がそう判断したからこそ、きみはこれを読んでいるのだ。きみがその一片を得たと判断した以上、僕はそのまま見過ごすことはできない。その疑惑の一端は時とともに成長し、遅かれ早かれ必ずきみを真相へとたどり着かせると思うからだ。そうなるくらいなら、僕はきみが完璧に気づくのを待たず、この封書の中身をきみに暴露する。僕はこれを書き終え次第しっかり封をし、常に懐中に忍ばせだれにも見せず携帯しておくつもりでいる。これはきみではないほかの人間に読まれてはならぬからだ。なぜというのは、きみにも想像がつくだろう。
 これは僕の告白書なのだ。そしてその秘密の告白書を特定の条件にかぎってきみに読んでもらうというのは、僕のしたことに対する僕自身の覚悟のあらわれなのだ。すなわち、京子は僕が殺したのじゃないかと疑うきみに対し、それは正しいと認めることが、足かけ二年にわたる熟慮と計画のすえ彼女をこの世から葬り去った僕の、きみに対する切実な覚悟なのだよ。

 そうだ、弓削。きみの疑念は正しい。いかにも僕は京子さんを殺した。正確に言えば、僕は彼女を死の淵へと導き、そこから彼女に自分の意思で勝手に飛び下りてもらったのだ。僕は物理的に彼女を手にかけたわけではない。彼女が自ら死を選び取るよう、法律にふれない範囲で彼女を誘導したのだ。こう書くと自殺教唆のようにも見えるだろうが、そうではない。彼女に自殺願望はなかった。
 ともあれ、京子さんの死について語る前に、先にきみに話しておかなくちゃならないことがある。まずはそちらを優先させてほしい。じらすようで悪いが、そうでないと僕がなぜ京子さんを殺したか、その理由が明るみになってこないからだ。

 弓削。僕は中学時代から、自分のなかに人とは異なるあるものが棲みついているように感じていた。同級生が当然のごとく興味をいだき始めていることに、僕はほとんど惹かれなかった。彼らの話に付き合いながら、何がそんなにいいのだろうかと心ひそかに疑問に思い、彼らの具体的な体験談を聞かされては時に嫌悪さえもよおすこともしばしばだった。
 何かというと、すなわち異性に対する情緒なんだ。きみにははじめて打ちあけるが、僕にはその異性に対する憧れや興味や畏怖というのが、どうも最初から人よりだいぶ欠如していたようなんだ。そしてそれは今でも変わっていない。僕は女という生き物が生理的に苦手なのだ。好きになれない。信用できない。女に惚れる自分というのは、至上もっとも想像しがたい自身の姿だと思っている。端的に言えば、生来の女ぎらいなのだね。
 僕は自分のこの特性に気づき、中学在学中に何度か父の書斎で調べた。そのとき読んだ専門書の大半はそれを病的心理と定義づけていたので、僕はそのことをだれにも言わなかった。だが高校へ上がると、意外にもその特性をわざわざ好み、かえって女にのめりこむのを軟弱ときらって、白い肌に丸顔の、血色の良い下級生を愛する優等の上級生が学内に一定数いることを知った。きみもそういう一派のことは多かれ少なかれ知ってはいたろう。彼らは気に入った下級生を愛人とし、弟子とし、そうした関係のうえに成り立つ友情をその無垢の下級生とはぐくんでいながら、周囲からさげすまれるどころかむしろある種の尊敬を受けていた。僕はそんな彼らと接しているうち思想に変化をきたし、同性愛は必ずしも病的心理ではないのだと信ずるまでには至ったが、それでも自分の特性を賛美するにはおよばず、人にも言わず黙っていた。父の手前もあった。
 中学、高校と、そういうわけで僕は一度たりとも女に惹かれず――惹かれようと努力した時期もあったが結果は全然失望に終わったのだ――かといって同性に対する認識も安定せず、自身の恋愛が自分にもまったく分からぬままとうとう高校を出てしまった。どうやら自分には恋愛ができない。自分が将来だれかを愛する見こみは皆無だろう。自分は父に言われるとおりの相手と不承不承の結婚をする運命にあるのだろう。淡々とそう思いながら、おろしたての大学制服に身を包んだ僕は、特別のかなしみはない代わりほのかな青春への期待もなく、さめたまなざしを満開の桜へとそそぎ、新たな正門をくぐったのだ。
 すると、弓削。きみだ。
 きみがいた。
 僕らの学び舎の、あの黒々とした瀟洒な門の向こうで、僕はきみに出会ったのだよ。

 僕らの最初の会話を、きみは覚えていないかもしれない。だが僕ははっきり記憶している。入学式のあと、講義が始まるようになって間もなくのことだった。器械体操の実力測定で、きみは鉄棒に長くつかまっていられず、同級生から笑われていた。懸垂なぞもってのほかだろうとからかわれていたね。鉄棒の出来だけで言えば僕もきみと大差なかったはずなんだが、なぜか僕よりきみのほうがその失敗が目立っていた。
 きみは鉄棒から落っこちて、派手に転んだ。どっと皆がはやし立てた。それからきみが身体じゅうに付いた砂ぼこりをせわしなく払いながら立ち上がるのを見て、僕はなんとなくの親切心から、きみのそばまで行くと「だいじょうぶか」と声をかけた。いったいどうすればあんな誇張した転び方ができるものかと、きみへ対する多少の好奇心も、もしかしてあったかもしれない。僕はそのとき、同級の生徒というほかには、きみの名前さえ知らずにいた。
 「痛かったろう。怪我はないか」
 「平気さ」
 きみはうつむいて言った。その早口の「平気さ」というのが、僕へ向けられたきみの第一声だったわけだ。
 きみはちらと僕を見た。僕がだれか確かめるような目で僕をうかがっていたが、その目を悔しげに鉄棒へと向け、戻したと思うと突然僕をねめつけた。
 「いいんだ。僕にはあれが精一杯なんだ。笑いたいなら笑ってくれ」
 だが僕は笑わなかった。するときみは怒った調子に、
 「困るよ、きみ――」
 と発言した。
 「困るよ。笑ってくれなきゃ。おい、笑えよ。笑ってくれ。ますます僕がふびんじゃないか。……」
 きみは笑わない僕へそう言って、またうつむいた。今でも鮮明に思い出せる。きみは転んですりむいたのか、僕への怒りか皆にからかわれた羞恥のためか、とにかく耳のあたりをやたらに赤くしていた。
 僕はきみのそのようすを見ているうち、実際のところますます笑えなくなった。きみは笑おうとしない僕を怒ったが、僕は笑うよりおどろいていてね。半ば茫然としていたのだ。なぜって、きみが悔しそうにうつむいている姿を横から見たとき――僕をにらんで「困るよ」と言ったとき――僕は自分の奥底で何かがうごめいたのをはっきり感じ取ったからだ。笑っていられる場合ではなかった。はじめての感覚だった。それを僕はあの春、きみから受けたのだ。きみはまさかと思うのだろうね。けれど、ほんとうのことだ。きみはそれまで無感覚だった僕の情緒に刺激を与えた、唯一の人間なのだ。
 無論、僕は自身のなかで蠢動(しゅんどう)を始めたその何物かに対し、最初から執着を持っていたのではない。だがきみの友人となってきみと親しく付き合ううち、その何物かが次第にその動きを激しく強くしていくのを日増しに感じるようになるにつけ、僕は考えざるを得なかった。僕は高校時代に自分が見たり、多少体験したりしたような、あのたぐいの友情をきみに求めているのだろうか? きみを僕の愛人とし、あるいは義兄弟とし、きみと熱い交情を構築させてゆけたら僕はかつての彼らのように満足がいくのだろうか? 僕らは互いを親友と呼び、それを誓い、周囲にも公然と認めるまでにすでに関係を深めていた。きみは僕を親友とすることに一縷の不満もないようだった。僕もそうだった。きみを親友とすることがうれしく、この友情を大切に育てていきたかった。だが一方、僕はきみのようになんの不満もかかえていないわけではなかった。僕はきみが、僕の親友であるほかそれ以上にはならないということが、言うに言われず苦しかったのだ。時に耐えがたいほどの煩悶を、その前提のもとに作られる未来は僕に与えた。
 そうなのだ、弓削――僕は在学中、この点について、きみの知らぬところで非常にもだえ苦しんだ。きみが文学青年らしく異性との儚い恋愛に憧れ、場末のささやかな女とのひと晩に興味を持ち、身分のそぐわぬ麗人とのひと目を忍ぶ逢瀬の数々に過ぎ去りし十九世紀の夢を見るほど、僕は現実の懊悩へと直面した。しかし、当時の僕に何ができたろう? きみに僕の知り得た同胞愛や同性愛を説いても、きみは苦笑しただろう。きみにその特性がないかぎり、きみは僕の話を真面目に聞きはしても共感はできなかったろう。
 僕はきみに不快に思われたくない一心に、自身の特性は完全に隠して日々を過ごした。そのためなら、きみや同級にならって芸者に興味を持つふりができた。女給のだれそれとうわべだけ楽しく会話し、遊郭へは憧憬に満ちたまなざしを作って送れた。ついには後学のためと自らを言い聞かし、実際にきみと登楼することにさえ成功した。今となってはお笑い種のようだが、当時の僕にはそれこそ決死の事態だった。そもそも女をきらいなのだから、その女との交合に、まして毎日大勢の男を相手にしている女とのそれに至るのに僕がどれほどの決意を要したか、ここで一寸きみに想像してみてほしい。死ぬほどの冷や汗をかいたよ。ただ僕は、自分の身がどうなることより、その夜はきみだけ案じていた。朝が来て、やっときみと顔を合わせたとき、僕がきみを見るなり「ああ無事だったか」と思わず口走ったら、きみは恥ずかしそうに笑ったね。僕はそうして自分のほんとうの特性は押し殺し、親友としてのきみを僕につなぎとめるべく、ことあるごとにきみのために金を貸したり、使ったりして、きみの望みをかなえることに小さなよろこびを覚えていた。それしか、きみに必要とされる有益らしい手立てが思いつけなかったのだ。それだけきみを独占していたかったのだ。自分で言うのもあれだが、振り返ってみればずいぶん涙ぐましいじゃないか。

 けれども時には、押しこめているこの特性が不意をくらって暴れ出しそうになることもあった。特別に記憶している出来事がある。きみへの告白として重要だから、書かせてくれ。
 きみを含め、同級の友人数名と酒盛りをしたときだ。夏の終わりごろだった。何の議論だったか忘れたがだいぶそれが高じて、酒も進み、僕以外の者は全員かなり酔った。それから、大概そうなるように女の話になって、詳細は割愛するが、文章であれば丸ごと伏せ字になるような内容にひとしきり笑ったあとだ。きみは僕にしなだれかかって、酔った勢いのまま僕の膝に倒れた。それを見ていた全員がはやした。するときみは僕の膝からしげしげと僕を見上げ、
 「五城。きみは美人だよ。ほんとうに綺麗だ。きみが女だったらなあ――」
 と言った。
 「真っ赤な襦袢でも着てみろ。それで挑まれたら、僕なんかころっと参っちまう。なあ――着てみろよ」
 きみは僕の胸もとをつかみ、回らない呂律で楽しそうにそう言ったよ。きみだけじゃない、皆笑っていた。
 弓削。告白するなら、僕はあのときほど女へ対し嫉妬と憎悪を感じたことはなかったかもしれない。彼女たちは自分が女であるという一事だけできみに挑めるのだ。僕が男であるために得られないその特権を、彼女たちはなんの苦もなく得られるというのだ。たまたま腹のなかに子宮を持って生まれるという僕には対処のしようのなかった生物上の一差異が、僕を排除し、彼女たちをきみの愛撫の対象とならせるのだ。これが不当でなくてなんであろう。到底受け入れがたい事実だったが、耐えるしかなかった。
 だが時に耐えきれないこともあった。僕は京子さんの件に入る前に、今こそきみに打ちあけなくてはならぬ。
 きみは言わずもがな、きみの初恋の相手を覚えているだろうね? あのお駒だ。きみは偶然僕と入った汁粉屋で給仕をしていた彼女と、はじめての熱烈な恋をしたのだったね。
 僕がきみとお駒の恋愛について何を感じていたか、ここでくどくどしく書き立てるのはやめよう。ぜひ想像してみてくれたまえ。だが賭けてもいい、きみはその期間の僕の秘めたる苦悩の、百分の一も想像し得ないと思う。
 僕は、きみが大学を出たらお駒と暮らすつもりでいると聞かされて、口ではそれを応援した。そして定期試験のあと、きみが流行性感冒にかかって数週間ほど寝こんだとき、僕はそのあいだ、きみに黙ってひとりでお駒の汁粉屋へ行った。単に重い苦悩のすえの衝動に駆られてのことで、そのときは別に何か考えがあったわけじゃなかった。だが店で立ち働くお駒を隅の席から見つめているうち、きみに存分に愛されて美しく色づいているその豊かな笑顔を見ているうち、彼女へ対するどうにもならぬ憎しみが――燃えるような悪意が――腹の底からこみ上げてあふれた。
 僕は席を立つとお駒のもとへ行き、少し裏で話したいとささやいた。僕がきみの親友であると知っているから、彼女はすぐに了承した。
 僕は店の裏手でお駒とふたりきりになると早速、きみがどれほど彼女をきらうようになったか、言葉を尽くして彼女へ説明した。きみが風邪を引いて寝こんでいるから店に来られないというのも嘘で、じつはきみはもはや彼女に会いたくなく、本音では一刻も早く別れたいがそれを言い出すきっかけが分からず、代わりに僕をここへ寄越したのだと語って聞かせた。彼女はおどろくほどすんなり信じた。疑うことを知らなかったのだろう。彼女はあまり純粋すぎたよ、僕にすればね。だからあの程度の付け焼き刃の説明を本気にして涙ぐみ、そういうわけだからきみには今後会わぬほうが良いという僕の提案にも、深く納得したのだと思う。
 その後お駒がどうなったかはきみも知るとおりだ。彼女は郷里へ帰って縁談を受け、結婚した。きみは悲嘆していたね。僕はもちろん自分の罪悪に胸を痛めた。きみにもお駒にも気の毒だったと一時は後悔した。だがその後悔も早くに消えた。弓削――きみが僕を、以前にも増して頼りにするようになってくれたからだ。僕の励ましにあの際のきみは寄りかかり、涙酒のあとに憔悴するきみの肩を抱いて夜道を歩いたとき、きみは僕に身を任して僕の存在に感謝してくれたね。自分には僕が必要だと言って、肩にあった僕の手を握り、僕ほどの男はほかにいないと言って僕との変わらぬ永遠の友情を約束してくれたね。僕はそのとき、きみをお駒から奪い返し、その身を専有していられる優越につかの間酔いしれていた。お駒よ、ざまを見ろ。結局きみをこうして最後に支えられるのは僕しかいないのだ。そう思ったくらいだった。
 ところできみは、僕の会社に何人か、きみの学校へ娘を通わしている上役がいるのを知っているかい。それで幾度か僕は彼らに聞いたが、英語科の弓削先生といえば、生徒たちのあいだに折々うわさにのぼるようでね。どうも陰ではずいぶん人気があって、なかにはきみに教わりたいばっかりにわざと英語を落第したり、きみと個人的に話がしたいがためにむやみと相談を頼んだりする熱っぽい上級生までいるようじゃないか。だが肝心のきみがそれをてんで感知せずにいるせいで、早熟の彼女たちの気を余計にもましているらしいね。
 ――で、僕はこうなることを卒業前から薄々予感していた。こうなることを憂慮したわけだよ。だからきみが女学校の教師になると決めたとき、妙にそれを残念がってみせたのだ。その女学校が名門で、都下の上流の娘たちが続々入学しているとあってはなおさらだ。大体きみは自分の素質を知らずにいるのだよ。きみにはある特定の女たちを必要以上に惹きつける素質が備わっているのだ。見ていると何か世話を焼いてやりたくなる。無性にかまってやりたくなる。そんな男を好む女は決して少なくないだろう。自我のはっきりしていて気位の高い、男女同権を声高に唱えるわりにすぐヒステリーを起こす癇の強い女ほど、その傾向にあるのだ。
 僕の深部に蠢動していた何物かは、こうして大学を卒業するころにはもうすっかり成虫となって、今にも羽ばたかんばかりにまで成長を遂げていた。その立派な何物かの正体は僕にはとっくに分かっていた。僕はその何物かを、それが生まれて以来一度も死なせず、きょうまで大切に育て上げてきた。
 ここまで来れば、きみもさすがに察しているだろうね?
 そうなのだ。弓削。
 僕はきみを恋しているのだ。かつての高校時代、僕が遊んだ見せかけの愛人や恋人では満足できぬ。
 僕はきみが女を愛するようにきみを愛し、またそれと同じ意味できみから愛せられたいのだ。換言すれば、僕はただひたすら、一途にきみに惚れているのだよ。無論、これをしたためている今もそうだ。
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