第34話 プロの仕事

文字数 2,843文字

プロの仕事

 ヒロユキはオリジナル専門のテキスタイル・デザイン・スタジオで働き出したが、オリジナルだけで食って行くのは正直難しかった。

 そこで働くようになって1っカ月経ったがデザインは一枚も売れなかった。

 現実とは甘くないと言う事だろう。そんな時だ、敏夫がスタジオに駆け込んで来た。

「あんちゃん、逃げまし」
「なんね、逃げましって」
「そやから、逃げた方がええと言うてるんや」

 何の事かさっぱり分からなかったが、要するにこの敏夫が、自分の働いているスタジオのオーナーに、横村よりも腕良いデザイナーが自分の友達にいるとホラを吹いてしまったらしい。

 横村と言う人はこの業界の日本人としては第一世代でトップ君臨する程の腕の良いデザイナーだった。

 そして敏夫が働いているスタジオのオーナーも同世代のデザイナーで横村の事は良く知る人物だった。

 そんな凄腕がいるなら是非にでもうちのスタジオに入れないとと言って、ここにやって来ると言うのが敏夫の言い分だった。

 そんな事になったら、ヒロユキ腕の程がばれてしまう。

 確かにヒロユも良い腕にはなって来たが、まだまだ横村には遠く及ばない。

 だから敏夫は逃げろと言いに来たのだった。

 何でそんないい加減な事を言うんだと思ったが、本当にここに来られたら困るので、取り敢えずは早退と言う事でスタジオを離れた。

 本当に面倒な事を言ってくれる友だと思ったが、言ってしまっものは仕方ない。

 それで1日置いてもう大丈夫だろうとまたスタジオに戻った。それで一応は事なきを得たのだがデザインが売れない事に変わりはなかった。

 しかしこれではじり貧だ。収入が入って来ないでは生活が苦しくなる。もうレストランでバイトはしてないのだから。

 そんな時、そのスタジオの同僚が、あるスタジオで人材を募集してると教えてくれた。

 何でもリピートワークの出来るデザイナーを募集していると言う話だった。

 彼女はリピートが出来ないので、ヒロなら出来るんじゃないかと言ってくれた。

 そうか、そんな仕事があるならやってみるかとヒロユキは早速電話をかけて面接に臨んだ。

 こう言う業界の面接と言うのは自分の作品を見せ事だ。そしてその作品が良ければ採用してくれる。

 下手ならそれまでだ。実にはっきりしている。実力次第と言う事だ。

 それでそのスタジオのオーナーと言う人に急遽自分で作った分も含めて色々な作品を見せた。

 オーナーはみんな見た後で、もう一点みたいと言った。それはエアーブラシを使った作品だと言う。

 確かに今回持ってきた作品の中にはエアーブラシを使った作品は入ってなかった。

 それで3日待ってくださいと言ってその場は引き下がった。ともかく3日の内に何かエアーブラシを使った作品を作らなければならない。

 エアーブラシはグラフィックのイラストでも使った事があるのでそんなに難しいものではなかった。

 ただ問題は絵の構成と題材だ。そこでヒロユキは地上で一番速い動物と言われているチーターが疾走している姿をエアーブラシを使って表現した。

 これが受けたのかも知れないが、これを見せて面接は合格となった。

 次にいくら給料が欲しいかと聞かれた。

 ヒロユキにしてみれば「えっ、それ何」と言う所だった。給料の額を自分で言う。日本人にそんな習慣はない。

 だがここでは珍しい事ではない様だ。要するに自分の能力をちゃんと評価して、その額を提示すると言う事らしい。

 しかしヒロユキには一体いくら言ったらいいのか皆目見当がつかなかった。

 それでウエイターの時のチップと比べてみた。ヒロユキが100%の時に貰っていたのは毎日30ドルだった。

 これが5日で150ドルになる。1っカ月で600ドルだ。そこでヒロユキは1週間250ドルを要求した。ここでは週給制だった。

 1973年に第一次オイルショックが起こり、日本でもストアからトイレットペーパーが消えると言う騒動があった。

 そして1ドル360円の固定相場がこの後変動相場に変わった。とは言えこの当時はまだ1ドル300円位はあっただろう。

 だから1っカ月で1,000ドルの月給と言うのは日本円では30万円位になる。

 想像出来るだろうか、50年前で一ヶ月の給料が30万円だ。そしてこれは了承された。

 今でも30万円と言えばそれなりの給料だろう。それを50年前に貰っていたのだ。アメリカがどれだけ豊かな国だったかと言う事だろう。

 仕事は色々あったが基本的にはリピートワークの仕事だった。しかしこれは既に敏夫から教えてもらって出来る様になっていたので問題なくこなしていた。

 これでヒロユキはアパート代から学費に生活費まで全て賄えた。しかも学生ではなくプロとしての仕事をしている事になる。

 まさか自分がプロのデザイナーとしてこのアメリカで働けるとは夢にも思ってはみなかった。

 ニューヨークのデザイン・スクールに入学して一時は失望していた。俺は一体何の為にアメリカまでやって来たんだと。

 あの地獄の様な1年間は何だったんだと思った。あそこまでしてこの国に来る必要が本当にあったんだろうかと思った。

 あのまま日本でデザイナーになっていた方が成功したのではないだろうかと。

 しかし今は違う。少なくとも俺は今、アメリカのデザイン・スタジオでプロとして働いていると言う自覚と自負がある。

 勿論まだ腕は未熟かも知れない。この業界で日本人第一世代と呼ばれる人は3人いた。みんな有名な人達だった。

 残念ながらヒロユキではまだ足元にも及ばないだろう。そんな人達がいた。

 しかしいつか必ずいつか追いついて追い抜いて見せると思っていた。

 この業界のデザインも奥が深い。学ぶべき事は一杯ある。しかしヒロユキが働きだしたスタジオでは誰も何も教えてはくれなかった。

 要するにプロとして雇われたんだから仕事が出来て当たり前だと意識があったからだ。

 その為に成功も失敗も全て自分の責任になる。その様なシビアな世界だった。しかしその分また多くの事が学べたと思った。

 後は自分で自分の腕を磨くしかない。そう言う世界だった。

 その頃敏夫が何処で知り合ったのか、ヒロユキに一人の日本を紹介してくれた。

 彼は東京で有名なデザイン・スクールを卒業したと言っていた。彼もまたグラフィック・デザインをやっていたらしい。

 ただ今は語学を学ぶ為にニューヨークにやって来たと言っていた。その後どうするかはまだ決めていないらしい。

 年も同い年だったのでヒロユキとも親しくなった。彼は神奈川の茅ケ崎の出身だと言った。もしいつか日本に帰ったら一度寄ってくれとも言っていた。

 ヒロユキも彼の作品を見せてもらったがそれなりには描けていると思った。ただ表現にまだ若干の甘さはあった。

 しかし練習すればもっと伸びるだろうと思った。その伸びしろは十分にある様に思えた。

 こう言う人もアメリカに来ているんだ、自分ももっともっと勉強して腕を磨かいなといけないなと思っていた。
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登場人物紹介

ヒロユキ(柴田広之)20歳、一人っ子

元市役所勤務の地方公務員

1年で役所を辞めてデザイナーを目指す

高校生時代生徒会の副会長を二期

風紀部長を一期務める

合気道と少林寺拳法を習得

神谷仁(ジン)

72歳、若くしてアメリカに渡り、ほぼその生涯をアメリカで過ごす。

そして老齢にしてアストラルボディに交戦し、

遂に自分の体から精神体として離脱に成功。

そこで宇宙意識なるものに遭遇し、アネルギーの増幅を得て、

精神生命体(アストラルボディ)として生きる事を決意。

自分自身の体を死体に変え自由に世に飛び出した。

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