第20話 マイカー

文字数 3,216文字

 初めて出来たアメリカ人の友人、アリスと別れるのは寂しかったが、ヒロユキに取っても余裕のある生活をしている訳ではない。

 だからこの選択は仕方なかったし、またアリスも何処かに就職口が決まれば離れて行く事になっただろう。

 今度の家は、ダウンタウンの郊外行のバス・ステーションからはなかり遠くなるので、家の近くから市バスに乗ってMarket Stまで行ってそこから歩きだ。

 アメリカと言う国はこの当時以前からモータリゼーションの国だった。自家用車なしではとても生活が出来ない。

 ただし例外が二か所あった。それはニューヨークとサンフランシスコだ。

 この都市は公共の公共機関が発達している。ニューヨークはバスと地下鉄がある。サンフランシスコはケーブルカーとバスだけだが市民の足には事足りる。

 と言ってもケーブルカーはその殆どが観光用だ。

 勿論学校に行くには今のままでも事足りる。しかし折角アメリカに住んでいるのだ、車を持ちたいと言う気持ちが起こってもおかしくはないだろう。

 勿論ヒロユキは日本にいた時も車などは持った事も運転した事もない。そんな金銭的余裕も時間的余裕もなかった。

 しかし当時男子に取って車はやはり男のロマン。夢はやはり自分の車を持つ事だろう。

 1970年代は自家用車と言ってもまだまだ個人が持つにはハードルが高かった。値段が高い。だから高嶺の花だっと言ってもいいだろう。

 ヒロユキのクラスメイトで卒業後、その友達の家に遊びに行った事があったが、彼はスバル360と言う車に乗っていた。

 これはフォルクスワーゲンのビートルによく似た形状の車だ。それを二十歳そこその男が乗っていた。ヒロユキは嫉妬せずにはいられなかった。

 ただ当時大衆車やマイカーと言う言葉が色々な所で叫ばれてはいてが、それはあくまで広告やメディアの宣伝戦略であって、世の中はまだまだそこまでは行ってはいなかった。

 しかしそれを先取りして大衆の意識を誘導するのがアドバタイジングの世界だ。つまりこれらヒロユキが足を踏み入れようとしている世界だと言ってもいい。

 しかしアメリカではすでに個人の車は一般大衆の足となっていた。また自家用車なしでは生活出来ない所も多くある。それだけ国が広い、大きいと言う事だ。

 ヒロユキがやっていたハウスボーイの家でも旦那さんと奥さんが一台ずつ車を持っていた。

 それも高そうなヨーロッパ製の車だったが、当時のヒロユキにはそれがどんな車なのかよくわからなかった。

 車を持ちたいと言う夢、始めは諦めていたが、ここに来てその夢に現実味が出て来た。

 つまりこのハウスボーイの口が見つかって食費、宿泊費が節約出来た事で手持ちの金に少し余裕が出来た。

 ヒロユキは考えてみた、どの程度までなら車に金を注ぎ込めるかと。上限は500ドルと言った所だった。

 それで丹念に新聞広告に目を通していると、良い出物があった。ただし550ドルと書いてあった。相手は留学生らしいが1台手放したいらしい。

 しかしヒロユキにはそれをどう交渉して車を買えばいいのか良くわからなかった。

 ただ幸いな事にこちらに来てから知り合いなった日本人のアーティストがいた。彼は日本人町の近くに住み自分の車を持っていた。

 そこで彼に相談してみると、彼が交渉してやるよと言ってくれた。

 そして彼が電話をかけ、アポイントメントを作って直接相手と会い交渉を始めた。

 相手はタイから留学生で姉弟で住んでいた。姉が新しいフォードのピントと言う車買ったので、今持ってる車を売りたいと言う事だった。

 それで値段を交渉した結果、やっと500ドルまで下がった。エンジンはオーバーホールしてあると言っていた。

 車は1968年型のプリムスのバラクーダーと言うファーストバックの車だった。しかしヒロユキにはそれがどんな車なのか全くわからなかった。

 ともかく買った車は草色と言うか薄いカーキー色と言う感じだった。

 問題は、ヒロユキは車の免許も取らずにこの車を買ってしまったので運転の仕方を知らなかった。

 しかもこの車はマニュアル車だった。どうしてこの車を持って帰るのだと言うのだ。全く滅茶苦茶な話だ。

 そこで知人のアーティストが近くの広場にその車を持って行って、即興でヒロユキにマニュアル車の運転の仕方を教えてくれた。何度もエンストを繰り返しながら。

 一応動かせよう様になった時点で、後は自分で運転して帰ってくれと言われたが、さて本当に帰れるのかどうかヒロユキにはわからなかった。

 ともかくヒロユキは冷や汗をかきながら道路の端を皆の迷惑にならない様に、エンストしない様にと祈りながらやっとの事で家に辿り着いた。

 その時間は2-30分だっただろがヒロユキには永遠の時間にも感じる程だった。

 ともかく念願の車は手に入った。後は、そうだ自動車免許だ。

 先ずはDMV(陸運局)で交通ルールに関する筆記試験を受ける。これに合格するとLearner's Permitと言う物が貰える。

 これがあると隣に誰か免許を持ってる者が乗っていれば街中で運転の練習が出来る。日本の様に自動車教習所に通わなくても。

 そしてアメリカには当時も今も日本の様な自動車教習所と言う様な所はない。

 全ては個人がやっているドライビング・インストラクターの指導を受ける事になる。

 電話帳で調べて予約を入れると家まで来てくれる。そして家の周辺で練習する事になる。当時でも既にドライビング・スクール(個人)の車はオートマチックになっていた。

 こちらでは当時も今も車の免許にオートマとマニュアルの違いはない。オートマで免許を取ってもマニュアル車にも乗れる。ただし運転の練習はしなければならないが。

 車のインストラクターには一回一回料金を払う事になる。何回指導を受けるかは本人の自由だ。自信が出来れば本番の試験を受ければいい。

 ただこのサンフランシスコで問題になるのは坂だ。この町には急勾配の坂が到る所にある。そんな所で止まった時の処置が一番難しい。

 何故ならこちらの車の実地試験は普通の町の中を走るからだ。日本の様な運転試験所などと言う所はない。

 試験場を出て街の中を走り、試験場に帰って来るまでに問題がなければそれで通る。

 アメリカでは車は普段の生活の必需品だ。だから試験は落とす為のものではなく通す為のものだ。

 しかしそれでも必要最低限の交通ルールと運転技術は持っていなければならない。

 ヒロユキは3回インストラクターの指導を受け、4回目にそのインストラクターの車で実地試験を受けに行った。勿論オートマ車だった。

 ヒロユキ自身も試験に通る自信があった。あれがなければ。試験の終盤で万が悪い事に急勾配の坂道の天辺で赤信号になり停車した。

 丘の向こう側は3車線とも見えなった。信号が青に変わり発進した所、右横から出て来た車とぶつかりそうになってインストラクターが助手席にも付いているブレーキを踏んだ。

 これはヒロユキが悪いのではないが、ブレーキをかけるのが遅く危険だったので前方不注意と言う事で落とされてしまった。

 ヒロユキにしてみれば「そんなのありかよ」と言いたい所だった。

 次回は2週間後と言う事になった。ヒロユキはこれ以上インストラクターに金を使いたくなかったので、次は自分のマニュアル車で試験を受けようと思い、夜な夜な自分のマニュアル車で一人練習をしていた。

 これはそう言う意味では違法だが誰も見ていないし、その辺りは夜になると車通りは殆どなくなる。そうして練習をし次の試験に臨んだ。

 その時は隣に免許を持ってる学校のクラスメイトに乗ってもらって試験場に行き、試験を受けてその時はそれで本当に通ってしまった。

 幸いこの時は坂の天辺で止まる事もなかった。

 これで目出度し目出度しだ。やっと車通学が出来るとヒロユキは喜んでいたがそれが間違いの元だった。
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登場人物紹介

ヒロユキ(柴田広之)20歳、一人っ子

元市役所勤務の地方公務員

1年で役所を辞めてデザイナーを目指す

高校生時代生徒会の副会長を二期

風紀部長を一期務める

合気道と少林寺拳法を習得

神谷仁(ジン)

72歳、若くしてアメリカに渡り、ほぼその生涯をアメリカで過ごす。

そして老齢にしてアストラルボディに交戦し、

遂に自分の体から精神体として離脱に成功。

そこで宇宙意識なるものに遭遇し、アネルギーの増幅を得て、

精神生命体(アストラルボディ)として生きる事を決意。

自分自身の体を死体に変え自由に世に飛び出した。

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