5.ちぐはぐ

文字数 4,914文字

「明日香に、何を言ったんですか?」
 自販機の並ぶ小さな休憩室。しかし、その自販機は全て動きを止め、どれも静まり返っていた。そんな部屋の中央に、ぽつりと置かれたポットの前に立ったまま、女性が振り返った。その手には、愛用の真っ赤なマグカップが握られている。
「何?藪から棒に。何のことを言っているのかしら?主語が欲しいわね」
 入口に立っていた白衣の男にそう困った様に言いながら、ポットへと向き直る。
 上の部分を押すと、空気の押し出される感触と共に琥珀色の液体がカップへと注がれた。
 小さな休憩室に、珈琲の良い香りが広がる。
「……昨日、あなたの所へ遊びに行ってから、明日香の様子がおかしい。明らかに、あなたの所へ行って、何かあったとしか思えない」
 入口に立ったまま、男は白衣の女性を睨みつけた。その視線には、怒りと憎しみが色濃く混じっている。
「なるほど。様子がおかしいって、具体的には?」
「そんなことは、どうでもいいだろ!!」
 置かれた弾力の柔らかいソファーに身を沈めながら尋ねた女性に、男性は眉間に青筋をたてて怒鳴りつけた。二、三歩歩み寄り女性を指さす。表情は相変わらず般若の様な怒り形相だった。
「何なんだ君は!人が真剣に尋ねている時に、論点を逸らすような態度をとって!!そんなに、明日香に君が言ったことを、私に言いたくないのか?!」
「……」
 唾を飛ばさんばかりの勢いで叫ぶ男性を、女性は静かに見つめていた。
「何か、言ったらどうなんだ?!」
 女性の表情に波風一つ立たない様子に、男のイライラが更に募る。
「……明日香ちゃんに、聞かれたの。実験場のあの人を見る度に、心の中で色んな感情が沸き上がるんだって。あの人が、一緒にいる子と嬉しそうに笑う度に、胸の奥が痛むんだって。これは、病気ですか?って、私に聞いたの」
 じっと男を見つめたまま、女性は静かに昨日、明日香と交わした会話を口にしていく。
 怒り形相を浮かべていた男に、明らかな動揺の色が走る。青筋は消え、瞳に絶望が滲み始める。
「……君は、何と答えたんだ……?」
 やっと絞り出された声に、先程の様な力強さは微塵もない。ただ、次に聞かされる言葉に怯える、愚かな男がそこに佇んでいた。
「それは、恋よ。と。あなたは、その人のことが、好きなのよと、答えたわ」
 女性がそう答えた瞬間、男性はその場に崩れ落ちた。膝を突き、悔しそうにフローリングの床を叩いている。
「くそっ……!やはり…やはり、ダメなのか?私の研究は、無駄だったというのか……!」
 そんな男を、女性は悲しそうに見つめてため息をついた。
「……私の予想通りの結果になったわね」
「!」
 上から降って来た、女性の声にぴくりと男の体が震えた。
「これで満足したかしら?あなたの研究は、結局、人々のためと言いながら、あなた自身のための研究でしかなかった。そうでしょう?智也くん」
 諭すように言って、女性はカップを傾ける。
 苦い琥珀色の液体は、既に半分冷めかけていた。口の中に、インスタント特有の匂いと苦みが広がる。
「……やっぱり、インスタントは美味しさに欠けるわね。そろそろ、何とかして遠くの街までコーヒーの粉を見つけに行った方が良いわね」
 そうぼやいて苦笑を浮かべる。
 そんな女性の横で、ふらりと智也と呼ばれた男が立ちあがった。
「ねえ、智也くん。あなたもそう思わない?」
 そう言って、女性が顔を上げた。
 そこには、休憩室に置かれた重たい陶器製の灰皿を振りかぶった智也の姿があった。
「お前がっ!お前が教えなければっ!!」
 叫び、上がった腕が振り下ろされる。
 女性はその情景を、何故か静かな瞳で見つめていた。
 まるで、全てを許すかの様な穏やかな表情で。
 二人だけの休憩室に、鈍い音が響く。後には、男のすすり泣く声だけが聞こえていた。

  * * * * *


「――うん。今着いた。え?迎えに来てくれるの?でも、忙しいんじゃ……。え、抜け出して来る?ちょっと、大丈夫なの?え、うん。……うん。分かった。じゃあ、駅前のロータリーで待ってるよ。うん。……姉さん、有り難う」
 自分で言っておいて何だか恥ずかしくなり、俺は妙な笑みを浮かべて通話を終了させた。『有り難う』なんて、日常的に中々使わないからなあ。特に俺と姉さんだと。
 すぐに周囲を見渡して、とりあえず変な人を見るような目で見ている人はいないことを確認した。
「はあ」
 胸を撫で下ろし、スマートフォンをリュックにしまった。横に下ろしていた観測用の荷物を両手に持つと、ふらつきながら駅前のロータリーへ向かうため駅を出た。
 ロータリーに設置されたベンチの一つに歩み寄ると、荷物を足下に置き三脚やカメラケースはベンチの上に置く。やっと一息つき、ベンチへと腰を下ろした。乗換の駅で買ったペットボトルのお茶を取り出し一口飲む。
「ふぁ……っと。やっぱりまだ眠いなあ……」
 昨晩は久し振りの星空観測に夢中になってしまい、気がついたら俺だけ東の空が白むまで起きてしまっていた。二人はというと、先に智也がテントへ潜り込み、言い出した高取さんは頑張って起きていたけど、やはり途中でテントへと入っていった。
「天体観測は、やっぱり山に限るよな」
 眠い目を擦りながら一人頷く。
 智也と高取さんは、一つ前の駅で降りて行ったが、二人とも眠そうだった。慣れないテントで、良く眠れなかったのかもしれない。今日は日曜日だし、二人とも帰って十分休めるだろう。
「おや。随分と立派なカメラケースですね」
 横から聞こえて来た声に、驚いてそちらへ顔を向けた。
 そこには、四十代ぐらいのスーツを着た男性が、隣に腰かけカメラケースをしげしげと眺めていた。手には俺と同じお茶のペットボトルが握られている。そのスーツが筋肉質な体には小さ過ぎるようで、腕の形に布がピッタリと貼り付いていた。
「それに凄い荷物だ。もしかして、遠出で写真撮影ですか?」
「あ、ええっと……。そう、ですけど……」
 急に聞かれ、俺はしどろもどろに返事を濁す。随分と馴れ馴れしい態度に、キャッチセールスか何かの勧誘かと身構えた。
 そんな不審そうな俺の態度を見てとったのか、男性は慌てて身を引きペコペコと謝り出した。
「あ、これは失礼!じろじろと見てしまったようで……すみませんでした。実は、私も写真を撮るのが趣味の一つでして。見たところ学生さんなのに、良いカメラをお持ちのようだったのでついつい……。本当にすみません」
 それが癖なのか、弁明しながらずっと頭を掻いている。
「そうだったんですか。こちらこそ、不審な目で見てしまってすみませんでした」
 何だか頼りなさげなサラリーマンに、苦笑を浮かべてこちらも謝った。
「実は、友達と山まで天体観測に行ってきたんです」
「それは、それは。良いですね。時期も丁度いい。やはり、目的は月の観測ですか?」
 男性は何度も頷く。
「俺はそれも目的の一つだったんですけど、一番は友達に町とは違う星空を見せることでした」
「ああ、町の中と山の上では全然違いますもんね。まず、人口の光がほとんどないのが良いですね。本来の星空を見せてくれる」
「そうなんですよ。それを見たいと、友達…にせがまれまして」
 同じ星空好きらしいサラリーマンにつられて話す中で、高取さんの昨晩の笑顔が甦り一瞬言葉が詰まってしまった。
 友達。そうだよな…あの素敵な笑顔も、友達の俺に向けられたものなんだよな。
 告白日が迫って来ている。自分で決めた事とは言え、あの笑顔を告白の後も向けてくれるかどうか考えてふと不安になった。嫌われたり、ギクシャクして卒業後それっきりになってしまったらどうしよう…。そんな女々しい思いが胸を掠める。
「そうでしたか。お友達も、星空がお好きなんですか?」
「……」
「……?どうか、されましたか?」
「え、あ、す、すみません。ちょっと考え事を……。話している途中に、ごめんなさい」
 一瞬黙り込んだ俺を、男性が心配そうにのぞき込んでいた。
 その視線と目が合い、慌てて謝った。
「いえ。学生の時分は色々と悩みの多いものですよ。私もそうでした。学業のこと、将来のこと、友達のこと、家のこと。それに、恋愛のこと」
「!」
 最後の言葉に、思わずギクリとした。
 余りにタイムリーな言葉に恥ずかしながら、体が跳ねてしまったかもしれない。そんなつい先ほどのことにも気が回らないほど、俺は焦っていた。
「最後の恋愛のことが、大部分を占めていたかもしれませんね。いやあ、あの頃は若かったなあ」
 そう懐かしむように呟き、お茶のペットボトルに口をつける。
 男性が俺の動揺に気づいた様子はない。話題も微妙にずれたことにホッとした。安心したら
急に喉が渇きを訴え、俺もお茶を一口あおった。
「あ、もしかして。星空に誘ったお友達が、あなたの思い人でしたか?」
「ぶほっ!?」
 唐突で的確な指摘に、思わず口に含んでいたお茶を吹いてしまった。その勢いでお茶が気管に入り込み、俺は激しく咽た。
「げほっ!ごほっ!」
「あ、だ、大丈夫ですか?!」
 そう言って慌てて差し出して来たハンカチを、有難く受け取り口を押えた。
 暫く咽こむ俺の背中を、サラリーマンは謝りながら擦り続けてくれた。
「すみません、すみません!」
 何が、とは言えないし聞かれないことは有難かった。
「も、もう大丈夫、です。有り難うございました。こちらそすみません。あ、ハンカチは洗って返しますんで……」
 やっと落ち着いた咳に、そう言って頭を下げる。
「いえいえ!大丈夫ですから、どうぞお気になさらず」
 苦笑を浮かべ、男性は俺が止める間もなくさり気なくそっとハンカチを自分の手の中へと収めていた。その余りに自然で、不快感のない動作に思わず感心してしまった。流石というか、何というか。社会経験の違いだろうか。
 そんな謝り合戦のような遣り取りをしている間に、駅のロータリーへと一台に赤い車が滑り込んできた。車種と運転席の白衣姿の女性で、それが俺の姉の茜の車だとすぐに分かった。
 ナイスタイミングだ。
「あ、迎えの車がきたようなので、俺はこれで。ハンカチ、すみませんでした」
 そう言って軽く頭を下げる。
「いやいや。こちらこそ、久し振りに同じ趣味の若者と話が出来て楽しかったです」
 にこやかに言う男性。
 ベンチに置いていた諸々の荷物へと手をかける。
「あ、ところで、一ついいですか?」
「なんですか?」
 荷物をカメラケースや三脚を背負いながら聞き返した。視線は相変わらず荷物に向けたまま。
「月は、綺麗に見えましたか?」
「え、ええ。いつもの二倍ありましたけど、凄く綺麗に見えましたよ」
「本当に?」
「え?」
 一瞬、何を問われているのか分からず、思わず顔を向けた。男性は、相変わらずにこやかな笑みを浮かべたままそこに座っていた。
「君は本当に、昨晩の夜空に月を見たんですか?」
「……何を、言って――」
 言いかけて、昨晩つまずき倒れた時、ほんの一瞬だけ見た夜空を思い出した。
 地面に転がり見上げた夜空に、月はなかった。そして、覗き込む感情のない高取さんの顔を同時に思い出してドキッとした。
「……」
 狼狽する俺を見ても、表情一つ変えない笑顔のサラリーマンが、不意に怖くなった。
 ぞくりと悪寒の様なものが背筋を走る。

  パッパッ!

「!」
 不意に背後で響いたクラクションに、勢いよく背後を振り返った。
 ロータリーに横づけした姉さんが、窓を開けこちらに手を振っていた。
「あ、それじゃあ、俺、呼んでいるんで……」
 ドキドキと早鐘のように打つ心臓を聞きながら。再び背後を振り返った。
 しかしそこに、サラリーマンの姿は何処にもなかった。
「あ、れ?」
 そこにはただ、俺の置いたお茶のペットボトルが一つ、ポツリとベンチにあるばかりだった。
「あの人、何処に行ったんだろう?」
 ぼんやりと辺りを見渡す。スーツ姿の人々は何人もいるが、あの男性は全く見当たらない。
 目の前で今まさに起きた出来事に、俺はただ茫然と誰もいないベンチを見つめ立ち尽くした。
 頭上では、白く大きな昼間の月が、じっと俺を見下ろしていた。


 告白まで、あと二日。

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