1.白昼夢

文字数 8,353文字

(※軽い流血表現があります。苦手な方はご注意ください。)


「ずっと好きだった。お…お、俺と、付き合ってくれません、か?」

 蒼天に踊る薄紅色の花弁。
 卒業式を終え、三年間通った学び舎へ別れを告げる生徒たち。
 人もまばらな校舎の裏で、俺は今日、人生最大の大舞台に挑んでいた。
 顔が熱い。いや、顔とかそういうレベルじゃない。もう、全身が熱い。きっと今の俺を鏡で見たら、トマトも顔負けの真っ赤なんじゃないだろうか。心なしか、掛けている眼鏡が曇って来たような気もする。
 とうとう三年間心の中で何度も繰り返していた言葉を吐き出したのだ。吐き出してみれば、それだけ長い時間をかけて考えた台詞は全て吹き飛び、『好き』と『付き合ってください』の二文字しか頭の中に残らなかった。しかも、言うに事欠いて最後の部分が敬語で疑問形とか!情けないにもほどがある!!
 内心荒れてる俺の前で、告白相手の女性徒は未だに目を丸くして微動だにせず俺を見つめていた。それが余計、不安にさせる。
「あ、いや、その……。ごめん。なんか、その……急に、こんな所に呼び出したうえに、変な事言って……」
 緊張と焦りで笑った筈の顔が変に歪んだ。
――違う、違う!そんなことを言いたいいんじゃないでしょ、俺!!
 思いとは裏腹な言葉を紡ぐ口に、心の中で悲鳴を上げた。
――こんなんじゃ、どう考えても無理だ。
 振られる覚悟を決めて目をギュッと閉じた時だった。
「……ぷっ、ふふっ」
 微かに笑う声が聞こえて来た。
 あ、笑われた。と、絶望と羞恥の感情が全身を支配する。恐る恐る開いた目の前で、彼女は泣いていた。涙に歪む切ない笑みを浮かべて。
 胸がズクリと鳴った。
 振られそうな今の今になっても、そんな笑みも涙も、綺麗だなと思ってしまった。やっぱり自分は彼女が好きなんだなあと実感する。それだけでもう、先程生まれた嫌な感情は全て綺麗に霧散していた。我ながら何とも単純なことだ。
「ご、ごめんなさい。笑ったりして」
 日焼けした長い指で涙を拭いながら謝るその瞳から、次の新しい涙がこぼれ落ちる。
「でも、違うの。そうじゃなくて、これは――」
 彼女が今までで一番眩しい笑みを浮かべた瞬間、その口から、目から、鼻からドロリと赤いものが流れ出した。
「――?!」
 何が起きたのか、全く分からなかった。
 顔の穴という穴から血を流しながら、俺の思い人が不思議そうな顔で一歩前に進み出る。その足取りはおぼつかず、がくがくと膝が揺れていた。まるで、映画やゲームの中に出て来るゾンビのようだと思ってしまった。
「あ、あぷぁた、じ……」
 何かを言おうとした口から血の塊がゴボリと零れ落ちる。
「も……ず……」
 震える左手が差し出され、必死に俺へと向けられるのをただ茫然と見つめるしかできなかった。無意識に、唇が戦慄きカチカチと歯が音をたてる。
「あ、あ、あああああああああっ!!」
 訳のわからない目の前の出来事に恐怖を覚え、悲鳴を上げた。
――瞬間、ガタン!と大きな音が聞こえ、体が浮遊感に包まれる。次に襲って来たのは、目の前を星が飛ぶ程の後頭部への衝撃だった。
「いってぇぇぇっ!!」
 叫んで後頭部を押え蹲る目に、見知った教室の風景が映る。整然と並べられた椅子と机。そこに座る数十個の瞳がこちらを驚いた表情で見つめていた。
「――あ、あれ?まだ授業中?授業はもうないはずじゃ……」
 仰向けの背中に椅子の感触をかんじつつ、ぽつりと呟いた俺の視界に、ニュッと男性の顔が現れる。
「何寝ぼけた事を言っとるんだ、笠間(かさま)。頭でも打ったのか?」
 角刈りの頭には白髪が雑じり、ビシッと決めたスーツ姿と厳つい顔はいかにも固そうな印象を受ける。それが担任の佐崎(ささき)先生で、自分が今卒業式一週間前のホームルームに出席していることを思い出す。
「あ、いえ。すみません。寝ぼけていました」
 取り繕うように慌てて立ち上がり、頭を掻いてへらりと笑う。
「おいおい、しっかりしろよ。春からの新しい生活のことで浮つく気持ちは分かるが、卒業まで後少しなんだからな?」
「はい。肝に命じておきます」
 苦笑を浮べつつ俺の肩を叩く先生に、粛々と頷いて答えて見せると、教室中が笑い声に溢れた。


 散々なホームルームが終了し、自分の席で眉間に皺を寄せて腕を組み目を閉じる。思い出すのは先程の失態ではなく、夢の方だ。何とも不吉な内容に、眉間の皺がより深くなる。
 あの夢はまさしく、ここ最近の俺の心情を投影したものだった。
 高校生活三年間。俺はある女子生徒に恋をしていた。もちろん片思い。その女子生徒の名前は高取七穂(たかとりななほ)。ショートヘアーの良く似合う、スポーツ万能で明るく笑顔の素敵な女の子だ。昔から星が好きで夜空ばかり眺め、天体に関する本ばかり読んでいた俺、笠間(かさま)アキラとは正反対。傍から見れば、どうして知り合いなのか不思議なくらいだろう。
「――寝ているのか?アキラ」
 悶々と思考の淵に浸かっていた俺を、その声が引き戻す。
 眉間の皺を消し、目を開けた。そこには高校から知り合った親友の、瀬戸内智也(せとうちともや)がいた。前の席に座り、こちらへ気遣わしげな視線を向けている。
「なんだ。起きているんなら、返事ぐらいしろよ」
 水と油のような俺と高取さんが出会うという不思議な縁を作り出したのは、誰あろうこいつだ。智也と高取さんはそれこそ生まれた時からの仲で、俗にいう幼馴染というやつだった。そしてそれこそが、俺にあんな不愉快な夢を見せた原因でもあった。
 鼻筋の通る整った顔立ちに、成績優秀でスポーツ万能な文武両道。本人曰く太い眉毛と、平均よりも低い身長(165cm)がコンプレックスらしい。が、そんなものも霞ませる程に性格は真面目で、特に紳士的な態度から女性に人気があるのだ。
 そんな、ほぼ完ぺきな幼馴染を持つ彼女の目に、果たして隣に立つ俺が恋愛対象として映るかどうか……。どうしたって比べられてしまうだろう。唯一勝てる事と言えば、身長と天体の事ぐらいなものだ。そう言う思いが全て形となり現れたのが、あの夢である。
「アキラ?」
「ああ、うん。ごめん。何?」
 ぼんやりとしてすっかり返事を忘れていた俺は、謝りながらへらりと笑った。
「まったく、ここのところ変だぞ、お前。授業中居眠り……は、割とあったか。人の話も左から右の上の空だし。悩み事でもあるのか?」
 一部失礼な言い回しがあったが、それはとりあえず聞かなかったことにして。悩み事があるにはあるが、それをこの場で話すことはできない。というか、言えるわけがない。公衆の面前ということもあるけれど、もしかしたら恋敵かもしれない相手に。そう考えてしまう程、普段の二人は仲が良い。小さい頃から一緒にいるのだから、当たり前と言えば当たり前なのだが……。恋心とは厄介なもので、頭では理解していても、仲の良い場面をいざ目の辺りにするとどうにも胸の辺りからモヤモヤが生まれてきてしまう。
「だったら、」
 智也が続けて何か言おうとしたのを遮って、俺は頭を左右に振った。
「いや、本当になんでもないよ。ここ幾日か、夜中まで夢中になって天体写真の撮影をしていたからさ。それで、ちょっと寝不足気味なだけだよ」
 そう言って肩を竦めてみせる。
「ああ。ニュースでも騒いでいたな。月が地球に、過去最高の接近をするとか何とか言うアレか?」
「そう、それ。その観測でついつい、ね」
 寝不足の半分はそれが正解なので、何の引っかかりもなく頷いた。
 本当は天文学部でもあればそちらに入りたかったのだが、生憎この紺東(こんどう)学園高等部にはない。そのため、俺は渋々写真部に入部していた。写真なら、天体写真を主に取りたいと言えば、部活の時間も好きに現地へ赴いて天体観測が出来ると踏んだからだ。思惑通り、月に一度ある提出日だけ部室に集まる以外、好きにさせてもらっている。
 そんな中、今熱いのが月の過去類を見ない地球への接近だった。世間一般でも騒がれているが、その信憑性については未だに諸々の専門機関でも意見が割れていて分からず仕舞いだ。それでも観測をするのは、最も近づいたその瞬間を実際に自分自身で見てみたいからだった。そしてあわよくば写真に収めてやろうと意気込んでいる。
「アキラの天体好きは嫌と言う程知っているけどさ、それで卒業式の日に寝過ごして遅刻でもしてみろよ。絶対後々まで話題にされて、洒落にならないぞ?」
 脅すように眉を顰めて言う智也に、俺はフンと鼻を鳴らす。
「結構。天体に関する事で皆の記憶に残れるのならば、俺も本望だ」
「そういう問題じゃないだろう……」
 呆れてため息をつく智也の声に、クスクスとハスキーな少女の笑い声が混ざる。
「!」
 それだけで、俺の鼓動速度は一気に跳ね上がる。
「相変わらず凄いね、笠間くんの宇宙好きは」
 いつの間に近づいて来ていたのか、俺の思い人こと、高取七穂が机の横に立っていた。紺の襟に白い線が二つ。白い長袖のセーラー服が、良く似合っている。
 にっこりと眩しい笑顔で俺を見る彼女に、こっくりと頷くのが精一杯だった。
「なんだ、七穂。何か用か?」
「何よ。用がなかったら来ちゃいけないわけ?それとも、私には聞かせられない話でもしているのかしら?」
 智也からかかった声に、彼女の視線はあっという間に向こうへと行ってしまった。不機嫌そうに言い返す彼女の表情。こういう一面は智也といなければ見られないもので、それもまた俺に複雑な思いを抱かせる原因だった。
「別に、そういうわけじゃないけど……」
 決まり悪そうな智也に、高取さんは不機嫌僧な表情を消してプッと吹き出す。
「冗談よ。勿論、用があったから声をかけたの」
「なんだ、驚かせるなよ」
 ホッとしたのも束の間、次の彼女の言葉に智也の眉間に皺が寄った。
「卒業式が終わったら、週末出かけようって家の両親が言っているの。だから、おばさんとおじさんに都合を聞いて教えて欲しんだけど」
「それは、家の両親とお前の家のおばさんとおじさんが…って話?」
「そうみたい」
 問いかけに頷いた高取さんに、智也の眉間の皺が消える。
「そっか」
「ホッとした?」
「ああ。おじさんとおばさんには悪いけど、四人寄ると息子の俺でも引くほどの高テンションになるからな。正直相手をしているのも疲れるし、傍から見ていて恥ずかしいんだよ」
 素直に頷いて肩を竦める智也。それに、高取さんも頷き同意する。
「そうなのよね。仲が良いのはいいんだけど、もう少し穏やかに交流できないものかしらね。本当」
 何やらしみじみとし合う二人を、ぼんやりと俺は眺めていた。
 疎外感。と感じるのはおこがましいのかもしれない。それでも羨望の眼差しで見てしまうのはどうしても否めない。
「用はそれだけ。じゃあ、よろしくね。智也」
「ああ」
 返事をもらうと、くるりと高取さんがこちらに顔を向けた。
 唐突にこちらへ向いた視線に、慌てて顔の筋肉を引き締める。
「じゃ、お邪魔したね。笠間くん」
「いや、そんな……」
 『ことはない』と続ける間もなく、高取さんは軽い足取りで自分の席へと戻って行った。
 その背中をなんとはなしに見送っていた俺は、ちらりと智也の方を盗み見る。
 そこには、同じように高取さんを見送る智也がいた。
 その視線に、何処か幼馴染へ向けるものとは違う色があることを、俺は出会った頃から知っていた。その色は、俺が彼女へ向けるものと恐らく同じもの。同じ思いだから、俺には分かる。智也は恐らく…いや、確信して言える。高取さんのことが好きなんだ、と。
――思い切って、聞いて見ようか。
 そんな思いが浮かび上がった。
 聞いて、それで智也の口から高取さんが『好き』だと言われたら。だったら、どうだというのだ。きっぱり諦めて、潔く身を引くのか?
そこまで考えて、小さく頭を振った。
――やめておこう。
 俺は今日から六日後に高取さんに告白すると決めたのだ。例え、聞いても俺はきっと告白するだろう。自分の心に、けじめをつけるために。それは聞かなくても同じことだ。上手く行く時は行くし、行かない時はフラれるだけだ。
 そう自分で納得して、いつの間にか俯いていた顔を上げた。と、やはり心配そうに俺を見つめる、智也の視線とかち合った。
「……なあ。やっぱり観測で徹夜は良くないんじゃないか?今も、眉間に皺が寄っていたし……。珍しい事例で絶対観測したいっていう気持ちは、わからないでもないけどさ。それで体調崩して、肝心の一番近づく日に寝込んだりしたら、意味がないだろう?」
 先程の俺の半分真実話を信じてくれた智也に、内心申し訳なく思いつつへらりと笑って頷いた。
「確かに。それは悔やんでも悔やみきれないなぁ」
「だろ?じゃ、ささっとと帰って、今日は観測までの間に一眠りでもしとけよ。な?」
「うん。そうだね。……って、あれ?今日はもう、終わったんだっけ?授業」
 そう言って首を傾げると、智也が大げさにため息をついて額を押さえた。
「……うん。今日は家まで送って行くよ。アキラ」
「え、別にいいよ」
 ポンと両肩に手が乗り、真剣に言われてしまった。
 子供でもあるまいし、何より用がないのなら智也にとっては家から真逆だ。
「いいや。途中で倒れられても困る。それに、家に帰っても一人だろ?(あかね)さん、研究室の仕事が忙しくて、中々早く帰れないって話じゃないか」
 確かに智也の言う通り、家に帰っても夜中の十二時を回らなければ姉さんは帰ってこない。
 俺は幼い頃に両親を事故で亡くしており、肉親は姉の茜一人だけだ。一時期施設に入っていた時期もあったが、姉は勉強と生活のための仕事を見事に両立させ、施設に入って四年目に俺を迎えに来てくれたのだった。それからは姉弟二人暮らし。姉さんは俺にとって母であり姉であり、たった一人の大切な家族だ。姉さんには感謝してもしきれない。
 それはさて置き。智也がやけに俺の家の事情に詳しいのは何故かと言うと、だ。彼が第一志望に考えていた大学が、偶々姉さんの働く研究室がある大学だったのだ。学科は異なるようだが、それが縁で今では随分と交流があるらしい。時々弟の俺でも知らない大学内における姉さんの事情を知っていて、ちょっと引くことがある。勿論、智也は四月から姉さんと同じ大学への進学をバッチリ決めてもいるわけで。この先、姉弟のプライベートな事まで筒抜けになりやしないか、それだけが心配だった。
「そうだけど……だからって、お前が責任感じる必要はないって」
「いいから、いいから。俺が勝手に心配してついて行くだけだから。アキラは余計なこと考えない」
 そう言うと、机横から俺の通学鞄代わりのリュックを取って目の前にドンと置く。
「はい、帰り支度して。ほら、早く、早く!」
 ぐいぐいと押しつけられたリュックを渋々受け取り、持ち帰る物を中へと詰めて行く。
 そんな面白くもない動作を、智也は俺が終わるまでニコニコしながら見守っていた。
「俺ばっかり世話を焼いているけど、当のお前はいいの?何も用意しなくて」
 パチリと蓋を閉じながら聞けば、笑顔のまま床に置いていたショルダーバッグを持ち上げて見せた。
 ああ。もう準備万端なのね。
 納得して席を立ちあがると、智也も立ち上がりショルダーバッグを肩へと引っかけた。
「じゃ、真っ直ぐお家に帰るとしますかね。お節介な監視もついていることだしぃ?」
 嫌味たっぷりに言って歩き出せば、苦笑しながら智也も歩き出す。
「別に、コンビニぐらいなら寄ってもいいぞ?それぐらいなら許可しよう」
「じゃあ、ピザまん一個で許してあげよう」
「奢るなんて、一言も言っていませんけど?寧ろ、俺が奢って貰って然るべきじゃない?こういう場合」
「頼んでないのに、誰が奢るか」
 そんな遣り取りとしながら教室のドアを開けた。
 開けた瞬間、目の前に一人の少女が立っていた。
 年の頃は十歳前後だろうか。黒く艶やかな髪を短く切り、白いブラウンスに赤いフリルのスカートを履いている。そんな小さな女の子が、場違いな高校の廊下で満面の笑みを浮かべて立っていた。
「な……」
 その違和感しか覚えない状況にも驚いた。しかし、それ以上に驚いたことは、少女の顔だった。似ているのだ。いや、似ているなんて言葉で片づけられない程、少女は高取七穂にそっくりだった。髪型も、目も、鼻も、何もかもが。まるで、高取さんがそのまま幼子に戻ったようで、俺は言葉を失った。
「どうしたんだよ、アキラ。急に止まったりして」
 俺を追い越し、廊下へと出る智也。しかし、その視線には全く省少女が映っていないようだった。周囲の生徒も、何事かとこちらを見て行くが、その誰もが少女に気づいている様子がなかった。
 俺は合点がいった。
 ああ、この少女は幻なのだと。
 俺の臆病な心が見せている、白昼夢なのだと。
――情けないなぁ。
 自嘲的な笑み浮かべ、そっと目を閉じた。この夢から、覚めるために。


 告白の日まで、あと六日。


  * * * * *

「……あそこには行ってはいけないと、何度も言ったよね?絶対に行かないと、パパと約束したよね?」
 何度目かになる強い問いかけに、目の前で立ち尽くす子供がしゃくり上げた。大きな瞳からボロボロと涙がこぼれ、可愛らしい丸い頬を濡らしていく。
「……」
 小さな桜色の唇は、血が滲むのではないかと思えるほど強く噛締められている。それが、問いかける父親らしき人物の眉間の皺を、より一層深くさせた。
「黙っていたら、分からないだろう?」
「う、ううう……」
 何かを言おうと開いた口からは、言葉にならない呻き声だけが洩れた。どうやら泣き過ぎて、上手く舌が回らないらしい。それを見て取ると、父親はため息を一つつき頭を抱えた。その顔には、困惑の表情が浮かんでいた。
「あらあら。それじゃ駄目よ、新米パパさん」
 不意に女性の声が響き、細い腕がそっと子供の身体を背後から抱き寄せた。くるりと子供を反転させ、背に回した手でポンポンと優しくあやす。
「大丈夫よ。パパはあなたのことを嫌いになったわけじゃないわ。あなたが、言いつけを守らなかったことを怒っているだけ。だから、ちゃんと謝れば許してくれるわ」
 そう、優しく女性が語り掛けると、腕の中で子供は声を上げて泣き出したのだった。
「ごめ、ごめんなさっ……!」
 何度もしゃくり上げながら、やっと謝罪の言葉が口から零れ落ちた。
 そんな二人の様子をしかめっ面で暫く眺めていた父親だったが、表情を緩め知らず体に入っていた力を抜いた。腰をかがめ、膝をつく女性の腕に収まる子供の頭を優しく撫でる。そんな父親へ恐る恐る視線を向ける子供に、苦笑を浮かべて頷いて見せた。
「もう、怒ってないよ」
「……本当?」
 掠れた問いかけに、もう一度頷く。
「ああ。勿論だ。さあ、パパはおばさんと話があるから、顔を洗ってトモ兄ちゃんにおやつをもらいなさい」
 優しい父親の声に、子は嬉しそうに頷いた。
「うん。パパもお話しが終わったらきっと来てね」
「ああ。すぐに行くよ」
 いつも通り、優しい父親の顔に安堵したのか、子供は軽い足取りで本に囲まれた埃っぽい部屋を出て行った。
「あら。結構ちゃんと、『パパ』をしているじゃないの」
 去っていく子供を見送りつつ、白衣の女性が皮肉るように呟く。
「……それで、そちらの方は大丈夫なのですか?」
 その言葉には一切答えず、優しい『パパ』の顔を消して男が口を開いた。細い紅色の縁を持った、眼鏡のずれを直しつつ女性が頷く。
「ええ。度重なるトラブルの経験から、だいぶ強く成長して来ているみたい。ちょっとしたことなら、もう耐えられそうよ」
「少しは明るい兆しが見えて来ている…と?」
「ええ」
 研究者の顔をした、鋭い男の視線に女性はゆったりと頷いた。後頭部で無造作にまとめられた長い黒髪が、その動きに合わせて揺れた。
「なるほど。一度、データを取り直した方が良さそうですね。その結果によっては、今後の方針を変えないと」
「そうね。近い内に実行できるよう、用意しておくわ」
「お願いします」
 そう言うと、男は小さく頭を下げた。女性はそれにちらりと視線を向け、足早に男の書斎を出て行った。
 気配が無くなったのを感じ、男はホッと息を吐いた。
 以前は同じ研究者を志す者として、もっと穏やかに意見を言い合える間柄だった。それが、いつからこんなにもギスギスしてしまったのだろうかと、いつも男は考えていた。しかし、直ぐにその考えを振り払う。全てを壊したのは、自分自身なのだと男には分かっていた。
「……それでも、私は……」
 小さく呟き、男は口元を引き締めた。もはや、悔やむことはできない。進むしかないのだと、その表情には固い決意が浮かんでいた。
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