7.告白の日

文字数 12,616文字

「ねえ、ちょっと待ってよ」
 かけられた声に、振り返る。
 よく似た顔が二つ。卒業式に向けて華やぐ学校の廊下で向かい合う。
 一つは何の感情も浮かんでいないが、もう一つは険しい表情を浮かべている。
「あなたに、聞いておきたいことがあるんだけど」
「何でしょうか?明日香さん」
 返ってきた声に、いつも聞く明るい調子は一切ない。穏やかだが、淡々とした響きがある何も自我を感じさせない声。それが余計に、明日香の表情を険しくさせる。
 父によって教えられた自分の名前も、今はただ自分をイライラさせるだけだ。
「あなた自身、あの人のことをどう思っているの?」
「……申し訳ありません。質問の意味が分かりかねるのですが……」
 少し思考の間があってから、相手は申し訳なさそうに尋ね返す。
 予想していた反応に、ため息をついた。彼女自身恥ずかしさが残り、回りくどい聞き方をしてしまったのがいけなかったのだろう。
明日香はもう一度尋ね返す。今度は、ストレートに聞きたいことを口にした。
「あなたは、アキラのことが好きなの?」
「好きという感情は、人が人を愛する心だと記憶しております。私には、関係のない言葉です。よって、その質問の回答を、私は持っておりません」
 予想はしていた。予想はしていたが、その答えは先程よりも明日香の気持ちを逆なでした。
 ムカムカとしたどうしようもない憤りが胸の内から沸き上がり、思わず明日香は目の前の少女の頬を叩いていた。
 叩かれた相手は、動じることなく横を向いた顔を元に戻した。その頬に、叩かれた赤い痕はついていなかった。
「どうして、どうして、あなたなんかが、あの人に……!」
 それ以上はボロボロと涙がこぼれて、言葉にならなかった。
 その涙を拭こうと叩かれた少女がスカートのポケットから、ハンカチを取り出す。
 近づいてきたその手を振り払って、明日香は背を向け走り出していた。
 現実を理解していても、感情がそれを許さない。
――自分の方が好きなのに。あたしの方が、あの人と一緒なのに。なんで、なんであの子なの?
 声にならない叫びを胸に、明日香はただがむしゃらに走り続けた。
 後に残された少女は、宙を舞って落ちたタオル地のハンカチを拾い上げた。
 ポケットに戻しながら、明日香の去って行った方向を見やる。
 その表情は、少なからず疑問を抱いているようだった。
 自分が明日香に叩かれるような失態を犯したかどうか、思考してみる。しかし、何一つ思い当たらなかった。質問されたから、答えただけだ。自分の中にある正しい答えを。
 しかしその思考も直ぐに切り、自分に与えられた使命を全うするべく踵を返した。
 そのセーラー服の胸に、卒業生の証である紅白のリボンが揺れていた。

  * * * * *


 体育館に、卒業の歌が響く。
 泣いている女子もいれば、グッと堪える男子もいる。早く終われと暇そうな子もいれば、緊張で硬い動きをしている子もいる。そのどの生徒の胸にも、卒業生の証が付けられていた。
 俺はと言えば、この後のことで頭の中がいっぱいいっぱいだった。式の間中、何を話したか何が話されていたか、よく覚えていなかった。
 沸き上がる拍手と別れの声。盛り上がる卒業ソングの中、俺たちは体育館を後にした。
 教室へと向かう生徒の流れの中で、必死に高取さんを探す。彼女は仲の良い有田さんと、卒業式の感想を言い合いながら教室へと向かっていた。隣を歩く智也に先に行ってくれと告げてから、彼女の方へと生徒の合間を縫って向かう。
 何とか手が届く所まで来て、その肩を叩いた。振り返った高取さんに、取りあえず流れから外れようとジェスチャーで示す。俺が何を言いたいのか理解した高取さんは、有田さんに先に行って欲しい旨を伝えて俺と共に生徒の流れがない下駄箱の方へと人の波を抜けた。
「はあ、流石に一学年が一辺に同じ方向へ動くと凄いね」
「本当だね。なんか酸素が薄い感じがしたよ。三年生が歩いているところだけ」
「うん。本当にね」
 二人でホッと息をつき、クスクスと笑い合う。
「それで、何か用?笠間くん」
「え、あー…。うん」
 にっこりと笑って尋ねる高取さんに、俺は口ごもった。
 いざとなると、やはり勇気がいる。
「笠間くん?」
 そんなはっきりしない俺を、高取さんが不思議そうに見て首を傾げる。
 その全ての仕草が可愛らしく見えて、俺の心臓は早くなるばかりだ。
「あ、その。が、学校が終わった後さ。ちょっと話たいことがあるから、校舎裏に来てもらってもいい、かな?」
 緊張がピークに達し、耳の中で自分の心音が煩く木霊する。
 静まれ、静まれ、俺の心臓!
「えっと、今ここじゃダメなの?」
 そう聞かれると思っていた。
「ごめん、どうしても高取さんだけに聞きたいことがあって……」
 真っ白になりかける思考に鞭打ち、ここ数日必死で考えた言葉を口にする。
 頑張れ、俺。ここが第一関門だ。
 俯き考え込む高取さんを、祈るきもちで見つめていた。とはいえ、それを顔に出したらただの気持ち悪い男子なので、表面上は平静を装う。それはもう、懸命に。
「……分かった。学校が終わったら、校舎の裏だね」
「う、うん。有り難う」
 戸惑いながらも顔を上げて答えた彼女に、こっくりと頷く。
「じゃあ…また後で」
「うん、じゃあ、後で」
 何か気恥ずかしい雰囲気に、お互いギクシャクしながら手を振る。
 第一関門突破に舞い上がる気持ちを抑え、走り去る彼女を見送った。
 とうとう、その時が来る。
 そう思うだけで、俺の胸は緊張と不安で苦しくなるのだった。

  * * * * *


「――明日香?」
 響いた父親の声に、トボトボと行く宛てもなく校内を彷徨い歩いていた明日香の足が止まる。
 涙でぐちゃぐちゃの顔を向ければ、驚いた父親が走り寄って来た。
「どうしたんだ、明日香?!」
 そのままがっしりと両肩を掴まれる。
「誰かに虐められたのか?何があったのか、父さんに話して見ろ。ん?」
 そう優しく尋ねられ、明日香はくしゃりと顔を悲しみに歪めた。その瞳から再び大粒の涙がこぼれ落ちる。
「お父さん、あたしっ……。あの人が、アキラさんが好きなの。でも、あの人の近くには、あの『高取七穂』がいてっ。偽物なのに、あたしの方が、アキラさんと同じなのにっ。どうしてあの子なの?どうしてあたしじゃないの?ねえ、お父さん。どうして、あたしじゃダメなの?」
「?!」
 涙にくれる娘の告白に、父親は目を見開いた。その顔には怒りとも悲しみとも分からない嫉妬の形相が浮かんでいた。
「……」
「……お父さ……」
 何も言わない父親を不審に思い、顔を上げた。
 しかしそこには、いつもの父はいなかった。
 今まで見たこともない程に血走った目で、噛みつかんばかりに自分を見る男がいた。
「ひっ?!……お、父さん?」
 こんな恐怖を、父親相手に感じたことはなかった。
 ガクガクと体が震え、どうしてそんな表情を浮かべているのか分からず混乱した。
「……どうして……」
 不意に、ポツリとその口が動く。
 明日香はただ、その言葉にじっと耳を澄ました。そうすることで、父を変えてしまった何かが過ぎ去るのを待った。
 しかし、
「どうして、どうして!どうしてどうしてどうして?!アイツなんだ!!どうして私じゃない?!どうしてなんだ、明日香!!」
「ひっ?!」
 叫び、両腕の付け根辺りを掴んできた父親の瞳に、正気の色は見えなかった。激しい激情に、我を忘れ、男は愛しい娘を揺さぶる。掴む手に力がこもり、明日香は痛みに悲鳴を上げた。
「痛い!痛いよ、お父さん!!」
「どうして私を好きにならない?!なぜお前は、アイツばかり……アキラばかり見るんだ?!」
 怒りで何も考えられず、聞くこともない男の耳に、娘の悲鳴は届かな。
「何がアキラが好きだ!?何が偽物の七穂だ!!お前も、偽物のくせに!!七穂じゃないくせに!!」
「……な、にを、言って……」
 父親だった者の言葉に、明日香は目を見開き愕然とした。
 恐怖に震えていた体は、今や別の恐怖に慄き始めていた。
「ああ、そうだよ!お前は、七穂なんかじゃない。私が、七穂の細胞から作り出したクローンだ!!コピーなんだよ、お前も。あの女の作ったアンドロイドの『高取七穂』と同じ、偽物なんだよ!!」
 バッと明日香から両手を外し、叩きつけるように言う。
 ふわりと、校舎を抜ける風が二人の髪を、衣服を揺らして通り過ぎる。その音が聞こえそうなほどの、沈黙がその場に落ちた。
 全てを吐き出し、一時の激情が去った男の肩で息をする息遣いだけが聞こえている。
「……うそ。うそよ。そんなの。お父さん……?」
 消え入りそうな、震える声が沈黙を破る。
 その余りに儚い声に、男はハッとして娘を見た。
 残酷な真実に、明日香は呆然とした表情のままパタパタと両の目から涙を流していた。
「あ……」
 痛々しい姿に、男は言葉を失った。
――自分は今、自分が望んで生み出し育てた、大事な、大事なこの子に何てことをしてしまったのだろう。
 父親だと信じていた男のその様子に、少女は全てを悟った。
激情の中、彼が叫んだあの言葉全て、本当のことでしかないことを。
ふらりと、明日香の足が踏み出す。
「あす…か……」
 呼びかけた男の横をすり抜け、呆然としたまま幽鬼の様にフラフラと去って行く。
 心無い人形の様な彼女の姿に、男はそれ以上何も言えず上げかけた手が虚しく空をきって落ちた。
 彼女が去ったその場に、男はガクリと膝をついた。
――言った。言ってしまった。一番言ってはいけないことを、あの子に言ってしまった。
 リノリウムの床に蹲り、顔を両手で覆った。
「何てことだ……私は、何てことを……!」
 激情が去った時の背負っていたものを全て手離した心の軽さは、もはや微塵もなかった。ただ、後悔と自責の念にかられ、以前よりももっと重いものが男の胸を押しつぶしていた。
「……もう、ダメだ。もう、私には何も残っていない。七穂を取り返すために必死で研究した。何もない私が、書物と大学に残る研究資料、そして機器だけで明日香を誕生させるまでに辿りついた。これで七穂を、取り返せると思った。なのにどうだこの結末は。まるっきり、あの女の予想通りになっているじゃないか。……お笑いだな」
 両手をつき、首を振って自嘲的に笑う。
「本当に、お笑いね。瀬戸内智也くん」
「?!」
 頭上から降って来た声に、ビクリと男の、瀬戸内の肩が震える。
 その声は、知っている声よりも年若い。だが、確実にここにいてはいけない人物。いるはずのない人物の声だった。
 信じられない思いでゆっくりと顔を上げた。
 そこには、白衣を着て腕を組む。笠間茜の姿があった。
「ば、かな。お前は、私が……!」
「ええ。殺したはず、よね」
 べっ甲縁の眼鏡のフレームを押し上げて、にっこりと茜が笑う。後頭部で無造作にまとめられた茶髪が揺れ、その何本かはまとまりきらずに肩に落ちていた。三十代になってからはパンツ姿が多かったが、目の前にいる彼女は膝までのタイトスカートを履いていた。まるで、自分が大学に入学を決めた、高校三年生の頃の茜を見ているようだった。
「そう。私はあなたに殺された。明日香ちゃんに、(アキラ)への恋愛感情を教えたから」
 そう言うと茜は眉を下げ、悪戯をした弟をしかるような表情を浮かべた。
「バカね、あなたは。本当にバカ。私を殺したって、いつかそれが恋愛感情だなんて明日香ちゃんなら自力で気づくわよ。本気であの子が大事だと思っているなら、それを許して見守るべきだったんじゃないかしら?だって、あなたには分かっていた筈でしょう?彼女の恋は、実らないものだって」
 茜の言葉は、何故かスッと瀬戸内の心に沁み込んだ。
「ああ、そうだな。私は知っていた。知っていたのに……明日香を傷つけるような結末を、自ら選んでしまったんだ。私の心が、あの時のまま、七穂を失った時のまま止まっていたから。七穂を取り返すことに執着するあまり、あの子の事を、何も考えてやれなかった。私は、父親失格だ。こんな人間が、命を造り出そうとすること自体、間違っていたのかもしれない」
「間違っていたから、失敗したから、それであなたはどうするというの?」
 その場に力なく座り込む瀬戸内に、茜は冷たく問いかける。
「……責任を、取らなければならない。私は、私の犯した誤ちを背負わなければ……」
「それで、責任を取って死ぬ気なのね」
「……」
 茜の言葉に、瀬戸内は黙ったまま俯いた。
 そんな瀬戸内に歩み寄り、身を屈めたかと思う間もなくその襟首を掴んで瀬戸内ごと立ち上がる。
「なっ?!」
 とても年若い女性の力とは思えない怪力で瀬戸内を持ちあげると、その頬を思いきりひっぱたいた。頬にかかった力も信じられない程強く、タイミング良く離された瀬戸内はそのまま数センチ左背後へ飛ばされた。
「ぐうっ……!」
 べしゃりと無様に廊下へ落ち、赤くなった頬を押さえて茜を見上げる。
「な、何を?!」
「これは、あなたが殺した笠間博士からです」
「……は……?」
 口調を改め、茜は感情のない硝子の瞳で瀬戸内を見下ろしていた。
 間の抜けた声を出しポカンとする彼に構わず、彼女は淡々と話を続ける。
「笠間博士は、あなたがクローン研究に手を出した時から、自分とあなたが相いれない関係になることを予感していました。そして、あなたに殺されることも」
 『あなたに殺させる』という言葉に、瀬戸内の表情が罪悪感に歪む。
「笠間博士は、あなたと明日香さんの関係が壊れることも予感していました。その罪の意識から、あなたが自殺しようとすることも。だから、それを止めるために私に人口知能を埋め込んだのです。そして、ご自分の記憶と意識パターンをインプットした」
「じゃあ、お前は……」
 驚いたように震える指で自分を指す瀬戸内に、茜は頷き答える。
「私は、暁さんのために笠間博士が作り出した、自己学習機能を備えたご自身のアンドロイドです」
「そうか。どうりであの頃の茜さんにそっくりなわけだ」
 納得した様子の瀬戸内の顔に、自嘲的な笑みが浮かぶ。
「しかし……そうか。茜さんには、全て先読みされていたんだな……私の失態も、何もかも」
「笠間博士は幼い頃にご両親を亡くされ、随分と苦労されたようですから。人間関係では特に、鋭い感が働くようになられました。そのことが、笠間博士が我々の研究に没頭するようになった原因でもあるようですが」
「どういうことだ?」
 訝しげに尋ねた瀬戸内に、再び淡々と語り出す。
「笠間博士は、極端な人嫌いだったようです。必要な人とは表面的に会話もしますし交流も行います。ですが、一たびプライベートとなると、自分が信頼した人間以外は絶対に心を許しませんでした。昔、優しい顔をして近寄って来た人に裏切られたり、姉弟の二人暮らしだったため何度も謂れのない嫌がらせや言葉を受けた記憶が、どうしてもそうさせていたようです。でも、私たちアンドロイドなら酷い言葉をかけることも裏切ることもない。だから笠間博士は私たちを作り出す研究に力を入れました。そして、弟さんの治療のために、私たちを使った」
 瀬戸内はアンドロイドの茜の話を、静かに聞いていた。
 あの、自信満々な茜の姿からは想像もつかない。暁の親友だった頃は直接的な接点がなかったため仕方ないとしても、共に暮らすようになってからも一度も聞いたことがなかった。それだけ、自分は信頼されていなかったということかもしれない。確かに、あれだけ彼女が警告してくれていたにも関わらず、一切耳を貸さずこんな結末を迎えているような人間では当然かもしれないと、瀬戸内は心の中で自嘲的に笑った。
 項垂れる瀬戸内に、茜の形をしたアンドロイドは一度目を閉じ、再び開く。
 その瞳は、先程の硝子玉とは違う意志の光を宿していた。
「でも、だからこそあなたの気持ちが良く分かるのよ」
 緩く顔を上げた彼に、小さく微笑む。アンドロイドの茜ではなく、笠間茜として。
「暁をこの世に繋ぎ止めたくて、私はアンドロイドを使った。研究を、自分の私利私欲のために使ったのよ。あなたと同じよ、私だって。それが、一時しのぎにしかならないってわかっていたのに、使ったの。だって、暁を失いたくなかったんだもの」
「茜さん……」
 アンドロイドである筈の、彼女の瞳から透明な雫が一筋流れ落ちる。
 その涙を拭いながら、茜は笑う。
「ふふっ、ただの入力されたデータでしかないのに、こんな私でも泣く事があるのね」
 そんな彼女の人間らしい仕草と表情に見惚れた。彼女の研究を、自分のクローン研究に比べればただの機械の人形作りだと見下していた自分が、今は負けた気持ちでいっぱいだった。
 彼女はアンドロイドであると共に、すでに『笠間茜』なのだ。
「茜さんは、凄い人だ。アキラのために、アンドロイドをただの機械人形から一人の『人』にまで作り上げた。それに比べて私は……」
「それは、あなたも同じよ」
 俯く彼の頭を、茜がポンポンと優しく叩く。
「あなたも、立派に明日香ちゃんを育てたじゃない。私には、とても良い父親に見えたけど?あなただって、成長していく明日香ちゃんを見守っている時、ずっと七穂ちゃんのことばかり重ねて考えていたの?」
「それは……」
 瀬戸内の頭の中を、幼い頃から今までの明日香との思い出が過る。
 培養カプセルの中で五歳まで成長し、初めてこの世で呼吸をし目を開いた時。あの時、自分の中にあったのは七穂が甦った喜びだった。でも、明日香と名付け共に暮らしていく内に、その嬉しさは全て明日香の成長の喜びの中へと吸い込まれてしまった。初めてパパと呼ばれた日のことも、初めて自転車に乗れた日のことも、一緒に散歩した日のことも。全部、全部鮮やかな記憶として直ぐに思い出せる。
「うっ……うっ……。私は、どうしてこんなにも大切なことを、すっかり忘れてしまっていたんだ。忘れて、どうしてあんな酷いことを、平気で明日香に……!」
 顔を両手で覆い泣く瀬戸内の両手に手をかけると、茜は一気に引っぺがす。
 急に手を剥がされ、頬を涙でべちょべちょに濡らしたまま彼はポカンと茜を見た。
「泣いている暇なんてないでしょ?傷つけたと思うのなら、きちんと謝りなさい。明日香ちゃんはとても賢くて、とてもとても優しい良い子だわ。あなたが心から謝罪すれば、きっとわかってくれる。だって、あなたたち親子じゃない。ずっとずっと一緒に生きて来た。明日香ちゃんのことは、あなたが一番知っているでしょ?」
 眉間に皺を寄せ、子供に言い聞かせる母親のように茜は一言ずつゆっくりと瀬戸内に語りかける。
「……そうだな。あの子に、謝らなければ。例えあの子が許してくれなくても、私は、謝らなければならない」
「そう思うのなら、早く明日香ちゃんを追いかけないと」
 涙を白衣の袖で乱暴に拭い取ると、瀬戸内は顔を引き締めた。その背中を茜が押す。
「しかし、何処に行ったのか全く分からないんだが……」
「大丈夫、検討ならついているわ。きっと、あそこよ」
 押されながら困った様子の彼に、茜はウィンクをする。
「あそこ?」
「校舎裏。今日は、何回目かの七日間が終わる最後の日だから」
「……まさか、明日香は暁の告白の場に飛び込むつもりか?!こうしてはいられない、止めなければ!」
 言うが早いか、瀬戸内は走り出す。
「有り難う!茜さん!!それと、すみませんでした!!」
 走りながらちらりと視線を送って叫ぶ彼の顔は、すっかり茜も良く知る智也の顔に戻っていた。素直で、勉強熱心で、可愛い後輩になるはずだった頃の彼の顔。
 それに頷き手を振り返す茜の顔は、嬉しくて微笑みながら泣いていた。
「……全く、手のかかる子たちね。本当に。ありがとうね、身体を貸してくれて。アンドロイドの私」
 そう言うと、静かに瞳を閉じた。
 次に開いた時、その瞳から『笠間茜』は消えていた。
 笑みは消え、無機質な表情が浮かぶ。しかし、その両目から零れる涙は止まることはなかった。
 アンドロイドの茜は自分の胸に手を置いて目を閉じる。
「……いいえ。こちらこそ、生み出してくれてありがとうございます、笠間博士。後は私が――私たちが受け継ぎます」


「うわっ!!っとと」
「きゃっ」
 ぶつかりそうになり、寸での所で九谷は何とか避けた。が、相手の子はそのまま驚いた勢いで、その場に尻餅をついてしまった。
「あ、ごめん!大丈夫かい?」
 慌てて手を差し出すと、ぶつかった少女が顔を上げた。その顔は、九谷も良く知る人物だった。
「あれ?明日香ちゃんじゃないか。どうしたの?こんな所で」
 明日香はその問いかけには応じず、ぼんやりとした顔のままゆっくりと立ち上がり再び歩き出そうとする。その、余りに不自然な行動に、流石の九谷もおかしいと思い明日香を引き止めた。
「ちょっ、ちょっと待って!」
 腕を掴むも、明日香によって振り払われてしまった。
「すみません、あたし急いでいるんです」
 早口にそう言うと、再び先へ行こうとする。
「急いでいる……て、だってそっちは行っちゃいけないってお父さんに言われていなかったっけ?特に今日は、とても大事な実験があるから不味いんじゃないの?」
 そう言って再び止めようと腕を伸ばした九谷を、不意に明日香が振り返った。
 突然の行動に、九谷は伸ばした腕を引っ込め大きく仰け反った。
「わっ?!」
「父なんかじゃありません。あの人とあたしは、血のつながりがないんですから」
 振り返った明日香の顔は怒りに目を吊り上げながら、その唇は悲しみで戦慄いていた。
 そんな明日香の様子と言葉から、九谷の胸を嫌な予感が過る。
「明日香ちゃん?」
 呼びかけるが、こちらを見ている筈の明日香の瞳に九谷は映っていないようだった。
「あたし、クローンだったんです。偽物だったんです。あの人が『七穂』さんの細胞から造り出したコピーだったんです。でも、それでもあたしは人間だから。生身の人体だから、あいつなんかよりも…アンドロイドの七穂なんかよりも、きっとアキラさんの傍にいるべきなんです!いいえ、いられなければおかしい!!だって、あいつはずっとずっっっとアキラさんの傍にいられるのに、あたしはいられないなんておかしいでしょう?!だから、アキラさんの思いに答えられないアンドロイドの代わりに、あたしがアキラさんの『高取七穂』としてその思いに答えてあげるんです!!だから、だから……邪魔しないでください!!!!」
 怒鳴りつけるように、声を限りに叫ぶと明日香はサッと踵を返して走って行ってしまった。
「……なんてこった……」
 切羽詰まった様子で捲し立てられ、九谷はその迫力に圧倒されてしまい動けなかった。
 彼女の意見は正しい。確かに、自分はここの様々な問題に対して部外者だ。軽々しく手を出すべきではないのかもしれない。だが、自分は彼らと同じ痛みを知っている。大切な人を何も出来ずに失う悲しみを。そして、これ以上苦しむ姿も見たくない。明日香がこのまま突進めば、きっとこの先で明日香は恋している相手を目の前で失うことになる。アキラという人物の今の状況が、瀬戸内の研究室で見た笠間茜の『アカツキノセカイ計画』に書かれた通りならば。
 それだけは、せめて止めてやらなければならない。
 ズボンのポケットに入れた、瀬戸内の研究室で見つけた薬を取り出す。それは十二センチ程の長さがある円柱状のものだった。上部にキャップがついており、それを外すと無数の短い針が剣山の様についた頭部が出て来る。その反対側にある柔らかい部分を押すと、恐らくその針から薬が染み出し皮膚から吸収させるタイプの注射器だろうと九谷は目星をつけていた。これを、アキラの首筋に刺すことが、今の九谷にできる精一杯のことだ。
 意を決し注射器を握りしめると、九谷は明日香の後を追って走り出した。全てが始まり、そして終わる筈のあの場所へ。

  * * * * *


天気は快晴。空の青と桜のピンクのコントラストが美しい、絶好の卒業式日和。そして、俺にとっては絶好の告白日和。こんな良いシチュエーションはきっと滅多にないだろう。
 最後のホームルームを終え、俺は足早に校舎裏へと向かう。理由を知っている智也は、頷いただけで特に声をかけてくることはなかった。息を切らし、辿り着いた校舎裏にはまだ誰も来ていない。乱れた息を整えながら、内心少しホッとした。呼び出した相手よりも後に着くなんてかっこ悪いもんな。
 人の気配は全くない。理科棟の裏側に当たるここは、生徒の間でも特に人気のない場所として通っていた。たまに足を向けると、授業中もそこで寝ていたんじゃないかと思う生徒が木の下に転がっていたり、明らかにガラの悪そうな生徒が円陣を組んで座っていたりしていた。今となっては全て良い思い出だ。
 流石に卒業式の今日は、そういう人たちもここにはいない。低木が敷地を隔てるフェンスの下に行儀よく並び、等間隔でその間に背の高い落葉樹が埋まっている。そのため、外からも学校側を良く見ることは出来なくなっている。お昼前の空高い太陽が降りそそぎ、地面に木々と校舎の影を作り出していた。校舎の壁にもたれかかり、ここ数日懸命に練り上げた告白の言葉を何度も反芻する。
 ドラマチックに、ロマンチックに体裁を整えても、相手に全く脈がなければきっと面白く映るか興ざめになり余計に嫌われる。それに、どうせあがり症の俺のことだ、告白以外の余計なことを考えるとそれに気を取られて、肝心の告白を失敗するに決まっている。だから俺は、とにかく素直に真っ直ぐな言葉で高取さんに伝えようと思った。
 そんなことを思いながら、自分で自分に頷いた時だった。
「ごめん、待たせちゃったかな?」
「!」
 弾んだ高取さんの声が掛かり、壁から背を勢いよく離した。
「い、いや。そんなことないよ。俺も、さっき来たばかりだから」
 わざわざ走って来てくれたのか、乱れる呼吸を整えながら彼女が笑う。
 それにブンブンと首を横に振った。鼓動がドキドキと早くなる。
本当に、先程きたばかりだ。
 高取さんはもう一度「ごめんなさい」と謝り、深呼吸を一つ、背筋を伸ばして俺を見た。
「それで、あの、話って何かな?」
――来た!
 思わず心の中で叫ぶ。もはや心臓はドクドクと限界値ギリギリな鼓動を刻んでいた。
「あ、うん。えっと……」
 高取さんを真っ直ぐに見られない。思わず視線を彷徨わせる。
 男らしくないぞ俺!こんなんじゃ、高取さんに呆れられてしまう。
「話っていうのは、その……」
 あれだけ練習した言葉が、中々喉から出て行かない。
――言え!俺!言うんだ!!今言わなきゃ、今日言わなきゃ、もう次は絶対にないんだ!!
 グッと息を一つ呑んでから、意を決して真っ直ぐに高取さんを見た。
 笑顔で俺の言葉を待っていてくれた彼女に、温め続けたそれを口にした。
「ずっと好きだった。……お、俺と、付き合ってくれません、か?」
――言った!言うには言ったけど……何だこれはあぁぁぁっ?!
 飛び出した言葉は用意した言葉とは違い、情けない告白だった。
 緊張に声は震え、最後なんて敬語になってしまっている。最初の勢いのよい言葉とは全く逆で、おかしな告白になってしまっていた。
 体はその場に固まり立ち続けていたが、内心地面を失態の気持ちで転がりまくりたい気分でいっぱいだった。
当の高取さんは驚き、微動だにせず俺を見つめていた。
それが余計、不安で焦った。
「あ、いや、その……。ごめん。なんか、その……急に、こんな所に呼び出したうえに、変な事を言って……」
 笑った筈の顔が変に歪んだ。
――何を言っているんだ、俺ぇぇぇっ?!これじゃあ、余計にダメ男じゃないかっ!!
 このシツエーションに、デジャヴを感じていた。六日前に見た悪夢だ。あれと全く同じ流れになって来てしまっている。これではいけない。
 そんな思いがグルグル頭の中を回っていた俺の耳に、微かに笑う声が聞こえて来た。
 あ、笑われた。と、絶望と羞恥の感情が全身を支配する。
 恐る恐る顔を上げた俺に、泣き笑いの表情を浮かべた高取さんが口を開いた瞬間だった。
「笠間くん!」
 背後から声が掛かり、思わず俺は振り返った。
 そこには、肩で荒い息を繰り返しながら怒ったような表情で俺を見つめる高取さんがいた。
「え?」
 思わず間抜けな声を出して、体を捻る。そこにも、驚いた表情の高取さんがいた。今は、俺の背後にいる高取さんを見つめ、目を丸くしている。
「ダメよ、騙されちゃ!あたしが本当の『高取七穂』よ。その子は偽物なの。あなたが好きなの!笠間くんを好きなのは、あたしよ!あたし、七穂よ!!」
「う、え……?」
 いきなり背後から告白の言葉が響き、俺はそちらを振り返る。
 こちらの高取さんは、悲しそうな顔で目に涙を溜め、じっと俺を見ていた。その余りにも必死な姿に、ドクンと心臓が鳴った。
 彼女は、俺を好きだと言う。高取さんが、俺を好きだと。
 再び先に来た高取さんを振り返る。
 高取さんは驚きの表情を消し、今は、じっと後から来た高取さんを見ていた。その表情がどこか作り物めいていて、俺を余計に困惑させた。
「ねえ、何とか言ったらどうなの?自分は偽物だって、言ってみたら?それとも、本物だって主張する?」
 背後から挑発するように叫んだ高取さんの声にも、何の反応も示さない。
「……な、どう、なって……」
 高取さんが二人いる。俺の好きな、高取さんが二人。
 ドクン、ドクンと心臓が波打つ。呼吸がしづらく、俺はハアハアと口で息を漏らす。
 今、俺の目の前で起きていることは一体何だ?こんなこと、ある筈がない。あっては、ならない。高取さんが二人なんて、あってはならないことだ。
 ズキリと、頭に激しい痛みが走った。
「う、あ……っ?!」
 堪らずその場に両膝をつき、頭を両手で抱えた。
 頭痛は収まるどころか、その痛みの激しさがドンドン強くなる。こんな、激痛は今まで経験したことがない。痛みで頭がおかしくなりそうだ。
「あ、あ、あああああああああっ!!」
 何かしていなければ、俺が何処かに行ってしまう。それが怖くて、声の限りに叫んだ。少しでも痛みを遠ざけようと、蹲り地面に頭を押し付ける。しかし、そんなものでどうこうなる痛みではなかった。
「わあああああっ!?あ、あ、あああああああっ!!」
 ドンドンと地面を両手で叩く。それでも足らず、額を地面に叩き付けた。
 どこか行け!こんな痛み、どこか行ってしまえっ!!!!
「消えろ、消えろ、きえろきえろきえろきえろきえろきえろきえろ――」
 狂ったように呟き、頭を地面に力いっぱい叩きつける。額の皮膚が裂け、血が流れ出す。
 それでも構う事無く、叩きつける。鼻の横を通り、口に鉄の味が広がった時だった。
 背後から強い力で羽交い絞めにされ、頭が叩きつけられなくなった。
「?!」
 それに驚き、抵抗する間もなく首筋に鋭い痛みが走った。まるで、針の山を首筋に強く押し当てられたような、そんな感触だった。
 途端、先程まであった激しい頭痛が嘘のように消え去る。
「……あ……」
 先程まで胸を占めていた恐怖が、綺麗に霧散して行く。
 信じられないほど心地良い安心感の中、俺は意識を失った。
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