エピローグ

文字数 6,587文字

 その桜の木は大学構内の片隅に、一本だけ外れて植えられていた。その根本に小さな盛り上がりが一つ。その上に置かれた長方形の形をした石には、黒いマジックで大きく『笠間茜』と書かれていた。その字は掠れ、書かれてからだいぶ月日を感じさせる。墓標の前には、まだ新しい花束と紙コップに入った珈琲が置かれていた。珈琲からはほのかに湯気がたち、その手前の土にささった線香は、短いもののまだ煙を燻らせていた。
 自分よりも先に来た誰かが、供えて行ったのだろう。それが、九谷だと智也には直ぐに分かった。
「……茜さん。明日香と九谷さん、それにナナ…七穂のアンドロイドが二人に付いて旅立ちましたよ。今、ここにいる人間は俺と暁だけです。まあ、もうすでに九谷さんから、大体のことは聞いていると思いますけど……」
 その目の前に立ち、智也は静かに墓標へと語りかける。
 くたびれた白衣のポケットに両手を突っ込む彼の頭には、始めてここを訪れた時よりも幾分か白髪が多くなっていた。苦笑を浮かべる口元に刻まれる皺も、一段と深い。
 智也は今年で、四十九歳になっていた。
 ほぼ完成した試験薬で一瞬正気を取り戻した暁だったが、脳の機能がほとんど失われてしまっているためかそのまま眠るように意識を失った。今は、暁が元に戻った時にと茜がアンドロイド制作と並行して造り上げた、暁専用の生命維持装置によって何とか身体は生きている。ただ、このまま意識が戻る確率はほぼゼロに近い事を、智也はクローンを造りだす過程で身に着けた知識で何となく分かってしまっていた。
 そうして暁が長い眠りについてから一年。九谷がここを出てロシアへ向かうと言い、明日香もそれについて行くことを決めた。なにより一番驚いたのは、七穂のアンドロイド――ナナが自ら明日香に同行を申し出たことだった。
 その旅立ちが、今日の朝だった。


「忘れ物はないか?」
「うん。ないよ、父さん」
 大学入口のロータリーで、九谷が何処からか仕入れて来た白く大きなキャンピングカーが止まっている。その前で、智也に尋ねられた明日香は大きく頷いた。その背には、パンパンのリュックサックが背負われている。明日香の服装も、動きやすいパンツスタイルだ。首から下げられた古びたカメラに一瞬目を止めたが、すぐにそっと逸らした。その隣では、既に荷物は積み込み、手ぶらになった七穂のアンドロイドのナナが無表情のまま立っていた。
「しかし、本当に良いのかい?智也くん。娘の意志を尊重するその寛大な心は、正に父親の鏡だが……。彼女はまだ十八だろう?引き止めるのなら、これが最後のチャンスだぞ?」
 開け放たれた運転席の窓から顔を出し、その光景を見守っていた九谷が声を上げる。
 その声に明日香が振り返り、智也の視線も向いた。
「もう!九谷のおじ様ったら、そればっかり!その話は、もう決着がついたじゃないの」
 明日香は怒った様子で腰に手を当て、睨みつける。一年前よりも伸びた髪がサラサラと流れ落ちた。確かに美しく成長した明日香だが、まだ幼さの残る彼女の睨みでは迫力に欠ける。
「九谷さん、明日香の言う通りです。明日香は後二年で二十歳になる。もう立派な大人ですよ。自分の行く道は自分で決めさせてやりたいんです。だからと言って後二年を待っていたら、きっとここから飛び出すチャンスはもうありません。ですから、二年後に一人で行くと言われるよりも、あなたと一緒に行ける今の内に送り出してやりたいんです」
 智也は首を横に振って、きっぱりと言う。
 二人がいなくなることに寂しい気持ちはあるが、自分はここを離れるつもりはない。今更、ここを離れる理由も持ち合わせてはいない。何より、自分にはやらなければならないことがまだたくさん残っている。
「とはいえ、寂しくなるのは否めないな。ここ以外、外の世界がどうなっているかは俺にも分からない。危険がないとも限らない以上、十分警戒して行くんだぞ?」
「分かってるよ。危険だと思ったことやもの、不可解なものには一人で近寄らない。必ず九谷さんか、ナナさんに報告して一緒に行動すること。……だね?」
 心配そうに眉を顰めた智也に、明日香が人差し指を立てて小首を傾げる。
「ああ」
「九谷さんに同行するって決まった時から、何度も繰り返し聞かされたもの。もう、覚えちゃったわ」
「覚えるように、言ってたからな。俺の思惑は大成功だったわけだ」
 呆れたように肩を竦める明日香に、智也は満足そうに一つ頷いた。
「何よそれ」
 ムッとして口を尖らせた明日香が、不意に悲しそうに口を引き結ぶ。
「……大丈夫よ。いつになるかは分からないけれど、ロシアに着いたらまたここに…父さんと暁さんの元に必ず帰ってくるから。だから…だから父さんも、それまで絶対待ていてね?ちゃんと、『おかえり』って迎えてくれなきゃ嫌だからね?」
 そう言って不安げに見上げて来る明日香に、智也は心の奥から湧き出る愛しい気持ちをそのまま笑みに乗せた。そこには一年前、嫉妬にかられたあの時の智也はもはや微塵もいなかった。ただ、娘を思う父の姿がそこにあった。
「もちろん。だったら、明日香もちゃんと元気に『ただいま』と言ってくれないとな」
「……うん」
 優しい声に、明日香の顔がくしゃりと別れの悲しみに歪み、堪らず智也に飛びついていた。その成長してもまだまだ小さな体を受け止め、そっと抱き締める。
 しゃくり上げるその背中をポンポンと優しく叩いてやりながら、視線を九谷へと向ける。
「ご迷惑をおかけしますが、頼みました、九谷さん」
「ああ、まかせとけ!…と言いたいところだが、何がどうなってるか俺にも分からないからな、極力危険は避けて行くつもりだ。そう言う意味では安心してくれ。それと、何か分かったら何とか連絡手段を見つけて伝えるよ。暁くんのためにもなるだろうし、何より茜さんがそれを望んでいたからな」
「ええ。お待ちしてます。一応、ここの施設の通信システムは一通り確認してありますから、何かしら繋がる可能性が向こうに残っていればいいんですが……」
 ため息をついて眉間に皺を寄せる智也に、九谷も同意する。
「だな。ダメだったらもう、一通り集められるだけ情報集めて明日香ちゃんに託すしかないだろうなぁ」
「……あたし、責任重大ですね」
 ぐすっと鼻をすすりながら、それでもしっかりとした声で明日香が智也から身を離して振り返る。その顔はすでに決意に満ちていた。
「ま、全てはあっちに無事に辿りついてからまた考えるとしようや」
「そうですね。ここで話していても詮無きことですね」
「そうそう。さ、惜しむ気持ちも尽きないだろうが、そろそろ出発しないと次の比較的ましな街に日暮れ前に着かなくなっちまう」
 そう言うと、九谷は智也にひらり片手を振ってから窓の中へと引っ込んだ。
「じゃあね。父さん。きっと戻るから、それまで元気で。あと……暁さんのこと、よろしくね」
「明日香も元気で。……そのカメラ……」
 乾いた涙で赤く染まった目元を緩めて、明日香はそれでも笑みを浮かべた。そんな胸元で揺れる古びた一眼レフデジタルカメラに、智也は遠慮がちに目を止める。
「うん。茜さんの研究室にあったの。すごく大事そうに硝子戸の中にしまってあったから、多分暁さんのなんじゃないかなって」
「……そうだな。あいつはいつもそれで、嬉しそうに星の写真を撮っていたよ」
「そっか、やっぱり。だから、連れて行こうと思って。もう、壊れて何も写真は撮れないけど、綺麗な星空いっぱい見せてあげようと思って。それに、これを持っていたら、どこにいても暁さんや茜さん。それに、父さんと繋がっていられる気がするから……」
 そう言って愛おしそうにカメラを撫でる明日香に、智也は複雑な笑みを浮かべた。自分との繋がりを大切にしてくれる娘に嬉しい反面、暁への思いに大人びた表情をするようになった彼女に親として寂しくも思ってしまう。そんな権利すら、彼女や暁、それに茜にしたことを思えば自分にはないというのに。なんて贅沢で酷い悩みなのだろうと、智也は唇を噛んだ。
 それでも、娘の門出に無理矢理にでも優しい笑みを貼り付ける。
「そうか。大事にしてやってくれよ。帰ってきたらあいつに、星の話をたくさん聞かせてやってくれ。きっと喜ぶから」
「うん」
 元気よく頷く明日香に同じように頷き返してから、智也は視線をナナへと向ける。
「ナナ。くれぐれも明日香のことを、よろしく頼む」
「承知しております、瀬戸内博士」
 かつての思い人の顔をしているこのアンドロイドのことを、智也はどうしても七穂と呼ぶことが出来ず、ナナとずっと呼んでいた。智也の中の本物の七穂との思い出と彼女への感情が、それを拒み続けていた。それは今も昔も変わらない。“高取七穂”という少女は、智也にとってはたった一人だけ。その感情に気づいたのが、明日香を傷つけた後なのだから救いようがないと、今でも智也は自分を責め続けている。
 そんなナナが明日香の護衛にと、自ら申し出たのが昨晩のこと。前々から一体アンドロイドを連れて行こうと話合っていたが、彼女が手を上げるとは思っていなかった。曰く、女性型の方が色々明日香の助けになるだろうとか、他のアンドロイドよりも暁を守る役目も与えられていたため護衛に特化しているとか。そんな最もな理由を並べていたが、智也にはナナが明日香に少なからず興味を持ち、傍にいたがっているように見えた。彼女たちの間に何があったのか分からないが、明日香もそれを嫌がっている素振りがないので智也は許すことにしたのだった。
「父さん!」
「!」
 ぼんやりとそんなことを考えていた智也の耳に、明日香の声が響いて現実へと意識が引き戻される。
 すでにキャンピングカーに中へと乗り込んだ二人が、後ろの窓を開けてこちらを見ていた。
「研究に没頭し過ぎて、徹夜ばっかりしちゃダメよ?それに、食事も一人だからってめんどくさがらずに、きちんと三食取ってね?それから、えっと、えっと……」
 顔を出して懸命に叫ぶ明日香に、智也は苦笑を浮かべた。
「明日香」
「!」
「いってらっしゃい」
「!!」
 ゆっくりと優しく呼びかける。この数年間、何度も何度も色々な思いを乗せて呼んだ愛しく大切な娘の名前を。
「今、世界がどうなっているか父さんにも分からない。危険なこともあるだろう、恐ろしい事も、興味を引くような知らないことも。けど、これがお前にとって最初の外を見る旅になる。だから、しっかりとその目で見てきなさい。お前が生きる、この世界を」
「父さん……」
 くしゃりと泣きそうな明日香の体が、エンジン音と共に揺れる。ゆっくりと走り出したキャンピングカーが、明日香たちを乗せて遠ざかって行く。
 目を細めてそれを見送っていた智也に、不意に車体から体を大きく乗り出し明日香が手を振る。
「いってきます、父さん!!」
 その目元が陽の光にキラリと光る。ずっと我慢していたものが溢れたのか、しゃくり上げる彼女の掠れた声だけで、もう智也は十分だった。
「……ありがとう、明日香。俺に、父親になる時間をくれて。本当に、ごめんな……」
 小さくなって行く白い車体が見えなくなっても、智也は暫くその場を動けなかった。


 皆と別れを済ませた後、一人きりとなった智也の足は、何故かここへ向いていた。まるで、吸い寄せられるように、茜の下へ。
「おかしなものですね。送り出す覚悟なんて、一年前に決めていた筈なのに……いざとなると、こんなに寂しくなるなんて」
 穏やかだった表情がくしゃりと歪む。智也は笑いながら泣いていた。強がった自分が惨めだったわけではない。送り出したことを、残ったことを後悔しているわけでもない。とにかくただ、ただ、寂しくなったのだ。
「あはは。こんなんじゃ、あなたにも笑われてしまいそうだ」
 そう言いながら、見上げた空がおかしかった。
 蒼天が広がっている筈のそれは、なぜか少しだけ赤みを帯びていた。
「……あれ?おかしいな」
 そう呟くと、目を擦った。
 滲んだ涙が拭われ、目の周囲に赤い痕を残す。
「早起きし過ぎて、目が充血でもしたのかな。俺も年だ……」
 乾いた笑いを浮かべ、目を擦った己の手を見て絶句した。
 そこには、赤い擦れた後が乾き帯状に残っていた。
「な……」
 ドクドクと心臓が音を立てて早くなる。
 頭の中が、真っ白になって何も考えられない。今まさに、智也の身に、一体何が起きているというのか。智也自身にも全く分からなかった。
 指を見るため下を向いた顔から、パタパタと地面に雫が落ちる。それは染み込み広がり、赤い水の小さな円を土の上で幾つも描く。
「う……うそだ、ろ……!」
 絶望に顔が引きつり、ガクガクと足が震えてその場に膝をついた。その瞬間、首筋にチクリとした小さな針の痛みが走った。
「――大丈夫。あなたがほぼ完成させた脳の崩壊を食い止める薬です」
 背後から聞こえた声に、体の震えが止まる。絶望の表情はそのままに、ゆっくりと背後を振り返った。
「……アカネ、さん」
 そこには、空の注射器を持ってどこかホッとした様子の茜を模したアンドロイドが立っていた。
「間に合って良かった。とはいえ、今回は本当に偶然間に合っただけですが」
「もしかして、俺にも暁や七穂と同じ症状が?」
 茫然としたままつぶやく智也に、アカネは難しそうに腕を組み眉間に皺を寄せた。
「おそらく。ただ、原因がどこからと言うのが何ともあり過ぎて絞れません。月が消えたあの日に、やはり届いていたのか。あるいは……」
「……茜さんの、脳はどうなっていた?どうせ、調べるように言われていたんだろ?自分が亡くなったその時には、と」
 力なく聞いた智也の声に、アカネは何の遠慮もなく頷く。
「もちろん。全ては弟の暁さんのためですから。笠間博士の脳は崩壊こそ始まってはいませんでしたが、そこにあるはずのないモノが一つありました」
「あるはずのないモノ、とは?」
 少し正気を取戻した智也が、ゆっくりと立ち上がりながら尋ねる。
 その姿を目で追いながら、アカネはゆっくりと口を開いた。
「死骸です。顕微鏡で確認しなければわからない程の、小さな虫の死骸」
「なん、だって?そんな、馬鹿な……人の頭蓋骨の中に、か?」
 驚きで目を見開く智也に、アカネはゆっくりと頷いた。
「その事を、九谷さんは知っているのか?」
 智也の問いかけにも、アカネは頷く。
「……なぜ、俺には言わなかった?」
「それが、笠間博士のご意志だからです」
 きっぱりと言われ、智也は開きかけた口を閉じる。頭に上りかけた怒りの感情も、一瞬で降下していった。
「……そうか、分かった」
 茜は万が一の可能性を自分の死後にも託していた。全ては、暁を、弟を助けるために、自分の死さえも捧げて。しかし智也は、そのさなかに自分だけの七穂が欲しい一心でクローン研究に手を染めた。茜は、その気持ちを理解してはくれても、完全に許していたわけではなかったようだと、智也は小さく自嘲気味に笑った。
(――これは、俺の背負うべき罰の一端だ)
 自ら可能性に気づき、歩を進めよと言う茜からの最後の試練とも言うべき罰だと、智也は感じた。
「その死骸のサンプルは、もちろん取ってありますよね?」
 スゥッと深呼吸をすると、智也はじっとアカネを真っ直ぐに見つめた。
 何かを決心したそんな智也の様子に、アカネが表情を緩く崩して嬉しそうに頷く。
「ええ、もちろん」
「ありがとございます。すぐに、研究にとりかかりましょう」
 そう言うと、アカネの横をすり抜け研究所へと足を向ける。その迷いのない足取りに、アカネも後を追おうとしてピタリと足を止める。そうしてくるりと背後を振り返り、笠間茜の眠る小さな墓石へと視線を向け小さく微笑んだ。
「笠間博士。今の彼ならばきっと、あなたの願いを叶えてくれます。だから、どうか安心して見守っていてください」
 そう呟き、姿勢よく一礼すると白衣を翻して智也の後を追った。後にはただ、桃色の花弁がはらはらと墓石の上に降り注ぐばかりだった。

 月の最期の光が地上にもたらした悪夢は、尽きることなく北へ向かう明日香たちの行末にも暗い影を落とすだろう。しかしそれは、向かう先へそれぞれ思いを馳せる彼女たちには、まだ知るよしもなかった。

 END

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