4.天体観測

文字数 14,137文字

 風が吹き抜け、男の来ている薄緑色の病院着がハタハタと揺れる。少々筋肉質な彼には小さいらしく、窮屈そうに見えた。
 手摺に体を預け、そっと天を仰いだ。
 そこには、暗い夜空に数億という星々が瞬いていた。
 しかし、肝心の月の姿は何処にもない。彼の知る夜空には、白く美しい月があった。時に丸く、時に欠けて弧を描きながら毎夜昇る月が。
「……本当に、月はなくなってしまったんだな……」
 ポツリと呟いた言葉が、誰もいない屋上にやけに響いて聞こえた。
「それに、なくなったのは月だけじゃないようだ」
 視線を空から地上へと落とす。
 病院の前の通りに並ぶ民家や商店等、建物に一切灯りはなかった。時間は午後九時。遅い時間とはいえ、子供は兎も角大人はまだ眠る時間ではない。しかし、目の前に広がる町の景色に、人の気配は一つとして見つからなかった。
 昼間の人通りからは考えられないほど、町は静まり返っていた。
 人が、全くいないのだ。
「……恐れていた事態が、起きてしまったということか……」
 眉を顰め、昼間買っておいた煙草に火をつけた。
「“恐れていた事態”とは、一体どういうことかしら?」
 いつの間に来たのだろう。不意に背後から女性の声がかかった。
 しかし、彼は振り返ることをせず、フッと紫煙を空へと吐き出す。
「静かな夜ですね。人の気配が全くしない。良い夜だ」
「質問の答えになっていないわね」
 コツコツコツと靴音が近づき、数センチ背後で止まった。
「人はいなくとも、生物が死に絶えた訳ではない。人がいなくても、鳥は空を飛ぶし、ヘビは地を這う。魚は澄んだ水を泳ぎ、虫たちはせっせと餌を運ぶ。ただ、人がいなくなっただけだ。それだけだというのに、この世界のなんと生命力に溢れていることか」
「……何が言いたいの?」
 すぐ横に、人が並ぶ気配がした。横を向けば、そこにはあの女医がいるのだろう。
 男は、再び天を仰ぎ紫煙をゆっくりと吐き出し、持っていた煙草を口にくわえた。自由になった両手でくるりと体を反転させ、屋上の手摺に背を預ける。履いているスリッパが脱げそうになるが、器用に動かし履き直す。再び煙草を右手に取り、くるりと空中に円を描いた。
「どうでもよくありませんか?自分が誰だとか、何が起きて今こうなったとか。知ったとして、何か変わるんですか?何も変わらないでしょう。死んだ人が生きかえるわけでもない。世界が元に戻るわけでもない。そうでしょう?」
「そうね。きっと何も元には戻らないでしょうね。でも、私たちには知る権利があるわ。あなたが

について知っているのなら……。それに深く関わっているのなら、被害にあっている私たちには、知る権利がある。そうじゃないかしら?」
 そこで始めて、男は女性を見た。
 眼鏡の向こうから、じっと自分を見据える瞳はどこまでも真剣で冷たい色を帯びていた。
「知らないままの方が、幸せということもあるかもしれませんよ?」
「知ることが出来る状況とチャンスがあって、それを見逃す方が私にとっては幸せではないわね。それに、原因を知ることで、私の研究に役立つこともあるかもしれないわ」
 そう言ってふと遠い目をする女性に、それ以上何も言わず煙草をふかした。
 暫く、生暖かい風が二人の間を吹き抜け、お互い黙ったまま星空を見上げていた。
「……九谷五郎(くやごろう)
 静まり返った空気を破り、男が声を上げる。
 一瞬、何を言われたのか分からず、女性は首を傾げた。
「私の名前です。九谷が名字で、名前が五郎」
「そう。思い出したのね」
「ええ。記憶の混乱は一時的なのものだったようです。今日、朝目が覚めたら全部思い出していました。ハルミのことも、何もかも」
 頷き、九谷は短くなった煙草を一緒に購入しておいた携帯用灰皿へと押し付けた。
「ハルミは、私の妻の名です。“晴れた、美しい日”と書いて“晴美”。そりゃあ、何度も呼びますよね。こんな大事な女性のことを忘れていたなんて……お笑いだ」
「可笑しく何てないわよ。それだけ、あなたはきっと、大きな事態に巻き込まれたのでしょう?この世界から、月と人が消える原因になった大事(おおごと)に」
 人の気配のない真っ暗な町を見下ろす、九谷の表情が曇る。当時の記憶が甦っているのか、辛そうに目を伏せた。
「……ええ。少し長くなりますが、よろしいですか?」
 首を捻って尋ねた九谷に、女性は頷き答える。
「構わないわ」
「それと、先に言っておきますが、私はこの世界からほぼ人が死に絶えるという事態について、その原因を知っているわけではありません」
「では、あなたは何を知っているのかしら?あなたの知っていること全てを、私に聞かせて頂戴」
「わかりました」
 きっぱりとした声に、九谷は頷き天を仰いだ。
 そして、語り出す。その時自分に起きた、過去の物語を。


 プロジェクトの内容が語られるのを聞いて搭乗者の志願が求められた時、九谷は迷わず手を上げていた。
 プロジェクトの名前は『Selene program』。日本語に訳すと『セレネ計画』。
 当時、極端に地球へ接近を見せた月の、その原因を探るために結成されたのがこのプロジェクトチームだった。全世界から様々な知識人や技術者が参加し、日夜地球から出来るだけのアプローチを試み原因を突き止めようとしていた。
しかし、地上からのアプローチにも限界がある。
『やはり、現地へ行って調査しなければ、これ以上の結論はでますまい』
 煮詰まっていた人々に一人の学者が意見を投じる。
『そうですね。ここで卓上の空論ばかり行っていても先に進みませんから。私はその意見に賛成です』
 一人が賛同の意を示すと、次々と皆が賛成する旨を口にした。
『では、まず先行隊を送りましょう。月の調査をするとなれば、まずはあちらにベースを作らなければいけないでしょうからな』
 そうして決まった月への有人飛行。成功例があると言っても、それはもう昔の、しかも一度きりの話だ。あれからまだ、どの惑星にも人は降り立っていない。
『恐らく、想定にないトラブルも起きるだろう。それによって、命を危険に晒すことになるかもしれない。それでも、行ってくれる人はいるか?』
 プロジェクトリーダーの言葉に、メンバーの誰もが視線を逸らして黙っていた。
 地球に迫る危険を回避したいという思いは、ここにいる誰もが強く持っていた。そのために尽力することも辞さない。しかし、それに自分の命が絡んでくると、どうしても及び腰になってしまう。
 そんなメンバーの心情を、リーダーも良く分かっていた。
 ぐるりと見回し、小さくため息をついた。「やはりダメか」と胸の内で呟く。
 その時、スッと手が上がった。
『あの、それって私でも大丈夫ですか?』
 拙い英語で聞かれた言葉に、誰もがそちらへ視線を向けた。
 そこにいたのはボサボサの短い黒髪に、カーキ色のつなぎを着たアジア人男性。
 恰好からして、明らかに中心メンバーではなかった。
『君は?』
 流暢な英語に尋ねられ、アジア人は肩に掛けてあったタオルで顔と手を拭きながらにこりと笑った。
『私は九谷五郎。日本人の航空整備士です。このプロジェクトには裏方として参加しております。あの、やっぱりもっと専門的な知識のある人でないと、難しいのでしょうか?』
 この状況で、そんな質問をされるとは思っていなかったリーダーは呆気に取られた。そして何より、この男は笑ったのだ。命をかけなければならないこの状況で。
 リーダーは直ぐに我に返り、首を横に振った。
『いや。十分だ。君の勇気に感謝しよう』
 そう言って、九谷の手を取り握手を交わした。周囲からも九谷を称え、感謝する声がかかる。それに、笑顔で答える九谷の心情は複雑だった。
 月へ行くことも、そこに一人残りベースキャンプを作ることも苦ではない。心苦しいのは、自分の行動を『勇気』と呼んでくれた人々への罪悪感からだった。
 九谷には、もう地球に未練がなかった。
 プロジェクトに参加する三年前、遺伝子の異常による後天性の不治の病で妻を亡くしていた。結婚してから二年後のことだった。大学で知り合い、五年間付き合った。その間ずっと幸せだった。こいつとなら、きっとこの先年老いて死ぬまで、一生上手くやって行けると思っていた。それが、たった二年で虚しく打ち砕かれるなど、誰が予想できただろう。
 九谷は全てを呪った。気づいてやれなかった自分も、治せなかった医者も、奇跡を起こしてくれなかった神さえも、あの頃は呪っていた。半ば、自暴自棄になっていたのかもしれない。
 だから、通りがかったあの場所で、偶々耳にした月への有人飛行者を募る声。そして、それに地上へのそれぞれの思いで答えることが出来ない人々を見て、だったら自分が行くべきだと思ったのだ。何かある彼らよりも、自分が行った方がきっと良いと確信して、九谷は声を上げた。幸い機械の知識を自分は持っていたから、行けると思った。それだけだった。


「私は、自分の死に場所を探していたのかもしれません」
 そう言って天を見上げ続ける九谷の瞳には、無数の星が瞬いていた。かつて、自分がその死に場所を求めた宇宙が、あの時と変わらずそこに横たわっていた。
「だから、あなたの気持ちは痛いほど良く分かる。弟さんのために、何かしたいと思う気持ち」
「……」
 ゆっくりと自分の方へ向いた九谷の視線を、ただ静かに女医は見つめていた。同じ憂いを帯びた瞳。でも、彼の方が遥か先にあると彼女は感じていた。悲しみも憎しみも超えた、先にある感情。いつか、自分もその境地になってしまうのかと思うと、急に恐怖を感じて自分の両肩を抱いた。
 その時はきっと、大切な物を失った時だ。そんなものを、彼女は望んでなどいない。
 恐ろしくて、そっと視線を外し目を伏せる。その境地に今は、引き込まれない様に。
 そんな彼女の畏怖の思いなど気づかず、九谷は話を続けた。


 地球を離れる瞬間は、恐れも高揚も何も感じなかった。分厚い宇宙服の中で、ただ体にかかる圧力に必死で耐えていた。それが不意になくなった時、やっと地上を離れた実感を持った。煩かったジェットエンジンの音が消え、規則的に響く心地良い振動が伝わって来る。打ち上げ用の第一エンジンの切り離しは、上手く行った様だった。
 閉じたまま潰されるんじゃないかと思った両目を開くと、目線の高さにある窓からいっぱいに広がる星空が見えた。
「うわぁ……!」
 一時(ひととき)、何をしにここへ来たのか忘れて広がる宇宙に見入っていた。
 遠かった星空との距離が、グッと近づいた様に感じた。確かに、そこにあると言う質量を持った現実的な光だ。
「美しい……」
 自然と感嘆のため息が漏れる。しかし、それと同時に今更ながら偉い所へ来てしまったという恐怖感も生まれていた。
「……いや。これは、私が望んで来たことだ。任務を、全うしよう」
 頭を小さく振り、興奮で離れていた腰を座席に再び落ち着かせた。顔を引き締めて、目の前の計器に意識を集中させる。
 船は順調に設定された軌道を進み、徐々に月の輪郭を浮かび上がった。
「あれが月か」
 白く丸い。地上からも良く見る姿だ。だが、その表面は大凡地上で見るよりも遥かに険しく、美しいとは言い難かった。太陽光に照らされ浮かぶのは、大小様々なクレーターと凹凸だらけの荒れた大地だ。
 船との距離から大きさと地球との距離を測る。
 距離は間違いなく地上から観測したものと小数点以下の範囲で誤差はあるものの、ほぼ一致していた。ただ一点、一致しないものがあった。大きさだ。あからさまに、地上で観測したデータよりも大きい。
「どういうことだ?」
 分厚い宇宙服の中で、九谷は眉を顰めた。
『応答願います。聞こえますか?』
 内蔵されたマイクに、管制室への通信を繋ぐため呼びかける。
 ややあってから、ザーザーと言うノイズ音と共に地上から返答があった。
『こちら管制室。何かありましたか?』
『観測していたデータよりも、大分サイズが大きいんだがどうすればいい?計画実行か?指示を頼む』
『……分かりました、暫く待って下さい』
『早急に頼む』
『了解』
 そこで通信は切れた。
 フッと息を吐き、緩々と進む船の計器をぼんやりと眺めて待った。
 妙な緊張感に、少し心が落ち着かない。
 その間も、月はどんどんと視界に広がりその存在感を増していく。
 先程までは美しいと感じた月が、今は恐ろしいと感じ始めていた。鼓動が早まり、死を覚悟しているはずの自分が、生きるために何かしなければならない衝動にかられていた。何という矛盾なのだろう。それを、頭で理解しているのに、体と心はただ焦るばかりだ。
『管制室、早急に指示を頼む』
 もう一度、マイクへ呼びかけるが、今度はザーザーというノイズが返って来るばかりで一向に繋がる気配がない。
『管制室、応答願う』
 再び呼びかける。と、今度はノイズの中に途切れ途切れの言葉が聞こえた。
『管制室、良く聞き取れなかった、もう一度頼む』
『…ザー、ザー……よて……とお……に……ザーザー』
 耳を凝らして聞き取ろうとするが、その声は断片的過ぎて全く意味が分からなかった。
「くそっ!」
 日本語で悪態をついた。
――どうする?
 管制室からの指示が仰げない以上、自分が判断して行動に移すしかない。
 焦る頭で考えた。ドキドキと耳の奥で心音が煩い。息を殺して、目を閉じた。
――落ち着け、落ち着け。どんな事態になったとしても、自分のやるべきことは一つだろう。
 一度、深く息を吸って吐いた。
「……よし」
 声を出して頷き、自分を奮い立たせた。
――思い出せ。自分はここへ何をしに来ているのか。思い出せ!
『管制室。聞こえているかは分からないが、本船は予定通り月への着陸を試みる』
 そう告げて、九谷は習った通りの着陸のため手順を実行に移す。と言っても、着陸は自動制御システムに任せるだけだ。ただ、距離が違うため、計測器で正しい距離をはじき出して修正した。
 ゆっくりと、船が回転を始めた。
 着陸は噴射口から降りて勢いを調整する。そのため、目前の小さな窓からゆっくりと月が見えなくなって行く。月に対して水平になるよう、細かい調整が幾度となく行われる。その度に機体が小さく震えた。
 視界から、完全に月が見えなくなろうとした時、不意に月が今までにないほど強い光を発した気がした。
「え?」
 それに気を取られた次の瞬間、機体を大きな衝撃が襲う。
「なっ――」
 何が起きたのか分からないまま、九谷の視界が暗転した。星の光も映らない。音も聞こえない。何も見えない。自分の体の感覚すら失い、そこで九谷の意識は完全に途切れたのだった。


「次に目が覚めると、私は水の中に浮いていました。一体何が起きたのか、全く理解できなかった。全身が痛くて動かない。ただ、防護ヘルメットの割れた隙間から入り込む風と空気、それに潮の香で、そこが海の中だと辛うじて分かりました」
 そう言うと、九谷は苦笑を浮かべた。
「最初はね。月の海に落ちたんだと思ったんです。どう考えても、船は月の方が近かったから。だから、ああ、月にも地球と同じように空気があって、海があるんだなって思ったんですよ。面白いことに」
「それは……確かに、そう、思うかもしれないわね。その状況では」
 同意はしたが、女医の表情から訝しむ様子がありありと見てとれた。
「ええ、でもすぐに違うと気づきました。空に太陽があったんです。その大きさが、地球から見える太陽とかわりませんでした。それに、青空があるのもおかしいと思いました。着陸前に観測した月のデータに、大気の存在は認められなかったから。百歩譲って月の表面下に落ち。そこに空気があり、海があったとしても、青い空と太陽はないと思いましたから」
「なるほど。じゃあ、不思議なことに、あなたは月の傍で起きた何かのトラブルで、地球の海まで飛ばされた。といことになるのね」
 女性の言葉に、九谷は頷いた。
「ええ。凄い確率ですけどね。それに気づいた時、人類の滅亡を覚悟しましたよ。死にたかった私が一人生き残り、他の人々が死ぬなんて、なんという皮肉な運命だとも思いました」
 そう言うと、九谷は自嘲気味に顔を歪めた。
「その後は、痛みと疲労でまた気を失って、気がつくと海岸に打ち上げられていました。その時には空腹と痛みと疲労で意識が朦朧としていたようで、正直自分でも何をしていたのか覚えていません。四度目に目が覚めた時は、あなたたちに助けられて病院のベッドの上でした。外的及び精神的様々なショックのせいか、一時的に私は全ての記憶に蓋をしていたようです」
「本能的な自己防衛が働いたのかもね。弱った体を、まずは治そうと余分なことは排除したのかもしれないわ。生きるために」
「生きるために、か」
 女性の言葉が、九谷の胸中を一層複雑にした。
 死に場所を探していた自分が、生きるために全てを忘れる選択をするなんて。それは酷く滑稽に思えたから。
「私の話はここまでです。後はあなたたちに会って今に至る」
 喋り過ぎて疲れたのか、ふぅと息を吐き手摺へと体を預け項垂れた。その横で、女性は腕を組み何かを考え込んでいる様だ。
「なるほど。確かに、多くの人が死に絶えた根本的な原因は分らないわね。ただ、それが起きた原因が月にあったことだけは確かだわ」
「どうしてそう、思うんです?」
 顔を上げて尋ねた九谷に、女性は真っ直ぐに目を向けた。
「“光”よ。あなたが最後に見た月は、強い光を放っていたのよね?」
「ええ。チラッとしか見えませんでしたが、確かに光っていました。月は太陽の光を反射して光っていると習っていたので、おかしいなと思ったんです。でも、それがどうして関係あるんですか?」
 興味深げに、九谷も女性の意見へ耳を傾ける。
「私の弟が、昏睡状態の時に呟いていたのよ。『光が、光が』って何度も何度も。それで、もしかしたらその光が地上に届いて世界に降りそそぎ、今回の事を引き起こしたのではないかって、今ふと思ったの。どうかしら?この仮説。九谷さんはどう考える?」
「なるほど。光、ですか。でも、あなたには特に変わった様子は見受けられないようですが?弟さんと、同じ光を浴びたんですよね?」
 女性の頭からつま先まで、九谷は不思議そうに眺めた。病室で記憶がない間に何度か聞いた弟の症状が、彼女に一致する点は一つも見つからなかった。
「……私は、その時大学の地下施設にいたの。あそこは取り組んでいる研究の内容から、通常壁も通り抜ける目に見えない流れも、全て遮断する特殊な構造になっているから」
「なるほど。となると、ありえるかもしれませんね。ただ、その光が一体何だったのか、調べる術が今の私にはありませんが。……あるいは、プロジェクトがあった管制センターに行けば、何かデータが残っているかもしれません」
 不意に湧いた希望に、女性の表情が明るくなる。
「それは、何処にあるの?」
 平常心を保ちつつ、食いつき気味に聞いた女性に、九谷はすまなそうにその名を口にした。
「ロシアです。ロシアのモスクワ、スターンシティの近く。とてもじゃありませんが、今の我々には辿り着けないと思います」
 九谷に告げられた都市の名前に、女性の表情は落胆のそれへと変わる。
「……遠いわね」
「そうですね。今ある移動手段で行くとなると、それこそ数か月…いえ、悪くすれば年単位になってしまうかもしれません」
「それではダメだわ。間に合わない」
 そう言って、女性は悔しげに唇を噛み締めた。
 それが、女性の大切な人の病状を言っていることを察した九谷は、自分のことのように悲しみとやるせなさが胸に広がって行くのを感じた。それと同時に、何もできない自分に怒りを感じていた。妻を救えなかった、あの時の自分と同じ思いを、また彼女にさせなければならないことに。
――何か、自分にできることはないだろうか?
 それぞれの思いに沈み込む二人の間を、優しく春の夜風が吹き抜けていった。

  * * * * *


 その日の天気は快晴で、絶好の天体観測日和となった。
「も、ちょっと!歩くの早いよ、二人とも!俺、観測用の機材をいっぱい持っているんだからさ、もうちょっと、ゆっくり歩かない?」
 肩に担いだ三脚を背負い直し、俺は先を歩く二人の背中へ声をかけた。片手に持っていたカメラ機材からカタリと音が響き、少し慌てた。音からして、多分大丈夫だろう。とは思う。紺色のポロシャツの両肩は、まだ春先だと言うのに汗でじんわりと湿っていた。
「あ、ごめん。笠間くん」
「何言っているんだよ。これくらい普通だろ?」
 振り返り、羽織ったジャケットの裾をはためかせながら、走り寄って来てくれた高取さん。一方、智也はちらりと視線を送ってため息をついただけだった。
 智也め…後で覚えていろよ。
「えっと、何か持とうか?」
 俺の持つ機材を眺めながら、そのどれも重そうな機器に遠慮がちに高取さんが申し出る。
「いや、良いよ。気持ちだけ受け取っておく。有り難う、高取さん」
 重かったが、申し出は丁重に断った。そもそも、女子に持たせるような重さではない。それに、彼女だってすでにリュックや今日の昼と夜の三人分の食事を詰めた、バスケットを持っている。リュックを背負って、両手が自由なのは智也の方だ。ちなみにお昼は、登って来る途中で既にご馳走になっていた。非常に美味しくて、高取さんのまた別の一面を見れた気がして、一人浮かれてしまった。
 すまなそうな表情で横に並んで歩く高取さん。歩調を緩め、俺に気を使ってくれる彼女の爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいな。智也に。
「でも、晴れて良かったね。雲もないし、こういう日はやっぱり星とか良く見えるの?」
「うん。今日はとても良い日だと思うよ。凄く良く見えると思う」
 俺の言葉に、高取さんの顔がパッと輝く。
「そっかー。益々楽しみになって来たなぁ」
 期待に胸膨らませる高取さん。早まる鼓動が山登りのせいなのか、隣を歩く彼女のせいなのか今の俺にはどちらでも良かった。
 登山用のロングパンツに、ジャケントの中は半袖シャツだろうか。トレッキングハットを被り、トレッキングシューズを履いている。いつもセーラー服か運動用のジャージ姿しか見たことがなかった俺には、新鮮だった。全てが良く似合っている。むしろ、いつもよりも輝いて見えるのは惚れた弱みというやつだろうか。
 各いう俺は、いつも通りポロシャツにジーパンだ。靴だけはハイキング用をきちんと履いている。帽子は撮影の邪魔ですぐ脱いでしまうため、被らない。
 こんな所でも差が出るなんて思わなかった。俺なんかが、隣を歩いていて大丈夫かなと不安になってしまう。
 そんなことを悶々と考えている内に、いつの間にか頂上に辿り着いていた。
「おーい。遅いぞ、君たち」
 先に着いた智也が、頂上入口でこちらに向かって手を振っている。
 ジーパンにトレッキングシューズ、ナイロン製のフード付きジャケントを羽織っていた。中はTシャツだろうか。俺は暑くてジャケットは既に脱いでいるというのに、きっちり上までファスナーを閉めている。見ているこちらは、暑苦しくてたまらない。
「そう思うのなら、荷物を持って、頂きたいんですけど……」
 苦しい息の下、ムッとしてぼやいた言葉に、高取さんが苦笑を浮かべた。
 怒りをバネに登り切り、ようやく頂上へと立つ。上がった息を、深呼吸することで何とか整えた。最近家で月の観測ばかりしていたせいか、体がいつもよりも鈍っているようだ。思っていた以上にいう事を聞かない。
 そんなことを考えながらふとリュックの紐を握る自分の手を見て「おや?」と思った。いつも以上に、節くれだち指に皺が多いように感じた。心なしかサイズも少々大きい。手を離し、平を見てみたが、いつもと変わらない自分の手の平だった。再び甲へ返してみると、それは節くれだってはいるが、いつもの色白い張のある自分の手があるだけだった。
「???」
 その後、何度かひっくり返してみるも、何の変化も見られなかった。
「どうかしたの?笠間くん」
 足を止めた俺を不思議に思ったのか、高取さんが一歩でた先で振り返りこちらを見ていた。
「あ、いや。何でもない」
 それに首を横に振ってへらりと笑い、何でもないように智也の元へと向かった。
 きっと寝不足と疲れがたたって、一瞬幻でも見てしまったのだろう。
 そう自分に言い聞かせ、思考を変えようと周囲へ視線を巡らせた。
 そこはちょっとした広場のようになっていた。広場の半分が開けていて、丸太を半分に斬った椅子に、同じく丸太を短く切った物を足にしたベンチが二個ほど置かれていた。崖側は杭を打ち、落下防止用の縄が手摺のように端にぐるりと張られている。その向こうでは、重なる山々が沈み行く夕陽に赤く照らし出されていた。開けていない半分は、鬱蒼とした森が斜面に沿って広がっている。
「うわぁー。綺麗……!」
 感嘆の声を上げ、高取さんが縄の方へと数歩歩み寄る。
「ほんと、綺麗だよなぁ」
 その少し後ろに立って、智也もその景色に見とれていた。
 俺も景色に見とれたかったが、時間的にそうも言っていられない。今日は星空観測のため、一晩テントを張ってここに泊まるのだから。
「見とれているところ、申し訳ない。暗くなる前にテントを張ってしまいたいから、二人とも手伝ってくれないかな」
「あ、ごめんなさい」
「了解、今行く」
 振り返り、それぞれ頷いた。
 リュックを降ろし、中からテントを取り出す。場所は木の間の平らな場所を選んだ。支持を出しながら、三人で二つのドーム型テントを立てた。一つは俺が背負って来た二人用。もう一つは智也が背負って来た一人用だ。どうせなら、二人用を智也のリュックに詰めてやればよかった。
 最近のテントは初心者にも優しい設計になっているうえ、二人の呑み込みが非常に良かったので割と短時間で設置が完了した。とはいえ、夕陽は沈み辺りは既に薄暗くなってきていた。
 急いでランタンを何個か設置し、灯りを確保する。
「まずは夕食だな」
「おにぎりとおかずは作ってきてあるよ?」
 腰に手を当てて言う智也に、高取さんが持っていたバスケットをちょっと持ち上げて見せる。
「じゃあ、何か暖かいスープでも作ろか」
「え、アキラ、お前料理とかできるの?」
 驚く智也に、インスタントの味噌汁をヒラヒラと振って見せた。
「あ、なるほど。それね」
「別に、料理が出来ない訳じゃないぞ。台所以外で作るのが、なんか苦手なんだよ」
 負け惜しみの様に言うと、ポンと智也が手を叩く。
「あ、そっか。アキラはほぼ自炊だったな」
「自炊どころか、もうほぼ家事全般こなせますよ。時々、姉のピンクのエプロンを付けている自分が、悲しくなることもあるけどな」
 姉の茜はほぼ研究のために大学に入り浸りのため、二人暮らしの家の家事諸々は俺が行っている。そのため、近所のおば様方からは「アキラくんは、立派な主夫になれるわね~」と良く言われてしまっている。
 それでも昔、俺が幼い頃は姉さんが全てこなしてくれていたのだから、今の状況でも頭は上がらない。
「でも、家事ができる男の子って良いと思うよ。むしろ、今時はできる方が断然良いって」
 遠い目をする俺に、高取さんの励ます声が聞こえて一気に気分が上昇した。
 ほんと、自分自身でも単純すぎるだろうと呆れてしまう程、呆気なく。
「そ、そうかな?」
「そうだよ。絶対良いよ!」
 拳を握って力説する高取さん。その可愛らしさについつい顔が赤くなる。
 今なら照れていると勘違いされて、変には思われないだろう。
「そうだよなぁ。七穂は家事全般てんでダメだもんなぁ。誰かにやってもらわないとな」
「そんな事ないわよ!ちゃんとお母さんに習って、少しずつできて来ているもの!」
 いつものようにからかわれ、高取さんの視線はあっという間に智也へと向いてしまった。
嫌なものを含んだ重みが、緩々と俺の胸に広がって行く。
そんな事を、思ってはいけない。嫉妬なんて、二人の今までの関係上、これは自然な遣り取りなのだと自分に言い聞かせた。
 燻る感情を振り払うように、お湯を沸かすための用意を始めた。
 折り畳み式のカセットバーナーを取り出し、小さめのガスボンベを取り付ける。一人で使うコンパクトなケトルを取り出し、ミネラルウォーターを注いで火にかけた。
「あ、焚火で沸かすんじゃないんだね」
 言い合いが終わったのか、高取さんがしゃがむ俺の横に並び中腰で覗き込んできた。
「あ、うん。こっちの方が色々と早いから」
 急に接近され、情けない事に一瞬手元が震えてしまった。
 それを誤魔化すように、何とか笑みを浮かべて答えた。
「へぇー。そうなんだ。あ、でも、後で焚火はしたいな」
「うん。そうだね。焚火と星空のコラボも中々綺麗でいいよ」
 高取さんの希望に、俺も賛同する。
 そうこうしている間にお湯が沸き、俺たちは少し遅めの夕食を取った。
 夕日は完全に沈み、もはや周囲は宵闇に包み込まれていた。その闇の中に、幾億という星々が光瞬いている。キラキラと輝くそれらを呑み込んでしまいそうな月が、どっしりと空の一部を占領していた。その大きさは、明らかに通常の月の二倍になっていた。
「うわあ、今まで気づかなかったけど、月ってこんなに大きくなっていたんだ……」
 空を見上げ、高取さんが驚きの声を上げた。
「本当だな。俺も、アキラがいつも気にしていたから、それとなく見ていたけど…ここまで大きくなっていたのは知らなかったな」
 智也も空を見上げ、目を瞬かせている。
「普段は空の光よりも、街の灯りの方が明るいからね。中々気づき辛いんだよ。でも、こういう周りに灯りが一切ない所に来ると、それが凄く目立つんだ。だから、本当は毎日こういう所に来て、観測したいんだけどね。俺としては」
「確かに、その方が良いだろうし体力がつくという面でもいいけど、そうなる前にぶっ倒れるから止めておきなさいよ、アキラくんや」
 智也の的確な指摘に、それ以上何も言えなかった。
 けど、数万年に一度とか、数億年に一度とか、そんな事を聞いてしまうと綺麗な写真で残したいとどうしても思ってしまうんだよな。
 まあ、それは置いておいて。本日の月の記録と天体写真の撮影だ。
 いそいそと三脚を立て、カメラケースからデジタル一眼レフを取り出しセットする。
「わ、本格的だね。私なんて、普通のデジカメだよ」
 三脚上のごついカメラに、自分の持つデジタルカメラを並べて比べる高取さん。
「十分だよ。最近のデジカメなら、大体夜空も綺麗に撮れるから。俺の場合は、写真部に提出する写真を撮らないといけないから、中古で手に入れたんだ。部員の中にはもっと凄い本格的なものを持っているやつもいるよ」
「うーむ。写真部恐るべしだわ」
 感心したように呟く高取さん。
「デジカメ持って来ただけ偉いよ、七穂は。俺なんて、完璧にアキラの作業見学と星空見物する気満々だったから、何も持って来てないぜ。あるとすれば、スマートフォンのカメラぐらいだな」
 そう言って、智也が俺の用意した折り畳み椅子に腰かけたまま、片手でスマートフォンを振った。
「何よもう。折角来たのにやる気ないわね」
「じゃあ、智也にはスマートフォンで出来るだけ綺麗に撮れる方法を、レクチャーしておこうか?」
 そう言って立ち上がった俺に、智也は何も持っていない方の手の平を振る。
「いや、良いよ。俺はこうして、満点の夜空の下、暖かいコーヒーをゆったりと啜っているだけで満足だから。七穂にデジカメで綺麗に撮る方法でも、レクチャーしてやれよ。いやあ、受験、受験でずっと心休まる時期が余りなかったからなあ。すっごいホッとするわー」
 じじ臭いこと言って、ホッと天に向かい息を吐く智也。
 確かに、早春の今頃は寒くもなく、かと言って暖か過ぎることもなく絶好のキャンプ時期だと言える。
「なに年寄臭いことを言っているのよ」
 高取さんの口から同じ感想が飛び出し、俺は苦笑を浮かべた。
「それじゃあ、智也じいちゃんは放って置いて、高取さんに綺麗に撮れるコツを教えるよ」
「あ、うん。お願いします!」
 パッとこちらを振り返った彼女へ近づこうと、体の向きを変えた時だった。
 ガッと自分の肘がカメラに当り、大きく三脚が揺れた。
「あ、っと!」
 慌ててそれを受け止めようと、カメラの方へ体を捻って手を伸ばした。
「れ……?」
「笠間くん?!」
 高取さん叫ぶ声を、傾く視線と共に聞いた。
 無理な姿勢から体を捻ったせいか、足がもつれ俺は地面へと倒れていた。
 視界いっぱいに夜空を捉えながら、ガシャンとカメラが倒れる音を聞いた。傷がついたか、最悪破損したかと覚悟する間もなく、頭に軽い衝撃を受け目の前が一瞬真っ白に染まる。
「……」
 何度か瞬くと、視界はすぐに元に戻った。後頭部から、じわじわとした鈍い痛みが伝わる。
 ふと、視界に広がる夜空がおかしなことに気がついた。
 先程まで、あれほどその存在を主張していた白い大きな月が、何処にも見当たらない。
「あ……れ?」
 ポツリと呟いた瞬間、フッとその視界いっぱいに高取さんの顔が映った。
「大丈夫?笠間くん」
 心配そうな声とは裏腹に、その表情が何となくいつもより硬いように感じてしまった。
 表情を作ろうとして、上手く行っていないような。
 どうしてそう感じてしまっているのか、自分自身でも訳が分からず呆然とその顔を見つめた。
「……笠間くん?」
 反応のない俺の額に、そっと高取さんが触れて来る。
 一瞬視界が手の平に閉ざされ、それに合わせてゆっくりと瞬きをした。
「おい、アキラ。大丈夫か?打ち所が悪かったのか?」
 智也の声と共に、額から人の温もりが去る。再び開けた視界に映った高取さんの表情は、いつもと変わらないものだった。眉をよせ、心配そうな顔が二つ。どちらも、俺の良く知っている二人の顔だ。
「……ああ、ちょっと頭を打ったかも。ズキズキする」
 そう言いながら、ゆっくりと上体を起こした。
 高取さんがそっと支えてくれる。
「おい、おい。本気で体力落ちているんじゃないのか?アキラ。こんなことでずっこけて、頭を打つなんて……」
 悪態をつきながらも、智也はホッとしたように胸を撫で下ろしていた。
「ごめん。そうかもしれない」
 それにへらりと笑って返せば、高取さんもやっと安心したように笑みを浮かべた。
「あっ!そうだ、カメラ?!」
 ハッとして辺りを見渡すと、俺の隣で三脚事横倒しになったカメラがあった。
 慌てて這いより、傷の具合を確かめる。幸い、横向きで倒れたため、レンズに破損は見当たらなかった。少々横っ腹に傷がついたが、カメラが壊れてさえいなければ問題はない。
 何度か夜空に向けてシャッターを切る。
 一覧を呼び出し確認すると、そこには以前のデータも先程取った写真も綺麗に残っていた。
「よ、良かった。何ともないや」
 安堵した俺のカメラの中で、白く美しい月が満点の星空と共に輝いていた。


 告白まで、あと三日。

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