第4話 引き金
文字数 1,356文字
1853年6月3日、早朝の浦賀。
家々から炊事の煙が上がり、漁民たちが、浜辺で、漁の準備をしている頃、
海上を覆う霧(きり)の奥から、巨大な軍艦が、次々と現れた。
すでに沖に出ていた舟が、軍艦の立てる白波で、木の葉のように舞っている。
軍艦は、甲冑をまとっているように、黒い鉄で覆われて、濛々(もうもう)と黒煙を吐いている。
漁民たちは、漁の道具を打ち捨てて、転がるように駆け上がってくる。
「みんな、逃げろぉ〰〰!化け物だぁ〰〰!!」
浦賀町は、一気に大混乱に陥った。半鐘が狂ったように打ち鳴らされ、逃げ出そうとする人たちで、道は混雑を極めた。怒号や罵声が飛び交い、大八車がひっくり返る音や子供の鳴き声が、混乱に拍車をかけた。
逃げていく人々の波を掻き分けて、必死に、海に向かっている男がいた。男は、突き飛ばされ、小突かれしながら、何とか前に進んでいく。そんな中、取り乱して、誰かを探している女性の姿が、男の目に入った。
「邪魔じゃ!どけ!」
女性は、誰かに突き飛ばされて、転がるように倒れた。人波は容赦なく、迫って来る。
男は、飛び出して行って、倒れた女の上に被さった。男の背中を、鈍い衝撃が走った。その後から来る人間は次々と将棋倒しに倒れ、あたりは土煙に包まれた。
「誰か、お探しですか?」
男は、女性を立たせながら、尋ねた。
女性は、思い出したように、うろたえ、泣きながら訴えた。
「子供がいないんです!さっきまでいたのに、人波にのまれてしまって・・・」
男は、女性を、家の軒先に連れて行った。
「ここで、待っていてください。僕が、探してきますから」
そう言うと、男は、人波に飛び込んで行った。
女性は、ぼんやりと、男の消えた方を眺めていた。すると、そこから、再び男が姿を現した。
男は、頭を搔いている。
「子供は、男の子ですか女の子ですか?」
女性の顔に、失望の色が広がった。
「女の子です。5歳です」
「承知しました」
それを聞くと、男は再び、人ごみの中に消えて行った。
女性は、しばらく、軒下で待っていたが、男が帰って来る気配はない。
こうしているうちにも、町民はどんどん逃げて行ってしまう。子供はきっと、この人波の向こうで、泣いている。
そう考えると、女性は居ても立ってもいられなくなり、人波の中に、足を踏み出そうとした。
その時、人ごみの中から、先ほどの男が、女の子をだっこして、現れた。
「このお嬢さんですか?」
男にだっこされた女の子は、まぎれもなく、女性の子供だった。
「ふみ!」
女性は、駆け寄ってくると、女の子を抱え上げ、思い切り抱きしめて、頬ずりをした。
それから、地面に頭をつけた。
「ありがとうございます。なんとお礼を言っていいのか・・・」
「お手をお上げください」
女性が顔を上げると、目の前で、男はにっこり笑っていた。
「当たり前のことです。子を思う親心は、何より大切ですから」
そう言うと、男は立ち上がって、膝をはたいた。
「さて・・・」
女性も、女の子を抱いて、立ち上がった。
「お名前を、お聞かせ願えないでしょうか?」
男は、頭をかいた。
「吉田です。吉田寅次郎っていいます」
そう言うと、寅次郎は、女の子の頭を撫でた。
「それじゃ、ふみちゃん。元気でね」
寅次郎は、三度、人波の中に飛び込んで行った。
家々から炊事の煙が上がり、漁民たちが、浜辺で、漁の準備をしている頃、
海上を覆う霧(きり)の奥から、巨大な軍艦が、次々と現れた。
すでに沖に出ていた舟が、軍艦の立てる白波で、木の葉のように舞っている。
軍艦は、甲冑をまとっているように、黒い鉄で覆われて、濛々(もうもう)と黒煙を吐いている。
漁民たちは、漁の道具を打ち捨てて、転がるように駆け上がってくる。
「みんな、逃げろぉ〰〰!化け物だぁ〰〰!!」
浦賀町は、一気に大混乱に陥った。半鐘が狂ったように打ち鳴らされ、逃げ出そうとする人たちで、道は混雑を極めた。怒号や罵声が飛び交い、大八車がひっくり返る音や子供の鳴き声が、混乱に拍車をかけた。
逃げていく人々の波を掻き分けて、必死に、海に向かっている男がいた。男は、突き飛ばされ、小突かれしながら、何とか前に進んでいく。そんな中、取り乱して、誰かを探している女性の姿が、男の目に入った。
「邪魔じゃ!どけ!」
女性は、誰かに突き飛ばされて、転がるように倒れた。人波は容赦なく、迫って来る。
男は、飛び出して行って、倒れた女の上に被さった。男の背中を、鈍い衝撃が走った。その後から来る人間は次々と将棋倒しに倒れ、あたりは土煙に包まれた。
「誰か、お探しですか?」
男は、女性を立たせながら、尋ねた。
女性は、思い出したように、うろたえ、泣きながら訴えた。
「子供がいないんです!さっきまでいたのに、人波にのまれてしまって・・・」
男は、女性を、家の軒先に連れて行った。
「ここで、待っていてください。僕が、探してきますから」
そう言うと、男は、人波に飛び込んで行った。
女性は、ぼんやりと、男の消えた方を眺めていた。すると、そこから、再び男が姿を現した。
男は、頭を搔いている。
「子供は、男の子ですか女の子ですか?」
女性の顔に、失望の色が広がった。
「女の子です。5歳です」
「承知しました」
それを聞くと、男は再び、人ごみの中に消えて行った。
女性は、しばらく、軒下で待っていたが、男が帰って来る気配はない。
こうしているうちにも、町民はどんどん逃げて行ってしまう。子供はきっと、この人波の向こうで、泣いている。
そう考えると、女性は居ても立ってもいられなくなり、人波の中に、足を踏み出そうとした。
その時、人ごみの中から、先ほどの男が、女の子をだっこして、現れた。
「このお嬢さんですか?」
男にだっこされた女の子は、まぎれもなく、女性の子供だった。
「ふみ!」
女性は、駆け寄ってくると、女の子を抱え上げ、思い切り抱きしめて、頬ずりをした。
それから、地面に頭をつけた。
「ありがとうございます。なんとお礼を言っていいのか・・・」
「お手をお上げください」
女性が顔を上げると、目の前で、男はにっこり笑っていた。
「当たり前のことです。子を思う親心は、何より大切ですから」
そう言うと、男は立ち上がって、膝をはたいた。
「さて・・・」
女性も、女の子を抱いて、立ち上がった。
「お名前を、お聞かせ願えないでしょうか?」
男は、頭をかいた。
「吉田です。吉田寅次郎っていいます」
そう言うと、寅次郎は、女の子の頭を撫でた。
「それじゃ、ふみちゃん。元気でね」
寅次郎は、三度、人波の中に飛び込んで行った。