第5話 真剣

文字数 1,426文字

 吉田寅次郎が、望遠鏡で、海の向こうを、一心不乱に覗き込んでいる。望遠鏡の円の中には、巨大な黒船が収まっている。
 寅次郎は、望遠鏡を目から離すと、懐紙を取り出して、筆で図のようなものを描きながら、何やらブツブツ、つぶやいている。
 寅次郎の傍らには、先ほどから、一人の男が立っている。
 男が、寅次郎の傍に立ってから、しばらく時間がたっているのだが、寅次郎は全く気付いていない。男の方も、黒船観察に夢中な寅次郎を、黙って、見守っている。
 寅次郎が、筆を筆入れに戻し、懐紙を懐中にねじ込んで、望遠鏡をその左目にあてた時、男は、やっと口を開いた。
「吉田君、感想はどうだね?」
 寅次郎は、望遠鏡を目に当てたまま、答えた。
「宮部さん、こいつは、凄いですよ。長崎で読んだ書物に出てくる軍艦より、はるかに大きい」
 宮部鼎蔵は、苦笑した。
「君は、まるで、黒船を褒めているようだ」
 寅次郎は、望遠鏡から目を離して、折りたたんだ。
「日本で一番大きい船って、菱垣廻船でしょう?」
「そうなのか?」
 宮部は、苦笑を続けている。
 寅次郎は、そんなことには、お構いなく、話を継いだ。
「菱垣廻船は大きくて30メートル。あいつは、ざっと78メートルあります。しかも、大砲を積んでる」
「何が言いたい?」
 寅次郎は、宮部を見つめた。
「日本は勝てません」
「な!?」
 色をなした宮部から、目を離さず、寅次郎は続けた。
「今のままでは、です」
 宮部は腕組みをして、遥か海上に浮かぶ、黒船を睨みつけた。
「私は、そうは思わないな」
 寅次郎は、不思議そうに、宮部の横顔を、眺めている。
「宮部さんは、どうされるおつもりですか?」
「大船がなくても、日本には、小舟がたくさんある。大船は、小回りがきかん。小舟をありったけ集めて、かく乱すればいい。そうすれば、交渉も有利に進められるだろう」
 寅次郎は、ポンッと手を打った。
「それはいい!」
 宮部は、意外な顔をした。
「お前も、それでいいのか?」
 寅次郎は、首を振った。
「僕は、別の方策を考えています。でも・・・」
「なんだ?」
「見識は、実践して初めて、意味があります。机上だけでは、何も変えられない。
だから、進む道は違っても、実践するのであれば、みな同じだと思うんです!」
「寅次郎、顔がちかい」
 宮部は、話しながら寄せてくる、寅次郎の顔を、押しのけた。
「それで、宮部さんは、いつ決行されます?」
 意表を突かれた宮部はうろたえた。
「いや・・・決行?・・・ま、まだ、これから舟を集めたり、同志と話し合ったり・・・準備があるから、いつとは、まだ決まっていないのだが・・・」
 寅次郎は、じっと宮部を見つめている。
 その目に責められている気がして、宮部は、少し苛立った。
「では、君は決行する日が決まっているのだな」
 寅次郎は、にっこり笑って、うなずいた。
「はい、今晩」
 宮部は、びっくりした。
「待て、吉田君。今晩とは、性急に過ぎるぞ」
「しかし、時がありません」
 しばらくの沈黙の後、宮部は、恐る恐る聞いた。
「君は、一体、何をしようとしているのだ?」
 寅次郎は、沖に停泊している戦艦を、指さして、言った。
「黒船に乗って、アメリカに行きます」
「はあぁぁ〰〰?!」
「だから、黒船がアメリカに帰ってしまう前に、乗り込まないといけないんです。
宮部さん、手伝ってください。」
 宮部は、あっけにとられて、開いた口が塞がらなかった。混乱する頭の中で、なんとか、宮部は言葉を、絞り出した。
「無理」
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