第2話 偉大な兄

文字数 1,045文字

 吉松淳蔵の私塾は、萩城下の平安古にあった。この塾は、城下で最も有名であり、大組士から軽輩まで、身分を問わず、多くの若者が通っていた。
 13歳の久坂義助もまた、吉松塾で学ぶ学生の一人だったが、すでに、萩中にその名を知られる程の秀才ぶりを発揮していた。師の吉松も、「これほど頭の良い子は見たことがない」と感嘆の声を上げる程だった。
 義助が生まれた久坂家は、長州藩毛利家に代々仕える医家だった。父の良廸は、勤勉実直な人柄で、藩主毛利敬親の信任も厚かった。義助は、当然、この父を尊敬していたが、それにも増して尊敬している人物がいた。それは、尊敬というより、崇拝と言った方が正しいかもしれない。
 その人の名を、久坂玄機という。
 義助より20歳年長のこの兄は、長州藩随一の逸材と言われた。
 玄機は、大阪にある緒方洪庵の適塾で蘭学を学び、塾頭を務める程の見識を持っていたが、その念頭には常に国防の二文字があった。
 玄機は、常々、玄瑞に、「私が蘭学を学ぶのは、西洋に憧れているからではないんだよ。」と言っていた。
 玄機の本意は、日本より優れている西洋列強の軍事を学んで、いずれ、国外に進出することにあった。それこそが、日本を西欧列強から守る唯一の手段だと考えていた。
 この思考方法は、幼い義助に深い感銘を与え、後々まで彼の思想の柱となるのだが、それはまだ、先の話である。
 話を現在に戻そう。
 義助は、吉松淳蔵の前で、縮こまって正座している。
 目の前では、吉松が、せわしなく煙草を吸っては、煙を吐いている。義助を見つめる目は、厳しい。
 長い沈黙を破って、吉松が口を開いた。
「なぜ、あの小僧をかばって、嘘までついたのだ?」
 義助は、うつむいたまま、何も言わない。
―よく分からないけど、瞬間的に、助けてやらなくちゃいけないって、思ったから、なんて言ったところで、分かってもらえないもんな
 吉松は、煙管を盆に叩いた。その音が、静まり返った室内に、響いた。
「いいか、義助。お前は、前途有望な若者だ。私が、これまで教えてきた生徒の中でも、頭抜けている」
 義助は、顔を上げた。
「だからこそ、学を修めるだけではなく、精神も鍛錬してほしいのだ。間違っても、人を騙すような真似をしてはならない。まっすぐに、誠実でなければ、人の信用は得られない。将来、大成しようと思うならば、このことを忘れてはいけない」
 義助は、吉松の目をじっと見たまま、口をきつく結んでいる。
―大成
 義助の目には、颯爽と歩いていく玄機の背中が、映っていた。
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