第8話 喪失

文字数 963文字

 久坂玄機は、意見書を、書き続けていた。
 睡眠は、わずかしか取らず、食事も、自室に運ばせていた。しかも、食事には、手のついていないことが、しばしばだった。
 義助が、玄機の部屋の前で、息をひそめて、聞き耳を立てていても、筆が紙の上を走る音は、途絶え気味になっていった。代わりに聞こえてくるのは、玄機の、唸るような声ばかりだった。
 ―兄上が、苦しんでいる
 そう考えると、義助の胸は、痛んだ。そして、尊敬する兄を苦しめる、ペリーへの憎悪を、さらに、燃え上がらせていった。
 父の良廸(りょうてき)は、最初こそ、藩から、意見書提出の命が下ったことを、喜んでいたが、この頃になると、しきりに、玄機の体を、心配するようになっていた。もともと、良廸は、玄機が、医業以外の分野に、手を出すことに反対だった。職務に実直な良廸は、家業がおろそかになることを、心配していた。
 玄機は、大阪で、蘭学の大家と言われる、緒方洪庵の主宰する適塾で、塾頭を務める程、蘭学に熱中していた。さらには、蘭学を修めていく中で、日本を取り巻く現状を知り、国防の必要性を、ひしひしと感じていた。
 そんな玄機を見て、良廸は、事あるごとに、医業をおろそかにしないように、注意を繰り返してきた。
 もっとも、玄機は、医業の分野でも、優れた功績を、残していた。当時、不治の病と言われていた、天然痘を予防するための種痘に、長州藩内で初めて、成功している。
 玄機は、休む間もなく、走り続けてきた。その卓越した才能を、酷使し続けてきたと言ってもいい。
 この日、義助は、いつものように、玄機の部屋に、朝食の膳を、運んで行った。膳を廊下に置き、障子の内側に声をかける・・・返事がない。
 何度呼んでも、返事がないので、義助は、障子を少し開けて、中の様子を、うかがった。
 部屋の中では、玄機が、文机の上に、突っ伏しているのが、見えた。
 義助は、くすっと笑った。
 ―兄上でも、うたた寝を、することがあるんだ
 義助は、もう一度、呼びかけてみる・・・それでも、返事がない・・・と、その時、義助の脳裏を、嫌な予感が、走った。
 義助は、朝食の膳を、投げ捨てて、玄機の元に、駆け寄った。
「兄上!」
 義助は、玄機の顔を、覗き込んで、凍り付いた。
 玄機の見開かれた瞳は、すでに、この世の物を、映してはいなかった。
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