第3話 暴れ馬

文字数 1,443文字

 高杉晋作は、天保10年(1839年)、萩城下の菊屋横丁で、上級武士の家に生まれた。
 高杉家は、藩主一門、永代家老などに次ぐ家柄で、戦の時には、藩主の廻りを固めるため「馬廻り」と呼ばれていた。
 父の小忠太は、有能な官吏で、藩の要職を歴任した。その小忠太の頭痛の種が、嫡子の晋作だった。
 小忠太は、晋作にも、有能な官吏であることを望んでいた。しかし、当の晋作は、学問などに、全く興味を示さない。それどころか、近所の悪ガキとつるんで、悪戯ばかりしている。
 先日も、萩城下で塾を主宰している吉松淳蔵から、苦情を申し入れられたばかりだった。
 吉松から、晋作ののぞきの件を伝えられた時、小忠太は、顔から火が出る程恥ずかしかった。高杉家の嫡子が、他家の風呂場をのぞき見ることなど、あってはならないことだ。
 この日、小忠太は、今度こそ性根を叩き直してやろうと、手ぐすね引いて、晋作の帰りを待ちわびていた。
 ところが、待てど暮らせど、晋作は帰ってこない。とうとう、日も暮れて、あたりは闇に包まれてしまった。
 そうなると、小忠太は、今度は、晋作の身の上が心配になってきた。
 ―まさか、辻斬りにでもあったのではないか。
 小忠太は、居ても立ってもいられず、晋作を探しに表に出た。
 しかし、出たはいいものの、晋作の行きそうな場所に覚えがない。どうしたものかと途方に暮れていると、菊屋屋敷の方角から、きゃっと女の悲鳴が聞こえてきた。
 小忠太は、一瞬迷ったが、悲鳴の聞こえた方に向かって、歩いて行った。
 すると、菊屋屋敷の裏門の前に、小さな人影が立っていた。その人影は、何かを左手にぶら下げている。ちょうど人の頭くらいの…と思ったところで、ぎょっとして、小忠太は立ち止まり、刀の柄に手をかけた。
 人影が、小忠太の方を向いた。そして、ゆっくりと歩いてくる。
 小忠太は、重心を落として、身構えた。
 少年のように小柄な人影は、臆した様子もない。無造作にぶら下げた物が、歩くたびに、前後に揺れる。それは、間違いなく、人の頭だった。
 小忠太が刀を抜こうとした時、人影の口が開いた。
「父上」
 その声は、晋作だった。
 刀の柄を握った手が、強張った。
―まさか、晋作が人を殺めた?
 「その、手に提げているものは、何だ」
 小忠太の声は、上ずっている。
 「これですか?」
 晋作は、左手を高く掲げて見せて、カカカッと笑った。
 「首です」
 小忠太は、全身から、血の気が引いていくのを、感じた。
 震える手で、地面に置いた提灯を拾って、人影の方を照らすと、不敵な笑みを浮かべた晋作が立っていた。
 左手に掲げた首を、よく見ると、それは、天狗の面だった。
「天狗めを、打ち取ってまいりました」
 そういうと、晋作は、カカカッと笑った。
 小忠太は、安堵のため息を、漏らした。
 「その面は、どこから持ってきたのだ?」
 「円政寺に掲げてあったのを、引きちぎって参りました」
 小忠太の全身から、再び血の気が引いた。
 晋作は、父の様子に気づかない。
 「夜になると、あの寺の天狗が、悪さをすると聞いたので、俊輔と退治をしに出かけたのです。ところが、俊輔の奴、途中で臆して、逃げ帰ってしまったものですから、せめて、天狗の首だけでも、拝ませてやろうと思いまして」
 小忠太は、あきらめたように、大きくため息をついた。
 「明日は、わしと一緒に、肝試しに行こう」
 「まだ、天狗がいるのですか?」
 小忠太は、頭を振った。
「天狗などより、はるかに恐ろしいぞ。今度は、たこ坊主だ」
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