第三章 生存から生存者へ
文字数 5,670文字
1
何日かぶりにメアリーは意識を取り戻した。最初はかすかな光だったが、やがて確実に強くなっていく内なる光に優しく揺り起こされて、彼女の生命はしっかりとその下に存在を繋ぎ止めたのだ。まるで暗く寒い森の中を遭難者として彷徨っていて、すべてが心細かったのを、行く手にみすぼらしい小屋が現れその主人が暖炉を焚いて歓迎してくれる、そんな気持ちで迎える鮮やかな覚醒だった。
しかしそれにしても、寝入ったときとは全然見当違いな場所にいることにメアリーは驚いた。ここは確か、幼い頃よく戯びに訪れたオリヴィアの家ではなかったか。
「おはよう。メアリー、そろそろ何か食べない? こんなに長いあいだ何も食べてないと、病気になってしまうわよ」
混乱したまま臥所から身を起こしたメアリーに、親友であるオリヴィアが気さくに話し掛ける。最後に会ったときより少々痩せているように見えたが、どうやら彼女は「疲れ病」にはかかっていないらしい。せっせと床を掃き掃除などしている。その元気な様子にメアリーはほっとした。
「あ……お願い」
頭の中でぐるぐると渦巻く疑問をどうしようかと迷っているうちに、料理が運ばれてきて、会話は一旦途切れた。黙々と手を止めず食べ続けなければならないほど、メアリーは自分でも気が付かないほど空腹の状態にあったのだから。
「オリヴィアは、病気は大丈夫なの?」
食べ終わってから後、心配からメアリーがそう尋ねた。
「私は大丈夫だし、あなたも多分大丈夫、もう治ったのよ」
オリヴィアはあっさり答える、その主張をメアリーはすぐには信じることができない。
「治った?」
「うん。だって、気分悪くないでしょう? こんなにいっぱい食べたんだもの。ほら、顔がソースで汚れてるわよ」
そういって母親のようにメアリーの顔を拭いてやるオリヴィアの様子は、以前よりどこか大人びているように感じられ、メアリーは少し面食らった。
「あ、うん。ありがと……」
「どういたしまして。ねえ、メアリー、またあなたの声が聞けて嬉しいな。本当にそう思っているの」
そう言ってオリヴィアは微笑む。しかし泣きそうな顔で、そのことにあとでみずから気付いて苦笑した。メアリーは応じる。
「あたしもオリヴィアが元気で嬉しい。でも、これってまるで奇跡みたい、あたしの病気が治るなんて。神様が助けてくださったのかしら?」
するとオリヴィアはそれを突き放すように、
「きっと神様は、私たちのことを助けてくださるつもりなんて無いんじゃないかと思うわ」
そう意見を述べるのみだった。
そんな会話の拍子、ふと疑問に思っていたことがメアリーの口から自然と洩れた。
「ところでオリヴィア、あなたのお母さんは?」
発してすぐ、メアリーは自分の過ちに気づかざるをえなかった。もしもオリヴィアの母親が病気に罹ってしまっていて、剰えであったら、それはとても残酷なことではないか。しかしオリヴィアは別段悲しむような様子も見せず、不可解なことばを口にした。
「知らない? 魔女のこと」
「え?」
「この村で魔女が処刑されたのよ」
「……知らない」
「……お母さんは居ないの。きっとメアリーは臥せっていたから知らなかったのね。いいわ、全然気にしないで。私たちふたりとも親を失くしちゃったの。残念だけど受け入れるしか無いわ」
その事実を告げられて、メアリーの目には思わず涙が浮かんだ。「疲れ病」に取り憑かれた以上、避けられないことだと知っていたはずなのに、頬を伝ってくる悲しみだけはどうしても避けられなかった。
「パパ……ママ……」
「泣かないで。あなたには、これからたくさん働いてもらわなくちゃいけないんだから」
「?」
メアリーが小首を傾げると、オリヴィアは続けて念を押すように言った。
「いいでしょ? あなたの命を助けたのは私なんだし。文句はないよね?」
「うん。もちろんいいよ。ただ……ちょっと急すぎてびっくりしただけ。働くって?何をすればいいの?」
オリヴィアは答えた。
「村から食糧を取ってきて欲しいの。お母さんが魔女として処刑されたから、娘の私も村には出られないのよね」
「え?」
その話にメアリーが驚くのも仕方なかった。オリヴィアはこれまでの経緯を、滔々と幼馴染の大親友に語った。そうして紡がれる喪失の言葉の数々は、メアリーには到底信じがたいものだった。
「そんな、ひどい……、ひどすぎるよ! 薬の作り方を教えに行ったのに、魔女だなんて!」
「わかったでしょう? あいつらは本当に最低の奴らなの。薬を作る女の人はみんな魔女、お医者様の言葉でないと信じない。だからこのまま惨めに死んでいくのがお似合いよ。メアリーもそう思うよね?」
同意を求めるオリヴィアの声音は、その残酷な謂とは裏腹に、あまりにも深い悲しみで震えていて。
「うん! そうだよ!」
そう答えてメアリーは今にも泣き出しそうなオリヴィアを抱きとめた。そうした瞬間、この呪われた世界でメアリーだけが、オリヴィアの気持ちを理解するたったひとりの味方となった。
しばらくふたりはそうして身を寄せ合っていたが、やがてオリヴィアがメアリーの耳元でそっと甘く囁いた。
「お願い、これから毎日村へ行って、私に教えて欲しいの。あいつらがどれくらい死んだのか、どの家から人が居なくなったのか、他の地方がどんな様子になってるのか、とかね。あと、これはお薬、念のため。じゃあ、気を付けていってね。食糧は数日分でいいから、すぐに戻ってきてね!」
「わかった。オリヴィアも気をつけてね、もし誰かが捕まえにやって来たら、すぐに逃げて!」
「うん」
上首尾を満足そうに微笑むオリヴィアの座り姿を背に、薬で快癒したメアリーは、動けるようになった我が身の喜びを噛みしめつつ、急ぎ村へと駆けていった。
2
「ねぇ、オリヴィア……?」
「なぁに」
「あの……この生活、いつまで続けるつもりなのかな……?」
小屋はもう真夜中といってもよい時刻だった。磅礴たる夜闇を断続的に響く、篠突く雨の音だけがふたりの径庭を行き過ぐ。灯の傍らで編み物を続けるオリヴィアの背中に、メアリーは返答を待った。
「もちろん、太陽が昇るまで……西から」
オリヴィアは鼻歌をしながら答え、依然として上機嫌そうに編み物をやり続ける。
「あのねオリヴィア、言いにくいんだけど。……こんなことやめない?」
「こんなこと?」
深刻そうにメアリーは「うん」と頷く。
「……村、すごいことになってるよ。どんどん人が死んでるし、みんな他の場所へ移って居なくなっちゃう。教会に、病気になって動けない人が……」
「大変そう。でも放って置きましょうよ」
その訴えを最後まで聞くこと無く、オリヴィアは言い終える。
「だめだよ!」
「だってそれしかできないのよ」
「オリヴィアはその目で見てないからそんなことが言えるんだよ! ねえ、どうにかしてよ、お願い!」
はじめてオリヴィアは編み針を措いて、椅子から立ち上がり、背後にいる親友の姿を射止めた。
「ねぇメアリー、まさか薬の作り方を教えに私に村へ行けだなんて、言わないよね?」
その声色は、静かな怒りに震えて。
「それは――」
メアリーは思わず口籠ったが、果たしてそれこそが彼女の望んでいた結論だった。オリヴィアはいよいよ激昂してまくし立てた。
「忘れたの? お母さんがどういう目にあったか、あなた、私に死ねって言うつもりなの?」
「違うよ! そうじゃないよ。そうじゃないけど、きっと何か方法が……」
「方法って何!? 方法なんてものがあるなら、もしそんな魔法みたいなものがあるのなら、私のお母さんはどうして死んじゃったのよ! 答えて!」
「ごめん、ごめんって。あたしには分かんないよ。でも、でもね、ほら知ってるでしょ、パン屋のおじさん。私たちにすごく優しくって人気者なジョンおじさん。あの人も疲れ病にかかっちゃって、もうそんなに長くないって……あたしきょうはじめて知ったの。それでね、オリヴィアもあのパンが大好きだったなって思い出して、それで……」
「私が助けたくなると思った?」
オリヴィアは無関心な冷酷者の仮面を装って問いかける。メアリーはじれったそうに言う。
「だって、あの人が病気で倒れたってことは、もうカイトだって危ないんだよ……」
唐突に口に出された“カイト”という名前の響きに、懐かしさと奇妙な馴れ馴れしい気持ちを感じて、オリヴィアは立ち止む。”カイト”というのはたしかパン屋の息子で、メアリーのいちばん親しくしている男の子の名ではなかったか。オリヴィアはやや呆れてメアリーのほうを見た。
「……結局、それじゃない」
「な、なによ! オリヴィアだって一緒によく遊んでる友達でしょ、心配じゃないの!?」
「残念だけど、私はあの子のことあんまり好きじゃないの。メアリーを取られちゃうから」
数年前のほろ苦い体験がオリヴィアの記憶に蘇る――あの頃は本当にメアリーが大好きで、片時も離れたくなかったのに、ひとたびカイトのこととなるとメアリーは夢中でこちらに構ってくれなくなるか、心ここにあらずといった感じで淋しかった。そうしてメアリーが自分を友達と思ってくれていないとか、じつは嫌われているのではないかとすら心配してひどく落ち込んだが、やがて成長するに連れ、メアリーがオリヴィアに示す「好き」という感情と、メアリーがカイトに示す「好き」という感情とは少しだけ違いがあることに気付いて、まるで裏切られたかのような、心底愕然とした気持ちになったものだった。
「そんなことないよ……オリヴィアもカイトも、どっちも大事にしてるよ」
白白と言ってのけるメアリーに対して、オリヴィアは尚も非情に応接する。
「助けたいなら、勝手にして」
「え?」
「ほら、最初に渡した小瓶の薬。あるでしょ。メアリーはもう大丈夫みたいだから、きっとカイトに使っても平気だと思うよ」
オリヴィア自身、カイトのことなど寸分も気にかけては居なかったが、メアリーの機嫌をとるためにこれは仕方の無い処置だった。
「え、でも……」
「一度治るともう罹らないし、薬もいらないみたい。私だってそうだもの」
「そうじゃなくて、あの薬って一人分じゃない?」
「だけど?」
「それじゃ一人しか助けられないよ!」
メアリーは抗議するが、オリヴィアは何が問題か分からないという顔をした。
「だから、それで良いでしょ。カイトのことが好きなら、カイトにあげればいいんじゃない」
「それじゃジョンおじさんは!? 他のみんなの分は!?」
非定量的な要求文句に、オリヴィアは然るべき剣幕でやり返した。
「いい加減にして! あなたが薬をあげたいのはカイトだけ、ジョンおじさんだってカイトの身寄りだから居なくなるとカイトが悲しむと思ってでしょ!? 他のみんなの分なんて、綺麗事はやめて……私は直者いってあんな薬なんて、もう二度と作りたくないの」
「みんなを治す薬の作り方、せっかく知ってるのに……」
うなだれるメアリーに、オリヴィアはゆっくりと言い含めた。
「いい? 今起こっていることは神様の裁きなの。正直者だけが生き残って、悪人はみんな病気で死ぬのよ。きっとお母さんは裁きの邪魔をしようとしたから、先に天国に上げられてしまったんだわ。だからなるべく誰も助けないようにしましょう」
メアリーがそれに不満そうに抗議する。
「……それじゃオリヴィアは、私のパパとママは悪人だって言うの?」
「知らないわよ。そんなの神様に聞いて」
「ねえ、オリヴィア……もしかして、もしかしてだけど、あたしが倒れてるとき、パパとママに……」
しばし沈黙があった。やがて、
「違う。あなたを発見したときには、既に手遅れだったの。あなたしか助けられなかったのよ」
「そう。ならいいけど……。ごめんね、オリヴィアはあたしの命の恩人なのに、変なこと言っちゃって」
「気にしないで。ところでこの間の話、考えてくれた?」
「話?」
「ほら、誰も居なくなった家から……」
「ダメだよ! 物を盗むなんて、そんなことしちゃいけないと思う……やっぱり、もう誰も使わないとしても、他人の家の物を盗るなんて……」
「そうだよね。ごめんね、無理なこと頼んで……でも、もうメアリーの家からは何も持って来られないんだよね」
「うん……」
「いまは森から山菜を採ってきてなんとか生活できてるけど、季節が良いだけ。冬になったら私たち餓え死にだよ。そうなったら、誰も寄り付かない家のお金に、一体何の意味があるんだろうね?」
「それは……」
「ねえ、毎日森を歩くの、すごく危ないんだよ? あなたが村からもう少し良いものをとってきてくれたら、楽な暮らしができるんだけどな……」
そう言われてメアリーは申し訳無さそうな顔をした。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい……。あたしオリヴィアに助けてもらったのに、苦労ばっかり掛けてる。負担になってる。ごめんね」
「いいの。別に食糧係だから助けたわけじゃないから。そろそろ寝ていい?」
「あ、うん。おやすみなさい……」
「おやすみなさい」
そそくさと母の寝室へオリヴィアはさがった。徐にひとつため息をつく。この村で生まれ育ったメアリーが、いくら消極的な見殺しとは言え、村を滅ぼすなどという計画に手を貸してくれるはずもない。生活はふたりでも復讐は彼女ひとりだけのものだった。
それでもオリヴィアは不服だった。メアリーに時折感じるじれったさと、カイトに向ける妬ましさ、食糧に対する危機感などが、いずれ破綻するこの生活に暗雲を差し向けていた。
何日かぶりにメアリーは意識を取り戻した。最初はかすかな光だったが、やがて確実に強くなっていく内なる光に優しく揺り起こされて、彼女の生命はしっかりとその下に存在を繋ぎ止めたのだ。まるで暗く寒い森の中を遭難者として彷徨っていて、すべてが心細かったのを、行く手にみすぼらしい小屋が現れその主人が暖炉を焚いて歓迎してくれる、そんな気持ちで迎える鮮やかな覚醒だった。
しかしそれにしても、寝入ったときとは全然見当違いな場所にいることにメアリーは驚いた。ここは確か、幼い頃よく戯びに訪れたオリヴィアの家ではなかったか。
「おはよう。メアリー、そろそろ何か食べない? こんなに長いあいだ何も食べてないと、病気になってしまうわよ」
混乱したまま臥所から身を起こしたメアリーに、親友であるオリヴィアが気さくに話し掛ける。最後に会ったときより少々痩せているように見えたが、どうやら彼女は「疲れ病」にはかかっていないらしい。せっせと床を掃き掃除などしている。その元気な様子にメアリーはほっとした。
「あ……お願い」
頭の中でぐるぐると渦巻く疑問をどうしようかと迷っているうちに、料理が運ばれてきて、会話は一旦途切れた。黙々と手を止めず食べ続けなければならないほど、メアリーは自分でも気が付かないほど空腹の状態にあったのだから。
「オリヴィアは、病気は大丈夫なの?」
食べ終わってから後、心配からメアリーがそう尋ねた。
「私は大丈夫だし、あなたも多分大丈夫、もう治ったのよ」
オリヴィアはあっさり答える、その主張をメアリーはすぐには信じることができない。
「治った?」
「うん。だって、気分悪くないでしょう? こんなにいっぱい食べたんだもの。ほら、顔がソースで汚れてるわよ」
そういって母親のようにメアリーの顔を拭いてやるオリヴィアの様子は、以前よりどこか大人びているように感じられ、メアリーは少し面食らった。
「あ、うん。ありがと……」
「どういたしまして。ねえ、メアリー、またあなたの声が聞けて嬉しいな。本当にそう思っているの」
そう言ってオリヴィアは微笑む。しかし泣きそうな顔で、そのことにあとでみずから気付いて苦笑した。メアリーは応じる。
「あたしもオリヴィアが元気で嬉しい。でも、これってまるで奇跡みたい、あたしの病気が治るなんて。神様が助けてくださったのかしら?」
するとオリヴィアはそれを突き放すように、
「きっと神様は、私たちのことを助けてくださるつもりなんて無いんじゃないかと思うわ」
そう意見を述べるのみだった。
そんな会話の拍子、ふと疑問に思っていたことがメアリーの口から自然と洩れた。
「ところでオリヴィア、あなたのお母さんは?」
発してすぐ、メアリーは自分の過ちに気づかざるをえなかった。もしもオリヴィアの母親が病気に罹ってしまっていて、剰えであったら、それはとても残酷なことではないか。しかしオリヴィアは別段悲しむような様子も見せず、不可解なことばを口にした。
「知らない? 魔女のこと」
「え?」
「この村で魔女が処刑されたのよ」
「……知らない」
「……お母さんは居ないの。きっとメアリーは臥せっていたから知らなかったのね。いいわ、全然気にしないで。私たちふたりとも親を失くしちゃったの。残念だけど受け入れるしか無いわ」
その事実を告げられて、メアリーの目には思わず涙が浮かんだ。「疲れ病」に取り憑かれた以上、避けられないことだと知っていたはずなのに、頬を伝ってくる悲しみだけはどうしても避けられなかった。
「パパ……ママ……」
「泣かないで。あなたには、これからたくさん働いてもらわなくちゃいけないんだから」
「?」
メアリーが小首を傾げると、オリヴィアは続けて念を押すように言った。
「いいでしょ? あなたの命を助けたのは私なんだし。文句はないよね?」
「うん。もちろんいいよ。ただ……ちょっと急すぎてびっくりしただけ。働くって?何をすればいいの?」
オリヴィアは答えた。
「村から食糧を取ってきて欲しいの。お母さんが魔女として処刑されたから、娘の私も村には出られないのよね」
「え?」
その話にメアリーが驚くのも仕方なかった。オリヴィアはこれまでの経緯を、滔々と幼馴染の大親友に語った。そうして紡がれる喪失の言葉の数々は、メアリーには到底信じがたいものだった。
「そんな、ひどい……、ひどすぎるよ! 薬の作り方を教えに行ったのに、魔女だなんて!」
「わかったでしょう? あいつらは本当に最低の奴らなの。薬を作る女の人はみんな魔女、お医者様の言葉でないと信じない。だからこのまま惨めに死んでいくのがお似合いよ。メアリーもそう思うよね?」
同意を求めるオリヴィアの声音は、その残酷な謂とは裏腹に、あまりにも深い悲しみで震えていて。
「うん! そうだよ!」
そう答えてメアリーは今にも泣き出しそうなオリヴィアを抱きとめた。そうした瞬間、この呪われた世界でメアリーだけが、オリヴィアの気持ちを理解するたったひとりの味方となった。
しばらくふたりはそうして身を寄せ合っていたが、やがてオリヴィアがメアリーの耳元でそっと甘く囁いた。
「お願い、これから毎日村へ行って、私に教えて欲しいの。あいつらがどれくらい死んだのか、どの家から人が居なくなったのか、他の地方がどんな様子になってるのか、とかね。あと、これはお薬、念のため。じゃあ、気を付けていってね。食糧は数日分でいいから、すぐに戻ってきてね!」
「わかった。オリヴィアも気をつけてね、もし誰かが捕まえにやって来たら、すぐに逃げて!」
「うん」
上首尾を満足そうに微笑むオリヴィアの座り姿を背に、薬で快癒したメアリーは、動けるようになった我が身の喜びを噛みしめつつ、急ぎ村へと駆けていった。
2
「ねぇ、オリヴィア……?」
「なぁに」
「あの……この生活、いつまで続けるつもりなのかな……?」
小屋はもう真夜中といってもよい時刻だった。磅礴たる夜闇を断続的に響く、篠突く雨の音だけがふたりの径庭を行き過ぐ。灯の傍らで編み物を続けるオリヴィアの背中に、メアリーは返答を待った。
「もちろん、太陽が昇るまで……西から」
オリヴィアは鼻歌をしながら答え、依然として上機嫌そうに編み物をやり続ける。
「あのねオリヴィア、言いにくいんだけど。……こんなことやめない?」
「こんなこと?」
深刻そうにメアリーは「うん」と頷く。
「……村、すごいことになってるよ。どんどん人が死んでるし、みんな他の場所へ移って居なくなっちゃう。教会に、病気になって動けない人が……」
「大変そう。でも放って置きましょうよ」
その訴えを最後まで聞くこと無く、オリヴィアは言い終える。
「だめだよ!」
「だってそれしかできないのよ」
「オリヴィアはその目で見てないからそんなことが言えるんだよ! ねえ、どうにかしてよ、お願い!」
はじめてオリヴィアは編み針を措いて、椅子から立ち上がり、背後にいる親友の姿を射止めた。
「ねぇメアリー、まさか薬の作り方を教えに私に村へ行けだなんて、言わないよね?」
その声色は、静かな怒りに震えて。
「それは――」
メアリーは思わず口籠ったが、果たしてそれこそが彼女の望んでいた結論だった。オリヴィアはいよいよ激昂してまくし立てた。
「忘れたの? お母さんがどういう目にあったか、あなた、私に死ねって言うつもりなの?」
「違うよ! そうじゃないよ。そうじゃないけど、きっと何か方法が……」
「方法って何!? 方法なんてものがあるなら、もしそんな魔法みたいなものがあるのなら、私のお母さんはどうして死んじゃったのよ! 答えて!」
「ごめん、ごめんって。あたしには分かんないよ。でも、でもね、ほら知ってるでしょ、パン屋のおじさん。私たちにすごく優しくって人気者なジョンおじさん。あの人も疲れ病にかかっちゃって、もうそんなに長くないって……あたしきょうはじめて知ったの。それでね、オリヴィアもあのパンが大好きだったなって思い出して、それで……」
「私が助けたくなると思った?」
オリヴィアは無関心な冷酷者の仮面を装って問いかける。メアリーはじれったそうに言う。
「だって、あの人が病気で倒れたってことは、もうカイトだって危ないんだよ……」
唐突に口に出された“カイト”という名前の響きに、懐かしさと奇妙な馴れ馴れしい気持ちを感じて、オリヴィアは立ち止む。”カイト”というのはたしかパン屋の息子で、メアリーのいちばん親しくしている男の子の名ではなかったか。オリヴィアはやや呆れてメアリーのほうを見た。
「……結局、それじゃない」
「な、なによ! オリヴィアだって一緒によく遊んでる友達でしょ、心配じゃないの!?」
「残念だけど、私はあの子のことあんまり好きじゃないの。メアリーを取られちゃうから」
数年前のほろ苦い体験がオリヴィアの記憶に蘇る――あの頃は本当にメアリーが大好きで、片時も離れたくなかったのに、ひとたびカイトのこととなるとメアリーは夢中でこちらに構ってくれなくなるか、心ここにあらずといった感じで淋しかった。そうしてメアリーが自分を友達と思ってくれていないとか、じつは嫌われているのではないかとすら心配してひどく落ち込んだが、やがて成長するに連れ、メアリーがオリヴィアに示す「好き」という感情と、メアリーがカイトに示す「好き」という感情とは少しだけ違いがあることに気付いて、まるで裏切られたかのような、心底愕然とした気持ちになったものだった。
「そんなことないよ……オリヴィアもカイトも、どっちも大事にしてるよ」
白白と言ってのけるメアリーに対して、オリヴィアは尚も非情に応接する。
「助けたいなら、勝手にして」
「え?」
「ほら、最初に渡した小瓶の薬。あるでしょ。メアリーはもう大丈夫みたいだから、きっとカイトに使っても平気だと思うよ」
オリヴィア自身、カイトのことなど寸分も気にかけては居なかったが、メアリーの機嫌をとるためにこれは仕方の無い処置だった。
「え、でも……」
「一度治るともう罹らないし、薬もいらないみたい。私だってそうだもの」
「そうじゃなくて、あの薬って一人分じゃない?」
「だけど?」
「それじゃ一人しか助けられないよ!」
メアリーは抗議するが、オリヴィアは何が問題か分からないという顔をした。
「だから、それで良いでしょ。カイトのことが好きなら、カイトにあげればいいんじゃない」
「それじゃジョンおじさんは!? 他のみんなの分は!?」
非定量的な要求文句に、オリヴィアは然るべき剣幕でやり返した。
「いい加減にして! あなたが薬をあげたいのはカイトだけ、ジョンおじさんだってカイトの身寄りだから居なくなるとカイトが悲しむと思ってでしょ!? 他のみんなの分なんて、綺麗事はやめて……私は直者いってあんな薬なんて、もう二度と作りたくないの」
「みんなを治す薬の作り方、せっかく知ってるのに……」
うなだれるメアリーに、オリヴィアはゆっくりと言い含めた。
「いい? 今起こっていることは神様の裁きなの。正直者だけが生き残って、悪人はみんな病気で死ぬのよ。きっとお母さんは裁きの邪魔をしようとしたから、先に天国に上げられてしまったんだわ。だからなるべく誰も助けないようにしましょう」
メアリーがそれに不満そうに抗議する。
「……それじゃオリヴィアは、私のパパとママは悪人だって言うの?」
「知らないわよ。そんなの神様に聞いて」
「ねえ、オリヴィア……もしかして、もしかしてだけど、あたしが倒れてるとき、パパとママに……」
しばし沈黙があった。やがて、
「違う。あなたを発見したときには、既に手遅れだったの。あなたしか助けられなかったのよ」
「そう。ならいいけど……。ごめんね、オリヴィアはあたしの命の恩人なのに、変なこと言っちゃって」
「気にしないで。ところでこの間の話、考えてくれた?」
「話?」
「ほら、誰も居なくなった家から……」
「ダメだよ! 物を盗むなんて、そんなことしちゃいけないと思う……やっぱり、もう誰も使わないとしても、他人の家の物を盗るなんて……」
「そうだよね。ごめんね、無理なこと頼んで……でも、もうメアリーの家からは何も持って来られないんだよね」
「うん……」
「いまは森から山菜を採ってきてなんとか生活できてるけど、季節が良いだけ。冬になったら私たち餓え死にだよ。そうなったら、誰も寄り付かない家のお金に、一体何の意味があるんだろうね?」
「それは……」
「ねえ、毎日森を歩くの、すごく危ないんだよ? あなたが村からもう少し良いものをとってきてくれたら、楽な暮らしができるんだけどな……」
そう言われてメアリーは申し訳無さそうな顔をした。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい……。あたしオリヴィアに助けてもらったのに、苦労ばっかり掛けてる。負担になってる。ごめんね」
「いいの。別に食糧係だから助けたわけじゃないから。そろそろ寝ていい?」
「あ、うん。おやすみなさい……」
「おやすみなさい」
そそくさと母の寝室へオリヴィアはさがった。徐にひとつため息をつく。この村で生まれ育ったメアリーが、いくら消極的な見殺しとは言え、村を滅ぼすなどという計画に手を貸してくれるはずもない。生活はふたりでも復讐は彼女ひとりだけのものだった。
それでもオリヴィアは不服だった。メアリーに時折感じるじれったさと、カイトに向ける妬ましさ、食糧に対する危機感などが、いずれ破綻するこの生活に暗雲を差し向けていた。