第五章 宿命は交わる平行線
文字数 7,885文字
1
事情あって天界を追放されたラエリという天使と、その付き人である人間の少年アレクは、謎の疫病の根源を辿り、啓明 の輝く頃に黒樺の村へと足を踏み入れた。村は朽木のように佇み、不気味な沈黙をもってふたりを迎え入れた。当然ながら集落の機能はなかば崩壊しており、本来頼るべきはずの教会は不浄な死体置き場へと成り代わっていて、いくら天使の清らなる加護があるといってもそんな場所に長居をすれば病気になってしまうだろう――犠牲者の追悼もそこそこに、天使とその付き人である少年は、数少ない戸外の生存者から聞き出した情報(『村の外れ、森の近くに魔女の小屋がある』)の真偽を確かめるため、小憩も惜しんで鄙びた風景のますます寂しくなる方角へと歩いていった。
星室庁の下調べが確かなら、この村こそが件の疫病の濫觴の地にあたる。其処に都合よく「魔女の小屋」と言い伝えられる場所があるということは、疫病の正体もまた”女呪術師”と関連する可能性が高い。ふたりは”女呪術師”と呼ばれる悪なる存在の足どりを追っていた。
歩き続けるうち、悪名高き魔女の小屋は見えた。古木で建てられた何の変哲もない家屋で、経年によって蔦が絡み、相応の風貌を滲み出してはいるものの特に禍々しい気配は感じられない――境界をつくるべき隣家がさらに無いからか、柵もなく、森と一体化したように構えるその小屋は、しかし訪問者を拒むかのように窓を板付け釘で戸鎖 され、呼び鈴も見当たらなかった。ただし窓を打ち付けていることは、中途このようにしている家を何軒も見てきていたので、病気避けの風習のようなものとしてこの二人の間ではもはや気にならない事柄と化していた。
はたして蛇が出るかと用心しながら小屋の古びた戸扉を開けると、鼻腔を突く不思議な香りが辺りに漂った。甘く苦いような不思議な香りで、お伽話に出てくるお菓子の家を一瞬連想しはするが、すぐに忘れてしまうような夢想――やがてそれが植物の汁から出る香気であると気づくまでに、それほど時間は掛からない。ふたりは怪訝もそこそこに探索を開始し、最初の部屋をひととおり調べ終わってから天使が言った。
「誰も居ないのですか? そんな筈は無いのですが、床に塵埃 ひとつ落ちていないのに、誰も住まない空き家なわけが……」
試みに少年が某 へと呼びかけると、そのときはじめて部屋の奥から飛び出すように人影が現れた。少年と年ごろを同じくするその少女は恐慌状態で、懸命に叫び求める言葉の断片は「オリヴィアを 助けて」というものだった。よく見ればその少女の踝には枷鎖が嵌められており、連鎖は奥の小部屋の柱の角に繋留 がれていて、監禁状態にあった。
「落ち着いてください、もう大丈夫ですよ。この屋敷には魔女が居るのですね? もうすぐ帰ってくるのですか?」
囚われの少女にラエリはそう問いかけた。捕縛されている者に独りで生活できるわけがない。けだし、この家屋の主人が外出するというので、逃げ出せないようにこのような処置をとったのだろう。やはり女呪術師はここに住んでいて、疫病の原因というのも強 ち間違いでもないかもしれない――そう慮りながら。
「聖女さま、オリヴィアを……!」
「ええ、もう大丈夫ですよ。あなたはすぐに助けてあげますから」
「いいの…それより、オリヴィアが……!」
悪夢に魘されたように呻く掠れた声で、あるいは絞りだすような嗄らした声で、少女は懇願するような譫言 を何度も繰り返した。この少女には、自分の身を案じるよりもオリヴィアのほうがよほど大切なのだ。友誼を重んじる心のなんと美しいことかと、ラエリはいじらしい気持ちになった。
「ところであなたをこのような目に遭わせた人物について、何か知っていることはありませんか? 私たちは女呪術師を懲らしめなければならないのです」
しかし、返ってくる返答は誠、要領を得ないもので。
「違うの、オリヴィアは魔女じゃないの!! だってあの娘が、あの娘だけが彼を救えるんだもの! ねえお願い信じて、信じて! 信じてあげてよ……」
「ええ、オリヴィアは魔女ではありませんよ。落ち着いて、ゆっくりと事情を話してください」
天使に宥められてやがて少女は遽然と我に立ち返り、躊躇いがちに紡ぎ始めた。黒樺の村と魔女の小屋で起こったすべての悲劇の顛末を。
……
聖女はこれまでのすべての事情を聞き、深い同情の念を示した。
「それは悲しい出来事ですね」
「聖女様、オリヴィアは……魔女なんかじゃないですよね?」
不安そうにメアリーからそう問い掛けられた聖女は、しばらく小首をかしげていたが、
「ええ。きっと彼女は村人に受けた仕打ちから、他人を信じられなくなっているのでしょう。私たちの探している”女呪術師”ではおそらくありません」
そう結論づけた。
「よかった……」
思わずメアリーは涙ぐみ安堵した様子を見せる。
「でもさ、そのオリヴィア?…って子も結構ひどいよね。こんなことしてさ」
そこに付き人である少年が口を挟んだ。聖女は
「いかにも、彼女はよくない状態に陥っているので、悔い改めさせる必要があるでしょう。しかしそれをするのはアレク、あなたの役目です」
と下命する。
「は?」
当事者となった付き人の少年――アレクはよくわからないという表情を見せた。
「これも修行の一環です。以前にも説明した通り、人間の力は善にも転じれば悪にも転じるのです。不幸な出来事によってかたくなになった少女の心を今一度正しい道へと導くこと、それこそがあなたの救われる道なのです」
そこへメアリーが、
「あの、できるだけ……一刻も早く薬が欲しいんです。カイトが、あたしの大好きな友達、いえ、恋人がいま疲れ病にかかっていて、とても危ない状態なんです。彼が助からなかったらあたし……」
そう言ってしくしくと泣き出す。付き人の少年へ試練を課すといっても、それですべてが手遅れになってしまっては元も子もない。その危惧に対して聖女は、
「安心してください。年の近い者同士のほうが、より心が通じるものです。しかしそうですね、カイトという少年のことがそんなに心配なら、私が直接行って看病しましょう。それで大分時間が稼げるでしょうから。彼のところまで案内して貰えますか?」
と配慮した。メアリーはその喜ばしい提案に頷いて、こうしてたちまち彼女が聖女を案内し村へ降りていく算段になった。
「それでは頼みましたよアレク、早急に薬を村へ持ってくるのです」
「ええっと、わかりました。行ってらっしゃい」
少年は無気力そうに手を振って、村へ向かう聖女とメアリーの姿を見送った。残された少年はオリヴィアの帰還を待って、何もない小屋で怏怏として待機した。結局はこんな面倒な仕事を押し付けられてしまったわが身の不幸を託ちながら、時間に飽かせて部屋を物色していると、やがて寝室の箪笥から着古した衣類や質入れすればそこそこ値打ちの有りそうな懐中時計とあわせて、薬の作り方が記してあると思しき古い羊皮紙が見つかった。しかしそこに記されているのは見たこともない異国の文字で、少年の読める代物ではない。少年はひとまずそれをじっと眺めたあと、興味もなさそうに机の上に置き、別の抽斗の物色へと移った。もろもろの化粧道具と合わせて薄汚れた一冊の日記帳があり、そこには家計簿とも雑記とも付かないことどもが記されていた。少年はひとまずそれを読むことにした。
2
「何をしているの?」
聞こえた声に釣り上げられて少年は思わず視線を上げた。見ると痩躯の少女が部屋の入口を塞ぐように立っており、心なしか警戒し怯えた目をしている。アレクが弁解しようとすると、
「それ、お母さんの日記? あなた、泥棒なのに字が読めるのね」
珍しいものを見るようにオリヴィアが言った。
「一応、一通りは読めるよ。書くのはまだできないけどね」
アレクがそう説明すると、オリヴィアはふーんといった半信半疑の目付きをする。
「メアリーはどこ? また逃げたのかしら」
「メアリー? えっと、その子ならさっき聖女様と一緒に……」
少年は村に踏み入ることになった理由からはじめ、これまでの顛末をオリヴィアにすべてきかせた。
「――じゃ、あなた、なに、聖女様の付き人だって言うの?」
説明を終えたアレクに、オリヴィアはいまだ狐疑しながらそう確認する。
「うん。聖女様は、きみが薬を調合することを望んでおられるんだよ。いまのきみは残念ながら、悔い改めが必要だってね」
アレクが答えた。
オリヴィアはこれを泥棒の姑息な言い訳とは考えなかった。現にメアリーの姿がなくなっているし、それにいくらなんでも泥棒のついた嘘にしては突拍子がなさすぎる。
「じゃ、聖女様に伝えて。『たしかに私は薬を作ろうと思えば作れるし、それで沢山の人を救うことができたかもしれません。けれどそれをしなかったことで、私が何か悪いことをしたと言えるんですか? 命を賭けてまで他人を救う行動を取らないことが悪人の所以なら、この世の人の大半は悪人になってしまいます。』って」
それに少年は困ったように応じた。
「話は全部、あの女の子から聞いたよ。悪いのは、どう考えてもきみのお母さんを処刑した村人で、オリヴィアは何も悪くないよ。だってきみは母親を殺されたし、また村へ行ったら、今度はきみが魔女と疑われるかもしれないんだから」
「そうよ! どうして私が、魔女として処刑されたお母さんと同じ行動を取らなければいけないの?」
少年をきつく睨みつけるオリヴィアに、アレクはやや困ったような表情で口を挟んだ。
「でもオリヴィアも、自分のしてることが善人なんて思ってないだろう? きみは村人に復讐してるんだ」
「あら、母親を殺されても水に流せっていうのね」
オリヴィアが苛立たしげな棘のある言い回しでそう言うと、少年はばつが悪そうに頷いた。
「きっと、聖女様なら言うよ、だって聖女様だから。自分の親を殺した人間にも、パンを差し出せって言うかもしれない。けどそれが正しいんだよ」
「じゃあ聞くけど、もし私がしなかったら、誰がお母さんを殺した奴らに復讐したの? 誰があいつらを裁くの?」
少年はその問いへ淡々と答えた。
「復讐するのは魔女で、裁くのは聖女だよ」
「そう、私は魔女。もう魔女になってしまったの。だからこうして復讐するの。何故こうなってしまったのか自分でもわからない、でももう引き返せないわ。大勢の人を見殺しにして、そのことに喜びさえ覚えた。朝起きたら世界の破滅を願った、そんなことがお母さんの為になると思ってた。そんなはず無いのに……。私は魔女になってしまって、もうお母さんと同じ場所へは行けない……」
「今からでも間に合うんだ」
「そんなことない、失われた命は戻らないじゃない!」
オリヴィアはやっきになって張り叫んだ。もはや村は壊滅的な状態だった。それは確かめるまでもない事実で、少年が目にしてきた通りの現実だった。しかし、少年は断固として譲らなかった。
「べつにオリヴィアが殺したわけじゃないよ、ああいう人たちは勝手に死んだだけで、きっと罪のうちには入らない。ねえオリヴィア、今からでも薬を作って、聖女様に褒めてもらおう? そうしたら、きっと頭をぽんぽん叩いて褒めてくれるよ」
「聖女様が、頭をぽんぽん叩いてくれる……?」
オリヴィアは復唱する。
「うん。きっと」
少年がそう答えると、オリヴィアはしばらく悩ましげな表情を見せた。やがて
「本当に私が誰も殺したことにならないの?」
と訊く。
「なるもんか」
「でも、それっておかしくない?」
「おかしいかな? オリヴィアは本当に何も悪くないと思うけど」
その純粋でいかにも自信のある物言いに、オリヴィアは一瞬だけ納得しかけたが、
「それって、聖女様が実際に言ってくださらないと信用ならないわ」
すぐに眉に唾をつけ思い直した。
「きっと聖女様もそう言ってくれるって……多分」
「もっとしっかり言って、約束して。薬は作るから、聖女様を必ず連れてきてよ! そうじゃないと、あなたはただの泥棒なんだから。村人に突き出すわよ」
聖女を待ち望むオリヴィアにそう脅されながら、聖女様ならこの場合どう考えるかと、ぼんやりと少年は思索に耽っていた。さきほど盗み読んだ日記帳の内容を、頭に思い巡らせながら。
3
とある時間、とある場所。我が娘がもうすぐ帰らぬ者となる現実を受け入れられない母親が、月に照らされて幻想的な森の深さを彷徨っていた。期待と焦燥の狭間、救済の手段を求めて。その哀れな姿は暗い森のなかでもひときわ目立ち、名も知れない蛾が幾重にも彼女の携える明るい燈火の周りを舞った。娘の病魔を祓う薬を、流行病を癒やす奇跡をと、いまだ見たこともないものを狂奔して探し回るその癲狂な様をいかにもお気に召したのか、やがて夜の住人である魔女がこのあわれな母親にそっと語りかけた。その魔女はイリィと名乗る、いかにも似つかわしい奇妙な恰好をした女だった。
「ミセス、こんな時間に、賢き女は森深くを出歩かないもの。一体どうかしたのか知ら
」
「あなたは、この森の妖精…ですか? あなたの眠りを妨げてしまったのならごめんなさい。謝ります。じつは娘が大変な病気にかかってしまって、急いで薬をつくらなければならないのです」
母親は手短に事情を説明した。
「疲れ病かしら? あなたの村も大変ですことね」
イリィはひとり納得したように頷いて、その間 にも煙草を詰めて携えのパイプに火を付けた。たちまち蜘蛛の子を散らすようにあらゆる虫が辺りへ逃げ去る。
「はい。私の村であんな恐ろしい病がおこるなんて……信じられません」
母親は寒さからか震えた、頗る元気のない小声で答えた。
「そうかしら?妾 の信じられないことといったら、王宮の偉ぶった御用学者たちが、まだあの病の治療薬に気づいていないこと」
イリィの返答に母親は思わず耳を疑った。
「治療薬があるのですか!?」
返ってくる言葉は、とても呆気無いものだった。
「もちろん。もとは1,500年前に流行した病ですもの、そのときに治療法もとうに確立されておりますわ。尤も、過去のことを記した書物はほとんど邪教の禁書として燃やされてしまって、いまや紐解くのは狂人か、悪魔と手を結んだ人間ばかり」
「あなたはいったい……?」
イリィは応えず、首を傾いで月を見やった。母親は我慢できずにそれを待たずして切り出した。
「あの、もし薬の作り方をあなたがご存じなのでしたら、どうかそれを私に教えてください。お願いします、私にはそれが必要なのです!」
イリィはしかし、このぶっつけな懇願をあっさりと承諾した。
「よろしいですわミセス、それで御自分の娘御さんをお救いになって。けれど、もうあなたも薄々感づいておられるように、妾は魔女。本来ならば世界を呪い害すべき存在――あら、身構えなくても結構。こんな夜に森に入ってくるようなあなたには、特に優しくしてあげますからね。お仲間ですもの」
「………」
母親はその告白がそら恐ろしくなり、しばらく背筋を凍らせていたが、イリィは諧謔を交えて敵意のないことを明かした。そのまましばらく落ち着くのを待つように、紫煙の立ち揺らぐパイプをふかす。母親にとって薬の作り方を知っているのがこの魔女だけである以上、そこから簡単に立ち去るわけには行かなかった、むしろ彼女から一瞬だけ目線を外すことさえ、それでこの魔女の儚げな姿が消えてしまうのではないかと躊躇われるほどであった。
「で、話を戻しますと、この治療薬によって大勢の人々が救われるなんて未来、妾はちっとも望んでおりませんの。そんな幸福譚はもううんざり。だから妾が今から教える薬の煎じ方を、大勢に広めようとしても――」
魔女はそこで言葉を切って、パイプをふかし大きく息を吸う。
「――誰からも信じて貰えませんわ。だってそんな呪いを掛けますもの。ですから、あなたは治療薬をつくって、御自分の娘御さんだけを助けなさいな。他には誰も助けてはだめ。よろしくて?」
と結ぶ、その要求はいかにも呪わしいものだった。
「はい、もちろんです!」
母親は喜色に頷く。
「それとね、妾と会ったことは誰にも秘密にしておくこと、こういう条件もご了解になってね。だって、魔女と通じていたなんて話、あなたにとっても都合が悪いでしょう? 隠しておくのが賢明ですわ」
イリィは続けざまそう忠告した。
「はい。大変な深慮とお情け、心より感謝いたいします。貴女と出会ったことも、教えていただく治療薬のことも、くれぐれも永遠の秘密にしておきます」
母親は深く頭を下げて諾意を示し、契約を待ち望んだ。魔女もそれを受けて満足そうに頷き、そして最後にもう一度念を押す、
「もしも約束を破ったら、針千本では済まないことになりますから」
母親はもちろん四の五の言わずこれに服従する。
「神に誓って約束します!」
「じゃ、材料を摘みに行きましょ。まずは、籠の中身を全部お捨てになって?」
イリィは神に誓ってというくだりは軽く流し、母親を森の深遠部へと案内していった。
……
母親は魔女に言われた通りの薬草を、必要な分だけ全て集めた。見分けが上手かったので、それは夜が明ける前にあらかた終わった(イリィはその手際を上々と褒め、これなら薬屋としてもやっていけそうだと評した)。魔女は、知らず知らず森の奥へ入り込んでしまった母親を小屋の近くに連れ戻すため、進んで先導することさえした。
「そんなに薬草に詳しいなら、あとは妾がとやこうせずとも、うまく煎じられるでしょうね?」
その頃にはすっかり、奇妙な信頼めいた関係がふたりに生じていた。
「はい。こんなに親切に、作り方もしたためて頂いたので……」
母親の手に握られていたのは一枚の古めかしい羊皮紙だった。ふたりは小枝を踏み分けながら、薄明の下闇を進んでいく。ふと、
「ところであなたの娘御さん、可愛いのかしら?」
イリィが好奇心に駆られたように発する。母親はその問い掛けをやや意外に思いながらも、虚心に受け答えする。
「ええ。亡き夫によく似て、自慢の娘です」
「それなら妾も一度くらい会いに行ってよろしいかしら? 回復祝いに」
「はい、もちろんです!」
母親はいよいよ朗らかに答える。
「その日をくれぐれも楽しみにしておきますわ。きっとあなたによく似て、とても可愛らしいんでしょうね?」
「…………」
そんな会話を経て、次第に見知った森へと近づく、朝靄の中、母親の心は晴れ晴れとしていた。もう娘をあのように苦しませる必要もない、いまいましい病苦からやっと解放される、それはまさしく一点の曇りもない晴れ晴れとした朝だった。
そうして母親は小屋へ立ち戻った。魔女の叡智に肖 って煎じた薬は、示唆された通り、薄紫色に輝く透徹した液体だった。
事情あって天界を追放されたラエリという天使と、その付き人である人間の少年アレクは、謎の疫病の根源を辿り、
星室庁の下調べが確かなら、この村こそが件の疫病の濫觴の地にあたる。其処に都合よく「魔女の小屋」と言い伝えられる場所があるということは、疫病の正体もまた”女呪術師”と関連する可能性が高い。ふたりは”女呪術師”と呼ばれる悪なる存在の足どりを追っていた。
歩き続けるうち、悪名高き魔女の小屋は見えた。古木で建てられた何の変哲もない家屋で、経年によって蔦が絡み、相応の風貌を滲み出してはいるものの特に禍々しい気配は感じられない――境界をつくるべき隣家がさらに無いからか、柵もなく、森と一体化したように構えるその小屋は、しかし訪問者を拒むかのように窓を板付け釘で
はたして蛇が出るかと用心しながら小屋の古びた戸扉を開けると、鼻腔を突く不思議な香りが辺りに漂った。甘く苦いような不思議な香りで、お伽話に出てくるお菓子の家を一瞬連想しはするが、すぐに忘れてしまうような夢想――やがてそれが植物の汁から出る香気であると気づくまでに、それほど時間は掛からない。ふたりは怪訝もそこそこに探索を開始し、最初の部屋をひととおり調べ終わってから天使が言った。
「誰も居ないのですか? そんな筈は無いのですが、床に
試みに少年が
「落ち着いてください、もう大丈夫ですよ。この屋敷には魔女が居るのですね? もうすぐ帰ってくるのですか?」
囚われの少女にラエリはそう問いかけた。捕縛されている者に独りで生活できるわけがない。けだし、この家屋の主人が外出するというので、逃げ出せないようにこのような処置をとったのだろう。やはり女呪術師はここに住んでいて、疫病の原因というのも
「聖女さま、オリヴィアを……!」
「ええ、もう大丈夫ですよ。あなたはすぐに助けてあげますから」
「いいの…それより、オリヴィアが……!」
悪夢に魘されたように呻く掠れた声で、あるいは絞りだすような嗄らした声で、少女は懇願するような
「ところであなたをこのような目に遭わせた人物について、何か知っていることはありませんか? 私たちは女呪術師を懲らしめなければならないのです」
しかし、返ってくる返答は誠、要領を得ないもので。
「違うの、オリヴィアは魔女じゃないの!! だってあの娘が、あの娘だけが彼を救えるんだもの! ねえお願い信じて、信じて! 信じてあげてよ……」
「ええ、オリヴィアは魔女ではありませんよ。落ち着いて、ゆっくりと事情を話してください」
天使に宥められてやがて少女は遽然と我に立ち返り、躊躇いがちに紡ぎ始めた。黒樺の村と魔女の小屋で起こったすべての悲劇の顛末を。
……
聖女はこれまでのすべての事情を聞き、深い同情の念を示した。
「それは悲しい出来事ですね」
「聖女様、オリヴィアは……魔女なんかじゃないですよね?」
不安そうにメアリーからそう問い掛けられた聖女は、しばらく小首をかしげていたが、
「ええ。きっと彼女は村人に受けた仕打ちから、他人を信じられなくなっているのでしょう。私たちの探している”女呪術師”ではおそらくありません」
そう結論づけた。
「よかった……」
思わずメアリーは涙ぐみ安堵した様子を見せる。
「でもさ、そのオリヴィア?…って子も結構ひどいよね。こんなことしてさ」
そこに付き人である少年が口を挟んだ。聖女は
「いかにも、彼女はよくない状態に陥っているので、悔い改めさせる必要があるでしょう。しかしそれをするのはアレク、あなたの役目です」
と下命する。
「は?」
当事者となった付き人の少年――アレクはよくわからないという表情を見せた。
「これも修行の一環です。以前にも説明した通り、人間の力は善にも転じれば悪にも転じるのです。不幸な出来事によってかたくなになった少女の心を今一度正しい道へと導くこと、それこそがあなたの救われる道なのです」
そこへメアリーが、
「あの、できるだけ……一刻も早く薬が欲しいんです。カイトが、あたしの大好きな友達、いえ、恋人がいま疲れ病にかかっていて、とても危ない状態なんです。彼が助からなかったらあたし……」
そう言ってしくしくと泣き出す。付き人の少年へ試練を課すといっても、それですべてが手遅れになってしまっては元も子もない。その危惧に対して聖女は、
「安心してください。年の近い者同士のほうが、より心が通じるものです。しかしそうですね、カイトという少年のことがそんなに心配なら、私が直接行って看病しましょう。それで大分時間が稼げるでしょうから。彼のところまで案内して貰えますか?」
と配慮した。メアリーはその喜ばしい提案に頷いて、こうしてたちまち彼女が聖女を案内し村へ降りていく算段になった。
「それでは頼みましたよアレク、早急に薬を村へ持ってくるのです」
「ええっと、わかりました。行ってらっしゃい」
少年は無気力そうに手を振って、村へ向かう聖女とメアリーの姿を見送った。残された少年はオリヴィアの帰還を待って、何もない小屋で怏怏として待機した。結局はこんな面倒な仕事を押し付けられてしまったわが身の不幸を託ちながら、時間に飽かせて部屋を物色していると、やがて寝室の箪笥から着古した衣類や質入れすればそこそこ値打ちの有りそうな懐中時計とあわせて、薬の作り方が記してあると思しき古い羊皮紙が見つかった。しかしそこに記されているのは見たこともない異国の文字で、少年の読める代物ではない。少年はひとまずそれをじっと眺めたあと、興味もなさそうに机の上に置き、別の抽斗の物色へと移った。もろもろの化粧道具と合わせて薄汚れた一冊の日記帳があり、そこには家計簿とも雑記とも付かないことどもが記されていた。少年はひとまずそれを読むことにした。
2
「何をしているの?」
聞こえた声に釣り上げられて少年は思わず視線を上げた。見ると痩躯の少女が部屋の入口を塞ぐように立っており、心なしか警戒し怯えた目をしている。アレクが弁解しようとすると、
「それ、お母さんの日記? あなた、泥棒なのに字が読めるのね」
珍しいものを見るようにオリヴィアが言った。
「一応、一通りは読めるよ。書くのはまだできないけどね」
アレクがそう説明すると、オリヴィアはふーんといった半信半疑の目付きをする。
「メアリーはどこ? また逃げたのかしら」
「メアリー? えっと、その子ならさっき聖女様と一緒に……」
少年は村に踏み入ることになった理由からはじめ、これまでの顛末をオリヴィアにすべてきかせた。
「――じゃ、あなた、なに、聖女様の付き人だって言うの?」
説明を終えたアレクに、オリヴィアはいまだ狐疑しながらそう確認する。
「うん。聖女様は、きみが薬を調合することを望んでおられるんだよ。いまのきみは残念ながら、悔い改めが必要だってね」
アレクが答えた。
オリヴィアはこれを泥棒の姑息な言い訳とは考えなかった。現にメアリーの姿がなくなっているし、それにいくらなんでも泥棒のついた嘘にしては突拍子がなさすぎる。
「じゃ、聖女様に伝えて。『たしかに私は薬を作ろうと思えば作れるし、それで沢山の人を救うことができたかもしれません。けれどそれをしなかったことで、私が何か悪いことをしたと言えるんですか? 命を賭けてまで他人を救う行動を取らないことが悪人の所以なら、この世の人の大半は悪人になってしまいます。』って」
それに少年は困ったように応じた。
「話は全部、あの女の子から聞いたよ。悪いのは、どう考えてもきみのお母さんを処刑した村人で、オリヴィアは何も悪くないよ。だってきみは母親を殺されたし、また村へ行ったら、今度はきみが魔女と疑われるかもしれないんだから」
「そうよ! どうして私が、魔女として処刑されたお母さんと同じ行動を取らなければいけないの?」
少年をきつく睨みつけるオリヴィアに、アレクはやや困ったような表情で口を挟んだ。
「でもオリヴィアも、自分のしてることが善人なんて思ってないだろう? きみは村人に復讐してるんだ」
「あら、母親を殺されても水に流せっていうのね」
オリヴィアが苛立たしげな棘のある言い回しでそう言うと、少年はばつが悪そうに頷いた。
「きっと、聖女様なら言うよ、だって聖女様だから。自分の親を殺した人間にも、パンを差し出せって言うかもしれない。けどそれが正しいんだよ」
「じゃあ聞くけど、もし私がしなかったら、誰がお母さんを殺した奴らに復讐したの? 誰があいつらを裁くの?」
少年はその問いへ淡々と答えた。
「復讐するのは魔女で、裁くのは聖女だよ」
「そう、私は魔女。もう魔女になってしまったの。だからこうして復讐するの。何故こうなってしまったのか自分でもわからない、でももう引き返せないわ。大勢の人を見殺しにして、そのことに喜びさえ覚えた。朝起きたら世界の破滅を願った、そんなことがお母さんの為になると思ってた。そんなはず無いのに……。私は魔女になってしまって、もうお母さんと同じ場所へは行けない……」
「今からでも間に合うんだ」
「そんなことない、失われた命は戻らないじゃない!」
オリヴィアはやっきになって張り叫んだ。もはや村は壊滅的な状態だった。それは確かめるまでもない事実で、少年が目にしてきた通りの現実だった。しかし、少年は断固として譲らなかった。
「べつにオリヴィアが殺したわけじゃないよ、ああいう人たちは勝手に死んだだけで、きっと罪のうちには入らない。ねえオリヴィア、今からでも薬を作って、聖女様に褒めてもらおう? そうしたら、きっと頭をぽんぽん叩いて褒めてくれるよ」
「聖女様が、頭をぽんぽん叩いてくれる……?」
オリヴィアは復唱する。
「うん。きっと」
少年がそう答えると、オリヴィアはしばらく悩ましげな表情を見せた。やがて
「本当に私が誰も殺したことにならないの?」
と訊く。
「なるもんか」
「でも、それっておかしくない?」
「おかしいかな? オリヴィアは本当に何も悪くないと思うけど」
その純粋でいかにも自信のある物言いに、オリヴィアは一瞬だけ納得しかけたが、
「それって、聖女様が実際に言ってくださらないと信用ならないわ」
すぐに眉に唾をつけ思い直した。
「きっと聖女様もそう言ってくれるって……多分」
「もっとしっかり言って、約束して。薬は作るから、聖女様を必ず連れてきてよ! そうじゃないと、あなたはただの泥棒なんだから。村人に突き出すわよ」
聖女を待ち望むオリヴィアにそう脅されながら、聖女様ならこの場合どう考えるかと、ぼんやりと少年は思索に耽っていた。さきほど盗み読んだ日記帳の内容を、頭に思い巡らせながら。
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とある時間、とある場所。我が娘がもうすぐ帰らぬ者となる現実を受け入れられない母親が、月に照らされて幻想的な森の深さを彷徨っていた。期待と焦燥の狭間、救済の手段を求めて。その哀れな姿は暗い森のなかでもひときわ目立ち、名も知れない蛾が幾重にも彼女の携える明るい燈火の周りを舞った。娘の病魔を祓う薬を、流行病を癒やす奇跡をと、いまだ見たこともないものを狂奔して探し回るその癲狂な様をいかにもお気に召したのか、やがて夜の住人である魔女がこのあわれな母親にそっと語りかけた。その魔女はイリィと名乗る、いかにも似つかわしい奇妙な恰好をした女だった。
「ミセス、こんな時間に、賢き女は森深くを出歩かないもの。一体どうかしたのか知ら
」
「あなたは、この森の妖精…ですか? あなたの眠りを妨げてしまったのならごめんなさい。謝ります。じつは娘が大変な病気にかかってしまって、急いで薬をつくらなければならないのです」
母親は手短に事情を説明した。
「疲れ病かしら? あなたの村も大変ですことね」
イリィはひとり納得したように頷いて、その
「はい。私の村であんな恐ろしい病がおこるなんて……信じられません」
母親は寒さからか震えた、頗る元気のない小声で答えた。
「そうかしら?
イリィの返答に母親は思わず耳を疑った。
「治療薬があるのですか!?」
返ってくる言葉は、とても呆気無いものだった。
「もちろん。もとは1,500年前に流行した病ですもの、そのときに治療法もとうに確立されておりますわ。尤も、過去のことを記した書物はほとんど邪教の禁書として燃やされてしまって、いまや紐解くのは狂人か、悪魔と手を結んだ人間ばかり」
「あなたはいったい……?」
イリィは応えず、首を傾いで月を見やった。母親は我慢できずにそれを待たずして切り出した。
「あの、もし薬の作り方をあなたがご存じなのでしたら、どうかそれを私に教えてください。お願いします、私にはそれが必要なのです!」
イリィはしかし、このぶっつけな懇願をあっさりと承諾した。
「よろしいですわミセス、それで御自分の娘御さんをお救いになって。けれど、もうあなたも薄々感づいておられるように、妾は魔女。本来ならば世界を呪い害すべき存在――あら、身構えなくても結構。こんな夜に森に入ってくるようなあなたには、特に優しくしてあげますからね。お仲間ですもの」
「………」
母親はその告白がそら恐ろしくなり、しばらく背筋を凍らせていたが、イリィは諧謔を交えて敵意のないことを明かした。そのまましばらく落ち着くのを待つように、紫煙の立ち揺らぐパイプをふかす。母親にとって薬の作り方を知っているのがこの魔女だけである以上、そこから簡単に立ち去るわけには行かなかった、むしろ彼女から一瞬だけ目線を外すことさえ、それでこの魔女の儚げな姿が消えてしまうのではないかと躊躇われるほどであった。
「で、話を戻しますと、この治療薬によって大勢の人々が救われるなんて未来、妾はちっとも望んでおりませんの。そんな幸福譚はもううんざり。だから妾が今から教える薬の煎じ方を、大勢に広めようとしても――」
魔女はそこで言葉を切って、パイプをふかし大きく息を吸う。
「――誰からも信じて貰えませんわ。だってそんな呪いを掛けますもの。ですから、あなたは治療薬をつくって、御自分の娘御さんだけを助けなさいな。他には誰も助けてはだめ。よろしくて?」
と結ぶ、その要求はいかにも呪わしいものだった。
「はい、もちろんです!」
母親は喜色に頷く。
「それとね、妾と会ったことは誰にも秘密にしておくこと、こういう条件もご了解になってね。だって、魔女と通じていたなんて話、あなたにとっても都合が悪いでしょう? 隠しておくのが賢明ですわ」
イリィは続けざまそう忠告した。
「はい。大変な深慮とお情け、心より感謝いたいします。貴女と出会ったことも、教えていただく治療薬のことも、くれぐれも永遠の秘密にしておきます」
母親は深く頭を下げて諾意を示し、契約を待ち望んだ。魔女もそれを受けて満足そうに頷き、そして最後にもう一度念を押す、
「もしも約束を破ったら、針千本では済まないことになりますから」
母親はもちろん四の五の言わずこれに服従する。
「神に誓って約束します!」
「じゃ、材料を摘みに行きましょ。まずは、籠の中身を全部お捨てになって?」
イリィは神に誓ってというくだりは軽く流し、母親を森の深遠部へと案内していった。
……
母親は魔女に言われた通りの薬草を、必要な分だけ全て集めた。見分けが上手かったので、それは夜が明ける前にあらかた終わった(イリィはその手際を上々と褒め、これなら薬屋としてもやっていけそうだと評した)。魔女は、知らず知らず森の奥へ入り込んでしまった母親を小屋の近くに連れ戻すため、進んで先導することさえした。
「そんなに薬草に詳しいなら、あとは妾がとやこうせずとも、うまく煎じられるでしょうね?」
その頃にはすっかり、奇妙な信頼めいた関係がふたりに生じていた。
「はい。こんなに親切に、作り方もしたためて頂いたので……」
母親の手に握られていたのは一枚の古めかしい羊皮紙だった。ふたりは小枝を踏み分けながら、薄明の下闇を進んでいく。ふと、
「ところであなたの娘御さん、可愛いのかしら?」
イリィが好奇心に駆られたように発する。母親はその問い掛けをやや意外に思いながらも、虚心に受け答えする。
「ええ。亡き夫によく似て、自慢の娘です」
「それなら妾も一度くらい会いに行ってよろしいかしら? 回復祝いに」
「はい、もちろんです!」
母親はいよいよ朗らかに答える。
「その日をくれぐれも楽しみにしておきますわ。きっとあなたによく似て、とても可愛らしいんでしょうね?」
「…………」
そんな会話を経て、次第に見知った森へと近づく、朝靄の中、母親の心は晴れ晴れとしていた。もう娘をあのように苦しませる必要もない、いまいましい病苦からやっと解放される、それはまさしく一点の曇りもない晴れ晴れとした朝だった。
そうして母親は小屋へ立ち戻った。魔女の叡智に