終幕  光の父からの贈り物

文字数 3,196文字


 葉牡丹の月の初旬、教皇庁は蔓延する疫病に対する特効薬を禁じられし古文書の記述から発見、ついに病の完全な治療薬を作り出すことに成功する。これが上奏されたことにより、王都ではただちに皇帝主導の疫病根絶作戦が行われ、目覚ましい成果を収めた。この出来事を受け、あらゆる市民が教会と王家に一旦は賛辞を送る。
 ところが教皇庁は、薬の材料となる希少な植物が大衆によって取り尽くされることを怖れて、治療薬の作り方を公にせず、薬は必要に応じて布施と交換する制度をとった。このため貧窮で薬が買えない者や、教会による供給が追いつかない周辺地域の農民はその恩恵を受けられず、命の危機に晒され続ける。こうした事態から不満が高まり、薬の調合法を公にせよとの直訴が教会へ日々寄せられる。地方によっては一触即発の様相も見せた。
 教会から薬を贖うほどの財力があり、死病からその安全を確約されている支配層の貴族たちは、教皇庁の方針を擁護し、領民たちの不満を徹底的に弾圧し、その裏で教皇庁から横流しされた治療薬を高価で販売することにより多額の利益を得た。こうした搾取を受けた領民たちが耐え兼ねて武器を取り立ち上がろうにも、病による消耗がそれを阻んでいた。
 そんな中、秘された治療薬の作り方を無償で人々に教え、村から村へと渡り歩く”聖女”の噂があった。聖女の掲げる薬の作り方は現実的で、薬草に少し詳しい村の女ならすぐに用意できる代物らしく、その薬によって病から恢復したという生証人には事欠かない。聖女が作らせたとされる薬の調合過程を示したパンフレットはその足どりよりも速く万里を走り抜け、疫病の終熄する地方がいくつも見られた。それを追って教皇庁の公認する薬の価額は暴落し、ブローカーをつとめていた領主貴族たちは致命的な打撃を被る。
 翌月。山茶花の月、教皇庁は未聞の悪名を成すこととなるひとつの布告を発布。いわゆる「救済の聖女」とそれが広める治療薬の製法を異端認定し、彼女を全域で要身柄拘束人に指定。その隠された意図は明らかだった。民衆たちからは、「もし聖女の広める薬の作り方が異端であると言うならば、教皇庁はただちに自分たちの製法を公にし、その相違を明らかにすべきではないか」との抗議の声が立ち上る。実際には、教皇庁の製法と聖女の広める方法は寸分違わず同じであったため、教皇庁側は薬の調合法を最後まで明らかにすることはなかった。
 布告から数日後、聖女はみずからの足で教会へ出頭――そのとき既に救済の聖女オリヴィアの名声は不動のものとなっていた。翌日、星室庁の略式裁判により魔女オリヴィアの処断が決定。中央塔への永久幽閉が行われる。この地では聖女への信仰はしばしば教皇や神への信仰にすら勝る。民衆に彼女を聖女とする声が根強い以上、たとえ魔女と断じても処刑まで踏み切ることはできず、せめて名声を風化させ影響力を削ぎ落とすための苦肉の策だった。
 疫病が見事なまでに終熄したこともあって、数年後、聖女オリヴィアをめぐる教会への不満は影を潜めた。誰もオリヴィアのことを会話の端に出す者は居なくなり、教皇庁の目論見通り、民衆の関心は日々の生活に関する他ごとへと移っていった。いまでは一歳(ひととせ)に一度、教会非公認の「聖女の日」としてオリヴィアを祀る日があるばかりである。そこでは教会の目を掻い潜るため、彼女はたんに「薬の聖女」という名で通じていた。しかしそういったすべての事柄は、牢の中にいる当人にとってはどうでもよいことであった。
 彼女が幽閉されている中央塔は王都の北にあり、様々な政治的罪条で捕らえられた貴族や聖職者を放り込む為の専用施設となっている。その警備の厳重さたるや邦内に肩を並べる処なく、囚われの聖女を一目拝もうと一般市民が押しかけても、試みはいつも虚しい結果に終わるばかりであった。オリヴィアが民衆の前に一目姿を見せただけで、観衆は再び沸き立ち、熱狂とも騒擾ともつかないたいへな事態が起こることを教会は知っており、彼女が塔のどこに監禁されているかさえきわめて厳重に秘匿することを徹底していたからである。


 ところがそんな誰も立ち入ってはならないはずの彼女の石牢に、こっそりと忍び込んでは会話を試みる怪しい影があった。何を隠そう、あのときの魔女イリィである。
 オリヴィアが「救済の聖女」として活躍しているあいだ、みるみる失墜してゆく教会の権威に、イリィの帰依する悪魔サタリエルは御満悦であった。初めイリィがオリヴィアを訪ねてやって来たときはこのことに対する礼だといって、以後いろいろな理由を付けたりしては、繰り返しオリヴィアを自由の身にしてやろうと提案したが、オリヴィアは頑としてその言葉に耳を貸さぬままだった。

「何度も云っているでしょう。あなたの情けを享けるいわれは有りません。私は魔女であり、教会によって定められた罰をこうして受けているのですから」

窓辺に切り分けられた一片の蒼穹に沐しながら、瞑想へと入り込んでいた女は静かに答えた。

「あなたが魔女?」

イリィが――いまだオリヴィアから一顧だにされたことのない魔女が――おかしそうな様子で首を傾げる。「みんなあなたのことを《聖女》と呼んでおりますのに? ねえ、救済の聖女様?」

オリヴィアは愁いの表情を浮かべ、手元の書帙にそっと目を落とす。

「私は多くの人を見捨て、もっとも親しい友人を裏切りました。母の気持ちを省みず、罪もない人々にいわれのない憎しみをぶつけて、地獄の底に片足を踏み入れました。罪悪感から逃れるため人々を助けるような活動を試みましたが……結果はこの通り。やはり、天の父はすべてを見透かしておられるのですね」

オリヴィアは法悦にも似た感嘆を乗せ、そう口ずさんだ。イリィはやるせない溜め息をつきながら、

「あんな無茶な理由をつけて、こんな処に閉じ込められて、理不尽だとは思いませんの? 妾だけが、あなたを正しき儘に、自由の身にして差し上げられますのに……」

と不満を述べた。

「お引き取りください。私が魔女の話に乗ることは、もはや永久に無いでしょうから」

オリヴィアは断固としてこの狭い牢獄に捕らわれ続けることを望んでいた。これを定められた運命と忍従する気持ちが、退屈と不自由を嫌うイリィには知れなかった。

「聖女さまはどうやら、妾のことがお嫌いみたい」

イリィは拗ねたような口調でそう言う。この魔女の外見は数年前から少しも変わらず、むしろ子供っぽい仕草をするといっそう若々しく見えた。それがすっかり様変わりしたオリヴィアと奇妙な対比をなしていた、ふたりはきわめて対極だった。

「あなたにも感謝はしていますよ。命の恩人ですし、それにあのときあなたが見過ごしてくれなければ、私はきっと沢山のひとに薬を届けることはできなかったでしょう。いま、こうして会いに来てくれるのもあなただけです。私がここで定めを受け入れることになって、あなたがこんなにも悲しむとは思いませんでした。済みません」

オリヴィアは丁寧にそう言い添えた。

「べ、べつに悲んでなんて……!」

反射的にそう否定したイリィに、

「そうですか。それは良かったです。ではお引き取りください」

オリヴィアはにっこりと笑っていった。イリィは顔を真っ赤にして、

「…このわからず屋! もう、来てあげませんわよ!? 妾だって、いつどんな身上に遭って還れなくなるや知れませんのに」

と言い捨てた。

「そんな悲しいことを言わないでください。あなたが無事でいられるよう、ここから毎日、神に祈っておきますから」

イリィはその言葉には耳を貸さず、見えない光の父を待ちわびているこの聖女から一刻も早く背を向けて、暗い石壁から虚空へ消えた。

Fin
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