第二章 バザールは伽藍堂

文字数 3,486文字


 いつまで経っても母が帰らないので、心配して村へ追うように降りていった少女の許へ、悲しい知らせが追うように舞い込んだ。曰く一人の忌むべき魔女、村外れの小屋に住む除け者が、今宵の正義の下に科刑されたというのだ。疲労を押して処刑作業に携わったという村人の語り草はどこか安息で、これでこの世界から病巣が一つ取り除かれたとでも言うように、少女の底の深い悲しみも見遣らずに、一方的に会話を打ち切って己の安らぎを家路へと急がせた。後ろ姿を傴ませ淀んだ咳をする村人を、絶望の眼で膝つき涙する少女の悲しみが、絶えることなくいつまでも見つめていた。
 少女はしばらくそこに座り尽くしていた。告げられた音綴の不吉な羅列を、信じられず拒絶するかのように。そんな事はあり得ない。そう知っているのに、母がもうこの世から居なくなってしまったと想像しては、途轍もない悲しみに暮れてしまって、その場から一歩も動けなくなるのだった。

「嘘よ。こんなこと嘘に決まってる。お母さんが魔女だなんて、そんなのありえないのに、どうして、……」

何が起こったのか、少女には見当もつかなかった。確かに魔女は野山の植物からいろいろな薬を作り出すと伝え聞いたことがある。人を惚れさせる薬や口の堅い者から真実を訊き出す薬など、にわかに信じがたい逸話も多い。けれども大勢の人々を救うための薬を魔女が作ったなんて、そんな話は聞いたことが無い。だから母が魔女と間違われるなんてあり得ない、それが少女の確信めいた必然だった。
 されど必要なのは真実を確かめる勇気で。少女は不器用に顔を拭ってから、話を宛てに村の広場へと向かった。虚ろな瞳からは涙さえ消え、黙した口は一文字に固く閉ざして。
 広場で何かが燃やされたのは明らかだった。地面は黒く焦げて不自然な熱で歪んでいる。話通りなら、此処で魔女を処刑したのだという。この村でそんな残酷な行為が行われたこと自体、少女には信じがたかった。村はいつも優しく少女を守るだけの存在だった。部外者を排除するようなこともない。こんな病が流行る前までは、立ち寄った旅人を皆で歓待したりしていたのだ。まるで昨日のことのように少女はその宴の様子を覚えている。あんなに陽気でのどかで素晴らしい村だったのに、疫病がすべてを変えてしまったのだろうか? 村人たちは昨夜、本物の魔女を見つけて処刑したのだろうか? それとも……
 やがて散乱する燃えがらのひとつに母の遺愛の晴れ着を見出したとき、悲鳴とも慟哭ともつかない叫びが少女の口から上がった。

 村人は誰も母のことを信じなかった。娘は絶望に暮れ、逃げ惑うように小屋へ引き返す。今や彼女は魔女の娘として疎まれ、排斥されるべき存在となった。かつて少女の知り合いだった者たちは、道ですれ違っても彼女のことを無視する。けれどそれはじつは慈愛に満ちた行為で、本当なら村長に報告して突き出さなければならなかっただろう……。
 かくて偶有した幸福への奇貨は、いともたやすく少女を裏切り、少女から最もかけがえのない愛を奪った。世界を被覆する疫病は未だ解決されていないばかりか、永遠に母の活躍によって済度されることはないのだ。泣き濡れながら逃げ帰り、かつて母と暮らした小屋の扉を内側から堅く閉ざしたとき、少女の心もまた閉ざされた。
 それからの少女は誰にも理解されることを拒み、震えるような悲しみの底でおのが孤独を抱き竦めて過ごした。母の優しさの遺したものは、幻想に沈む数々の思い出と、生々しい血と悲鳴で湿した羊皮紙だけだった。そこに記された治療薬は少女でも簡単に調合できるものだったが、もはや誰に作って遣るつもりもない、少女はただこの疫病によって、憎むべき村や世界が壊滅的な被害を被ることだけを望んでいた。《

「今日も、弔いの鐘が鳴っているわ……あんな馬鹿な村人たちなんて、一人残らず疫病にやられてしまえばいいのよ!」


 呪いの言葉を囁きながら、少女は黙示的な裁きによるこの世の終わりを願った。それはとても静かな、ある種の修道院を彷彿とさせるきわめて蕭条たる生活だった。このままいずれ世界は完全な闇に沈むだろう。少女は母と過ごした思い出の残る、小さな方舟からその様子を見守った。
 処刑された母親の遺志を継ぎ声高に治療薬の存在を叫ぶことは、おのが無力を省みない愚かな行為であるばかりか、世界から裏切られた母への裏切り行為であるとすら少女には感じられた。もはや十字に祈ることも、世界の穏和を願うことすら亡母(はは)への冒涜だった。少女の失望が母の思い出とともに孤独の闇へ沈んだことは、さすれば世界への消極的復讐を果たすという野望的な行為であった。

 ある日、とうとう食糧が心もとないというので、市の立つ村へ少女は出かけることにした。念のために薬を煎じ、たとえ死人の上を踏みつけに歩いても全然問題ないようにして。ただひとつ心配事は、村人たちが自分のことを魔女の娘として捕らえ、尋問にかけたりしないだろうかということだったが、いざ村の表通りへと降り立ってみると、その心配はすっかり霧散した。
 市場の立つべき日だと言うのに、村の通りにはほとんど何もなく、誰も少女を捕まえようとするような活気ある人物は見当たらなかった。まばらな人影はみな顔を覆い隠して怯えるようにして歩き、目当てのものが皆目見あたらない虚構の市を彷徨っている。その哀れさに、少女はほとんど喉元まで出かかっていた笑みを抑えることができなかった。ああ、素直に母の忠告に従っていれば、今ごろこんなことにはなっていなかったでしょうに!《 

 「でも、これからどうやって暮らそう? この分だと、来月には市場なんて失くなっちゃう。そうだ、いっそ泥棒でもすればいいのかしら? そうよ、疫病で一家全員死に絶えた家から、好きなだけものを盗めばいいのよ。どうせそんなところ誰も立ち入ろうとはしないでしょうし、中にある品物なんて誰も欲しがらない。そんな無価値なものなら、ただで貰ってしまっても構わないわよ。私は魔女の娘なんだから、それくらいのことをしてもいいわよね」

「そう考えると楽しみね、この村のみんなが息絶えたとき、すべての財産は私のものになって、私は村で一番の大金持ちになれるのよ……ほんとうに誰ひとり残らず居なくなってしまうのかしら?」


 嗤笑しながら思案を巡らす少女オリヴィアの脳裏にふと過ぎったのは、幼年時代の思い出、メアリーとこの通りで暮れるまで遊んだ日々の愉しさだった。そういえばメアリーはどうしているのだろう。息災だろうか?――そんな無邪気な疑問が、彼女の足どりを機械論的に動かしていた。


 立派な構えをした一軒の家の前に立ち、呼び鈴を鳴らす。こんな状況になっても辛うじて親友として頼めそうなのは、思い返せばメアリーだけだった。だとしても、たとえ最悪のことが起こっていても決して悲しまないとオリヴィアは心に誓った。メアリーとて、所詮は愚かな村人の仲間なのだから。
 いつまで経っても返事がないので、オリヴィアは意を決して中に立ち入る。迎える影は居らず、ひどい腐臭が居間から拭いきれず漂ってくる。ここで誰か死んだのだ。不思議とオリヴィアには何の実感も沸かなかった。これはただの摂理、あるいは母を裏切った結果として生じる当然の報いだとみずからに繰り返し言い聞かせて、こみ上げてくる吐き気は御しながら進んだ。いくつもない部屋を適当に探索した後、かすかな記憶を頼りに寝室へ向かうと、そこにはメアリーを含め家族3人が仲良くベッドで魘されていた。もう床から起き上がることは誰にもできず、そのままの状態で何日か経っているようだった。いずれもかなり危うい状況であることは《お醫者様》でなくとも窺い知れた。
 オリヴィアは悲しくなった。身無しの身になってから唯一の味方だった「災い」が、こんな形でかつての友人に襲い掛かっているのを見ると、捨てようと決した良心がふたたび彼女に生温かくすがりついてくるのを感じるのだった。
 オリヴィアはメアリーのか細く白い、熱を帯びた手にそっと触れてみた。そこに感傷はなく、感染を恐れる余人には決してできない行為だということに思いを馳せるだけで、燃えるような優越感がオリヴィアの背中を立ち上った。そのとき復讐者としての彼女に、素晴らしい天啓が舞い降りたのだった。

「そうよ。あなただけは助けてあげましょう。世界中の人間が死んだら、私は一人ぼっちになっちゃうんだから」
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