第一章 偶然性はアイロニー

文字数 4,838文字


 舞台はと或る小さな村。平穏な村のはずれに佇む森近くの小屋に、若い母娘が住んでいた。娘であるオリヴィアは生まれてこのかた村の外へ出たこともなく、優しい母と陽気な村の子供たちに囲まれて迚も幸せな日々を送っていた。家計はたいへんに貧しかったが、母娘はいつも助け合って糊口を凌ぎ、その道徳的で貧困な生活は、誰しもが天国へ続いているものとして想像する正にその通りのものだった。《

「――ねえお母さん。わたしたちのおうちって、お父さんが居ないから貧乏なの?」

「……そうかもしれないわね」

「いつかお金持ちになれるかしら?」

「ええ。きっと」

「お金持ちになれたら、お母さんも今よりもっと楽できる?」

「ええ。でもね、母さんはもう充分よ。この生活で満足しているの。こうやってつつましく毎日暮らしているとね、いつか天国へ行くことができるのよ」

「ほんと!? わたしもお母さんと一緒にはやく天国に行きたい!」》
 見護られる儘に、娘は健やかにすくすくと育った。やがて初夏が訪れて麦穂が頭を垂れるほど実ると、収穫の時期がやってきて、村人たちは全ての実りを刈り取ってゆく。刈り取られなかった麦は、ただ地に落ちて溢れるだけ。おおよそこのように、いつまでも実り続ける幸福など存在しない。母親のために花冠を編んでにっこりと微笑む少女、その受難の日々は近く、村では既に不穏な黒雲が余勢を増していた。

 いまだかつて見たことも聞いたこともない奇病が、突如として村で流行し始めた。その病はゆっくりと併し確実に、村びとたちの輪の中へと入り込み、ひとりまたひとりと感染者の列に加えていった。されば活気のあった村は次第に陰鬱となり、大路で賑やかに遊ぶ子どもたちの声もばたりと聞かれなくなった。ひとたび感染すれば対処法も未知のため、致命的な結果は避けがたい。それはまさしく「死の疫病」だった。
 少女の母親は、たったひとりのかけがえない娘を悪病から守るために駆けずり回って奮闘を開始した。小屋の窓を板と釘で堅く鎖し、娘には外出を堅く禁じた。毎朝毎晩、主への祈りを一日とて欠かすことなく、治療に有効な処方やまじないの噂があればすぐに聞き出して手帳へと書き留めた(もっともそれらの大半が誰かが苦し紛れに考え出した夢想で、そのさだまった用途と言えば、醫者が治療代わりに用いるむなしい努力のみせかけにすぎなかったが)。
 オリヴィアは自身を取り巻く深刻な状況をほとんど知らされないままで、ただわずかに知り得た知見といえば、外出を絶対的といってよいほどに禁じられる以前、村一番の親友であるメアリーと窃かに交した断片的な会話のみであった。《

「ねえメアリー。どうしてこの頃、誰も野原で遊んでは居ないのかしら?」

「知らないの? 気味悪い病気が流行っているからよ」

「そうなの?」

「オリヴィアはまだ聞かされてないの? ……ここだけの話、そういう病気にかかったら、助からないかもしれないんだって」

「どうして?」

「だって治らないもの。治す方法を誰も知らないの。だから、お互い気をつけようね」

「うん……」


 ついに王都にまで疫病の魔手が及びはじめた時分、とある悲劇的な噂が流言された。それはいま地上を襲っている災いはまさしく神の裁きであり、世界はもはやこの病苦から逃れる術を持たないだろうという作話、またある別の民衆はその悪名から、この疫病は魔女の引き起こしたものに違いないと考えた。いずれにせよ、いつまでも運命の風向きが芳しくないことには変わりなかった。
 或る日、ついに母親の恐れていた事態が現実となった。洗濯の手伝いをしていた娘が倒れ、倦怠より寝床から一歩も動けなくなったのだ。語り伝えられていた通り、それはまるで散々聞かされてきた物語の筋書きを、今度は劇として観せられるようなものだった。劇の主役は病者であり、数多の役者と同じように終幕まで舞台から降りることを許されない。なぜ悲劇は繰り返されるのか、どうして神はこんなにもたくさんの人々に同じ劇を演じさせるのだろう――咳の独唱、痙攣の舞踏、苦悶の独白、そんなものを幾度もご覧になりたいとでもいうのだろうか?《

「お母さん、ごめんなさい。まだ今日の仕事が終わってなくて……」

「いいのよ、あなたは病気なんだから、ゆっくりと休みなさい」

「ねえ、私の病気って……」

「すぐに治るわよ。良い子にしていれば、きっと。お医者様があなたを診に来てくれるし、お母さんだって治療の方法を一生懸命探すから……」

「死んじゃうかもしれないね……」

少女の覚悟したような声調に撃たれて、母親は涙ぐみ乍ら、世に真実とされる事柄を語った。

「……そうね。でも死は終わりではないの。あなたはこれから、とっても素敵な場所に行けるのよ」

「ねえお母さん、泣いてるの……どうして? 私が死んじゃうから? それとも離れ離れになっちゃうから?」

「いいえ、私たちはずっと一緒に居られるのよ、永遠に、何時までも。いつかそんな日が来るのよ。あなたはもう賢い歳だから、解るでしょう?」

「うん。もちろん……」

 緩徐(ゆっくり)と進行してゆくこの病魔(やまい)は、されど最後には確実に病者の生命を奪う、現世で残された時間は僅かなものだった。娘を甲斐甲斐しく看病する傍ら、母親は必死になって治療法を求め、その渇望で夢にまで魘された。一方で、すでに村びとの幾人もがこの苦境に陥っていると(うっす)ら知っていた少女は、この境遇をすっかり受け入れ、母がひと昔前のように優しく甘えさせてくれることを何よりも喜んだ。
 来る日も来る日も、母親は様々な薬を娘に煎じ与えた。幸か不幸か、小屋の裏手の森にはとりどりの木の実や薬草が生えていて、そのうちのどれか一つ、またはその組み合わせが疫病に対する劇的な治療薬となるやもしれない。されど茫洋たる確率の多岐に、そのような妙薬を見つけ出すことは依然としてできず、苦痛を和らげる術さえないままに、娘の病状はひとつ先の段階へと進んだ。

「ううん。全然怖くないよ、お母さん。そんなに心配しないで、たまには休もう?」

 少女は何かが終わってしまったと感じた。今まで過ごしてきた平穏な暮しを支えていた太い柱が根元からぽっきりと折れて、均衡を崩した世界はもう二度と元へは戻らない。豆の木は伐られたのだ。そうしてみると地上はこんなにも悪いもので溢れて、棲みやすいとは迚も言えない環境で。はやく母の言っていた「素敵な世界」が来て欲しいと、惣暗闇(くらやみ)の寝床で苦痛に耐えながら少女は夢想した。
 冒している病が重篤なものとなってゆくに連れて、恐怖は次第に遅れてやってきた。しかし今更もう怖いなどとは言い出せず、また無為なことだった。死に向かってゆく人々は、誰しもこのような絶望の気持ちなのだ。死に打ち克てる人物はこの世でたったひとりだけ、後の者は皆みすぼらしい棒きれを持ち、恐ろしい姿をした怪物にひとりで立ち向かってゆく哀れな兵士として、勝てるわけもない戦いに挑み、敗者として平伏し生死の境目で気ままに弄ばれて、最後には累々たる虚無の谷底へと投げ落とされる。そしてそうした谷底から再び這い上がれるのは、穢れのない軽い魂だけなのだった。

 運命のカードが反転することとなったその夜、朦朧たる意識の中で、少女は不思議な囁き声を聴いた。それは物静かでとても落ち着く声で、甘く蕩けるような紫煙の香りを伴っていた。少女は姿の見えないその存在に伝えたい事があって声を出そうとするが、しかしうまく言葉が紡げない。夢の中のようにみずからの躰も思いのまま動いてくれない。そのうちに声は遠ざかり、少女は寝汗の感触によって覚醒の世界へと引き戻される。もう何日も昏睡と譫妄を繰り返し、昼夜の区別さえままならない状態に居たのだった。あらゆる悪夢をこの目で見て、それを全て忘れてしまった人のように、少女はなんとも言えない悪寒に身震いした。寝具から上体を起こすと、彼女は蝋燭の光が差し込む隣の部屋へふらつく体で歩いていった。
 居間ではもう何日も睡眠を摂っていなかった彼女の母親が、力尽きたように机に突っ伏して眠っており、その側に濡れたすり鉢と薬液のシミがついて汚れた羊皮紙が転がっている。ふと、少女を包み込む甘く蕩けるような香りが部屋中に漂った。その香はすり鉢から発せられていて、先ほど見た不思議な夢の感触にも似てどこか懐かしかった。少女はとりあえず散らかっていた道具と紙片と衣類を片付け、もう随分掃除されていない床を絞った雑巾で拭いた。木の実の汁が染みになってどうしても落とせない箇所があり、一旦は途方に暮れ、それでも負けじと一所懸命床をこすっているうちに、起きがけの母親に指摘され、少女ははじめて自分が快癒していることに気付いたのだった。
 病魔が彼女の中から奇跡的に去ったその朝、母と娘は歓びを共に分かち合った――抱き合って、頬を目一杯に摺り寄せながら。それから2,3日もすると少女はすっかり元のようになり、今まで死の影に怯えていたことなど考えられないような健康躰になった。少女は目を丸くして母親に尋ねた。一体どうやってこんな素晴らしい薬が作れたの? と。少女の母親はただ微笑み、穏やかな瞳でただ「偶然」とだけ答えた。


 少女は喜んだ。これから母が受けるべき賞賛と栄誉のことを思うと、胸がわくわくするのだった。まだ治療の手立てすら見つかっていない奇病、いまや世界を滅ぼしつつあるこの流行病の対処法を、母は発見したのだ。偶然とはいえ、これで苦しんでいる大勢の人々が救われる。数えきれない数の諸民が母に感謝し、使い切れないほどたくさんの金貨が支払われるだろう。これまでのように貧しい暮らしを続ける必要もなくなり、この世界を救った恩人として感謝され、崇敬され、残りの人生のすべてを王宮かそれに匹敵する豪奢な宮殿の中で暮らすことができる、かつておとぎ話に出てきた可憐なお姫様――幸福な結末とは裏腹に途切れてしまったその物語の続きを、今はこの目で見ることすら叶うだろう。
 ところが母親は、いつまで経っても計画を実行に移す気配がなかった。古びた揺り椅子に独り腰掛け、窓辺で物憂げな溜息をつく様は、まるで別の病気にかかってしまったかのようで。どうして母はこんなにも幸運な機会を逃すのか、少女は説得して必死に母を揺り椅子から動かそうとした。《

「ねえお母さん、はやく村のみんなにこの薬のことを教えてあげて? もし全員分つくれなくても充分に感謝されると思うし、みんな知りたがってるよ!」

「ええ……そうね、そうかしらね」

「どうしたの? 本当にどこか具合でも悪いの? みんなお母さんを待ってるよ?」

「薬があれば、本当にみんなを救えるかしら……?」

「当たり前! 私は治ったじゃない――薬は本物だよ!」


繰り返される問答と母の煮え切らない態度に、少女はますます焦燥を覚えた。一体母が何を悩んでいるかわからず、あれほど必死に自分のため駆けずり回ってくれたと言うのに、ついつい苛立ちから心無い言葉を浴びせてしまうことさえあった。けれども無垢な少女の視界は、少しでも手を伸ばしさえすれば届くはずの幸せに夢中になっていて、どうかそれを手に入れて欲しい、世に認められて欲しいという一心で、少女は訴え続けたのだ。汚れなきその純真が、遂に母親を行動へと衝き動かすまで。
 あくる日、母親は透徹した薄紫色の液体が詰まった薬瓶を籠に伴い、久方ぶりに下界へと降りていった。早朝、出立(しゅったつ)を見送る少女の歓喜が、朗らかな笑い声と共に、いつまでもいつまでも祝福の鐘のように残響していた。
 オリヴィアの母が魔女として処刑されたのは、その夜だった。
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