第7話 彼女とおれのソーシャル・ディスタンス
文字数 2,145文字
二日おきには掃除に来ていた。自転車で。
千五百席の大ホールのメンテはさすがに業者にまかせたままだけど、小ホールは百二十席。予算削減で、清掃もうちのスタッフでやっている。おもにおれ。あと、浅井先輩。
「おはよ、成田くん。今日も早いね」
うおお先輩だ。先輩だ先輩だ先輩だ。今日も美人だ。マスクで顔見えなくても美人だ。
バカかおれは。バカです。
「おはようございます!」
発音どおり書くと「あーざいあーっすっ」だ。
《カナリアホール》というニックネームの小ホール。採算が取れないから、つぶして会議室(コンファレンスルーム)にしろという話、市のお偉いさん方からの。前々からあったけど、この三カ月で一気に加速した。そんな。
おれなんか2年目の下っ端だから、何が決定されても従うしかない。だけどこの小ホール、つぶすにはあまりに惜しいキュートな劇場だ。明るいブルーの壁にクリーム色のモザイクで木や花や鳥がたくさん描かれてたりなんかして、ほんと親子向けにぴったりの空間なのに。
からっぽの舞台。がらんどうの客席。
「今日でしたね。本当なら」
「うん」
パンダとかトラとか動物の着ぐるみをかぶって演奏するご機嫌なブラスバンド。去年招いたら子どもたちに大好評で、今年も申し込みが殺到して抽選にまでなったのに、まさかの公演中止だ。申し訳ない、バンドの皆さん、当選した親子の皆さん。中心になって動いていた先輩の無念さは、おれの比じゃないと思う。
「ねえ。次はさ」
先輩は舞台端 に腰かけて、足をちょっとぶらぶらさせている。おれも掃くのをやめて、腰かけた。えっと、2メートルな、2メートル離れてと。ソーシャルディスタンス、ですよね。
腰をおろした瞬間、言われた。
「次、あるのかな」
誰もいない客席をじっと見ている。
初めてだ。こんな弱気な先輩。
「ありますよ。決まってるじゃないですか」
「そうかな」
「この秋、行けるんじゃないすか?」
「無理だよ」
「じゃ来年」
「来年、もう、ないかもしれないじゃない、ここ」
「だめですよ先輩。悪いことって、口に出すと実現しちゃうらしいですよ?」
「あたしね」先輩の声が乾いてる。マスクのせいか。たぶんちがう。「なんか自分で思ったよりメンタルにダメージ来てて。人間と人間が、同じ空間にいて、同じ空気を楽しむって、それが舞台のいちばんいいところで、だから舞台にかかわりたくてこの仕事についたのに」
「人と人が、そばにいることが、いまいちばん危険で、不潔で、ほぼほぼ犯罪で。
下手すると通報されて」
「緊急事態宣言、解除になったけど、これ、戻れるのかな、みんな?
みんな戻ってきてくれるかな、劇場に。
てか、あたし、戻れるかな。もとに」
大丈夫、ですか、先輩。
いますごく……すごく……ハグしてあげたいけど、あらゆる意味で無理。
「戻れますよ」
ああこの、なんだこの、からっぽな舞台に2メートル離れて座って、顔そむけてしゃべって、これじゃ届くものも届かない。先輩、せめてこっち向いてください。こっち。
「戻れますよ。
こんなの不自然ですよ。無理ですよ。人間なんだから。ビニール越しガーゼ越しなんていつまでも無理ですよ。つらすぎる。頭いい人たちがワクチン作ってくれるの待ちましょうよ。そんで市のお偉いさんも待たせる。ね。つぶして会議室とかあり得ない。おれが体張って阻止します」駆けあがって舞台のまん中でダイブした。「ダイ・イン! あちょ、痛っ」頭打った。お、ちょっと笑ってくれた。よし。
「私設の小劇場なんてものすごく大変じゃないですか。それ考えたら落ちこんでられませんよ。公共ホールはまだ恵まれてるほうじゃないですか。おれらががんばらなくてどうす――」
「怖いの」
「何が」
「人に、近づくのが。――うつすのが」
「また、人にうつすのが」
「ごめんね」
「だからさ。
あれはインフルでしょ、ただの。おれ大丈夫でしたから。復活したでしょすぐに」くそっ。この2メートル。「おれほんとバカだから死なないですよ。大丈夫ですから。あの、ほんとのこと言っていいですか。おれね。たしかに熱すごくてもう苦しいもう死ぬと思いながらね」
「何」
「あのこれ一度しか言いませんけど。明日コロナで死んだら言えなくなるからいま言うけどいいすか」
「何」
「おれマジで。マジで。苦しい死ぬとか思いながら。
ああこれ浅井先輩からもらった菌なんだ、幸せ~って。
バカですよね。
変態ですよね。ああもういいですよ。おれ最低。もうほんと死んでいいですよね」
マスクなんかとっくにむしり取ってた。舞台花(とも書く)に仁王立ちになって、両手でメガホンを作って、誰もいない客席に向かっておれは叫んだ。
「せん・ぱいが・好きだあああああーーーーー!!!!!」
「バカ」
「死ぬな」
笑ってくれた。よかった。
え何、マスクもはずしてくれた。いいの先輩?
長い髪がさらっとこぼれる。おお。
美しい。
ほんとバカおれ。
「『先輩』、やめなよ」
「へ?」
「だからさ、『先輩』って言うの、やめなよ」
「え、ちょ、何? じゃ何? え、」
「佳奈ちゃん?」
「バカ。それはいきなり詰めすぎ」
「ですよねっ」
段階的に緩和だな。そうそう。段階的に。
いま、これ、レベルいくつですか?
先輩。
じゃなかった。浅井さん。
千五百席の大ホールのメンテはさすがに業者にまかせたままだけど、小ホールは百二十席。予算削減で、清掃もうちのスタッフでやっている。おもにおれ。あと、浅井先輩。
「おはよ、成田くん。今日も早いね」
うおお先輩だ。先輩だ先輩だ先輩だ。今日も美人だ。マスクで顔見えなくても美人だ。
バカかおれは。バカです。
「おはようございます!」
発音どおり書くと「あーざいあーっすっ」だ。
《カナリアホール》というニックネームの小ホール。採算が取れないから、つぶして会議室(コンファレンスルーム)にしろという話、市のお偉いさん方からの。前々からあったけど、この三カ月で一気に加速した。そんな。
おれなんか2年目の下っ端だから、何が決定されても従うしかない。だけどこの小ホール、つぶすにはあまりに惜しいキュートな劇場だ。明るいブルーの壁にクリーム色のモザイクで木や花や鳥がたくさん描かれてたりなんかして、ほんと親子向けにぴったりの空間なのに。
からっぽの舞台。がらんどうの客席。
「今日でしたね。本当なら」
「うん」
パンダとかトラとか動物の着ぐるみをかぶって演奏するご機嫌なブラスバンド。去年招いたら子どもたちに大好評で、今年も申し込みが殺到して抽選にまでなったのに、まさかの公演中止だ。申し訳ない、バンドの皆さん、当選した親子の皆さん。中心になって動いていた先輩の無念さは、おれの比じゃないと思う。
「ねえ。次はさ」
先輩は
腰をおろした瞬間、言われた。
「次、あるのかな」
誰もいない客席をじっと見ている。
初めてだ。こんな弱気な先輩。
「ありますよ。決まってるじゃないですか」
「そうかな」
「この秋、行けるんじゃないすか?」
「無理だよ」
「じゃ来年」
「来年、もう、ないかもしれないじゃない、ここ」
「だめですよ先輩。悪いことって、口に出すと実現しちゃうらしいですよ?」
「あたしね」先輩の声が乾いてる。マスクのせいか。たぶんちがう。「なんか自分で思ったよりメンタルにダメージ来てて。人間と人間が、同じ空間にいて、同じ空気を楽しむって、それが舞台のいちばんいいところで、だから舞台にかかわりたくてこの仕事についたのに」
「人と人が、そばにいることが、いまいちばん危険で、不潔で、ほぼほぼ犯罪で。
下手すると通報されて」
「緊急事態宣言、解除になったけど、これ、戻れるのかな、みんな?
みんな戻ってきてくれるかな、劇場に。
てか、あたし、戻れるかな。もとに」
大丈夫、ですか、先輩。
いますごく……すごく……ハグしてあげたいけど、あらゆる意味で無理。
「戻れますよ」
ああこの、なんだこの、からっぽな舞台に2メートル離れて座って、顔そむけてしゃべって、これじゃ届くものも届かない。先輩、せめてこっち向いてください。こっち。
「戻れますよ。
こんなの不自然ですよ。無理ですよ。人間なんだから。ビニール越しガーゼ越しなんていつまでも無理ですよ。つらすぎる。頭いい人たちがワクチン作ってくれるの待ちましょうよ。そんで市のお偉いさんも待たせる。ね。つぶして会議室とかあり得ない。おれが体張って阻止します」駆けあがって舞台のまん中でダイブした。「ダイ・イン! あちょ、痛っ」頭打った。お、ちょっと笑ってくれた。よし。
「私設の小劇場なんてものすごく大変じゃないですか。それ考えたら落ちこんでられませんよ。公共ホールはまだ恵まれてるほうじゃないですか。おれらががんばらなくてどうす――」
「怖いの」
「何が」
「人に、近づくのが。――うつすのが」
「また、人にうつすのが」
「ごめんね」
「だからさ。
あれはインフルでしょ、ただの。おれ大丈夫でしたから。復活したでしょすぐに」くそっ。この2メートル。「おれほんとバカだから死なないですよ。大丈夫ですから。あの、ほんとのこと言っていいですか。おれね。たしかに熱すごくてもう苦しいもう死ぬと思いながらね」
「何」
「あのこれ一度しか言いませんけど。明日コロナで死んだら言えなくなるからいま言うけどいいすか」
「何」
「おれマジで。マジで。苦しい死ぬとか思いながら。
ああこれ浅井先輩からもらった菌なんだ、幸せ~って。
バカですよね。
変態ですよね。ああもういいですよ。おれ最低。もうほんと死んでいいですよね」
マスクなんかとっくにむしり取ってた。舞台花(とも書く)に仁王立ちになって、両手でメガホンを作って、誰もいない客席に向かっておれは叫んだ。
「せん・ぱいが・好きだあああああーーーーー!!!!!」
「バカ」
「死ぬな」
笑ってくれた。よかった。
え何、マスクもはずしてくれた。いいの先輩?
長い髪がさらっとこぼれる。おお。
美しい。
ほんとバカおれ。
「『先輩』、やめなよ」
「へ?」
「だからさ、『先輩』って言うの、やめなよ」
「え、ちょ、何? じゃ何? え、」
「佳奈ちゃん?」
「バカ。それはいきなり詰めすぎ」
「ですよねっ」
段階的に緩和だな。そうそう。段階的に。
いま、これ、レベルいくつですか?
先輩。
じゃなかった。浅井さん。