第5話 唐辛子入りチョコレート

文字数 1,583文字

 冷蔵庫の奥に、チョコレートがある。
 チリ入り。唐辛子入りだ。輸入食料品店で見つけた板チョコ。
 同じようなのを食べたことがあるから、知っている。意外においしいのです。甘みの最後に、ほのかに、ぴりっ、と来て、あ、と思って、にっこりしたくなる。

 今年の――2020年のバレンタインデーに、戻れたらいいのにな。

 地下鉄S駅の駅前に、コンビニエンスストアは3軒あって、いちばん駅から近い店舗に、〈とう〉くんはいた。
 背はそんなに高くないけど、素敵な人だった。どこにでもある安物のつくりもののスマイルじゃなくて、いつでも自然な笑顔だった。
 いつでも、他の人よりほんの少しだけ多めに、輝いているような。

「おはし、おつけしますか」
「ふくろ、おわけしますか」
 はきはきしていた。ほとんど完璧な日本語だった。
 それに、もれなく、本物の笑顔がついてきた。

 袋に商品をつめるのがすごく上手で、学生らしい新人の日本人のバイトくんがもたもたしていると、すぐ、手伝ってあげていた。

 でも、手ぎわがよすぎて。
 わたしがお箸とかはいいですと言っているのに、はい、と言いながら、さっと袋に割り箸を入れてしまうくせがあった。
 頭が止めるより先に、手が動いてしまうらしかった。そして自分から、あははっ、すみませんと笑いだす。
 わたしも笑った。

「〈とう〉ってどういう字ですか?」
 いっしょに笑ったら、自然にことばが出た。
 なんとなく〈陶〉の字を想像していた。彼のたたずまい。きれいな肌。
「えっ」
「お名前」名札を、そっと指してみた。
「ああ」
 にっこり笑って、なぜか軽く息を止めるようにして、彼は言った。
「とうがらしのとう」
 とうがらしの、とう?

 唐辛子……
 あ、〈唐〉くんなんだ。
 唐王朝の唐、でもいいのに、唐辛子って。ふふ。

「いい字」
「そお?」
 いつもの笑顔じゃなく、とっても照れくさそうな顔になった。それがまた感じがよかった。
 もうちょっと話したかったけれど、わたしの後ろで小柄なおばあちゃんが待っていたので、代わった。たぶんここの近所のおばあちゃん。彼女も〈唐〉くんのファンで、彼のレジに並ぶのが好きなのだ。だって親切だから。袋につめるの、上手だから。

 恋の、本命チョコじゃない。でも義理チョコでもない。
 〈あなたのファンですチョコ〉。冗談入り、唐辛子。
 渡したかったな。渡せばよかった。
 彼のおかげで、わたしたち近隣の住人にとってあのコンビニは、何かちょっと、ほんの少し多めに本物の生気がかよっているような、ふんわりした空間になっていたのだ。

 2月のある日、張り紙がしてあった。
「一部の店員が、マスクを着用させていただいております。ご了承ください」

 唐くんのきれいな顔が、マスクで隠れていた。

 一瞬、目をつぶった。どうして、〈一部の店員〉なの?
 中国人だから?

 でも、目を開けて見まわしたら、
 仏像みたいな不愛想な店長も、ベリーショートを赤めに染めたぽっちゃり系のお姉さんも、最近やっとレジに慣れてきた新人くんも、全員、マスクをしていた。
 ほっとした。
 明日もこのお店で買おう、と思った。

 しばらくして、唐くんを見かけなくなった。

 来年も2月は来る。慎重に手を洗ってうがいをして、生きのびれば、わたしはたぶん来年のバレンタインデーを迎えることができるだろう。
 でも、今年の、2020年のバレンタインデーは、二度とない。
 渡せばよかった。本当に、渡せばよかったな。

 ありがとう、って。

 彼はいま、どこにいるんだろう。無事にお国に帰れたのだといいけど。
 もう、たぶん、会えないのだろうと思うけど、

 どうか、彼にとって、わたしたちの住むこの町が、この国が、
 二度と訪れたくない場所になっていませんように。

 そう信じられる日が来たら、冷蔵庫からチリ入りチョコレートを出して、そっとお祝いしよう、と思っている。

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