第4話 チューリップ

文字数 979文字

 築四十年の一戸建てが並んでいる。四十年前の〈新興住宅地〉。
 うららかな陽に照らされた小さな公園に、誰もいない。
 小鳥だけがさえずる。あれはシジュウカラ。
 ツピツピ、ツピツピ。

 その一角に、誰もいない。

 はちみつのように金色に輝いて、流れない時間。

 何かのまちがいで無人の風景画にまぎれこんでしまったように、一組の親子が歩いてくる。若い母親と、幼い娘。
 女の子はごきげんだ。声をはりあげて歌っている。
「なぁらんだ、なぁらんだ、ちゅ……らっぷ、の、はぁなぁが」
 チューリップ、の部分、まだ自信がないらしい。

 母親は笑って、女の子にマスクをさせようとする。
 女の子はいやがって、ととと、と逃げる。
 母親の笑顔はほとんど、グレーのマスクの下に隠れている。
 シジュウカラのさえずり。きらめくように。

「きれい」
「うん、きれいね」
 フェンス越しの庭に、みごとに咲いたチューリップ。赤、白、黄色、ピンク。女の子は手をのばして、花にさわろうとする。だめよ、と若い母親がとめる。
 よく手入れされた庭だ。芝生に、雑草もない。

 家の中で、電話が鳴っている。

 誰も出ない。
 既成の、留守番電話の応対が流れる。
「ご用の方はメッセージをお話しください」

 電話は切れる。

 築四十年の床と壁はリフォームされて、きれいに拭かれている。もう誰も弾かないアップライトピアノ。まだしまわれていないストーブ。
 編みかけの編み物。柔らかい、うぐいす色の。

 電話が鳴る。留守番電話が作動する。ご用の方は……
 ピーという電子音を待ちかねたように、もう若くはない女の声が話し始める。
「もしもし、お母さん? そこにいるんでしょ? 出てよ」

 誰も出ない。

 午後の陽が、古いけれど清潔なレースのカーテンを透かして射しこむ。
 電話が鳴る。留守録が作動する。ご用の方は……
「もしもし、お母さん? お母さん?」

「わたしが悪かったわよ。言い過ぎた」

「怒ってないで出てよ」

 古い洋服ダンスの引き出しが、少し、開いている。
 寝巻や下着を手づかみで引っぱり出したあとがある。
 テーブルの上に散らばる、プラスチックの診察券。どれも期限が切れている。

 電話が鳴る。留守録が作動する。ご用の方は……
「もしもし。ずっと電話しないでごめんなさい」

「お願い、電話に出て。お母さん」

「お母さん」

 庭にはチューリップ。
 赤、白、黄色。
 ピンク。

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