第3話 トロイメライ

文字数 1,062文字

 ただいま、と小さな声で言ってみる。もちろん返事はない。
 妻と娘たちは、妻の実家に帰っている。

 ああっそのまま上がらないで! 帰宅してドアを開けるたびに、悲鳴。そして、全身に噴射される消毒用アルコール。特大のボトルで。
 もう、慣れていた。
 そのお決まりの出迎えもなくなって、二週間になる。

 コンビニで買いだめしたカップ麺にお湯をそそぎ、割り箸を割る。

 だめじゃん、おれ。ゴミ出してんじゃん。
 苦笑する。

 緊急事態だろうが何だろうが、ゴミは出る。
 いや、増えてる。STAY HOMEとやらで。
 ゴミは収集所から青空に向かって蒸発しているわけじゃない。
 おれたちが回収している。
 手で。

 医者や看護師じゃないが、おれたちもいま、この国を守る仕事の一端を引き受けているんだという自負は、ある。

 だが正直きつい。
 ちゃんとしばってくれ、袋の口。カラスがつついてぼろぼろじゃないか。カラスはコロナだ何だってわかってないんだから。
 汁が垂れてる。
 ものすごい量のプラスチック容器。
 汚れたマスクも見える。

 収集車の回転するローラーに、ぶくぶくの白い袋たちが押しつぶされていくとき、また汁が飛ぶ。
 せめて、水気を切ってから、捨ててくれよ。

 なんでこんなに空が青いんだ。なんでこんなにつつじが満開なんだ。
 ピクニック日和じゃないか。

 家ではずっとカーテンを引いている。

 スマフォで音楽なんか聴いたことなかった。しかもクラシックなんか。
 見つけたのは、偶然だ。
 きれいなお兄さんだ。一瞬、女かと思った。危ね(何が)。
 ピアノを弾いてる。

 よくわからんけど、コンサートが中止になってしまったから、自宅で弾いてみました的なことらしい。へえそうですか。金持ちやなー。
 ちがうか。
 この人も、今月、収入、ゼロとかなのか、もしかして?

 トロイメライってどういう意味だ。何かの呪文か?

 水槽の水はとりかえておいてね。妻からの伝言だ。娘たちが去年、金魚すくいで取ってきてしまった雑な金魚なんかが適当に泳いでいる。
 水面に寄ってきて、口をぱくぱくしている。
 酸素が足りないんだな。

 日に焼けた畳とカーテンとにごった水槽と、特大のアルコールスプレー。この部屋に、なんだその、トロイメライってか、ぜんぜん似合わない。
 だけど、アルコールじゃ落としきれない、やりきれなさが、

 なんだこれ、澄んでいくっていうのか、

 なんでこんなに涙が出るんだ。


(special thanks to Fubuki Yajima)
https://youtu.be/HV6Ta-sudxc

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