第2話 万華鏡

文字数 1,244文字

 長い間のご愛顧、ありがとうございました。
 シャッターに貼り紙。
 うそ。

 あたしはシャッターに近づいた。一歩ずつ。よろよろと。
 うそでしょ。真新しい貼り紙。中太のサインペン。あの人の字だ。
 あの人。
 名前知らない。こんなに通ったのに。

 やっぱり休業要請のせいかな。新刊をあつかう書店は対象外だけど、古書店は対象。
「古書」は、「骨董品」で、「生活必需品」じゃないから。いますぐ「必要」な「情報」を載せてないから。
 何それ。誰が決めた基準、いますぐ必要か必要じゃないかって。

 駅前の、名物古書店だった。古本好きなら聖地巡りのひとつ。
 あたしはそんなマニアじゃないけど、とにかくたたずまいが好きだった。
 小さな間口。奥行きだってそんなにない。店内ですれちがうには、おたがい肩を引かなきゃならない。

 その奥のカウンターの向こうに、あの人はいつも座ってた。いつも胸まである作業用のエプロンをかけて、カーキかブルーの。
 そして何か読んでた。
 背後の棚にもカウンターの上にも下にもあの人の足もとのぐるっと周りにも、ぎちぎちに本が積まれてた。

 手に取ったら茶色く変色した表紙がぼろぼろかけらになって落ちていくような、そんな古本よりは、出たばかりの新刊がほとんど新品ですぐ店頭に出る。それもベストセラーやムック本じゃなくて濃いやつ。思想書とか。装丁がすごく凝ってるようなやつ。これ万華鏡?と思うような綺麗なの。
 どんなシステム、と思ってたら、ある日知ってしまった。
「あの、○○って著者の××って本、ありますか?」
「明日、入荷します」
 落ちつきはらって言われて、そうなんだ、と思って、ふと彼の手もとを見たら、読んでるんじゃない、それ。いま開いて読んでるんじゃない、カウンターの中で。
 目が合ったら、にやりと笑った。
 それから、話すようになった。

 話すと言っても、こんな本ありますかってあたしが訊いて、ありますよとかないけどこれはどうですかってあの人が言うだけ。
 年齢不詳。髪の毛の色が白っぽいからおじさんなのかと思っていたら、ときどききゅうにものすごく若く見えて、あれ、もしかして染めてるのかなって。
 棚の前にすっと立って、またはすっとかがんで、引き出してくれる。
 その日のあたしのための、一冊を。

 いま、あたしの職場は大混乱。出勤時間をずらして、マスクをかけて一つ置きのデスクで。ズームってあたしもよくわからないのに手配を手伝わされてる。緊急事態対応のメールの数が半端ない。しかも毎日内容が変わる。
 がらんとしたオフィスに圧迫感だけが満ち満ちてる。
 助けて。

 いま、必要なの、あたしには。いますぐ。
 あの人の選んでくれる本が。
 眠れないの、夜。目がさえて。
 この闇はどこまで続くの。いつまで。

 お願い。あたしの目の上に、あなたの手を置いて。
 本を渡してくれる時にさわってしまった、あなたの冷たい指を。
 あたしの夢を選んで。今日のあたしを眠らせてくれる、夢を選んで。
 帰ってきて。
 帰ってきて。

 万華鏡の人。

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