第21話 毒蛇

文字数 3,293文字

 帰宅すると、一階の祖母の部屋に灯りが点いていた。ただいまと声をかけると、何やらがたごと鳴る物音に紛れておかえりと返ってきた。祖母は押し入れの片付けをしているところだった。古いアルバムやら手紙の束やら夏物の洋服やらが畳の上に散らかっている。足を踏み入れると、かすかに樟脳の匂いがした。祖母は押し入れの中板を雑巾で一心に拭いていた。
「大掃除にしてはちょっと早いんじゃない?」と僕は言った。
「いやね、ちょっと思いついたもんだから」彼女は手を休めずに答えた。
手伝おうかと言うと、「年寄り扱いするんじゃない」と言って雑巾を振り上げた。
その拍子に祖母は激しく咳き込んだ。咳は後から後から出てきて、しまいには涙ぐみながらひゅー、ひゅーと脆弱な息をする。背中をさすってやると、どうにか咳は治まってきた。
「あー、死ぬかと思った」祖母は涙目で笑った。
僕はすこしほっとしたが、80歳という彼女の年齢に思い至り胸がひやりとした。
「時子さん、それ、洒落にならないからね。病院に行った方がいいんじゃない?」
「医者は嫌いだって何度も言ってるだろ。ちょっとむせただけなのに、大げさだねえ」
それから祖母は雑巾を洗ってくると言って洗面所へ向かった。廊下でまた咳が聞こえてきたので、彼女の後を追いかけようとした。すると何かに足を取られ、僕は畳の上で派手にひっくり返った。その拍子に足元に置いてあった菓子缶の中から何かがばらばらと出てきた。

 無数の写真が畳の上に散らかっていた。かなり古い時代のもののようで、どれもこれもセピア色をしている。破れたり擦り切れたりしているものには、黄ばんだセロテープで補修した跡が見えた。何枚かの写真の裏側には、油性マジックで『昭和××年 浅草寺にて』とか『友人の××と一緒に』などと書かれていた。『時子 二十歳』と書かれた写真をひっくり返して見ると、そこには若いころの祖母が写っていた。カールした髪に幅広の帽子、花柄のワンピースという格好だ。肘まであるレースの手袋をして澄ましている。涼し気な目元が印象的だった。
「あたしだって若いときはなかなかの美人だろ?」
いつのまにか祖母が僕の後ろに立っていた。
「びっくりした。もう大丈夫なの?」
祖母は僕の手からひょいと写真をひったくると、目を細めて若いころの自分を見つめた。
「華道っていうと、いつも着物だろ。この日は二十歳の誕生日だったから、ちょっと洒落た格好がしてみたくてね」
「よく似合ってるよ」と僕は言った。
祖母は気をよくしたようだった。そしてポケットから老眼鏡を取り出してかけると、畳の上に散らばった写真をトランプのカードみたいにざっと混ぜた。その中から一枚の写真を選び、僕に見せた。それは祖父母の結婚式の写真だった。

 祖父は黒の紋付き羽織袴を着て、まっすぐに正面を向いている。全体的に線が細く、女のように色が白い。背はあまり高くない。黒目がちの目は柔和なひかりを湛え、すっと細い鼻の下にやや厚ぼったい唇があった。なんとなくおとなしい白山羊といった趣がある。祖母は白無垢姿で、祖父の隣に立っている。凛とした眼差し、日本人にしてはやたらくっきりした立派な鼻、一文字に結ばれた口。どうやらこの夫婦は奥さんの方がしっかりしていそうだという印象を受ける。
「美男美女だろ」と祖母は得意げに言った。
「あんたは亡くなった爺様に本当によく似てる。見てごらん、瓜二つじゃないか」
「そうかな」
僕はもう一度写真を見てみた。そう言われてみるとそうかもしれない。全体的な雰囲気とか、顔のパーツなどは確かに共通するものがありそうだった。けれどやっぱり祖父と僕は別の人間だった。


 祖父は僕が生まれる前に亡くなってしまったと聞いていた。元々病弱だった祖父は肺癌を患い、49歳という若さであっさりと逝ってしまったのだ。祖母の元にはわずかな遺産が残された。それから祖母は女手ひとつで僕の父を育て上げた。ずいぶん苦労しただろうと思う。父は祖父の体質を受け継いだのか躰が弱く、大学は卒業したものの同じ職場で長く働くことが出来ず、職を転々としていたそうだ。見かねた祖母は、当時自宅で開いていた華道教室のアシスタントとして父を働かせることにした。その教室の生徒として来ていた女性と父は親しい仲になり、一年も経たずに結婚した。と、そこまでは子どものころに聞いて知っていた。ところがその先を訊こうとすると、祖母は急に歯切れが悪くなった。

 両親は僕が生まれるとまもなく離婚したそうで、今ではふたりとも音信不通になってしまったと祖母は説明した。しかしなんだかそれは不自然な成り行きのように思われた。母の方はともかく、父と何も連絡が取れないまま今日に至るなんて、よく考えると妙な話だ。けれどあまりしつこく訊くと祖母の機嫌が悪くなるので、ついそのままにしてしまっていた。僕は物心ついたころからすでに祖母とふたりで暮らしていたので、両親に会ったことさえなかった。けれどそれを寂しいと感じたことはなかった。暇つぶしに観る映画のように、両親のロマンスは見知らぬ誰かのエピソードでしかなかった。

 しかしこれだけ目の前に写真が並べられていると、どれが父でどれが母だろうとふと興味が湧いてきた。
そこで僕は祖母に尋ねてみた。彼女は渋い顔でしばらく写真の山を眺めていたが、やがて一枚の写真を取り出して見せた。それは他のものとは違い、カラーの写真だった。透き通るような青空と湖を背景に、一組の男女が微笑んでいた。男性の方はかなり小柄である。ネイビーブルーのポロシャツにジーンズという格好で、女性の肩を遠慮がちに抱いている。気弱そうな瞳と特徴のあるぽってりした唇は、祖父にそっくりだった。女性の方は日傘を差し、大きなリボンのついた白いワンピースを着ている。長い髪の毛をポニーテールにまとめ、かっきりと美しい笑顔を見せている。
「これが僕の両親?」
祖母は黙って頷いた。
「ねえ、他にもある?」僕はつい興味本位で尋ねた。
「その辺にあるだろうから、勝手に探しな」祖母は面倒くさそうに言い、よっこいしょと立ち上がると風呂場の方に向かった。廊下から咳が小さく聞こえてきたが、あまり心配するとうるさがられるだろうと思って黙っていた。

 僕は写真の山を漁り始めた。カラー写真はそれほど多くなかったので、両親の姿はかんたんに見つけることが出来た。机に向かって書き物をしている父。着物姿で参拝しているふたり。まだ赤ん坊の僕を抱いた若い母親。彼女は目鼻立ちのくっきりとした綺麗なひとではあったが、これが自分の母親なのだという感じはしなかった。実際に会ったことはなくても、写真を見れば何かしら感じることができるのではないかと漠然と期待していたのだが、そんなメロドラマのようなことは起こらなかった。

 写真の中の母は昔の女優のプロマイド写真のように、ひとつひとつの仕草や表情が洗練されていた。挑むような美しい目に力を湛えてカメラを見据えている。俯いた写真もあったが、睫毛の影や顎のラインが綺麗に見えるように計算されているように見えた。
「このひと女優か何かだったの?」と風呂場にいる祖母に僕は尋ねてみた。
祖母は風呂掃除を終えたところらしく、タオルで手を拭いながら部屋に戻ってきた。
「あんたのお父さんは写真道楽でね。あの女をモデルによく写真を撮ってたよ」
『あの女』とはもちろん母のことだ。
「だけどねえ、あんな大根、女優になんてなれるもんか。母親の役割だってろくに出来ないんだから」と吐き捨てるように言った。
祖母は詳細を教えてくれなかったが、そうした言葉の端々から、あまり母をよく思っていなかったのだろうということは伝わってきた。
「あんたもね、愛嬌ばっかり振りまいている女には気をつけなさいよ。そういうのに限って中身は毒蛇みたいなんだから」
そして祖母は「もう終り、終り」と言って無理やりに写真をかき集めると元の菓子箱の中にしまった。
 僕はなんとなく判然としないまま、膝を抱えて畳の上に座っていた。腹の中は毒蛇が棲みついてしまったみたいに、むやむやと重苦しかった。
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