第6話 甘えん坊のピアノと、冷蔵庫の中のブルーベリー・ショートケーキ

文字数 2,378文字

 次の金曜日が近づいてくると、僕は甘い痺れのようなものを尾骨のあたりに感じるようになった。まるでパブロフの犬のように、躰はカレンダーに忠実に反応した。新しいシャツと香水を買い、一日に二回シャワーを浴びるようになった。祖母は僕の様子を横目で見ていたが、特に何も言わなかった。ただ、金曜日になると今日は何時に帰って来るかと尋ねた。
「別に、いつも通りだよ。6時くらい」と僕は答えた。
「ふうん、そうかい」と彼女は言った。
「じゃ、いってきます」
飛ぶように駅に向かい、三駅先で電車を降り、駅前の洋菓子屋に寄った。前回この駅で下りた時は、台風に気を取られていて洋菓子屋の存在にさえ気が付かなかった。何を買えばいいかわからなかったので店員におすすめを聞くと、ブルーベリー・ショートケーキが売れ筋だということだったので、それをふたつ買った。正直に言うと甘いものはそれほど好きではないが、彼女がおいしそうにケーキを口に運ぶ様子が見たかったのだ。

***

 例のやたら長い坂道を延々と上り、しらじらとした午後の陽を浴びながら、僕は彼女の家を目指した。すると家の前に女性がひとり立っていた。背丈はアリスと同じくらいで、長いブロンドの髪の毛を風にさらしている。つるりとした卵型の顔にサングラスをし、肩の出るタイプの黒いTシャツにミニスカート、素足にスニーカーという恰好だ。彼女はとてもきれいな脚をしていて、少し離れた場所からもそれはよく見えた。

 僕は一瞬、来客でもあるのかと思った。フランスから彼女の友人か姉が訪ねてきたのかと思ったのだ。僕は歩みを止めた。彼女はこちらの方を見た。僕の存在を推し量るような沈黙があった。

 その女性と僕との間には、ちょうど彼女のくっきりとした影の分だけの距離があった。僕はその影を踏まないように気を付けながら、靴の中で足の指を動かした。鼻の頭をかきたかったが、指が痺れてうまく動かなかった。なんだか自分の躰中に綿でも詰め込まれてしまったような気がした。するとその女性はサングラスを外してにっこりと微笑んだ。それはアリスだった。
Bonjour(ボンジュール)」と彼女はフランス語で言った。
Bonjour(ボンジュール)」と僕も答えた。
彼女は僕の前に立ってさっさと歩き出した。僕も慌ててその後を追った。草いきれの中にムスクの香りがたちのぼった。空気は湿気をたっぷりと含んで肌にまとわりつき、僕の歩みを遅くしているようだった。一歩を踏み出すのに、いつもの三十倍くらいの時間がかかるように思われた。

 家に入ると、先日と同じ席に座るように僕を促し、彼女はコップに炭酸水を注いでくれた。僕はポケットからハンカチを取り出して汗を拭き、炭酸水を一気に飲み干した。それから先ほど買ってきたケーキを彼女に手渡した。コンサートホールに紛れ込んでしまった仔犬のように、ブルーベリー・ショートケーキはなんだか場違いに見えた。彼女は口の端だけで微笑むと、ケーキを冷蔵庫にしまった。この暑いのに甘いものを食べたいなんて気分になれなかったのかもしれない。ケーキではなくジュースか何かにすればよかったと僕は後悔した。すると彼女はうんと小さな声で囁いた。
「今ね、ダイエット中なの」
僕は顔を上げた。アリスの青い瞳は宇宙船のようにぽっかりとそこに浮かんでいて、その光の色は漠然とした不安を僕に与えた。なぜだかわからない。その日のアリスは、初めて会った時の彼女とは別の女のように思われた。彼女は淡々と続けた。
「とってもおいしそうだけど、残念。オットに食べさせるわ。サカモトさんは、食べたかった?」
彼女が僕の名前を口にしたのはこれが初めてだった。彼女の口から出ると、サカモトというのが何か架空の小動物の名前のように思われた。サカモトサカモト、とひそやかな音を立てながら土を掘り進んでいくモグラのような。
「いや、大丈夫」と僕は言った。僕はきっと変な顔をしていたに違いない。
「なあに?」とアリスが尋ねた。
「何でもない」と僕は答えた。
こうしてその日のフランス語レッスンが始まった。レッスン中の彼女はいつも通りのアリスだったけれど、なぜだかそれは僕の知らない人のように見えた。おまけに彼女のTシャツからのぞく薔薇色の肌とテーブルの下に隠れているきれいな脚のせいで、僕は授業に集中できなかった。 

***

 そのようにして時間が過ぎていった。僕たちは毎週金曜日の午後4時のレッスンを続けた。初日の台風の日を除いては、鬱陶しいほどの油照りが続いていた。

 彼女はあいかわらず授業料を要求しなかった。その代わり、毎回なにか頼み事をした。ある時は台所の電球を替えてくれと言い、ある時は日本語の本を朗読してくれと頼んだ。大学での出来事を話してくれとせがむこともあった。でもたいがい彼女は僕にピアノを弾かせた。シューベルト、モーツァルト、ドビュッシー、サティ、ラフマニノフ。僕はこれまでに習ったことのある、ありとあらゆる曲を弾いてみせた。そのたびに彼女は子どものように手をたたいて喜んでくれた。
「私もそんな風にピアノを弾けたらいいのに」とグランドピアノの横で彼女は言った。
「きっと出来るよ。簡単だもの。よかったら教えてあげようか」と僕は言ってみた。
「ううん、いいの。サカモトさんのピアノを聴いてるほうがいい」
彼女は夢見るように言った。そしてグランドピアノの表面をそっと撫でた。ピアノは甘えん坊のゴールデンレトリバーのように、彼女の指の感覚を楽しんでいるようだった。
 季節はいつのまにか秋になろうとしていた。
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