第3話 レッスン

文字数 2,804文字

- Comment t’appelles-tu ? (名前は?)
- Quel âge as-tu ? (何歳なの?)
- Où habites-tu ? (どこに住んでいるの?)
- Que fais-tu dans la vie ? (職業は?)

「敬語じゃなくてもいい?あなたと私は年も近そうだし、ずっと丁寧な話し方をしていると息が詰まるから」と前置きをした後(僕はもちろん喜んで応じた)、彼女は簡単な質問をいくつかした。僕はそのいずれの質問も理解し、答えることができた。大学の授業で学んだことはどうやら無駄になっていないらしかった。彼女は満足そうに頷き、僕の発音を褒めた。

 それから彼女はもう少し複雑な質問をした。好きな映画は?どんな音楽を聴くの?本はよく読む?お酒は飲める?というように。僕は少し考えながら慎重に答えた。間違えたところを彼女は辛抱強く訂正した。そして白い紙を一枚取り出し、文法事項の注意点を書き記してくれた。フランス語の教授資格は持っていないと言っていたが、彼女はなかなかいい教師のようだった。それから彼女は、僕にしたのと同じ質問をするようにと言った。

 彼女はすらすらと答えた。名前はアリス・デュボワ・モリタ。二十七歳。東京に住んでいる。職業は主婦、とそこまで答えた後で、「そしてあなたの « maîtresse »かもね 」と付け加えた。僕はその単語を知らなかったので何の反応も返さなかった。すると彼女はこう説明した。
「いい?« maîtresse » には色々な意味があるの。 « maître » という単語の女性形でね」
そしてスカートのポケットから携帯電話を取り出し、アプリケーションで何やら調べていたかと思うと例の白い紙の上に次のように書いた。

maître / maîtresse
しゅじん、かいぬし
せんせい
あいじん

「わかった?」と言って彼女は僕の顔を覗き込んだ。彼女の唇は奇妙にゆがんでいた。笑うのを必死でこらえているのだ。僕はそれが冗談なのだとようやくわかった。彼女と僕はほとんど同時に吹き出した。笑い止んだ後も、余韻は親密な影のように僕らに寄り添っていた。
「でも、私はそのどれにだってなれるのよ。あなた次第でね」
彼女はぽつりと言った。いや、そのように聞こえただけかもしれない。彼女は席を立って台所に行き、紅茶のおかわりを作りに行ったので、僕はその言葉の意味をつい聞きそびれてしまった。

 そのようにしてあっという間に時間が過ぎた。窓の外では本格的に黒い雲が押し寄せていたが、僕は帰る気をすっかり失っていた。できることならずっとここにいたいと思った。サティの「ジムノペディ」のように、時間は同じモチーフをくりかえし演奏し続けている。それは前に進まず、円を描いて同じところに戻ってくるように思われた。けれどいくら居心地がいいからと言って、初対面のひとの家に居座るわけにもいかない。祖母にメールを送らなければいけないし(彼女は基本的には僕の自由を尊重してくれたが夕飯の時間だけは厳格に守らせた)、彼女のご主人だってそろそろ帰ってくるだろう。

「そろそろ帰ります。今日はとても楽しかったです。ありがとう」と僕は言った。
彼女は黙って窓の外を見ていた。まるで僕の声が聞こえないみたいだった。おりしも雨が降り出したところだった。雨粒が激しく窓をたたきはじめた。僕はすこし不安になってきた。携帯電話を取り出してみると、時刻は午後五時半をすこしまわったところだった。急いで帰れば台風を避けられるかもしれない。あまり露骨に帰り支度をするのも失礼な気がしたので、僕は彼女が返事をするのを待っていたが、やはり彼女はあいかわらず窓の外を眺めていた。彫刻のような美しい横顔を見せたまま。彼女はそのまま灰色の時間の中に溶けてしまいそうに見えた。そのことが、なぜかどうしようもなく僕を不安にさせた。

 僕はふと代金を払っていないことに気が付いた。メールでも彼女はそのことについて触れていなかった。
「あの、授業料は…」と僕は言ってみた。
するとその時はじめて彼女は僕の方を振り向いた。あら、そこにいたのとでも言いたげに。それから物憂げな様子で授業料はいらないと言った。それは困る、だって一時間あなたを無料労働させることになってしまう、と僕は言った。
「ねえ、私はお金を稼ぐためにフランス語を教えてるわけじゃないのよ」
彼女は少し傷ついたような顔をして言った。ちいさな女の子が泣き出す前のように唇をとがらせて。僕はなんだかものすごく失礼なことを言ってしまったような気がした。すみません、という言葉が口から出そうになったが、謝るのも妙な気がして黙っていた。
「本当のことを言うとね、ただ、話し相手がほしかったの。オットはいつも家にいないし、私には友達もいない。それに仕事にも出ちゃいけないの。オットが心配するから」
彼女はそこにいないオットに言い訳をするように言った。
「それに私にとっても日本語の練習になるし。ね、だからいいの」と彼女は明るく付け加えた。

僕はなんだか彼女がかわいそうになってきた。外国人として日本にいることは、僕などが想像するよりはるかに淋しいことなのかもしれない。高い塀に囲まれた大きな家に、彼女は毎日ひとりぼっちでいる。帰りの遅いオットを待ちわびて、彼女は散歩に出かける。けれど外に出たところで、彼女に微笑んでくれるひともいなければ、親しげに話しかけてくれるひともいない。そして彼女は時間を潰すためだけにカフェに寄り、スーパーマーケットで大根だのにんじんだのを買い、幽霊のように帰ってきて、ため息を煮込んだスープを作る。そのスープを味わう時間がオットにはないだろうことを彼女は知っている。けれどもしオットが早く帰ってきたらと思うと彼女は何も用意しないわけにはいかないのだ。

「ねえ、もしよかったら、お願いをひとつ聞いてくれない?」
たちこめはじめた灰色の空気を吹き飛ばすように、彼女は明るく言った。うさぎのような白い歯をのぞかせて。それはたぶん彼女の中でもとびっきりの笑顔に入る部類のもので、小さなころ、クリスマスのプレゼントを両親にねだる時にそんな顔をしてみせたのではないかと僕はふと思った。きっと彼女のクローゼットの中には「よそゆきの笑顔」「知らない人に道で会った場合の微笑み」「写真用のスマイル」などさまざまな類の笑顔がストックされているのだろう。
とにかく、それはとても素敵な笑顔だったので、断るわけにはいかなかった。どんな男だって彼女の願いを叶えないわけにはいかないだろう。そこで僕は言った。
「お願いって、なんですか?」
なぜだか喉がからからに渇いていて、僕の声はきしんだバイオリンみたいなみっともない音を立てた。彼女は口の端だけで微笑むと、僕の背中をそっと押して居間の奥に導いた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み