第14話  敵なんてはじめからいなかったのかもしれない

文字数 3,822文字

「アリス、頼むよ。開けてってば」と男は言った。
僕はどうすればいいかわからなかった。このまま黙っているのも妙な気がしたし、かといって返事をするのももっとおかしい。間男と思われても仕方ない立場だ。いや、もしかしたら泥棒と間違えられて通報されるかもしれない。彼があきらめてどこかに時間を潰しに行ってくれないかと思ったが、そのような気配は微塵もなかった。

 インターフォン画面の向こうの男は、あいかわらずそこに立っていた。モリタタカユキ。アリスのオット。彼女よりも12歳年上のIT企業の社長と聞いていたので、僕は勝手に脂ぎった中年男を思い浮かべていたのだが、画面の向こうの男はもっと若そうに見えた。高価そうなスーツを着こなし、細身の躰を抱きかかえるように腕組みをしている。男はすがるような目でこちらを見つめている。
「ねえ、もしかしたらこの間のこと、まだ怒ってる?」と彼は続けた。
「あれは確かに俺が悪かったよ。でも、ここんとこめちゃくちゃ忙しいんだ。あの日も急に会議が入ってきちゃってさ。わかるだろ?」
インターフォンに応じたのが、まさか見知らぬ大学生の男だとは思うまい。彼はあいかわらず「妻」に向かって話し続けている。僕は貝のように黙っていた。冷たい汗が首筋に流れるのを感じた。その30秒ほどの間に、僕はなんとか冷静さを取り戻そうと試みた。落ち着け、落ち着け。別に悪いことをしているわけじゃない。ただちょっとタイミングが悪かっただけだ。

 けれど彼はそれを悪意のある沈黙だと理解したらしい。彼は舌打ちをした。そして小さな声で、「もう管理会社に連絡するしかないか」と言った。それからスーツの内ポケットから携帯電話を取り出し、何やら番号を検索しはじめた。
「あの」と僕は言った。吐いたせいで喉が痛い。僕の声はひどくかすれていて、知らない男の声みたいだった。彼は手を留め、インターフォンの画面を見上げた。
「坂本と言います。アリスさんのフランス語レッスンの生徒です」
僕はそれを絞り出すように言った。心臓がものすごい速さで打っていた。全身の血が逆流しそうだった。ふと、中山伊織のゴマアザラシのような顔が浮かんだ。今、僕は彼女の気持ちが痛いほどわかった。誰かに何かを伝えるということは、とても勇気のいることなのだ。


***


 僕の目の前に森田嵩幸(もりたたかゆき)が立っていた。僕より頭一つぶんほど背が高く、そのせいで僕は彼を見上げるかたちになった。細身だが筋肉質の躰を上質そうなスーツに包み、革靴はぴかぴかに磨き上げられていた。ネクタイはしていない。無造作なようだが繊細にセットされた髪や、さりげなく香る香水など、オフィスカジュアルの理想を体現したような男だった。肌はぴんと張っており、髭は丁寧に剃られていた。その肌の上に彫刻刀で切り込んだような瞳があった。かたちの良い鼻は顔の真ん中で上品におさまっている。全体的につるりとした印象で、美男と言っていい部類だろう。真一文字に結ばれた唇とやや角ばった顎が、どこか頑固そうな印象を与えた。

 僕たちは森田家のリビングルームにいた。テーブルの上にはアリスと僕のグラスが置いてあった。氷はすっかり溶けきっていて、テーブルの上に水たまりを作っていた。その水たまりの先端にアリスの指先が当たっていて、彼女はその水で何かを描こうとしているように見えた。いたずら好きの女の子が遊んでいる途中に眠ってしまったようにも見えたし、ダイイングメッセージを残そうとしているひとのようにも見えた。シャンデリアは白々しく瞬き、部屋の隅のグランドピアノは沈黙していた。
 森田はアリスの肩をそっと揺さぶった。彼女は言葉にならない音を発したが、また動かなくなってしまった。彼はずり落ちてしまったカーディガンを拾い、アリスの肩にかけなおすと、僕の方に向き直った。
「坂本さん、でしたっけ?うちの家内がフランス語レッスンをしているとは知りませんでした」と彼は静かな声で言った。
「はあ、お世話になっております」と僕は言った。なんだかずいぶんと間の抜けた挨拶だ。
「ふたりでお酒を飲んでらした、ということでしょうか」と彼はにこやかに言った。
「すみません。アリスさんに勧められて…。僕も断ればよかったんですけど、図々しかったですよね」
僕は素直に白状した。
彼は煙草の煙を吐くみたいに天井に向かって息を吐き出すと、僕の方に向き直ってにっこりと微笑んだ。
「そうですか。うちの家内はちょっと気まぐれというか、わがままなところがあって、申し訳ない。だいぶご迷惑をおかけしたんじゃないかな」
「いえ、とんでもない。僕の方こそお邪魔しちゃって」
「お茶でもどうぞと言いたいところですが、もう遅いので駅まで送りましょう」
そう言われてはじめて僕は時計を見た。夜の9時をすこし回ったところだった。4時過ぎにここに着いたので、かれこれ5時間もこの家にいたことになる。僕はこの家に足を踏み入れてから今までの時間が、手品みたいに消えてしまったような気がした。まるで異空間に放り込まれて、時間の概念を身ぐるみはがされてしまったようだった。

 僕は歩いて帰りますと言ったが、森田は食い下がった。ただでさえご迷惑をおかけしたのだしこちらの気が済まない、と。もちろん、それが彼の本心ではないだろうことはわかっていた。浮気ではないかと探りを入れるつもりなのかもしれない。だが彼が是非にと言うので、僕は結局その提案を受け入れてしまった。それに実を言うと吐いたことでだいぶ体力を消耗しており、駅まで辿り着けるかどうか自信がなかったのだ。

 車を回すので家の玄関口で待っていてくれと言い残し、森田は出ていった。しばらくするとボルドー色のスポーツカーが滑るように現れ、フロントライトが点滅した。森田は助手席に僕を座らせると、静かに車を発進させた。何気ない動作のひとつひとつが洗練されていて、映画のワンシーンのようだった。隣に乗っているのが僕ではなくてアリスだったら、さぞかし絵になることだろう。
「学生さんでしたっけ?」と森田が尋ねた。
「はい、大学三年生です」と僕は答えた。
「もし差し支えなかったら、どこの大学か聞いてもいいかな」
僕が大学名を教えると、彼の顔がぱっと明るくなった。
「え、そうなんだ。僕もですよ。いやあ、奇遇だなあ」
それから彼は学生時代のことを話し始めた。専攻は経済学で、サークル活動はテニス部だったこと、大学時代の友人とは今でも交流が続いていることなど。

 世の中には同じ大学の出身とわかっただけで接し方をがらりと変えるひとがいるとは聞いていたが、僕はそれを都市伝説のようなものだと思っていた。というのも、僕は大学の名前を記号のようにしか捉えておらず、同じ大学の人間に対して同郷意識などというものも抱いていなかった。もっと言えば、ある集団に属しているというだけで生まれるエリート意識のようなものに嫌悪感さえ抱いていた。しかし今は大学の名前が僕を救ってくれた。何にせよ場の空気が和やかになったことに、僕はひそかに感謝していた。
「俺ね、第二外国語はフランス語だったんだ。やたら背の高いフランス人と、日本人のおじいちゃん先生が担当でね」と彼は目を細めて言った。
「名前忘れちゃったんだけど、その先生が確か青森県の出身みたいで、ちょいちょい津軽弁が混じるのよ。聴いてるこっちとしてはだんだん混乱してくるわけ。『今のフランス語?津軽弁?』って」
「あ、もしかして宮下先生ですか?」僕は思わず口をはさんだ。
「そうそう宮下先生!え、うそ、坂本くんも宮下先生に習ってる?」
「はい、そうです。あの先生、時々フランス語のジョークとか呟くんですけど、レベルが高すぎて誰もついていけないんですよね」
「あー、そうそうそう、何かぼそっと呟いて、ひとりで笑って、あと早口でパーッとしゃべって、気が付いたら授業が終わってるんだよな」
森田はからからと笑った。つられて僕も笑った。奇妙なことだが、僕らは昔からの友人のようにすっかり打ち解けていた。彼の一人称はいつのまにか『僕』から『俺』になり、僕のことは『坂本さん』ではなく『坂本くん』と呼ぶようになっていたが、それは悪い気分のするものではなかった。僕の方も酒の酔いが残っていて普段より饒舌になっていたのかもしれない。気が付いたら言われるがままに連絡先を交換していた。

 いつのまにか車は駅に着いていた。森田は通行人の邪魔にならない場所にスムーズに停車させた。
「次はいつなの?その『フランス語レッスン』ってやつ」と彼が尋ねた。
「一応、毎週金曜日の夕方4時の約束ですけど、次回はどうかな」と僕は答えた。
「まさか、家内のやつ、いつもあんな状態でレッスンしているわけじゃないよね?」と森田が笑いながら言った。
「いえいえ、今日はたぶん、疲れていたんでしょう。僕の方も悪いんです。旅行から帰られたばかりなのに無理に押しかけてしまって」
「何言ってんの。酒を飲みながらレッスンする先生なんて、言語道断だよ。俺の方からきつく言っておくから。これに懲りずにまた遊びに来てよね」
「はい。ありがとうございます」
僕は車を降りた。森田はひらひらと手を振って去っていった。車のシルエットが闇に消えるのを僕は見守っていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み