第37話 解けない暗号

文字数 2,606文字

 
 中山伊織は静かに僕の話を聞いていた。彼女は時折二、三の質問を差しはさんだが、ほとんど黙って聴いていた。僕は起こったことを出来るだけありのままに話した。話し終わると、躰中から力が抜けていくのを感じた。何か禍々しいものが体外に出ていったみたいに。肺に吸い込む空気さえ、いつもより爽やかな味がするような気がした。考えてみれば、森田以外の人間にこの話をしたのは初めてだった。
「大変だったんだね」
すべての話が終わると、彼女はぽつりと言った。
太陽は斜めに傾き、店内に淡い影を落としていた。レースのカーテン越しに射すひかりが、彼女の顔に不思議なまだら模様を描き出していた。彼女は何かを思案するように親指の爪を噛んでいたが、ふと言った。
「あの、暗号のことなんだけど。その紙をまだ持ってる?」
僕はあの日以来、どこに出かけるにも例の紙とUSBメモリを肌身離さず持ち歩いていた。僕はポケットの中から四角く折りたたまれた紙を取り出し、テーブルの上に広げて見せた。紙の上には、相変わらず例の数字が並んでいた。それは降り積もる雪の上にそっと並べられた白骨のように見えた。


1 40 13 22 17 6 18 8 21 10 25 4 2 15 3 45 5 31 4 25 16 2 6 8 22 5 8 41
                                    M


「もしかしたらアルファベットに変換するということは考えられない?」
それらの数字をしばらく眺めた後で彼女は言った。
「どうしてそう思うの?」
「あのメッセージには辻褄が合わないところがある気がするの。アリスさんは坂本くんの前から姿を消し、坂本くんはこれ以上彼女に接触できない。ある意味で犯人の望み通りに事が運んでいることになる。だとしたら、犯人はなぜ今になってあのビデオを大学に送る必要があるのかしら」
確かにその通りだ。余計な行動をすれば身元を特定されるリスクが高まる。なぜ犯人は危険を侵してまでUSBメモリの存在を大学に知らせる必要があったのだろう。まるでまだ伝え足りないことがあるみたいに。
「ねえ、もしかして私たちはまちがった場所に誘導されているんじゃないかしら。これがミステリー小説だとしたら、作者は思わせぶりな伏線をあちこちに張って、読者をミスリードして楽しんでいるのよ」
中山伊織は鼻の穴をふくらませて言った。もしかすると彼女は推理小説のファンなのだろうか。アガサ・クリスティーなんかをこっそり読んでいるタイプかもしれない。
「なかなか鋭いとは思うけど、そうすると困ったことが出てくる。アルファベットは26文字しかないのに、この暗号文には26以上の数字が4つも出てくる。ほら、ここ。40、45、31、41」
僕はそれらの数字を指差して見せた。
「確かにそうね。フランス語やドイツ語にはアルファベット記号の他に特殊文字があるけれど、それを数に入れても41にはならないし」
「それとも、ラテン語とかヒンディー語みたいに、僕らがまったく知らない言語に当てはめるのかな」
「でもそれじゃ意味がないよ。暗号はあくまで解読されることを目的として作られているんだから。犯人は何らかのメッセージを伝えたがっているんだよ」
「なるほど」僕は感心して言った。
彼女はまんざらでもなさそうだった。
「まあ、とにかくやってみよう」
僕たちは40以上の数字はそのまま残し、それ以外の数字をアルファベットに変換していった。すると次のような具合になった。


A 40 M V Q F R H U J Y D B O C 45 E 31 Ⅾ Y P B F H V E H 41
                            M

 僕たちは新たに現れたそれらの英数字をじっと見つめた。中山伊織はこほんと咳払いをして言った。
「アナグラムになっているんじゃない?文字列を入れ替えて新しい言葉を作るの。例えばこの暗号の中でB 、O、Yは離れた場所に配置されているけれど、くっつけると《BOY》になるでしょ?」
「なるほど。なんだかおもしろそうだね」
 僕たちはそのルールに則って、いくつかの言葉を見つけては紙ナプキンに書きつけていった。《HAVE》《DEAD》《ME》など短い単語を見つけるのはそれほど難しくなかったが、それらをまとまった文に直そうとすると破綻が生じた。フランス語の単語でも試したが、結果は同じだった。
「じゃあ、これはどうかな。3つずつ文字を飛ばして読むの」
彼女は新しい紙ナプキンを取り出し、次のように書き記した。


V  H  D  45  Y  H  41


「残念だけど、ますます意味不明だね」
僕は半ば希望を失いながら言った。1文字おき、2文字おきというようにルールを変えてみても同じことだった。なんの意味も持たない無機質な記号の塊が散文的に現れるだけだった。謎は永遠に解けないような気がした。僕たちは氷の壁に閉じ込められた北極ぐまのように、ひどく混乱して疲れ切っていた。

 その時、メール受信を告げる電子音が聞こえた。僕は反射的に身を強ばらせた。もしかするとアリスじゃないだろうか。携帯電話はマナーモードにしておいたはずだが、僕は確かめずにいられなかった。けれど新しいメールは届いていなかった。
「あ、ごめんなさい、私だった」
中山伊織ののんきな声が聞こえた。
「おまけに迷惑メールだ。やんなっちゃう」
彼女は携帯電話のメール受信欄を見てため息をついた。
「ねえ、坂本くん、知ってる?最近の迷惑メールって、アドレスまで工夫されているの。配送会社の公式メールかと思わせるような、巧妙な手口なのよ」
その時、僕の脳裏で火花のように何かが閃いた。
「…それだ」
「え?」
「それだよ、中山さん。メールアドレスだ。あの英数字は暗号じゃなくて、文字通りそのまま受け取らなくちゃいけないんだ。ものすごく長いメールアドレスなんだよ、きっと」
中山伊織は金魚のようにぽっかりと口を開けて僕を見た。彼女が何かをいいかけた時、店員が滑るようにやってきてカップを下げてもいいかと尋ねた。つつましやかな笑顔を口の端に浮かべて。
「あ、そうだ。このお店、18時閉店なの」
「じゃあ場所を変えよう。この近くにインターネットカフェはない?」
 僕たちは立ち上がり、急いで会計を済ませると店を出た。


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