第8話 天邪鬼な蛇

文字数 3,126文字

 大学の授業とアルバイトの傍ら、僕はアリスとのフランス語レッスンを続けていた。レッスンのスタイルは変わらなかった。彼女がフランス語で質問し、僕が答える。間違えたところを彼女が訂正する。その繰り返しだった。けれど僕は退屈だと感じたことは一度もなかった。一時間のレッスンは毎回飛ぶように過ぎた。彼女は相変わらず授業料を要求せず、その代わり、僕に頼み事をするのだった。

 その日の頼み事は、フランス行きの航空券の予約をしたいので手伝ってほしいというものだった。彼女はノートパソコンを起動させ、《billet d’avion, Japon, France》(航空券、日本、フランス)と検索ワードを入れた。彼女がキーボードを叩く音が、僕の心臓をコツコツと叩くような気がした。
「フランスに帰るの?」と僕は訊いてみた。喉の中にガラガラヘビでも棲んでいるみたいに、それは自分の声ではないように聞こえた。
彼女はパソコンの画面を見つめたまま言った。
「そうね。多分、来月から二週間くらい」
「そうか。一時帰国なんだね」
僕はなぜかほっとした。あまり露骨に態度に出ていないといいなと思った。彼女が何も言わなかったので、「旦那さんも一緒に?」と訊いてみた。
すると彼女は作業の手を止めて僕の方を見た。彼女の青い瞳は闇を射抜くシリウス座のように光っていた。
「ねえ、私はオットを愛しているのよ」と彼女は言い放った。
その声には何かを宣言するような響きがあった。
「オットは頭がよくて、うんと大人で、オープンな心を持っている。私は彼を心の底から尊敬しているの」
彼女は語気荒く言い放った。法廷で誰かの無罪を証明しなければならない弁護人みたいに。僕は何と言っていいかわからず、黙っていた。
すると彼女はがらりとトーンを変えて言った。
「フランスにはひとりで帰るわ。オットは忙しいから。日本に帰ってきたら、ふたりで結婚五周年のお祝いをするの」
そういえばスーパーマーケットで牛乳を買うのを忘れていたわ、というようなあっけらかんとした口調だった。
「そうか、それはいいね」僕はすこしほっとして答えた。
「そりゃ、そうよ。フランスでもオットと一緒にいたら息が詰まっちゃうもの」
彼女はすこし肩をすくめて僕の方を見た。それからいつものように「紅茶はいかが?」と訊いた。それはまったく普段通りのアリスだった。


 彼女がオットのことについて僕に話したのは、その日がはじめてだったと思う。彼女より十二歳年上で、IT系会社の若手社長だということは聞いていたが、アリスはそれ以上のことは話さなかった。僕の方も何も尋ねなかったし、特に訊きたいとも思わなかった。けれどその日を堺にして、彼女は時々オットのことを話すようになった。名前はモリタタカユキ。彼がフランスに旅行している時にアリスと出逢ったこと。英語とフランス語が堪能であること。外では「仕事の鬼」と言われているけれど、家に帰ると水玉模様のトランクス姿でゴロゴロしていること。ピーマンとゴルゴンゾーラチーズが嫌いだということ。これらのことは、話の流れでアリスがぽつり、ぽつりと口にしたものだ。それを元にして「モリタタカユキ」なる人物を頭の中で思い描こうとしてもパズルのピースが圧倒的に足りなかったし、彼について知りたいとも思わなかった。僕の興味を引いたのは別のことだった。

 ある日、レッスンの後で僕は日本語の本を朗読していた。例によってアリスが授業料の代わりに要求したからだ。彼女のリクエストは三島由紀夫の『愛の渇き』という本だった。なぜその本なのかと尋ねると、「フランス語で読んだことがあるけれど、原文ではどういう文章なのかを知りたいから」ということだった。しかしいくら日本語が上手とは言え、三島由紀夫の難解な文章を外国人である彼女が理解できているかどうかは謎だった。だがともかく彼女は僕の朗読にうっとりと耳を傾けていた。ソファーに身を横たえ、クッションを胸の前に抱きかかえて。それからふと起き上がって言った。
「オットはね、本を読まないのよ」
何の脈絡もなく突然彼女がそう言ったので、僕はすこし驚いて答えた。
「ああ、そうなんだ」
「信じられる?小説を読まないの。オットが読むものときたら、新聞か、ビジネス雑誌ばかり。小説を読まない人生なんて、私には考えられない」
「まあ、そういう人もいるだろうね」僕はあいまいに応じた。
「それってどういうことかわかる?イマジネーションがないということなの。自分以外の人が、何を考えてどう生きているかが想像できないのよ」と彼女は言った。それはほとんど吐き捨てると言ってもいいような口調だった。下等なミミズか何かのことを話しているみたいに。アリスがそんな風に感情をむき出しにするのはめずらしいことだった。レッスン中はもちろん、普段の彼女はいつもおだやかで冷静だった。
「彼には人間の心がわからないのよ。私の心も」と彼女は静かに付け加えた。
それから彼女はいきなり微笑んだ。
「オットとはね、子どもがほしいねっていつも話してるのよ」
僕は彼女が言ったことを理解するのに五秒ほどかかった。先ほどの彼女の言葉と次の言葉が、あまりにも乖離していたからだ。その繋ぎ目に「でも」とか「だけど」という接続詞もなかったし、意味ありげな沈黙といったものもなかった。ただ、雨上がりの空に輝く太陽のような彼女の笑みがあるばかりだった。そしてその微笑みがすべての謎を解決する鍵であるかのように、ただ燦々とそこに降り注いでいた。


  彼女と話していると、時々このようなことが起こった。場違いな(と僕には思える)感情の吐露があり、そのすぐ後に場違いな微笑みがあった。それは前言を撤回するとか、オットのフォローをするためのものとも思えなかった。僕はその微笑みを見ているとなんだか居心地が悪くなった。葬式の最中に突然笑うのを止められなくなってしまった人を見ているみたいに。だから彼女の言わんとすることが僕には時々理解できなかった。まるで天邪鬼な蛇がちょろちょろと論理の後ろに見え隠れしていて、彼女の言葉とは違う場所へと僕を導こうとしているみたいだった。

 はじめ僕は彼女がわざとこのような話し方をしているのかと思った。あるいは日本語を話しているせいで混乱しているのかもしれないとも思った。けれどその他のことを話している時、彼女の言葉は流暢で自然だった。「お茶飲む?」とか「ケーキはどう?」などのように。ある時などレモンクッキーの作り方を教えてあげると言って、五分間ほど日本語で説明してくれたこともある。時折フランス語の単語を使ったが、とてもわかりやすい説明だった。バターを室温に戻し、砂糖を加えて混ぜる。そして(・・・)卵黄を加え、さらに(・・・)小麦粉を混ぜ合わせレモン汁を加える、というように。そこでは接続詞はきちんとその役目を果たし、論理は虐待されていなかった。もちろんフランス語の文法の説明も、今まで通り簡潔で明瞭だった。そこで彼女のあの不思議な話し方は、オットについて話す時にだけ現れるのだろうと僕は思った。理由はわからない。

 彼女の言ったことについて考えていると、僕はエッシャーのだまし絵を見ているような気分になった。そこでは海と地がつながっており、どこからが水でどこからが陸だかわからない。地平線と水平線はひとつに溶けあい、空を飛ぶ鳥はいつのまにか海を泳ぐ魚になっている。そしてそれが何の矛盾もなく一枚の絵の中におさまっている。それなのに何かがおかしいと感じる。いや、おかしいと感じる僕の方こそおかしいのかもしれない。めまいがする。僕はそれ以上考えるのをやめた。そしてベッドにもぐりこんで目をつぶった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み