第8話

文字数 3,152文字

わたしのささやかな笑い声を敏感に聞き取って、沢田陽くんは満面の笑みでわたしを見た。ほっとした顔をしている。
「よかった、やっと笑ってくれた。そうだ、まだここにいていい?」
「え?」
「久しぶりだから。漫画の話、したくて。まだ漫画好き? さっきもなにか描いてたよね? 遠くからだったからよく見えなかったけど」
「あ、うん……漫画は好き。よく本屋さんいくよ」
「そうなんだ。俺も好き! 兄ちゃんから相変わらず漫画借りてる。兄ちゃんがやたらめったら買ってくるから、未読の漫画がいつまでもあってさ。そんなに本屋には行ってないけど……て、まさか、これ、宮下さんが描いたの?」
 沢田陽くんの目線の先には、わたしが隠しそびれたノートのページの一部があった。シャープペンシルでぐしゃぐしゃになってはいるが、十分文字が読めるし、絵が見える。
 わたしはどうしてこう……。
 悲鳴をあげたくなるのをこらえながら、慌ててノートをばしんっと閉じた。図書室に不釣り合いな大きな音が、穏やかな空気を切り裂く。
「ああああああ、あの、あの……」
「うん」
「その、あの、一生のお願いなので、どうか、誰にも、何一つ話さないでください……」
「誰にもって、クラスのやつらに?」
 わたしは無言で高速でうなずいた。
「クラスの人たちもだし、先生もだし、ともかく、誰にも。絶対に、誰にも何一つ、言わないで、ください……」
 沢田陽くんは、ふむ、といった顔つきで腕をくむと、ちょっと悪い笑みを浮かべた。
「わかった。誰にも言わない、絶対に言わない。その代わり、今、もうちょっとだけ見せて。絶対、言わないから。見せてくれたら、他の人にはなんにも言わない」
 詩緒ちゃんといい、ななちゃんといい……この間から、なんでこう、他人に絵を見られることになっちゃうんだろう……。
「いや……あの、でも、下手なんだよね」
「下手じゃなかったよ。少なくとも俺とは比べ物にならないくらいうまかったよ。というか、下手かどうかはどうでも良いんだって、俺ちらっとしか絵を見てないけど、すっげえうめえって思ったから、もっとよく見たいってだけなの。お願い!」
 ちらっと司書さんが覗きに来たみたいだ。紺色のエプロンのすそが見えた。おしゃべりの声がするから様子を見にきたんだろう。
 これ以上騒ぐのはだめだ、と観念し、わたしはそっとノートを沢田くんの前に差し出した。
「本当に、下手な横好きというか、自己満足、うん。自己満足でやってるし、あと」
「おおお……うまい……! 細けえ、すごい、よくこんなに上手に描けるね。すっげえ。あっすごい、なんか性格? とかも書いてる! なに、これもしかしてオリジナルキャラクターなの?」
 人の話、ほんと聞いてないな……。
 諦めの境地というのはこういうことか、といっそ自暴自棄にも似たなにかを感じながら、わたしは乾いた笑い声を小さく立てた。
 ななちゃんから言われた「なぁんだ」という言葉が耳の中でこだましている。
 まあ、そんなものだ。今のわたしはこのノートのページの中の絵や文字みたいに、なににもなれていないのだ。下駄をはいたり、取り繕ったりするほうがみっともないだろう。
「うん……自分で考えてみたキャラクターなんだけど。でも全然だめなんだ。本当は絵だけじゃなくて、漫画を描いてみたいと思ってて。でも、ストーリーのほうが全然つくれないの。キャラクターを描いて、その性格とか、好きな食べ物とか、雰囲気はどんどん文字にしていけるんだけど、お話づくりはまったくだめで。妹にすら、馬鹿にされちゃってるんだよね。漫画を描こうとしてるの、妹は知ってたんだけど……実はまだ一つの漫画も完成させられてないって、この間バレちゃって。そしたら妹から、なあんだって笑われちゃった」
 ほんと、だめだよねえ、わたし、と笑顔を見せたら、沢田陽くんは真剣な顔でノートを見ていた。それから、わたしと目があう。それでも、彼の顔はにこりとも笑わなかった。
「それ、どんなふうに笑ったの?」
「え?」
「いや、妹さん、どんなふうに笑ったのかなって。本当に馬鹿にした笑いだったのかな……と。俺はさ、こうやって聞いてるだけだから本当のところはわからないんだけど。でも、妹さんが本当に宮下さんのことを馬鹿にして笑った、とは断言できないと思うよ」
 沢田陽くんは視線をノートに戻した。一枚ずつゆっくりとノートのページをめくっている。
「だってさ、こんなにずっと何ページもノートが真っ黒になってるんだよ? もしも俺が、兄弟の誰かが部屋にひきこもってるってなったら、それだけでいてもたってもいられなくなると思う。最初は腫れ物のように扱うかもしれないけど、俺のことだから、結局、不安でやたらと話しかけて、うざがられたりとか、すると思う。そんな中で、もし引きこもっちゃった兄弟が、一生懸命こうやって、ノートを真っ黒にして、なにか頑張ってるってわかったら、もうそれだけで俺は死ぬほど安心すると思うね。妹さんと宮下さんの仲の良さとか、実際のところはわからないけど……俺は、きっと、妹さんは宮下さんのこと馬鹿にしたんじゃないと思うよ」
 用事があるわけでもないのに、やたらと部屋に入ってきた、ななちゃん。
 漫画を描いてみてると答えたら、「なぁんだ」と答えた、ななちゃん。
 もう、どんなトーンで彼女がその言葉を発したのか、思い出せない。
「あ、わかった! たぶん、妹さんは諦めずに頑張ってることがあるってことを知って、安心したんじゃん? 目標きめて毎日がんばるってまじで誰にもできることじゃないよ。それができる人って、超少ないよ。お姉ちゃん頑張ってるんだなってほっとして、なんだ、心配して損した! っていうときの、なぁんだってやつだったんじゃん?」
何かが、自分から出ていった気がした。わたしの首をしめて呪詛を吐き続けていた誰かが、さあっと砂粒になって風に吹かれて消えてしまったような。
がんばらないと、やりきらないと、なんとか、完成させないと。自分でやってみようと決めたことは、最後までやり通さないと、人並みの人間にすらなれない。やりきらないと、いつまでたっても自分は教室から逃げ出した、弱いままの人間になってしまう。
学校にすら行けていない私が、自分はちゃんとがんばれる強い人間だって証明できる何かがないと、生きている価値なんて、ない気がしていた。
「いや〜絶対そうっしょ。普通、こんなノート真っ黒にして頑張ってる人を馬鹿になんかできないよ。宮下さん、マイナス思考なとこあるぞ、俺と正反対」
 なんちゃって、とあはは、と楽しげに笑う沢田陽くんは、目をキラキラさせて、いつまでもわたしのノートを面白そうに読み込んでいた。
 沢田陽くんの笑顔の中に、ななちゃんとしおちゃんの笑顔が浮かぶ。
考えてみれば、きっと、世の中にある物事で、絶対にできなきゃいけないことって本当に少ない。できなくてもなんとかなることばかり。
頑張り続けてるってだけで、十分わたし、もう、大丈夫なくらい強いのかも。
これだけは絶対にできないと、頑張り続けてなんとか結果を出さないと、自分の生きる価値すらなくなる、なんて、どうして思ってたんだろう。
「おー。俺、この絵、結構好きかも、こういうやつ、絶対いいやつだよね〜。すごい好き」
沢田陽くんがじっくりと眺める視線の先には、わたしが描いた黒髪の男の子がいる。ジャージ姿で、友だちになにかちょっかいを出されて顔を赤くして怒っている、そんな表情をした男の子の絵だ。
わたしは今、呪いが溶けた頭で、ふと、その黒髪の男の子がページの上で動いたように見えた。その子は沢田陽くんみたいな人を楽しくさせる笑顔で、わたしに向かって思いっきりはにかんでみせた。

…灯理の場合、おしまい
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