第1話

文字数 2,970文字

引っかき傷がある見慣れた壁。小さい頃、好きだったウサギのキャラクターのシールを貼り付けた、見慣れた机。薄黄色の小さいミモザの花がいくつも散りばめられた、見慣れたカーテン。こんなに見慣れたものばかりの部屋の中にいては、新しいことなんて一生思いつかない。
イライラとした頭で考える。真っ白なノートのページは、あっという間に使えない言葉と下手くそなイラストで真っ黒に埋まり、ゴミ箱の中に投げ捨てられる。なんだか違う、これはどこかで読んだことがある、今描いているこの子、知っている気がする、どこかの物語にいた気がする。そんなことばかり。描いては消して、描いては消して、を繰り返す。
お話づくりがまったくうまくいかなくて、イライラして、自分はやっぱりだめなんだ、下を向きそうになった。
そんなときに思いついてはじめたことが、夜の散歩だった。
夜、隣の部屋にいるななちゃんが寝る準備を始めた様子がわかったら、わたしはいそいそと支度をはじめる。紺色のキャビネットを目深にかぶり、マスクをする。わたしが持っている一番大きなカバン……スクールバッグをもって、できるだけ階段が鳴らないように下に降りる。
「今からでるね」
ママやパパには、一応声をかけていく。きちんと「本屋さんに行ってくる、一時間くらいで戻る」とスマホで連絡もいれてあるし、基本的には宣言した予定通りに家に戻るようにしている。だから特になにか言われることもない。多分、昼間、みんなが学校に行っている時間帯にウロウロしづらいことをパパもママもわかってくれているのだろう。
夜の散歩をしながら、一抹のさみしさに襲われた。外は人の足音が響くほど静かだ。昼間はまだ夏のように暑くなるが、夜になると暑さは太陽と一緒に世界の裏側へ隠れて、周囲はひっそりと秋の気配を濃くしている。マツムシやコオロギの声があたりから聞こえ、靴とスカートの隙間、足首をひやりと冷たい空気が撫でていく。
まさか詩緒ちゃんが引っ越しちゃうなんて。しかも、ななちゃんにアカウントがバレてしまうなんて。
同時に二つのショックなことが起こり、わたしは正直、頭を抱えたくなった。部屋にいても創作に集中するどころか、不安になってしかたない。だからいつものように、落ち着くために夜の散歩に出たのだ。
もう、本屋にいっても詩緒ちゃんはいないけれど。
きゅっと心臓をわしづかみにされるような感覚を覚えたが、それでも、本屋に行くと落ち着くというのが頭にこびりついている。だから足は自然と本屋にむかう。
夜の本屋は昼間の本屋より、良いところだ。まず、静かな大人しかいない。それもたいてい、仕事帰りのちょっとくたびれた大人の人たちだ。大人たちはお互いに疲れた雰囲気を発しながら、それでも本棚に並べられた、たくさんの本の背表紙を眺め、ときに手にとり、ときにページを開いてあとがきや作者紹介のページを読み、お家に持って帰りたいと思う一冊を選ぶことに忙しい。夜の本屋にいる大人は、一人きりでかけがえのない一冊との出会いを探し、期待し、そして選び取って、帰っていく。そんな一人ひとり完結した空気がただよう静かな夜の本屋は、非常に居心地の良い空気を漂わせている。
わたしは大人ではないから、実は一人で完結できることがさほど多くないことを知っている。毎日ご飯を食べられることも、学校に行かずにお家にいさせてもらえていることも、わたしのそばに理解のあるパパとママがいるからだ。本当は本を買うということだって、わたし一人で完結できることとは言えないかもしれない。お金はパパやママが働いているからお小遣いとして手に入れているだけだ。それもわかっている。わかっていて、周りの大人のまねをして、わたしはゆっくりと本を選ぶ。
読みたい本を探していると、焦燥感が薄れていくのを感じた。詩緒ちゃんは引っ越してしまう。彼女ともう、ファミレスでおしゃべりや、本や漫画の感想を言い合ったり、わたしが描いた絵を直接見てもらったりすることはできない。寂しいけれど、わたしには夜の本屋があるから、きっと大丈夫。それに、わたしのSNSの創作アカウントは詩緒ちゃんとつながっている。きっと詩緒ちゃんは「いいな」と思ったらすぐに反応をくれるだろう。わたしは、がんばって毎日、絵を描いたり、漫画のお話づくりに精を出せば良いだけだ。
購入する一冊を選んだとき、わたしの心はだいぶ落ち着いていた。今日はこの一冊の画集だけ買うことにする。お小遣いだって、意外と残り少ない。来月、またお小遣いをもらったら、この大きなスクールバッグいっぱいに本や漫画を買うかもしれないけれど……今日は一冊で十分だ。
背広をきた男の人や、ヒールをはいた女の人たちと同じように列に並び、画集を買った。絵本や本の挿絵を描いているわたしの好きなイラストレーターさんの画集の最新作だ。これは買っておかないと後悔する、と瞬時にわかった。じっと店員さんが丁寧にカバーをかける手付きを見つめる。大切なものを大切に扱ってもらえると、それだけで嬉しくなる。
お気に入りの画集を手に入れたわたしは、駅の繁華街を出るまでは心が弾み、足も軽かった。しかし、住宅街に入り、少しずつ夜の静けさと暗闇の濃度が深くなると、また少し、ほんの少しだけ、不安が顔をもたげてきた。
ななちゃんが、ママやパパにわたしが学校にも行かず漫画を描こうとしていること、伝えてしまったら、どうしよう……。
詩緒ちゃんは、きっと遠くにいく自分の代わりに、応援する人を増やしたくて、わたしの妹、ななちゃんにわたしが漫画を描いていることや、絵をネットに投稿していることを伝えたんだろう。詩緒ちゃんがわたしを思う気持ちは手紙を読んでも伝わった。
応援は嬉しい。
だけど……とわたしは思う。喉や胸を圧迫されているような感覚。冷たい空気の粒に満ちた秋の夜風を大きく吸い込み、なんとか、圧迫感から逃れようとした。
ななちゃんが、ママやパパに伝えたら、あのママのことだ。漫画なんて、と言うに決まっている。パパだって否定はしないけれど、失望するかもしれない。パパの援護をもらうために、ママの反対に打ち勝つために、わたしはどれだけ本気で漫画を描きたいと思っているか、示さないといけないだろう。
なにより、漫画が好きな自分が気持ちわるい人間なんかじゃないと証明するために、漫画を完成させたい。
でも、未だにわたしははじめの一歩すら踏み出せていないのだ。だって、漫画はまだ一ページも描けていない。構想案やプロットは、ない。わたしの頭の中にすらない。
漫画を描きたい。描いてみたい。だけど、描きたいキャラクターも、物語も、そのかけらも、見えてきていないのだ。
家へ一歩近づくごとに、画集が入っているスクールバッグを抱きしめながら、大丈夫、大丈夫、と言い聞かせた。こういうときは、詩緒ちゃんの笑顔を記憶から引っ張り出す。あっけからんと笑う詩緒ちゃんがかけてくれた言葉を、一つ一つ、頭の中でリピートする。
大丈夫、きっと、もうじき、わたしはゼロから漫画を描き始め、一つのお話を生んで終わらせることができる……はず。
まずは、お布団の中で今買ってきた画集を眺めよう。なにか生まれるかもしれない。
か細い期待の綱を手繰り寄せながら、わたしはできるだけ静かに玄関の扉をあけた。
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