第2話

文字数 3,168文字

詩緒ちゃんと夜の本屋で初めて会った日、わたしは茫然自失とはこのことか、と思いながら、ぼんやりと漫画コーナーにたたずんでいた。目の前にある大量の漫画を眺めるだけで、目はタイトルをすべっていき、ほしいと思える漫画をいつまでたっても見つけられないでいた。
どうしても新しい漫画を読みたくなって本屋に来たものの、漫画コーナーに足を踏み入れたら、どの漫画を購入すればよいのか、わからなくなってしまったのだ。
わたしの耳には加藤結さんの可愛らしい高い声の「きもいんですけど」という言葉や、沢田陽くんの「あー……な」という少しひびわれた声が呼応し反響し、それ以外に何も考えられなくなってしまっていた。学校にいけなくなってから、これはたびたびよくあることだった。だいたい、夜に起こるこの症状は、わたしを眠れなくさせた。前までは、本屋の漫画コーナーにいれば少しずつ声の波が引いていったはずなのに、その日はどうもだめだった。クラスの子たちの声は大きくなるばかりで、わたしは目の前にある、好きなはずの漫画に魅了されなくなっていた。
「えっこれ、『ブラックラビット』坂上くんのレア缶バッチ……⁉」
 そんなとき、ここにはいないクラスメイトたちの声の波にもまれて溺れそうになっているわたしをひっぱりあげてくれたのが、詩緒ちゃんのこの一言だった。
 振り返ると、お下げを垂らして分厚い眼鏡をかけたジャージ姿の女の子がいた。
「あれ、こんばんは……? ななちゃんのお姉さんですよね?」
「え……あっし、詩緒ちゃん?」
「あ、そうですそうです、しおです。いつもななちゃんと仲良くさせてもらってます」
 詩緒ちゃんはにっこり笑ってぺこりと頭をさげた。幼稚園が一緒で、なおかつ妹のななちゃんと仲良しだった女の子だからかろうじてわかったが、分厚いメガネとお下げ姿に、一瞬誰なのかわからなかった。
「わー、知らなかった! 坂上くん推しがこんな近くにいたなんて……! あたしも大好きなんです、ほら!」
 詩緒ちゃんはくるりと振り向いて薄紫色のリュックを見せた。
「うわあ……」
 詩緒ちゃんのリュックは坂上くんの人形のキーホルダーや缶バッチがところせましとくっつけてあり、そもそもリュック自体も坂上くんの出てくる漫画の公式グッズだった。
「この漫画知ってる子って周りににいなくて……だからつい、缶バッチに反応しちゃいました、すみません!」
「え。ううん、いいの、逆に嬉しいくらい。わたしも、周りに同じ漫画好きな子いなくて……」
「ほんとですか? わーほんと嬉しいな。あ、よかったら話しません? 時間ありますか?」
「え、でも……」
「ほんの三十分で良いんで! あ、そうだ、あたし今日たまたまキャラクター公式ブックあるんです」
 詩緒ちゃんがリュックから出したそれは、対象店舗限定の先着特典のものだった。確か対象店舗は東京のお店で、当然わたしはゲットしていない。
「ちょ、ちょっとだけなら……」
 公式ブックから目をそらせなくなりながら、わたしは詩緒ちゃんの言葉に頷いた。オタクの性だ、こんなものを見せられたら、ついていかずにはいられない。
「わーいやった! じゃ、行きましょ」
 こうして、わたしと詩緒ちゃんの密会ははじまったのだ。
 思えば、このときから詩緒ちゃんはわたしの扱いがとてもうまかった。
 わたしが久しぶりの同年代の女の子との会話に緊張していたのは一瞬のことだった。詩緒ちゃんはあっという間にわたしの緊張感や警戒心を溶かし、難なくわたしの心の壁を壊して乗り込んできた。
 詩緒ちゃんと一緒に、周囲に漫画は好きでも青年漫画を読む女子がいないことを嘆く、詩緒ちゃんと一緒に、坂上くんの良さ(メガネで無口、背も小さいから馬鹿にされやすいけれど、妹を溺愛していて、大事なものを傷つける相手には徹底的に挑むこと、など)を語り合うなどし……気づけば話は夢小説の話にうつりかわっていた。
「あたし最近は好きすぎて、ネットの投稿サイトの夢小説とか、夢絵も見てるんです。夢絵だと特に好きなキャラクター同士の幸せそうな顔とか見られて……いろいろ見て回ってるとそれだけで時間溶けちゃって」
「夢絵……わたしも描いたことあるよ」
「え⁉ なんたること! ちょ、よかったら見せてください! 一生のお願いです!」
 ぽろっと自分も創作側にいることを告白し、ほんの少しなら、と自作イラストを見せてしまうと、詩緒ちゃんは言葉をこれでもかと並べて褒めちぎってきた。そうして、あれよあれよおだてられ、あっというまに、わたしはいつか漫画を描きたいと思っていることまで話してしまったのだ。
「すごい……。しお、感激です。未来の漫画家さんを前にしてるなんて」
「いや、あの、全然だから。描いてみたいって思ってるだけで」
「でも、これだけ絵がうまいんですし、すぐに漫画描けますよ、きっと! 描いたらぜひ見せてください! このサイトにこのアカウント名で投稿してください。必ず見るんで。というかもう今フォローしときます。新着通知設定しておきます、よしこれでもういつでも好きなときに絵が見られる……! あ、それから、うち、母親が看護師で夜勤が多くて。たいてい夜は暇なんです。よかったら、来月末、またお話しません? 暇だったら九時頃駅前に来る、ってゆるい感じで。漫画の話、できる人本当にしおのまわりにいなくて……お願いです!」
 パチンと両手を当てて頭を下げられた。断る理由も思いつけずわたしは小さく頷いた。
「わーやったー! よかった、嬉しい!」
「あ、あの……! でも、一つお願いがあるの。その……ななちゃんには、わたしと会っていること、言わないでほしいの。あとわたしが絵を描いたり、漫画を描こうとしてることとか……絶対、このアカウント名も教えないでほしくって」
「はあ。いいですけど……なんでですか?」
 こんな上手なのに? と詩緒は目をパチクリさせている。わたしはなんで、って……と口ごもった。
 知られたら、恥ずかしい? 恥ずかしいのはうまくいかないかもしれないからだ。でもうまくいく、思い通りに物事が進むことなんて本来、数少ないものだ。うまくいかないことのほうが当たり前。わたしだったら、なんであれ挑戦している人を馬鹿にすることはしない。
 対象がなんであれ、好きなものを好きだという人を、笑うこともしない。
 そうだ、明らかに向こうが間違っている。クラスの女の子たちのさざなみのように広がるクスクスといった笑い声の集合体と、男の子たちのやっかいごとは勘弁、という困った笑みと遠巻きから見てくる視線の針。好きなことを好きだと言えない世界なんて、世界のほうが間違っている、はずだ。
 そこまでわかっていても漫画を描こうとしていることを誰にも知られたくない、と思ってしまうのは、どんな言葉や視線、反応に対しても気にしないでいる、強さがないからなのだ。
 わたしが、わたしを信用できれば、きっとわたしは、学校に行ける。間違っているクラスの子たちをはねつけて、自分の正しさを信じて平然と席に座っていられる。
自分は強いんだと信じたい、そのために、漫画を描きたい。一つでいいから、漫画を生み出してキャラクターを走らせ、物語を終わらせたい。
思ったことは言葉にはならず、くるりくるりと脳内で回転して、意志となって固くなる。わたしはようやっと自分の思いとは別に、詩緒ちゃんが納得いくような言葉を並べてみる、
「……まだ、自信なくて。自信もてるようになったら、自分から言いたいんだ」
 詩緒ちゃんはじっとわたしを見ていたが、しばらく考える様子をしてからにっこり笑った。
「しお、全力で応援しますね!」
 早くななちゃんの驚く顔がみたいなあ、とつぶやきながら、詩緒ちゃんは目の前のメロンソーダを美味しそうにすすっていた。
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