第4話

文字数 2,566文字

初めての環境を楽しめる人、なんて相当変わり者だし、少数派だとは思う。誰だって初めての場所に行くことは緊張するし、その後しばらくその場で生きていかなくちゃならないなら、なおのこと緊張するっていうもんだろう。
わたしだけではない。それはわかっている。でも、わたしは特に、新しい環境に行くことが苦手だった。
小学校では毎年クラス替えがあり、いつも3月はこのクラスもお別れか……という感傷にひたる暇もないくらい、ともかく次の学年のクラス替えのことで頭がパンクしそうだった。緊張と吐き気がいつも続いて、クラス替えが憂鬱で仕方がなかった。
そうやってむかえた4月、毎年この月ほとんど記憶がないくらいずっと緊張をし続ける月だ。ゴールデンウィーク明けくらいから、やっとクラスで呼吸ができるようになる。自分がどの立ち位置にいて、どんな場所にいても大丈夫そうなのか、視界に入ってくるようになってくる。
小学校六年間はそうやって過ごしてなんとか乗り越えた。そうして迎えた、中学一年生の春。せっかく苦労して合格をもぎとった学校だというのに、わたしの心は全然浮かれていなかった。知ってる人がついにまったくいなくなる。そんなクラスに、わたしは乗り込まないといけないのだ。緊張でクラクラする頭で、わたしは入学式の日何度もスクールバッグにつけた缶バッチを撫でていた。
お気に入りの大好きな漫画のキャラクターの絵が描かれた缶バッチ。これを見れば、多少なりとも気持ちが落ち着くと思って、スクールバッグにつけたのだ。わたしの読みはあたり、入学式後のクラスでの自己紹介のときも、直前まで缶バッチを撫でていたことでなんとか裏返った声を出さずに自己紹介を済ませることができた。
そうやって、はじめの二週間は缶バッチのおかげでなんとか無事に学校を過ごせた。たまたま近くの席になった女の子たちは、ちょっと派手なグループで、仲良くなれそうにない雰囲気だった。それでも、わたしには諦めずにクラスを観察する余裕をもてたのは、缶バッチのおかげだった。テンパるたびに缶バッチを見つめて、撫でて、クラスのどこかに、自分と同じような漫画や本が好きで、ファッションにそこまで興味がなく地味な女の子たちがいなかどうか、様子をうかがうことができた。
 事態が変わったのは、4月ももうじき終わり、という時期に行われた、一回目の席替えのときだった。窓際、しかも一番うしろの席を勝ち取ったわたしは、心の中でほっとしていた。前の方の席は嫌いだった。後ろからの人の視線が気になってしまう。一番後ろなら、クラスの様子がよく見える。これまで以上に、クラスメイト一人ひとり、あるいは、でき始めたグループの様子を観察しやすい。
「いえーい、やった〜! 一番うしろの席だ!」
 突然の大声にはっと顔をあげると、わたしの真横のせきに沢田陽くんが大荷物を持って移動してきたところだった。
「あ、横、宮下さんか。よろしく!」
「……よろしくおねがいします」
「いやいや、やめてよ。同じクラスじゃん、敬語じゃなくていいよ!」
 沢田陽くんは照れくさそうに笑い、それから、前に座った男の子にすぐさまちょっかいをかけて、話し始めた。
 沢田陽くんか……。
 今のところ、クラスの男の子の中で一番リーダー各の男子だ。おちゃらけていつもふざけているような、ざ、男の子というタイプなのだが、この間の身体測定や体力測定で、飛び抜けて良い成績を残していた。ともかく、なにをやっても卒なく、人より少しばかり優秀なのだ。おまけに顔も整っている。
部活はサッカー部に入部はしたものの、地域のクラブチームにも所属しているため、部活にどれだけ出られるかはわからない、という噂も聞いた。もちろん、学級委員にも推薦されていた。本人が嫌がったことと、ほかに学級委員をやりたい人がいたため、沢田陽が学級委員長になることはなかったが。
「あれ、宮下さん……それ」
 その日の放課後、スクールバッグに教科書類をつめこみ、帰り支度をしていると、沢田陽は声をかけてきた。
「それ……?」
「それ、その鞄にくっついてるやつ。それ、坂上? ブラックラビットの?」
 びっくりした。一瞬、口がぽかんと開いてしまった。
 この人、『ブラックラビット』を知ってるんだ。
今まで、『ブラックラビット』という漫画を読んでいる人には、詩緒ちゃん以外出会ったことがなかった。タイトルをこの教室で耳にするときがくるなんて、思ってもみなかった。
そもそも、『ブラックラビット』は中学生がまだあまり読まない、大人が読むような漫画雑誌に掲載されていた。内容はいたって健全で、えっちな表現はない(むしろ高校生同士の青春と笑いの要素を全面に押し出した作品)のだが、連載された雑誌が雑誌なので、わたしは他の人の口から、『ブラックラビット』というタイトルも坂上というキャラクターの名前も聞いたことがなかった。
わたしが『ブラックラビット』を見つけたのも偶然だった。本屋で漫画コーナーをうろうろしていたら、月間誌の表紙に『ブラックラビット』のキャラクターが小さく描かれているのに気がついたのだ。その絵柄が少年漫画にしては線が細く、繊細な感じがした。帰宅後、ネットで少年漫画のホームページを検索し、あの絵を誰が描いたのか、なんという作品なのかわかると、すぐさまスマホで無料の一巻目を読んだ。
あっという間に『ブラックラビット』の世界観に引き込まれ、ひどく魅了されたわたしは、紙の方の『ブラックラビット』を一巻から最新巻まで大人買いしたのだった。
それでも飽き足らず、どうしても『ブラックラビット』のグッズがほしくなり、なんとかネットの広大な海の中で見つけた坂上の缶バッチをポチったというわけなのだ。
「し、知ってるの?」
「うん、俺の兄ちゃんが漫画好きでさ。すっごくたくさん家に漫画があるんだ。俺も、いつも借りて読んでて。結構『ブラックラビット』はいいよね」
「わ、わたしも、わたしもすごく好きで!」
 久しぶりに出会った、漫画の話がわかる人との会話は楽しくて、嬉しくて、わたしはつい、そのとき、クラスメイトの観察を怠ってしまった。
 その日、あのとき、前の廊下の方の席から、わたしと沢田陽くんが話す様子を、ずっと加藤結さんが見ていたことに、気がつくことができなかった。
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