ゴーストの娘  下

文字数 14,145文字

 艇長のアドバイスに従って船倉に身を隠し、チビ介の水槽のすぐ隣にハンモックを吊ったが、船内電話のベルがけたたましく鳴り響いたのは、ジャネットがその中へやっともぐりこんだときのことだった。
 ハンモックの中から手を伸ばし、ジャネットは受話器を手にした。
「もしもし…」
 受話器から聞こえてきたのは、ガラガラした艇長の声だった。
「おいスミスか? 今ビッグ・マーサから返事の電話があったぞ。おまえの代わりに俺が話を聞いておいた」
「おばあさんはなんと言っていました?」
「おまえの祖母はもう80歳くらいか? 年寄りなのに、しっかりしたばあさんだな。それでビッグ・マーサの言うことにゃ、ばあさんの家の運転手にジョンというのがいて、これが元竜騎兵なんだそうだ」
「へえ、知りませんでした」
「このジョンがアポロンのことを覚えていた。アポロンは、昔は実戦にもちょくちょく出ていたそうだ。だが大きな欠点があってな…」
「欠点?」
「この欠点のせいで実戦では使い物にならないとされ、最近はプールで休んでいることが多いんだと」
「どんな欠点ですか? あんなにおとなしく、扱いやすいクジラなのに」
「普段は使いやすくても、満月の夜になると、アポロンはまったく言うことを聞かなくなるんだと」
「満月の夜? どうしてですか?}
「なぜなのか理由は誰も知らないが、アポロンには、水面に写る満月を追いかけてゆく性質があるそうだ。一目でも目にしたらもうだめで、乗っている竜騎兵の命令などもう一切聞かず、『潜水せよ』という指示も、方向転換の指示も何もかも無視して、ただひたすら満月目指して一直線に泳ぎ続ける。それ以外はまったく正常ならしいが」
「えっ、まさか艇長、今夜の月は?」
「ああスミス、目玉を大きく開いて、どこでもいいから窓に近寄ってみろよ。銀貨みたいにでかくて白い月が、星空にでんとぶら下がってやがるから」
「パンプキン大尉は乗船しましたか?」
「あと3分で着くそうだ。俺は甲板まで迎えに出ねばならん」
「大変ですね」
「おまえのせいじゃないさ。追われるおまえと追うパンプキン大尉が同じ船に乗り合わせるなんて、おかしなことになっちまったが、とにかく下でおとなしくしてろ。パンプキン大尉から何をきかれても、俺はしらを切るさ…」
 船内電話はここで切れたので、ジャネットは壁際まで受話器を戻しにいった。
 同じ部屋の中にジャネットがいることがうれしいので、チビ介がはしゃいで水をはねかけてくるが、ジャネットは物思いに沈んでいた。



 小型ボートが横付けされるとすぐに、パンプキン大尉が鉄の階段を駆け上がってきた。
 艇長の姿に気づき、早速そばへ呼び寄せた。
「この高速艇はこれからしばらくの間、グリーンブックの指揮下に入るのだ。艇長、わかっているね?」
 ブリッジへと案内するために前を歩き始めていたが、艇長の表情は冷ややかだ。
「命令だから船は使わせるが、あんたたちの召使になるとは思わないでくれ」
 いかにもおかしそうに、パンプキン大尉はくすりと笑った。
「そんなことは夢にも思わんよ」
 エンジンを大きく吹かして指揮所の沖を離れ、高速艇は前進を続けた。
 ひょいと海図をのぞき込み、もうまもなくノーマン島が左手に見えてくるあたりだと艇長は気がつき、口を開いた。
「パンプキン大尉、もうすぐ湾外へ出てしまうが、そこから先は外海だ。右に曲がるのかい? それとも左へ行くのかい? 言っとくが外洋には、ハマダラカ艦がいる可能性もあるんだぜ」
「今が戦争中であることは十分承知しているよ。外洋に出たら、すぐに進路を真北へ取ってくれたまえ」
「真北?」
「アップル大尉はすでに逮捕したが、その部下にスミス少尉というのがいてね。こいつも裏切りに関与している疑いがある。ぜひとも逮捕したい」
「裏切りだって? いったい何の話をしてるんだね?」
「ハマダラカに内通している疑いがあるということさ。今夜もある重要人物を…、アポロンといったかな。そのマッコウクジラに積み、ハマダラカへ引き渡そうとしているという情報が入った。だから我々は出てきたのだよ」
「けっ、ばからしい。いったいどんな重要人物だというんだね?」
「それと共に、アップル大尉は重要資料をハマダラカへ引き渡そうとしているとも考えられる」
「何の馬鹿な話をしてるんだ?」
「盗み聞きしたアップル大尉とスミスの会話から、アポロンの行き先をスミスが知らされていなかったのは明らかだ。そこで我々はスミスに嘘を教えた。『アポロンの行き先はU共和国だ』とね」
「U共和国?」
「スミスはそれを信じただろう。幸い我々は、U共和国海軍とは協力体制にあり、すでに通報も済んでいる。北上したスミスは、大きく広げたU共和国の捜査網の中へ自ら飛び込むことになるのさ…」



 艇長がソナー室から呼び出しを受けたのは、ノーマン島が水平線の下にすっかり姿を消したころだった。
「艇長、こちらソナー室です」
 艇長は、インターホンの応答ボタンを押した。
「おう、どうした?」
「敵艦ではないのですが、妙な音をキャッチしました。お聞きになりますか?」
「敵船ではない? 味方の船を勘違いしてるんじゃないのか?」
「付近に味方艦がいるという連絡は、司令部から受けておりません」
「キャッチしたのは、どういう音なんだ?」
「それがあのう…、クジラの鳴き声なんです。さっきからずっと本艦をつけてきます。水中マイクロフォンで拾ったんです」
「ようし、エンジンを止めてやる。静かな中でもう一度聞き耳を立ててみろ」
「はい」
 エンジンはすぐに停止した。
 数分して、再びソナー手の声がスピーカー越しに届いた。
「艇長、こちらソナー室です。やはり音はまだ聞こえます。本艦の真下か真横か、とにかくごく近くでクジラが鳴いているんです」
「クジラの種類はわかるか?」
「いいえ、あいにくそこまでは…」
「よしソナー室、その鳴き声をスピーカーで流せ。艦内の全員の耳に入るようにするんだ」
 3秒もたたないうちに、艦内の全員が目を丸くした。
 木製のドアがきしるようなギッギッという音がスピーカーから流れてきたのだ。
 その意味に気づいた瞬間に、艇長は顔色を変えた。
 手を伸ばし、電話機に取り付いたのだ。
 階下の水槽へ通じるボタンを押した。
 だがなかなか応答がない。
 いらいらした様子で、艇長は受話器を怒鳴りつけた。
「おいスミス、早く電話に出やがれ。かくれんぼはもう終わりだ。緊急事態なんだぞ」
 だが結局、その電話には誰も出ることがなかった。
 その代わりにブリッジのドアが大きくバンと開き、ジャネットが飛び込んできたのだ。
 ジャネットは叫んだ。
「艇長、ゴーストだわ。ゴーストがこの船の真下にいるのよ。これは私が聞いた鳴き声と同じだもの」
 すぐに艇長が振り返り、操縦士に指示を出した。
「おいエンジンをかけろ。全速前進だ」
「艇長、これは何だ? なぜここにスミスがいる? 説明してもらいたい…」
 とパンプキン大尉は言ったが、その返答はなかった。
 無視されてしまったのだ。
 艇長は無線室に対して、直ちに現状を司令部に報告し、あわせて救援も要請するように命じたが、すぐにジャネットを振り返った。
「スミス、ゴーストの武装はどの程度だ? どのくらいの爆発物を持っていると思う?」
「爆雷を30発というところでしょうか。シャチを2匹連れているから、普通の竜騎兵の倍を所持しているんです」
「その爆雷でこの船を沈めることは可能か?」
「仕掛ける場所さえ間違えなければ、十分な量だと思います」
 ここでパンプキン大尉が割り込んだ。
「君たちは何を言ってるんだ? たかだか竜騎兵にこのサイズの船が沈められるはずなかろう?」
 艇長が言い返した。
「グリーンブックってのは、不勉強なやつでもなれるのかい? 戦闘記録を読んでみろ。ゴーストのやつがこれまでに何隻沈めてきたか…。スミス、おまえがゴーストの立場なら、この船のどこを最初に爆破するね?」
「まず舵かスクリューですね。動けなくしてから、じわじわとなぶり殺しにします」
「この船に魚雷はないのか?」
 というパンプキン大尉の声に、あきれた顔で艇長は鼻を鳴らした。
「グリーンブックさんよ、部外者は黙っていてくれねえかな。メダカのようにすばやい竜騎兵に魚雷が命中するもんかよ。魚雷は鉄の船相手に使うもんだ」
「では爆雷だ。爆雷を使ってはどうか?」
「へえ爆雷ねえ…。おいソナー室、ゴーストまでの距離はわかるか?」
「ザトウクジラの鳴き声まではほぼ距離ゼロ。真下か真横かの区別もつかないほど近くです」
「ほれみろパンプキン大尉、そんなに近距離で爆雷なんぞ使った日には、こっちの船腹に大穴が開こうよ…。おい副長、全員に救命胴衣をつけさせろ」
「まさか艇長、船を捨てて逃げるつもりなのか?」
 とパンプキン大尉の顔は青白い。
「あったりまえよ。船と一緒に海底へ沈みたいと思うほどの給料はもらっちゃいねえ。あんた一人で船に残りたいというのなら、止めはしないけどな」
 艇長はジャネットを振り返った。
「スミス、この状況をなんとかする知恵はないか? いずれ救援がやってくるとしても、ゴーストがそれまで待ってくれるわけがねえ。この足の下でいつ大爆発が起こっても、不思議はないんだぜ」
 下を向いて床を眺め、人差し指のつめをかんでいたが、ジャネットは顔を上げた。
「艇長、この船にはクレーンがありましたっけ?」
「あるぜ。船べりに、荷物積み込み用のがな。それをどうするんだ?」
「予備の潜水服を貸してください。私が着て海中にもぐります。潜水服をクレーンで海中へ吊り下げるんです」
「それでどうなるんだ? すぐにゴーストが襲ってくるのは確実だぞ」
「救援隊が来るまで、私が海中で注意を引いて、ゴーストの気をそらせます。要は、スクリューや舵のそばで爆雷を使わせなければいいんですから…」
「…そんなことを言ってスミス、勝算はあるのか?」
 だが議論をしている暇はなかった。
 サーチライトを用いていた甲板の見張り員が、船体に平行して泳ぐシャチの影に気づいたのだ。
 巨大な背びれを備えたオスで、背中には接続装置が取り付けられている。
 そしてもちろん、装置の背後には潜水服を着た男のシルエットがあったのだ。
「敵だ。艇長、ハマダラカ竜騎兵を発見。本艦の左方150メートル」
 という部下の報告に、艇長はいよいよ唇をゆがめたのだ。
「よしスミス、ごたごた言っている暇はない。おまえの作戦で行くぞ…。おい、誰かクレーンの準備をしろ。予備の潜水服を甲板へ持って来い」
 5分後には用意が整っていたが、ジャネットが甲板へ来たときにはすでにゴーストの姿はなく、月光で輝く海原が広がっているばかりだった。
 ヘルメットをかぶり、最後のネジを締める直前、そばへ来て艇長が言った。
「スミス、念のためにこれを渡しておくぞ」
「何です?」
 それはジャネットの目にも見慣れないものだった。
 円筒形で細長く、なんとなくロウソクに似ている。
「これはカーバイト灯と言って、水中で鉄線や電線を切断するのに使う道具だ。このヒモを引けば点火する。せいぜい数分間しか燃えてやしないが、シャチを脅かすぐらいには役に立つだろう。潜水服のポケットに入れておくぜ」
「はい」
 ヘルメットのすべてのネジが完全であることをもう一度確認した後で、ランスと盾を持ったジャネットはゆっくりと海中へ降ろされていった。



 全速力で航行している船のこれほど近くに身を置くなど、ジャネットにも初めての経験だった。
 水を切る船体は大量の泡を生み、ジャネットの目前を左から右へ、大河のように流れていた。
 竜騎兵の水中作業を支援する任務につくことが多いので、高速艇は船底にいくつかの水中ライトを備えていた。
 艇長がそれをすべて点灯させたので、泡は邪魔ではあるが、思ったほど見晴らしは悪くない。
 ジャネットはつぶやいた。
「何も見えないよりは、はるかにましか」
 しかし、いくら見回してもゴーストの姿など目に入らない。
「電気の光が届く範囲など知れている。ゴーストは慎重にその外に出て、私の動きをじっと観察しているだろう」
 救援隊と合流するまで、あと何分かかるだろう?
 ジャネットは頭の中で計算した。
「約45分というところか。ならば私は、それだけの時間、ゴーストの攻撃に持ちこたえればいいということだ」
 ジャネットは考え続けた
「もしも私がゴーストの立場で、この船を襲うのだとしたら、どこから手をつけるだろう?」
 それはわかりきっていた。
 どんな新米の竜騎兵でも、同じ答えを出すことだろう。
「ゴーストは船の前方に陣取り、爆雷を水流に流して、まず水中ライトを破壊しようとするはずだ。そのあと暗闇に乗じて、近づいてくるに違いない」
 水中にバンと爆発音が響いたのは、その瞬間のことだった。
 同時に水中ライトの一つが消え、ジャネットがその方向へ目を向けたときには、さらに2発目の爆雷がやってくるところだったのだ。
 この爆雷も正確な位置で爆発し、2個目の水中ライトもやすやすと破壊されてしまった。
 ジャネットの周囲を照らす明かりは、一気に半分になってしまった。
「敵ながら、実に正確な攻撃だ…。しかし私も、ただここで殺されるのを待つわけにはいかない。一か八かやってみるか」
 この日の潜水服には、一つだけ普段と違う点があった。電話線とマイクロフォンがヘルメットの中へ引き込まれ、ブリッジと直接会話できるようになっていたのだ。
 空いている指で、ジャネットは小さなボタンを慎重に押した。
「ブリッジへ、こちらスミスです。聞こえますか?」
 すぐに艇長のがらがら声が返事をした。
「おうスミス、挨拶も敬語もいいから、なんでも指示してくれ。今は俺が船を操縦しているんだ。ここにいるやわな坊ちゃんたちには、とても任せておけなくてな。若い時分に得た俺の評判がうそじゃないってことを見せてやるよ」
「OK艇長、敬語の件は了解。私が合図をしたら5秒後に舵を精一杯切り、船全体をサーフボードのように横滑りさせてもらいたい。アクセルの制御は任せる。そうやって、前方にいるゴーストに一泡吹かせてやりたい。できるか?」
「できるかなんてきくな。やるさ」
「そのとき船体の中央部にいる私が、ゴーストのちょうど頭上を通過する形にしてもらいたい。正確な距離は不明だが、ゴーストの現在位置は、へさきのまっすぐ直線上だ。ヘッドライトの光がかすかに見えている…」



 歯を見せて大きく笑う艇長に、乗員たちは戸惑いを感じていた。
 そうでなくても、ゴーストからの攻撃を待つ不安な瞬間なのだ。
 それを感じ取ったのか、艇長はもう一度笑った。
「へっ、スミスのやつ、とんでもないことを考えやがるぜ」
 その言葉に、パンプキン大尉が口を開いた。
「艇長、私には意味がわからん。スミスは何をしようとしているのかね?」
「本人が言ってただろう? このでかい船でサーフィンをしようってのさ。波から波へと飛び移ってな…。おい機関長、波頭を越える瞬間、スクリューが水面上に出る可能性がある。エンジンの過回転に気をつけろ」
「了解」
 艇長は再び大きく歯を見せた。
「そうれ、行くぜスミス。いつでも合図を送れ」
 ブリッジには今はエンジン音だけが響き、それ以外はまったく静まり返っている。
 その中で突然スピーカーが生き返り、ジャネットの声を届けた。
「よし艇長、こちらも準備完了。行動開始まで、あと5秒。4、3、2…」



 へさきの前方に位置を取り、ヒトリ高速艇を振り返りながら、ゴーストは頭を悩ませていた。
「あの竜騎兵め、何をするつもりなのだ?」
 あれがスミスであることはまず間違いない。
「潜水服を捨てて私の目をあざむき、スミスは生身のままピーターに乗って逃走した。そして味方の高速艇に合流したのだな。ということはピーターは今、船上の水槽の中にいるのか」
 水流に乗せて送った2発の爆雷は、うまく仕事をしてくれた。
 水中ライトを2つも破壊され、スミスもあわてていることだろう。
 次はどう出たものか。
「いくらなんでも、水中ライトばかり狙い続けるのは芸がない」
 だがゴーストの思案も長くは続かなかった。
 高速艇が奇妙な動きを見せたのだ。
「なんだ? なぜ船体が突然向きを変える?」
 信じがたいことだが、見間違いではなかった。
 駄々をこねる子供のように不意に横を向いた船体が、雪崩のような規模の大波を生み、一気に押し寄せてきたのだ。
 シャチたちもゴーストも、あっという間にその中に飲み込まれてしまった。
 強い水流の中で、ゴーストはクルクルと木の葉のようにもまれた。
「くそ、何が起こったのだ? デルタはどこだ?」
 だがデルタの行方を目で追う余裕もなかった。
 ゴーストの体は水中で回転を続け、気まで失いそうだったのだ。



 左手にランスを構え、盾の向きを右手で調整しながらも、ジャネットは目のすみでゴーストの姿をとらえ続けた。
 猟犬のように追いつづけたのだ。
「ゴーストはあそこにいる。艇長はうまくやってくれたらしい。自分で考えたこととはいえ、波に乗って横滑りする船とは、本当にとんでもないものだな…。そうれ、ゴーストのやつがどんどん近くなる」
 ジャネットの体は、機械のように自動的に動いた。
 ゴーストめがけて、ランスの狙いをつけたのだ。
 竜騎兵としての戦いの日々を通じて、これがジャネットがゴーストに向けて放った、事実上最初の一撃となった。
「よし、そこだ…」
 潜水服と同じくランスの先端も、軽く強い特殊な金属で作られている。
 それがついにゴーストのヘルメットに触れたのだ。
 ガツンと音を立て、ヘルメットの表面に取り付けられた弁装置を吹き飛ばした。
「ふんゴーストめ、ざまをみろ」
 とジャネットが鼻で笑ったのには意味がある。
 弁装置を破壊されたヘルメットがもはや役には立たないことを、ジャネットも良く知っていたのだ。
 竜騎兵の生存に必要な各種の精密機器を、ジャネットのランスが一撃で根こそぎにしたのだ。
「あの様子ではゴーストは潜水服を捨て、シャチとともに海面へ浮上するしかない。爆雷を使って高速艇を攻撃することは、もはや不可能になったわけだ」
 高速艇はゴーストの頭上を乗り越え、あっという間に100メートルほども遠ざかっていた。
 それでも油断なく、ジャネットは見回していた。
「ゴーストのもう一匹のシャチはどこにいるのだろう? どこにも見えないぞ。…おや、あの音は何だ?」
 運とは、一方の側にばかり肩入れするものではないようだ。
 敵の姿を探すことに気をとられ、ほんの一瞬だがジャネットは、ランスの取り扱いがおろそかになった。
 ゴーストのヘルメットをたたいたあと、切っ先を上げるのが何秒か遅れてしまったのだ。
「またザトウクジラの鳴き声が聞こえる…」
 とジャネットが振り向きかけたときには、もう手遅れだった。
 いつの間にかジャネットのすぐ背後にいたのだ。
 もちろんジャネットは、デルタという名のことなど知らなかった。
 見かけは普通のシャチだが、背中の上に余計な装置があるのが目に付く程度だ。
 そこから小さな泡がボッと姿を現し、同時にザトウクジラの鳴き声が耳に入った瞬間、ジャネットはすべてを悟った。
「そうか。ザトウクジラの鳴き声は、あの装置が偽装していたのか。無害なザトウクジラと思わせて、実はゴーストが偵察に利用していたのだな。どうりで…」
 シャチのあごは巨大だ。その口が大きく開き、とがって並ぶ牙をジャネットに向けているのだ。
 ジャネットにできることは一つしかなかった。
 ジャネットが左利きであることが、ここで有利に働いた。
 ランスと盾を、通常とは左右逆に構えているのだ。
 経験深いゴーストならともかく、デルタは夢にも予想していなかったことだ。
 ランスではなく、ジャネットはデルタに盾を突きつけたのだ。
「この盾も、潜水服と同じ材質の金属で作られている。軽く丈夫なものだ。それをねじ込まれては、さすがのシャチも口を閉じるだろう」
 だがシャチとは、飼い主の手をなめる子犬ではない。
 ベリベリベリと大きな音をたて、デルタの口が盾を噛みつぶしてゆくのだ。
 動物のあごの力は恐ろしい。
 ジャネットも恐怖を感じないではいられなかった。



 操縦席に着いたまま、艇長は大きな声を上げた。
「おい誰か答えろ。スミスの様子はどうなんだ? ゴーストの姿は見えないのか? スミスのやつめ、なぜうんともすんとも言ってこない?」
 甲板にはもちろん甲板員たちがいたが、荒れ狂う嵐の海や、多少の手荒さには慣れているはずの彼らですら、怖気をふるう光景だったのだ。
 クレーンは甲板の端に設置され、太い鎖がまっすぐ水中へ伸びている。
 しかしそれが、今はグラグラと左右に激しく揺れているのだ。
 甲板員の一人が電話機に飛びついた。
「艇長、スミスは水中でシャチと格闘中だ。鎖がものすごい勢いで左右に揺れてる。こんなのは見たこともない」
「だからスミスは返事をしないのか?」
「電話線なんか、とっくに切断されてるよ。シャチの牙にやられたんだ」
「くそっ、ゴーストはどうだ? 姿は見えるか?」
「やつは離れていったよ。何かの理由で潜水服を脱いだらしい。生身でシャチの背に乗って、水面に浮上するのが見えた」
「それでゴーストのやつ、今はどこにいるんだ?」
「本艦のもうずっと背後へ下がった。暗いし距離がありすぎて、銃撃しても当たらないな」
「ふうう。すると、少なくとも俺たちは明日も太陽を拝めるってわけかい? 爆雷は水上では使えないからな。だがスミスのことが気になる。クレーンを使って、潜水服ごと引き上げることはできないのか?」
「さっきからやってるんだが、モーターが反応しないんだ。シャチが重すぎる」
「モーターで足りなければ人力も使え。人手を集めて綱引きのようにしろ。手が汚れることなんか気にするな。この船を守るためにスミスは水中にもぐったんだ」
 甲板員や手すきの乗員だけでなく、グリーンブックまでが集められて引き上げにかかったのだが、幸いにも鎖はじりじりと動き始め、やがて潜水服がゆっくりと水面に姿を見せた。
 しかし乗員たちは息を呑んだ。
 鎖の先にぶら下がって、巨大なシャチも姿を見せたのだ。
 もちろんシャチは死んでいたのではない。
 シャチはアゴを強くかみ合わせたままヒレを揺らし、鎖はギリギリと音を立てる。
 たちまち命令が飛んだ。
「シャチを銃撃しろ。ただし潜水服には絶対に当てるな」
 しかし間に合わなかった。
 鎖がシャチの重量に耐えるはずがなかった。
 大きな音を立てて鎖は切断され、デルタと一緒に、ジャネットは海中へ落下していったのだ。
 あがった水しぶきは非常に大きかった。
 そばにいた乗員をびしょぬれにしたほどだが、一秒も遅れずに、一人が電話機に取り付いた。
「艇長、鎖が切れて、シャチと一緒にスミスが海に落ちた」



 最初艇長は、耳にした言葉を信じることができなかった。
「落ちただって? スミスが? シャチはどうなった?」
「そのシャチの体重で鎖が切れたんです。スミスと一緒に真っ逆さまでした」
「くそっ、とんでもないことになっちまった…。おい水槽室、水槽室、誰か返事をしやがれ」
 電話機の切り替えボタンを押してから、たった数秒間のことだったが、艇長にはひどく長く感じられた。
「はい艇長、こちら水槽室です」
「スミスが潜水服ごと海に落ちた。クジラ水槽のハッチを開けろ。今すぐにチビ介を海へ放すんだ」
「了解。今、水槽のハッチを開きました…。チビ介が船外へ出たことを確認。でも艇長、このあたりの海はずいぶん深いですよ」
「俺もそれを心配してるんだ。スミスのやつめ、俺が渡した道具の使い方がわかっていればいいのだがな」



 ジャネットは海中の落下を続けた。
 上を向いても高速艇の水中ライトはあっという間に遠くなり、今ではもう小さな光点に過ぎない。
 デルタの鼻面が、ヘッドライトの光の中に浮かび上がっていた。
 牙をむき出し、猛然とジャネットを追ってくるのだ。
「くそっ、こういう場合にはどうすればいい? そうか…」 
 ジャネットの潜水服は、まだ鎖のかけらを引きずっていた。
 それをデルタの下あごにマフラーのように巻きつけ、ジャネットは力をこめて締め上げたのだ。
 デルタは暴れ、目を白黒させたが、ジャネットは気にせず、力をこめ続けた。
 牙と牙の間に、鎖はしっかりと食い込んでいく。
 まるで巨大なワナにかかったかのようで、強い痛みを感じるのだ。
 デルタは体をねじった。
 だがジャネットが力をゆるめない限り、鎖が外れることはない。
 ジャネットは笑った。
「ははは残念。死ぬのは私だけじゃない。おまえも地獄へ道連れだよ。そんな顔をしてもだめよ。ほらごらん。さすがに水圧で苦しくなってきた。もうとっくに深海に入っているのだからね」
 デルタはさらに暴れた。
 水面へ戻るために、すべてのヒレを全力で動かそうとした。
 だがあごの下という難しい場所にぶら下げたままで体の向きを変えることができるほど、ヒトリの潜水服は軽くはない。
 デルタは、井戸の中へまっすぐに落ちてゆくような気分を味わっていた。
 ヘルメットの外で逆巻く水音にじっと耳を傾けたまま、ジャネットは腕に力をこめ続けた。
「馬鹿なシャチめ。私から逃げられると思っているのか?」
 鉄のギロチンのように固められたまま、ジャネットとともにデルタは落下を続けた。
 深度500メートル付近で、ついにデルタはピクリとも動かなくなった。
 海のギャングと呼ばれるシャチも、ついに死んだのだ。
 腕の力を抜き、ジャネットは鎖がジャラジャラと外れるに任せたが、もはやデルタはまぶたを動かすことさえなかった。
 ジャネットが海底に到達したのも、ちょうど同じころのことだった。
 海底は泥が深く、両足で立つと、さっと白く舞い上がってにごる。
 にごりが治まると、長々と隣に横たわるデルタの姿をジャネットは見ることができた。
 いくつにも枝分かれした鹿の角にも似て、ザトウクジラの鳴き声を偽装する音響装置は、ひどく奇妙な形をしていた。
「あんなものに私はだまされていたのか」
 潜水服の中に空気はあとどのくらい残っているのだろうと、ジャネットは考えた。
 せいぜいあと5分か6分というところか。
「もしも艇長が、タイミングよくチビ介を水槽の外へ出していてくれれば、あるいは…」
 ここでジャネットは思い出したのだ。
「そういえば艇長は、私に何かの道具を手渡したぞ」
 ポケットに手を入れ、ジャネットはすぐに取り出すことができた。
 カーバイト灯だ。
 ジャネットはさっそく点火したが、わずかに黄色がかったその光はまばゆく、深海に突然太陽が出現したかのようにあたりを照らした。
 驚いた深海魚たちが、あわてて物陰に身を隠したほどだ。
 ヘッドライトよりもはるかに強く、遠くまで届く光を、ジャネットは頭上に高く掲げた。



 チビ介の額に空気パイプをつなぎ、水面へと戻ってくるには5分とかからなかった。
 ジャネット本人ですら、あまりにあっけなく感じたほどだ。
 まだ夜は明けておらず、水平線ギリギリのところに満月が輝いている。
 泳ぎながらチビ介は水面に背中を出しているが、デルタとの戦いでどういうダメージを受けたかもわからない潜水服は脱いでしまい、ジャネットはその肌に直接腰かけていた。
 ジャネットは黒い体をなでてやった。
「深海であんたに助けられたのは、これで2回目だね。3回目も助けてくれるかい?」
 いつものようにポッと大きく息を吐いて、チビ介が返事をした。
「じゃあチビ介、疲れているところを悪いけれど、もう一仕事しなくてはならないわ。少し右へ進路を振りなさい…」
 両目を見すえて、ジャネットは満月の方向を正確に確かめようとした。
 だが指示を出し終えることはできなかった。
 カチンと耳慣れた音が聞こえ、冷たい銃口が首筋に触れるのを感じたのだ。
「くそっ」
 ジャネットは毒づいた。デルタとの戦いで精一杯で、ゴーストのことをすっかり忘れていたのだ。
 足音をしのばせてチビ介の背に登り、ゴーストはいつのまにかジャネットの背後に立っていたのだ。
 なぜチビ介はゴーストに気づかず、おとなしく登らせてしまったのだろう。
 ジャネットはすぐに気がついた。
「そうか。チビ介には私を主人にした時期と、ゴーストを主人にした時期とがあるのだ。どちらの足音にも親しみを感じるのだろう。警戒すべき侵入者とはみなさなかったのだ」
 少し離れて、チビ介と平行に泳ぐアルファの姿も目に入ることにジャネットは気がついた。
 ゴーストが口を開いた。
「さてスミス、君は素直に負けを認めるかね?」
「どういたしまして。私はまだ負けてなんかいないわ」
「ふふふ、負け惜しみの強い娘だな。もはや君には何の切り札もあるまい?」
「あんたが今日、なぜこんなところまで来ているのか、当ててみましょうか? 弟さん…、いえヒトリ諜報部のチェリー少佐から極秘の手紙を受け取ったのでしょう? だけど暗号で書かれていたので、いまひとつ意味のはっきりしない手紙だった」
「なぜそんなことを思うのかね?」
「簡単なことよ。私の上官が、チェリー少佐の口から直接聞いたのよ。手紙の暗号を解読すると、『不幸な娘は、日の神とともに海へ出る』と読めたはずね…。それをあんたはきっと、『シルビアは夜明けとともに出航する』と解釈したはず。そうよね?」
「だから私は指揮所の沖で待っていたのだ」
「だけど本当は違うのよ。暗号だから字数制限があってね。そのせいだわ。手紙の本当の意味は、『シルビアはアポロンに乗って出航する』だったのよ」
「なんだと?」
「ヒトリの竜騎兵部隊にいたことがあるなら、あんたも知っているはずね。日の神の名をとって、アポロンというクジラがいるのだけど、命令も指示もすべて無視して、すぐに満月を追いかけて行く悪い癖があるから実戦には使えないクジラだけれど、チェリー少佐は逆にその癖を利用するつもりだったのよ」
「ではシルビアは…、私の娘は…」
「アポロンと一緒に、まだそこらの海中にいるはずよ。あんたのシャチなら簡単に追いつけると思うわ。だけど急ぐのね。もうすぐ夜が明ける。満月が見えなくなると、アポロンはひとりでに指揮所へ戻るに違いないわ」
 慎重に安全装置をかけ、ゴーストは銃を腰に戻した。
「しかしスミス、君の言っていることが真実だという証拠はあるのかね?」
「それはないわ。私をそのまま信用するしかない。だけど感謝の言葉ぐらい述べてもらいたいわね。このざまを見てよ。あんたの娘を国外へ脱出させる手伝いをしたおかげで、私までお尋ね者よ」
 ゴーストは笑った。
「君は一体、誰に追われているのだね?」
「笑い事なんかじゃない。グリーンブックよ。パンプキン大尉という嫌なやつよ。私の上官は逮捕されてしまったわ」
「パンプキン大尉? そうかあいつか。ならばシルビアを返してくれた礼に、私は君に多少はお返しができるな」
「お返し? どういうことなの?」
 それには返事をせず、ゴーストはなおも笑い続けるが、ジャネットには意味がわからなかった。



 アポロンを追いかけ、ゴーストはすぐに姿を消した。
 水平線にかかる満月を目指してアルファを急がせたのだ。
 ジャネットはそれを見送ったが、やがてフウとため息をついた。
「ねえチビ介、伝説の竜騎兵と呼ばれるゴーストでも、やっぱり実の娘のこととなると、あんなに顔色が変わるのかな」
 だがそれは、ジャネットには想像してみるしかない感情だった。
「ねえねえ、わかってるチビ介? きっとゴーストは、あんたを取り返すつもりでずっと私を追ってきたのよ。それがいざシルビアの名前が出たとたん、あのざまだもんね。あんたのことなんか一瞬で忘れたみたいよ」
 背中でもかゆくなったのか、突然チビ介がブルルンと体を動かしたので、腕を伸ばしてジャネットはかいてやった。
「シルビアのことはもう忘れていいわ。ゴーストがきっとハマダラカへ連れ戻るもの。さて気が重いけど、私たちは指揮所へ戻らないとね。パンプキン大尉と顔を合わせるのが憂鬱だわ。アップル大尉も逮捕されたままだし…。ゴーストの作戦がうまくいくといいのだけどね」
 はたして指揮所では、すでにパンプキン大尉が待ち構えていた。
 高速艇003号は、一足先に桟橋に到着していたのだ。
 明確な理由も告げず、アップル大尉が突然釈放されたのは、その日の午後のことだった。
 ジャネットはグリーンブックのオフィス前で待機していたが、疲れた様子ではあったけれど、アップル大尉はすぐに口を開いた。
「スミス、おまえはいったい何をしたんだね? パンプキン大尉ときたら、えらい態度の変わりようだったぞ。留置所から出されたと思ったら、何の説明もなく手錠が外された。そして釈放だ」
「そのあたりのことは、実は私にもよくわからないんです。私はただ、ゴーストからの手紙をパンプキン大尉に手渡しただけですから」
「ゴーストの手紙だって?」
「海上でシルビアの行方を教えてやった後、私に感謝してということなんでしょうが、紙とペンを手に、ゴーストがさらさらと書いたものです」
「それをおまえはパンプキン大尉に渡したのだな。どんな内容だった?」
「まずあて先がパンプキン大尉で、ゴーストの署名があって…」
「それから? じらさず早く言え」
「確かこう書いてありました。『あの日、R灯台で何が起こったのか、私はこのスミス少尉にすべて話してやった。必要とあれば、スミス少尉はいつでもその内容をまわりに広めるだろう。パンプキン大尉よ、自分の名誉が守りたければ、アップル大尉とスミス少尉にかけた容疑はすべて忘れることだ』」
 ジャネットが口を閉じると、アップル大尉は意外そうな顔をした。
「それだけかい?」
「はい」
「ふうむ、どうもよくわからんな」
「ゴーストがポロリと口にしたのですが、パンプキン大尉は以前、ゴーストの部下だったようです」
「ははあ、それでか。その当時、パンプキン大尉は何か重大な失敗をやらかしたが、ゴーストがかばってやったことがあるのだな。手紙にあるとおりスミス、おまえはその内容を聞かされたのだろう?」
「いいえ、ぜんぜん。ただ、『パンプキン大尉にこの手紙を手渡すときには、いかにもすべてを知っているふうにニヤリと笑うんだぞ』とだけはゴーストから言われました」
「するとスミス、おまえは演技賞ものだということか。海軍なんぞ辞めて、役者になってもやっていけるかもしれんな」
「あら、役者なんて大嫌いです。せりふを暗記するのがだめだもの…。さあアップル大尉、釈放祝いに食事でもおごりますよ」
 そう言いながら、ジャネットは指差した。
「ほらアップル大尉、あそこに自動車が止まっているでしょう? 祖母が貸してくれたもので、運転手は竜騎兵の大先輩です。一緒に食事をすれば、アポロンのことも含めて、きっといろいろ面白い話が聞けると思いますよ…」
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