鯨剣  下

文字数 8,971文字

 そのジャネットのはるか上方では、ゴーストが辛抱強く待機を続けていた。
「あの小柄な竜騎兵め、なかなか上がってこないな。何をしているのだろう」
 アルファも同じことを思っているようだ。
 牙を見せて口を開き、大きなアゴをじれたように2、3回動かすので、背びれに触れ、ゴーストはなだめてやった。
「もう少しの辛抱だ、アルファ。あの小さな竜騎兵は今に必ずやってくる。いくらマッコウクジラでも、無限に潜水を続けることはできないのだから」



 ジャネットの手の中で、剣は輝き続けた。
「これは、眺めているだけで背中がゾクソクするような鋭さだ。このシャチがこの剣を装備していたということは、おそらくもう一匹のシャチも同じ剣を装備しているのだろう。ゴーストが次に用いる武器はこれなのか」
 気まぐれにジャネットは、そばにあった海草にその刃を当てたが、相当に太い茎でもあっさりと切断されてしまったのには目を丸くした。
「これは本当になかなかの切れ味だ。かといって、私の潜水服を切り刻むことができるというものでもない。いくらこの剣でも、まさか金属までは切ることができないだろう」
 ジャネットは考え続けた。
「するとゴーストは、私ではなくチビ介を攻撃するつもりだな。これはクジラを切り裂くための鯨剣だ」
 チビ介がキズを負うと考えるだけで、ジャネットは心の底がすっと冷たくなるのを感じた。
 そんなことは断じて許せない。
 しかしゴーストは、そのつもりでジャネットを待ち受けているのだ。
「ではゴーストの攻撃をしりぞけるため、私はどう行動すべきだろう?」



 同じころ、ジャネットの数百メートル上方では、ゴーストがまだ待機を続けていた。
 アルファはすべての神経を耳に集中し、下方からのどんな小さな音も聞き逃すまいとしている。
 やがて、その努力が報われる瞬間がやってきた。
 閉じていた目を開き、アルファが胸びれを振ったのだ。
 ゴーストはすぐに気づき、指示を出した。
「ついに敵が動いたな。よしアルファ、その音がする方向へ直進せよ。ただし深度に注意するのだ。これ以上10メートルでも下がれば、命取りなのだぞ」



 ジャネットとの付き合いが長く、奇妙な戦法にもチビ介は慣れっこになっていたが、それでも今回ばかりは驚いた。
 まるで鉛筆のようにまっすぐになりながら、深海から水面へと上昇を続けるチビ介は、体を垂直に立てているのだ。
 左胸のいつもの場所を離れ、あろうことかジャネットはチビ介の鼻先に立ち、真上を向いていた。
 ジャネットの手の中には、もちろんあの鯨剣がある。
「慣れているから今までは感じなかったけれど、マッコウクジラの上昇力とは実にすごいものだね。立っている足の下からグイグイと押し上げてくるのは、まるでエレベーターに乗っているかのようだ。現在の深度は…、よし200メートル近い。もう少しで深海を抜けるぞ。ゴーストはどこで待ち伏せているのだろう?」



 ジャネットの予想通り、ゴーストはヘッドライトを消し、身を潜めていた。
「深海とはいえないが、この深度なら水面から遠く、太陽の光も届かず充分に暗い。だが、より完璧を期しておこう」
 超音波の耳をフルに用いて、『敵がもうすぐそこまで接近した』との合図をアルファが出すのを、ゴーストは待ち受けていたのだ。
 さっと手を動かし、物入れから取り出した物があった。
 手でしっかりと握ることができるサイズのガラスびんで、分厚いものでもないから、金属製の手袋をした手で簡単に握りつぶすことができた。
 だがその瞬間、ビンの中に入っていた黒い染料が海水に触れ、まるで煙のように広がって周囲を包んでいったのだ。
 やがて黒い煙幕は充分な大きさになり、ゴーストとアルファをすっぽりと包み、覆い隠してしまった。
「これなら闇夜に黒いマントを着たようなものだ。あの小さな竜騎兵も、まさか私の存在に気づくことはないだろう」
 だがゴーストは勘違いをしていた。
 ヘッドライトをこうこうと光らせてはいない敵については、ゴーストは正しかった。
 しかしジャネットはまったくその逆で、ヘッドライトの強さを全開にしていたのだ。
「ううんチビ介、こんなことをしたらバッテリーが早く切れてしまうけれど、今はそんなことを言っている場合じゃない…。あれっ、あそこに何か見える。あの黒いものは一体なんだろう? どんどん近づいてくる。一見、ただの暗闇に見えるけれど、いやおかしい。ヘッドライトの光を通さない不自然な暗闇など、存在するはずがない」
 このとき、ジャネットの頭に突然ひらめいたことがあった。
「ふふふ、ゴーストのやつ、あの黒い水の中に身を隠しているのだな…。そう簡単にだまされるものか」
 さっそく超音波笛で指示を送り、ジャネットはチビ介に進路変更を命じた。
 あの黒い水の脇を通るのではなく、まっすぐその中へ突っ込むようにさせたのだ。
「さあチビ介、あの黒い水に向かって突撃しなさい。鯨剣を構え、あんたの体を切り裂こうとゴーストが待ち構えているけれど、心配することはないよ。私の潜水服が、あんたのヨロイの代わりになるからね」
 黒い水の塊は、あっという間に近づき、チビ介がその中に頭を入れた瞬間、ジャネットの目にも闇ばかりで、何も見えなくなった。



 ゴンと水中に大きな音が響き、ジャネットは肩に鋭い痛みを感じたが、何が起こったのかは、とっさにはわからなかった。
 なにしろまわりは、何も見えない黒い水ばかりなのだ。
 チビ介はチビ介で、シャチとの衝突を実感していた。
 張りのあるシャチの分厚い肌と、その下にある筋肉の感触があり、だがはるかに勝っているチビ介の体重が、敵を簡単に押しのけてしまった。
 衝突は、ゴーストにもダメージを与えた。
 どこにどう引っかかったのか、あっという間に手の中から鯨剣をもぎ取られてしまったのだ。
「くそっ、ランスに続いて、私は鯨剣まで失ったのか。なんという日だ」
 何が起こったのかを知るため、ゴーストは急いで煙幕の外へ出なくてはならなかった。
「アルファ、すまないがヒレを動かしてくれ。全速力だ…。おやっ、あれは?」
 ようやく視界の開けた水中を見上げ、ゴーストは息を呑んだ。
 偶然だが、ゴーストと同時にチビ介も煙幕から顔を出し、水面へと急上昇を続けていたのだ。
 その後ろ姿をゴーストは見送ることになった。
「やれやれ、あの小さな竜騎兵は、やはり私の作戦を見破っていたか。しかし…」
 アルファに指示を出し、ロケットのように水面を目指しているチビ介のあとを追跡させながら、ゴーストは笑いを浮かべたのだ。
「私はただ鯨剣を失ったわけではなかったのだな。私の鯨剣が、あの小さな竜騎兵の肩に突き刺さっているのが見える。暗闇の中で偶然とはいえ、潜水服のうまい場所に刃が当たったものではないか」



 肩に感じる鋭い痛みの正体は、すでにジャネットも理解していた。
「くそっ、やはりゴーストは鯨剣を手にしていたのか。暗闇の中で衝突したとき、その刃が私の肩に触れたわけだ。この潜水服は深海の水圧にも耐える頑丈なものだが、弱い部分ももちろんある。肩のジョイントに刃先が突き刺さるなど、なんという偶然か」
 とがった刃は潜水服のジョイントを突き破り、ジャネットの肩に直接触れ、体を切り裂いて出血させていた。
「それだけではない。ジョイントから浸水が始まっている。今はまだ海水がジワリとしみ出すほどでしかないが、いつ大きく崩壊しても不思議はない。そうなると水圧に押され、私の命など一瞬で失われてしまう」
 絶望的な目で、ジャネットは深度計に視線を走らせた。
「深度はまだ170メートルもあるのか。水面までジョイントがもってくれればいいが…。くそっ…」
 ついにジャネットは、キズの痛みにひざを折ってしまった。
 指からも力が抜け、手を離れた鯨剣は深海へと落ちていった。
 だがもう一本の鯨剣は、まだ肩に突き立ったままなのだ。
「しかし、この剣を引き抜くことはできない。もし抜けば、猛烈な勢いで海水が浸入してくるだろう…」
 まるで疲れを知らないかのごとく、チビ介の尾は全力で水を蹴り続けている。
 だがアルファは、そのチビ介にもやすやすと追いついたのだ。
 すぐさまゴーストの指示が飛んだ。
「よしアルファ、あの肩に刺さっている鯨剣を引き抜いてやれ。深度はまだ170メートルもある。あの竜騎兵を水圧で殺してしまうのだ」
 アルファはすぐに反応した。
 口を大きく広げ、ジャネットに向かって突進したのだ。
 もちろんチビ介は寸前に気づき、進路を変えてよけようとした。
 だが間に合わなかったのだ。
 口にくわえ、引き抜くことまではできなかったが、アルファは鯨剣を激しく揺らした。
 とたんにジョイントが裂けて広がり、潜水服の内部へ向けてわずかに染み出るほどだった海水が、勢いのよい水流へと変化したのだ。
 水流の先端は鋭いドリルのようになって、ジャネットのキズ口に突き刺さった。
「あっ」
 ジャネットの悲鳴は、チビ介の耳にまで届いた。
 目を血走らせ、チビ介はアルファをにらみつけた。
 水面へと上昇するのは一時あきらめ、チビ介は横方向へ逃れることにしたが、アルファももちろん追ってくるのだ。
 再びゴーストの指示が飛んだ。
「行けアルファ。もう一度トライするのだ。今度こそあの鯨剣を引き抜いてしまえ」
 だがすぐにゴーストは作戦を変えた。
「いやアルファ、今度は鯨剣ではなく、潜水服の左腕を狙うのだ。そのほうがいい。鯨剣を受けて、左肩のジョイントが壊れかかっている。腕を強く引けば、あのジョイントを完全に破壊できるぞ」
 アルファはゴーストの指示に忠実だった。
 攻撃の矛先を、すぐさまジャネットの左腕へと移したのだ。
 ジョイントから流れ込む水は、ジャネットの潜水服の内部を満たしつつあった。
 ジャネットの血が混じり、その水は赤みを帯びている。
 痛みのせいでぼんやりしかけた頭の中で、ジャネットは考えた。
「これはもう、おしまいかもしれないな…」
 だがチビ介はまったく逆のことを考えていたのだ。
 アゴをなかば開き、アルファはこちらを狙っている。
 まるで薄笑いを浮かべているかのようだ。
 チビ介の心の中で怒りが燃え上がり、普段では考えられない力を出した。
 その力で、チビ介は思いっきりアルファに体当たりをしたのだ。
 体重35トンの巨体の体当たりを受けるなど、さすがのアルファにも経験がなかった。
 体全体に痛みと衝撃が走り、一瞬何もわからなくなった。
 だがその直前、ゴーストの指示を忠実に守り、アルファはジャネットの左腕にかみついていたのだ。
 バキンと水中に大きな音が走り、ジョイントがちぎれた。
 潜水服の左腕は、古い人形の手のように外れてしまったのだ。
 その中に守られていたジャネットの左腕が海中に露出した。
 潜水服の腕に比べるとうんと細く、生身の人間の白い腕だ。
 ゴーストが声を上げた。
「おおアルファ、ついにやったな」
 しかしジャネットにとって幸運だったのは、チビ介が全力を出したおかげで、すでに水面が近かったということだ。
 ジャネットの全身はもろに水圧にさらされたが、致命傷を負うほどの強さでは、もはやなかった。
 だが今のジャネットは傷つき、疲れきっていた。
 ジャネットは目を閉じ、一瞬で気を失ってしまったのだ。



 目が覚めたとき、自分がなぜこんな場所にいるのか、ジャネットはすぐには理解できなかった。
 目を開くと、頭の上には真っ青な空があるのだ。
 白い雲もいくつか浮かんでいる。
 平和な眺めだが波音もあり、ときどき海水のしぶきが目の前を左右に横切るのだ。
「ここはどこだろう? そうか、私はチビ介の背中の上にいるのだ」
 見回すとそのとおりで、潜水服がチビ介の装備品に引っかかり、ジャネットが水中へ転落するのをかろうじて防いでいた。
 チビ介が水面へと達した瞬間、意識を失いながらも、ジャネットは緊急脱出レバーを引くことに成功していた。
 ヘルメットはバネ仕掛けで跳ね上げられ、外部の新鮮な空気が流れ込んでいた。
「あっ痛っ」
 肩の痛みに、ジャネットは顔をしかめた。のぞき込んで調べると、傷口はまだ開いているが、血は止まりかけている。
「ああ助かったか…。だがのんびりしてはいられない。ゴーストはどこだ?」
 起き上がって見回すと、ゴーストの姿はすぐに見つけることができた。
 しかしそれは本当にギリギリのタイミングだった。
 ゴーストがアルファに新たな指示を与えているところだったのだ。
「アルファ、体当たりをして、あの竜騎兵を海に突き落としてしまえ」
 しかしジャネットは寸前でよけることができた。
 アルファがぶつかってくる直前に、なんとか潜水服から飛び出したのだ。
 シャチの巨大な体に押され、空っぽの潜水服はあっという間に海に落ち、見えなくなった。
 痛む肩を押さえ、ジャネットは駆け出さなくてはならなかった。
「くそっ、ゴーストのやつめ」
 チビ介の体が、いつもよりずいぶん長く感じられた。
 なんとかチビ介の頭までたどり着いたが、もはや胸ベルトにつかまる力すらなく、ジャネットは自分の体をそこにロープで縛り付けるしかなかった。
 用意が済み、最後にピッと超音波笛を吹き鳴らすと、チビ介の反撃が始まったのだ。



「小さい竜騎兵め、とっさに潜水服を捨てたな。頭のいいやつだ…。しかしあの顔には見覚えがある。前回、オメガを失った時のあいつではないか。とんだところで敵討ちができそうだぞ…。よしアルファ、あのマッコウクジラを下から狙おう。無防備な腹部を攻撃するのだ」
 その考えはアルファもお気に召したようだ。
 尾びれをピンと伸ばし、一度高くジャンプすると、頭から潜水を始めた。
 あまりの高速に、ゴーストも体を前かがみにしたほどだ。
「小さな竜騎兵め、今に見ていろ。ちょっとした驚きをプレゼントしてやる」
 下から見上げるマッコウクジラの姿は、まるで船のように長い。
 その腹部の中心にアルファが狙いを定める間も、せかすことなく、ゴーストは辛抱強く待ち続けた。
「ゆっくり時間を取れ、アルファ。もっとも弱いところをしっかり狙うのだ。一撃必殺といこうじゃないか…。よし、今だアルファ。やつの腹部に食らいつけ」
 体中の血がたぎるような快い興奮に、ゴーストは包まれていた。
 チビ介の腹部を目指して、アルファは急上昇していった。
 ところがここで意外なことが起こった。
 口を大きく開き、牙をきらめかせてアルファがチビ介に触れるというその瞬間、そのチビ介の姿がふわりと消えてしまったのだ。
 文字通り、どこにも見えなくなった。
「あのマッコウクジラ…、マッコウクジラはどこへ消えた?」
 あわてて見回したが、ゴーストの目には何も見えなかった。
 それはアルファも同じで、体を左右に振り、呆然としている。
 その間、なんとチビ介は空を飛んでいたのだ。
 水面を離れ、体全体で風を感じていた。
 次の瞬間にゴーストの目に入ったのは、水面を破って落下してくる巨大な黒い物体だった。
 体重35トンのマッコウクジラは、水の抵抗などわけなく押しのけ、ゴーストとアルファの頭上へとのしかかっていった。
 チビ介の体はアルファとゴーストを強く押し下げ、乱れた波が渦のように狂い、平衡感覚を混乱させた。
 もはやゴーストには、上を向いているのか、下を向いているのかさえわからない。
「アルファ、…アルファ、体勢を立て直せるか…」
 というゴーストの指示さえ途中で途切れてしまった。
 チビ介の作った巨大なしぶきは、もちろんジャネットの体にも降りかかった。
 それが、再び気を失っていたジャネットの目を覚まさせたのだ。
 うっすらとまぶたを開いたジャネットの目に映ったのは、激しい波の中に飲み込まれながらも、アルファの後頭部をたたき続けるゴーストの姿だった。 
「…あそこでゴーストは何をしているのだろう? なぜシャチをそんなに叩く? …そうか、真上からチビ介の直撃を受けて、あのシャチは気を失ったのだな…」
 ゴーストの行動にはもちろんチビ介も気づいていた。
 そしてとどめを刺す気になった。
 ヒレを動かし、チビ介が進路を変えたことにジャネットは気がついた。
「チビ介は何をするつもりだろう?」
 ジャネットの頭はまだぼんやりしていたが、突然真相がひらめき、目を大きく見開いた。
「…チビ介は、ゴーストにさらに攻撃をかけるつもりでいるのだ」
 アルファはまだ目を覚ます気配もなく、ゴーストは何もできなかった。
 驚きと恐怖で大きく見開いたゴーストの目の前でチビ介の体が傾き、巨大な尾びれが水面を破って突き出した。
 背筋を弓のように曲げ、チビ介は力を蓄えようとしている。
 そして一瞬の後、その尾が大きく振り下ろされたのだ。
 ゴーストは体全体でそれを受けてしまった。かろうじてアルファの背の上にはとどまったが、あれだけの衝撃を受けて、まず無傷ではいられない。
 それだけではないのだ。
 まだ目を覚まさないアルファがゆっくりと沈み始めていることにジャネットは気がついた。
「あっ、シャチが沈んで行く。もちろんゴーストも運命を共にするのだな…」
 そのまま何も起こらず、ゴーストは有効な手段を取ることも、もちろんアルファが目を覚ますこともなく、やがてゴーストとアルファの姿は波の下へと消えていった。
 チビ介の背の上で、ジャネットはそれをすべて見ていたのだ。



 次にジャネットが目を覚ましたのは、チビ介の体の上とは違い、背筋に硬く当たる木の床の上だった。
 太陽の光が直接当たらないように日陰に横たえられているが、目を転じれば、それでも明るい空を見ることができる。
「ああ今日は一日、とてもよい天気が続いたのか。ベスと一緒に指揮所を出発したときのことが、なんだか大昔のような気がする…」
 自分の体にやわらかな毛布がかけられていることにジャネットは気がついた。不意にアップル大尉の声が聞こえた。
「スミス、大丈夫か?」
 声のする方向へ目を動かすと、たしかにジャネットはアップル大尉を見つけることができた。
「アップル大尉…」 
「あまりしゃべるなスミス。ベスもここにいるぞ」
「ベス?」
 アップル大尉が指さす方向を向くと、たしかにそのとおりだった。
 ジャネットをのぞき込んでいるが、心配のあまりベスは泣き出しそうな顔をしている。
「ジャネット…」
「いいのよベス、私は大丈夫よ…。そうだアップル大尉、チビ介はどこですか?」
「ああスミス、いま体を起こして見せてやることはできないが、チビ介はこの船に平行して泳いでいる。元気そうにしているぞ」
「この船って? 指揮所の高速艇じゃありませんね?」
「なぜわかる?」
「指揮所の高速艇はもっと安っぽいもの。これはどこかのお金持ちの船ではありませんか?」
「よくわかるな。そう、おまえの言うとおり、これはさる民間人が所有する船だ。だからこそ、今日の事件は司令部に知られずに済みそうなんだぞ」
「どうしてです? ヒトリ近海にゴーストが現れたんですよ。司令部に通報すべき案件です。私は戦闘をしましたし、トーマスも戦死しました」
「それはわかっているさ。だがシルビアのことがあってな」
「シルビア? ああ、ゴーストの娘ですね」
「なぜ知っている?」
「潜水服の空気パイプを接触させて、ゴーストの独り言を盗み聞きしました。指揮所でもよくやるあのトリックですよ」
「シルビアは本当にゴーストの娘さ。今回、いろいろな人々が計画に加わり、シルビアをヒトリ国外へ脱出させるという作戦が実行されたんだ」
「トーマスに乗せて? ああ、それを私が偶然発見し…、そして結果的に邪魔してしまったわけか…」
「おまえが責任を感じることはないさ。今回は運がなかった」
「シルビアはどうなりました? 私が見たときには、睡眠薬で眠っていたけれど」
「シルビアは無事にヒトリへと戻り、とりあえず病院へ送り込んだよ。この計画には彼女の叔父も加わっていて、目を覚ましたらシルビアを元の学校の寮へ連れ戻る手はずになっている。なあに数日後には、シルビアも元の平和な生活を取り戻しているさ」
「だけど、ハマダラカへ亡命して、ゴーストと合流することはできなくなったんですね」
「まあな。だがチャンスは一度きりじゃない。それでスミス、おまえはゴーストと戦闘したのだな? ゴーストはどうした?」
 甲板の上にジャネットは体を起こし、左肩の傷がすでに治療され、白い包帯が巻かれていることにやっと気がついた。
「アップル大尉、ゴーストは…。気を失ったシャチと一緒に、ゴーストは海底へ沈んで行きました」
「なんだって?」
「チビ介が体当たりをし、尾びれでシャチを殴ったんです。そのときシャチは気を失い、なんとかしようとゴーストが努力するのは見えたんですが…」
「結局シャチは目を覚まさなかったのか?」
 ジャネットはうなずいた。
「はい」
「そのままゴーストとシャチは沈んでいった? 本当か?」
「少なくとも私の見た限りでは本当です。ゴーストは海底へ沈みました」
「深度どのくらいの海だ?」
「400メートルです。シャチはもちろん死ぬ深さだし、水圧に弱いハマダラカの薄い潜水服ももつはずがありません」
「そうか…。ああスミス、コーヒーを飲むか?」
「はい」
 船員の一人が運んできたカップを受け取り、アップル大尉はひょいとジャネットに手渡した。
 カップを口に運びながら、ジャネットは言った。
「アップル大尉、ゴーストは死んだと思いますか?」
 自分もコーヒーを一口すすり、アップル大尉は首を横に振った。
「いいや」
「どうしてです?」
「おまえはその目で直接目撃したのだから無理もないが、ゴーストとはそう簡単にくたばる奴じゃない。深海へ落ちる直前に、なんとかしてシャチの目を覚まさせたに違いないさ」
「本当に?」
「賭けたっていいぜ。やつはまだきっと生きている。そんなしぶとい奴じゃなきゃ、奴一人のためにヒトリ全軍がこんなに苦労するものか。幽霊とあだ名がつくようになどなるものか…」
 どう答えてよいかわからず、ジャネットは口を閉じた。
 その間もチビ介を従えてクルーザー船は走り続け、ヒトリの海岸へと近づいていった。

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